第四十二回「母の遺言」(10月20日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:尾崎充信


◇アヴァン・タイトル◇

 後醍醐天皇の死と各地での南朝方の反撃。それを鎮圧する高師直、佐々木道誉ら新興武士層の台頭、彼らと直義ら足利一門・保守派との幕府内対立。尊氏の苦悩がつのっていく。

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

大地康雄(一色右馬介)

高嶋政伸(足利直義)

筒井道隆(足利直冬) 森口瑤子(二条の君)
浅野和之(塩冶高貞) 下元史朗(土岐頼遠)
相川恵理(西台) 田口トモロヲ(彦部十郎)  
辻輝猛(光厳上皇) ドン貫太郎(今川範国)
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継)
中島定則(三戸七郎) 安達義也 (畠山直宗) 谷嶋俊(上杉重能)
由起艶子(侍女)  新井一典・堀田智之(召次) 村上寿(重臣)
渡辺高志・木村幸人・
中村麻沙希・井戸哲也(近習) 

原田美枝子(阿野廉子)

柄本明(高師直)

森次晃嗣(細川顕氏) 

塩見三省(高師泰)

高橋悦史(桃井直常)

中島佐和子(童女) 石川佳代・壬生まさみ (侍女)

若駒スタントグループ 
鳳プロ 劇団ひまわり 劇団いろは 劇団東俳  
 
藤村志保(清子)

片岡孝夫(後醍醐天皇)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:石川恭男○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:大塚茂夫○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

  ある日、 塩冶高貞が屋敷から出かけていく様子を、高師直が物陰からうかがっていた。その夜、師直は裏口から塩治の屋敷に潜入、金をつかませた老侍女の手引きで高貞の妻・ 西台が湯をつかっているところへ案内される。師直が湯屋の中をのぞき見ると、西台は湯を浴びている最中。するとそこへ高貞が突然戻ってきたとの声が響く。西台が出迎えのために湯屋から出てきたところ、のぞいていた師直と鉢合わせしてしまう。師直は西台の手をつかみ、 「西台どの…いずれそなたを手に入れてみしょうぞ」と声をかけた。師直は塩治の家臣たちに見とがめられ、斬り合いをしながら屋敷から逃げていった。高貞はその様子を陰から見て相手が師直であることを確認していた。そしてもう一人、 一色右馬介もなぜかこの屋敷に姿を潜めており、一部始終を目撃していた。

 しばらくして、さらなる大事件が発生した。ある夜、樋口小路の辻において光厳上皇の行列と 土岐頼遠の一行が鉢合わせした。酒に酔っていた頼遠は上皇に道を譲らず、「院の御幸なるぞ!」と注意されると、 「院じゃと言うたか、犬じゃと言うたか。犬ならこうしてくれよう!」と弓をつがえ、矢を上皇の乗る輿に向けて放った。矢は輿に命中し、上皇は倒れた輿から路上に放り出されてしまった。そんな上皇の姿を、頼遠は傲然と見下ろしていた。
 この事件は幕府を震撼させた。将軍・足利尊氏はただちに上皇の見舞いに行く準備にとりかかるが、頼遠が勝手に美濃に帰国してしまったこと、 直義が独断で頼遠討伐を決めてしまったことを聞き、急いで直義の屋敷へと足を向けた。

 尊氏が直義邸に入ると、清子直冬 と一緒に直義の参内を見送りに出ようとしているところだった。尊氏は「参内の前に話がある」と直義を一室に招き入れる。中から二人の口論が聞こえてきて清子は不安げな表情を見せた。
 尊氏は直義が独断で頼遠討伐を命じたことを責めるが、直義は法の秩序を守るためにも厳正に処置すると言ってきかない。「兄上は何も分かっておられぬ。冷 たい、人でなしと言われながらも私は法を守ってきた」と直義は主張する。尊氏は「あの者たちにも言い分がある」と言い、頼遠たちのような新興武士たちも新 しい世を作りたい、だが政治参加が許されていないことに不満があるのだと直義を諭す。
 しかし直義は嘲笑うように「笑止な…しょせん外様ではございませぬか。恩賞で一国の守護ともなればそれで本望でございましょう。幕府のことも、足利一門と法に熟知した鎌倉以来の名家の者で執り行うて参ります」 と言い放った。「それは違うぞ!」と 尊氏は思わず声を上げる。北条が滅んだのは一門で幕府政治を独占したからだ、新しい武士たちにも広く門戸を開かねばならぬと主張する尊氏に、直義は北条が 滅んだのは私利私欲に走ったからであって、あくまで幕府政治の手本は鎌倉幕府である、新しい幕府などと言って成り上がり者に頭は下げぬと反論する。 「政はそれがしが行うておる。将軍といえど、口出しは無用でござる」と直義は立ち上がり、尊氏を見下ろして言い切った。 「なに…!」尊氏も弟の態度に怒りをあらわに立ち上がった。直義は呼び止める兄を無視してそのまま部屋を出て行った。そんな兄弟の様子を清子は心配そうに見守っていた。

 頼遠討伐については幕府内でも大激論が交わされていた。単純に師直派、直義派に分かれるわけでもなくさまざまな意見が出たため、師直はこの空気を直義に伝えるよう言って散会させる。
 退出しようとする師直を、塩冶高貞が呼び止め、師直が自分の妻に送った付文(つけぶみ)の束を突きつけた。「今後、我が館に来られる時は表門から」と言 い捨てて高貞は立ち去っていった。「これは…」と周囲にいた武士たちがクスクスと笑い、師直は「何がおかしい!」と怒鳴りつける。師直は館に戻ると怒り 狂って付文の束をビリビリに引き裂き、 彦部十郎「あれも人間じゃ、弱みの一つや二つはあろう。ささいな事でよい。それで奴を抹殺してくれようぞ!」 と塩冶の身辺を調査するよう命じる。そこへ高師泰がやって来て、都へ舞い戻っていた土岐頼遠が捕らえられたことを師直に告げた。

 数日後、奈良。塩冶高貞はひそかに阿野廉子と密会していた。高貞は幕府内の派閥争いが激化し、足利兄弟の不和も明らかになってきていることを廉子に告げる。 「わらわの申したとおりであろう…二頭は並び立たず。そも尊氏が弟に政を任せたときから、こうなることは目に見えていたのじゃ」 と尼姿となった廉子は言う。「さすがにご慧眼…」と言う高貞に、廉子は尊氏がしばしば内密に和議の使者を吉野に送ってきていることを明かした。「その話に 乗るのはまだ早い。都は遠からず内から崩れよう」と廉子は冷たく微笑み、「何としても土岐を直義に殺させねばならぬ」と高貞にそう仕向けるよう命じた。

 二ヵ月後、六条河原で土岐頼遠は斬首の刑に処された。幕府には尊氏の前に師直一派だけが集まり、直義派の武将たちの席はガランと空席になっていた。「もはや幕府は三条どのの思いのまま」と非難する師直に、尊氏は「上皇に矢を向けたのだ。やむをえまい」と言うのみである。
 自邸に戻ってイライラとする尊氏のもとに清子がやって来て、鎌倉でよく食べた餅菓子を差し出した。食べながら鎌倉での暮らしを懐かしむ尊氏に、清子は言う。 「近頃、父上の夢をよう見る…そなたと直義の言い争いなど、父上がご覧になったら何と仰せであろう。女というものは、かかる時は情けないものじゃ。見ているだけでどうすることもできぬ…」 尊氏はみな気が立っているだけで、一時のことだと母を慰めた。
 そこへ登子が 姿を現した。外に直義の車があったので珍しいと思った、と言う登子に、清子が「あれは直冬が年寄りの一人歩きは危ないと申し…」と言いかけてハッと気まず そうに口ごもった。登子は「優しいお孫様でござりまするな。よくお気がつかれて…やはり同じ孫でもそばにおらねばつまりませぬな。義詮も京におれば母上様 のお気に入るよう振舞いますものを」と皮肉っぽく言う。これに尊氏が「一度京へ呼ぶか」と慰めるように言うと、登子は一度と言わず早く義詮を都へ呼んでほ しいと懇願する。そしていつまでも直義に政治を任せていないで義詮に継がせるべき、直義は養子の直冬に跡を継がせる気との話もあると強く訴えた。
 これには清子も眉をひそませ、直義と直冬をそう悪し様に言うものではないとたしなめた。しかし登子は「揉め事の種ゆえ、そう申し上げているのでございます」 と言い放つ。「直義や直冬は揉め事の種かえ!?」と清子は思わず声を荒らげた。登子は足利家が二つに割れるのを心配しているのだと言うが、清子は怒りの色を見せて 「そうではあるまい。登子どのは直冬が憎いのじゃ。揉め事の種じゃ種じゃと思うて見るゆえ、悪しきことしか思いつかぬのじゃ!」と登子を責める。登子もやり返す。 「母上さまの仰せのとおりでござりまする。登子は直冬どのが憎うござりまする。殿がどこぞの白拍子に生ませた子など、甥とは思えませぬ。その子をかぼうておる直義どのも母上も、憎うてなりませぬ!」 「登子!」尊氏もたまりかねて声を上げた。
 「情けのうござりまする…我が身が情けのうござりまする…このような事を申し上げるなど…」 と、登子はガクッと肩を落とした。自分のこの気持ちを誰かに聞いてもらいたかったのだと登子は涙ながらに告白する。 「この世に義詮の他は身内と申すはお二人だけにござりまする…登子には、誰一人…!」と だけ言って登子は泣き崩れる。清子は登子の孤独な気持ちを悟り「そうであった…そうであった…尼も言い過ぎた…悪う思うな…」と慰め、部屋を出た。廊下に 出たところで、清子はフラッとよろめき、壁にもたれた。尊氏があわてて駆け寄るが、「大丈夫…」と言って清子は見送りも断って立ち去っていった。
 そこへ右馬介が姿を現した。高師直から塩冶高貞が南朝と通じているとの訴えがあり、幕府で塩冶討伐が決まったとの報告に、尊氏は驚く。

 桃井直常に率いられた幕府の軍勢は塩冶の館に攻め入った。わずかな戦闘の末、高貞は直常の前で切腹して果てる。妻の西台も短刀で胸を突いて自害した。館は炎に包まれてしまう。
 「自害いたした…?西台もか…?」二条の君と酒を飲みながら報告を受けた師直は呆然とした。「西台が死んでは、何のために…」とつぶやく師直。そこへ尊氏から師直に呼び出しが来たとの知らせが入る。
 塩冶の処分について尊氏は直義をはげしくなじっていた。尊氏は塩冶高貞が吉野と通じていることを承知の上で右馬介に見張らせていたのだった。直義は尊氏 が勝手に南朝との和議を図っていることを知って「将軍はわれら足利一門を信じておらぬのじゃ」と怒る。「さよう、信じてはおらぬ」と答える尊氏に「将 軍!」と声を上げる直義。尊氏は直義らが南朝方を力でつぶそうとするばかりで、どうやって戦いをやめるのか構想が全く無いことを批判した。
 そこへ師直が到着した。尊氏は師直を近くに呼び寄せると、手にした扇子でいきなり力いっぱい師直を殴りつける。悲鳴を上げる師直に尊氏は無言のまま容赦 なく連打を浴びせる。直義派も師直派も唖然としてその様子を見つめる。扇子が壊れるまで師直を打ちすえたのち、尊氏は「みな下がれ」と命じる。全員が退出 した後、尊氏は右馬介に「そなた鎌倉に下ってくれぬか。義詮の器を見定めてくれ」と命じる。その次第では京へ呼んで政務を任せると尊氏は言い、「このまま では、足利は割れる…」と不安をあらわにした。
 右馬介が引き下がると、倒れこんでいた師直が、尊氏の前に平伏した。「申し訳ございませぬ!師直、心得違いをいたしておりました!師直、殿が仰せなら腹かっ切って…!」 と謝罪する師直に、尊氏は「そちは代々足利宗家に仕える高家の惣領。頼りにしておるのじゃ。道を誤るでない」 と諭した。

 その年の暮れ、清子が病に倒れた。尊氏・直義の兄弟がそろって母を見舞いに来る。病床の清子は二人の手を取って重ね合わせ、 「兄弟、仲良うに…のう…」と声をかける。尊氏も直義も強くうなづき、清子は二人の息子の手をしっかりと握った。
 康永元年12月23日、清子はこの世を去った。その遺言は数年守られるが、やがて足利兄弟は宿命ともいえる対決へと突入していくのである。


◇太平記のふるさと◇
 
 茨城県・関城町。関東鉄道常総線沿線にある、北畠親房らが立てこもった関城跡を紹介。関城城主の関宗祐の墓、戦闘で使われた坑道跡を映し、北畠親房の常陸での活動に触れる。


☆解 説☆
 
 「お弔いシリーズ」の完結編。ついに第一回からのレギュラーであった尊氏の母・清子さんも死去する。この回は清子に絡めて尊氏周辺の各種対立を描いていく。政治でも家庭内でも揉め事が続き、ノイローゼ寸前の尊氏が描かれていく。

 冒頭、有名な高師直の塩冶高貞の妻に対する横恋慕が描かれる。これについては古典「太平記」が妙に詳しく書いているところで、軍記物語中の艶話として変 に目立っている。それによれば、京の美人をあさっていた師直が「侍従の局」という老女から高貞の妻の美しさの噂を聞いたのがことの発端だ。「太平記」は高 貞の妻が後醍醐天皇の後宮からの「お下げ渡し」であったことにしている。その美しさを聞いた師直はぜひ一度会ってみたいと恋文攻勢をかけはじめる。有名な のが、この恋文の代筆を「徒然草」の作者・兼好法師が依頼されていること。これについては否定する意見も多いが、兼好が歌会などで都の有力者と顔を合わせ ていたのは事実でまったく考えられないわけでもない。しかし兼好の書いた恋の歌はすげなく無視され、師直は兼好に「役に立たん奴」とあざけられることと なってしまう。
 師直のご機嫌をとろうと焦った侍従の局は、塩冶邸の侍女を手なづけて師直に高貞の妻を実際に見させようと画策する。チャンスは高貞の妻の風呂上りで、この時なら彼女の素顔を覗き見られたのだ。かくして師直は高貞の留守中に塩冶邸に潜入、風呂上りの高貞の妻の姿 (服は着てます。念のため)を覗き見る。ところがそのあまりの妖艶さに(風呂上りだったもので濡れた髪が乱れ、やたらエロティックだったようだ) 師直は腰を抜かしてしまい、家来たちが引っ張って帰らねばならなかったほど。ドラマでの師直は「いずれそなたを手に入れる」などと見得を切っているが、 「太平記」ではもっと情けないんだね。なお、この覗き見シーン、さすがにNHK、妖艶さにはまるで欠けるし、西台が肌着を着たままお湯をかけてもらってい るなどちょっと不自然な描写である。この覗き見でかえって師直の恋の病は激しくなってしまい、仕掛け人であった侍従の局は恐ろしくなって田舎へ逃げてし まった。
 危険を感じた塩冶高貞は京を出て領地の出雲へ帰ろうとする。これに師直は「南朝と通じた」との讒言を行って追討の軍を差し向けさせる。追討にあたったの はドラマと同じ桃井直常だったが、山名時氏も加わっていた。この追討を受けてまず先に播磨で追っ手にかかった高貞の妻と子どもは高貞の家臣らによって殺さ れ、出雲に入った高貞も妻子の死を知って自害して果てた。ドラマでは面倒だったのか塩冶高貞の屋敷で高貞らが自害する形にしたが、高貞が京を出奔し、帰国 途上で討たれたのが史実らしい。また、ドラマでは土岐頼遠の事件と同時進行のように語られているが、実際にはその前年の暦応四年(1341)三月に起こっ た事件である。
 この事件を古典「太平記」は師直の横恋慕という下世話な話で片付けてしまっている感があるが、塩冶高貞が南朝と連絡を取っていた可能性が全くないわけで もない。そもそも隠岐から脱出した後醍醐天皇に真っ先に駆けつけた過去があるし、建武新政期には阿野廉子、千種忠顕、名和長年といった「隠岐派」に属して いた節がある。ドラマで廉子と密会しているのは、そうした背景をふまえているのだ。

 「太平記」に書かれたこの物語は、のちの時代に全く違った要素を付け加えられることになる。元禄時代の赤穂浪士の討ち入り事件を脚色した「仮名手本忠臣 蔵」が、赤穂事件を「太平記」の塩冶事件に仮託して描いてみせたのだ。当時は当然ながらこの事件を実名で扱うことが禁じられていたため「昔の話ですよ」と いうごまかしを行ったわけである。吉良上野介は高師直、浅野内匠頭は塩冶高貞、徳川綱吉あるいは柳沢吉保は足利直義に置き換えられ、誰がみたって「赤穂事 件」なんだけど表向きは「太平記」の時代のお話ということにされちゃったのであった。「討ち入り」はどうするんだとお思いでしょうが、師直は最終的に殺さ れているのでどうにか辻褄があう仕掛けなのだ。
 それにしてもこの「忠臣蔵」のおかげで高師直といえば悪役の代名詞みたいにされることとなってしまった。吉良さんも気の毒だったが、本来関係ないのに悪 役に仮託されてしまった師直はもっと迷惑(笑)。しかし考えてみると「忠臣蔵」のおかげで、このドラマの柄本明さん以前に師直を演じた俳優は歴史上やたら にいるということにもなってるんですな。

 この回で起こるもう一つの大事件が土岐頼遠の「院か犬か」事件。これは康永元年(1342)9月6日夜に起こった事件で、頼遠は前年に脇屋義助を破り北 陸から彼を追いやった戦功に浮かれおり、その驕りが事件の一因であったと言われる。路上で頼遠一行と鉢合わせした光厳上皇側は頼遠に下馬を命じたが、「都 でこの頼遠に下馬を命じることの出来る者などおらぬわ」と酔っていた頼遠は嘲笑い、「院か犬か」とふざけて犬追物のまねをして上皇の牛車に矢を射掛け、上 皇の車が路上に倒される事態にまでなってしまったのである。なにせ光厳は上皇、つまり事実上の最高君主である「治天の君」である。実際には足利幕府によっ て立ててもらっているようなものではあるが、やはり先の道誉の妙法院焼き討ちとは比較にならない暴挙だった。
 頼遠はしらふになるとさすがに危険を感じたのか、無断でただちに美濃へ帰国した。これに対し直義は朝廷などへの配慮もあって徹底追及の構えを見せ、頼遠 に上洛を命じ逆らえば追討する態度を見せた。慌てた頼遠はひそかに上洛して尊氏・直義に影響力のある夢窓疎石に命乞いをしてくれるよう頼み込むが、さすが に事が事だけに夢窓も「刑に服してお家の安泰を図れ」とアドバイスするのが限界だった。かくして頼遠は捕らえられ、12月1日に斬首の刑に処された。最期 にあたって「こうなるのだったら美濃で一戦交えて死ぬのだった」と吠えたという。
 
 この回の見せ場は意外にも登子と清子の嫁・姑の戦い。ま、結局大したことにはならないのだが、登子がここまで個人の感情を爆発させるのはドラマ全体でも 珍しいし、清子もまた珍しく声を荒らげている。ここ数回登子がかなり「いやな女」っぽく描かれるが、沢口靖子さん、やっぱり似合いません (最近のCMなど見てると今ならいけそうな気もするけど)。「私には他に身内がいない」という台詞で、彼女が北条一族の人間であることを久々に思い出させてくれる重要なシーンであるわけだけど…。橋田寿賀子さんあたりが脚本だったら、この辺かなりドロドロと描いたかもしれない。まぁ僕はあんまり好みではないんですが。
 あと強烈な印象を残すのは尊氏が師直を無茶苦茶にブン殴るシーン。なんか本人のイライラを全部ぶつけているように見えなくもないのだが(笑)。見る限 り、かなりしつっこく本気で殴り続けている。情けない悲鳴を上げ続ける柄本明さんもお見事。この辺から師直と尊氏の複雑に屈折した主従関係がしばしば描か れていくことになる。

 「ふるさと」コーナーでは僕の地元の茨城県がようやく登場。慣れ親しんでいる関東鉄道常総線のディーゼルカーもバッチリ映っていて嬉しい(笑)。ドラマ では再利用の映像がチラッと入っただけでカットされた北畠親房の常陸での活動はこの「ふるさと」コーナーでフォローされることとなった。この活動について は古典「太平記」も全く触れていないのだが、それなりに重要性があるのでここでとりあげておきたい。
 
 北畠親房が関東に南朝勢力を築く計画を実行にうつしたのは、息子の顕家、そして新田義貞が死んだ直後の延元3年(暦応元・1338)の9月のことだっ た。南朝勢力最後の希望の星となった親房は結城宗広・義良親王・宗良親王らを連れて伊勢から海路東国に赴き、南朝起死回生の策を図ろうとしたのだ。しかし 船団は遠州沖で嵐にあい、散り散りになってしまう。宗良親王は遠江、親房は常陸へとなんとか目的にたどり着いたが、奥州へ行く予定だった宗広と義良親王は 伊勢へと逆戻りすることになってしまった。宗広は伊勢で直後に病死してしまい、義良親王は吉野に戻って父・後醍醐天皇の死に立会い、帝位を継ぐ巡り合わせ になってしまった。
 常陸に上陸した親房は神宮寺城、阿波崎城と霞ヶ浦沿岸を転々とし、常陸守護・佐竹氏の攻撃を受けて、同年11月に筑波山麓の小田城に身を寄せた。城主の 小田治久はかつて流刑となった万里小路藤房を預かった縁で南朝側に味方していたのだ。ここに腰をすえた親房は関東各地の武士に南朝への帰参を促す手紙を書 きまくり、ついでに「神皇正統記」なる「大日本は神国なり」で筆を起こす南朝イデオロギー (というか、かなり親房独自のイデオロギー)の歴史書を書き進めていくのである。
 親房が南朝の起死回生のために必死に頑張ったのは確かなのだが、いかんせん彼の思考回路が古すぎた。彼にとっては武士どもが皇室・公家に忠実に仕えるの は当然至極のことであって、南朝への帰参を呼びかける手紙でもそうした観念的な説得ばかりが目立つ。当時、南朝に味方しようという姿勢をみせる武士の大半 はそのことによって領土の拡大や地位の向上を目指す打算があるわけだが、親房はそうした姿勢を 「商人の所存」と罵倒し、「降参人は半分の土地だけを安堵されるのが古来の習わしで、本領を安堵してやるだけでも有り難いのに、さらに領地を求めるとは何事か」 と主張している。これじゃあ味方が増えないのは当たり前だが、頑固親父の親房はそんな現実に逆らうかのように、そして自らの「皇国史観」 (近代以後のそれとはやや異なる)を 再確認するかのように「神皇正統記」を執筆していくのだ。この「神皇正統記」は「ある童蒙に示すために書いた」とされていて、この「童蒙(物を知らない子 供)」は義良親王つまり後村上天皇を指すとも、親房がその挙兵を熱望した結城宗広の子・親朝のことを指すとも言われている。

 南朝の興国2年(暦応4、1340)に足利幕府は高師冬を派遣して親房ら関東南朝勢力への攻勢に本腰を入れ始めた。この事態に小田治久もついに親房を見 限り、翌年、親房は小田城を出て関宗祐のいる関城へと身を移す。関城と大宝城を拠点に南朝方はかなり善戦したが、物量にまさる高師冬軍の前に次第に押され ていく。師冬は大宝沼に守られた関城を攻略すべく、鉱山採掘者を駆り出して関城へ向かう地下トンネルを掘らせるという作戦にまで出た。これを察知した関城 側も反対側からトンネルを掘り始め、両者の乱掘がたたって落盤事故まで起こしてしまうことになる。「ふるさと」コーナーでこの坑道跡もちゃんと紹介されて いた。
 この間も親房は「神皇正統記」の執筆を進める一方、相変わらずのお手紙攻勢をかける。さすがに観念論一辺倒ではだめだとみたか 「来年は『聖徳太子未来記』によると大変化の起こる年だ」な どとノストラダムスばりの説得まで試みている(笑)。しかしその一方的態度には南朝に味方する東国武士たちも嫌気が差したようで、小山氏を立てて分派しよ うとする南朝藤原系による「藤氏一揆」や、新田義貞の子・義興を立てる計画など、南朝勢力内部での反親房運動も起こった。そして親房が「父の忠義を忘れた か」と特に執拗に参陣を呼びかけ続けた奥州の結城親朝(宗広の子)も、こっちの都合も考えない親房の一方的要求にさすがに嫌気がさしたのか、親朝は 1342年に幕府側に降伏してしまうこととなる。これによって関城・大宝城の命運は尽きた。興国4年(康永2・1342)11月に両城は陥落し、関宗祐ら は自害して果てた。親房はというと落城の直前にしっかり脱出し、どこをどう落ち延びたのか、吉野に舞い戻ることとなる。親房の常陸での活動は5年間に及ん だが、結局この地方に騒乱を巻き起こしただけで、なんら得るところなく終わってしまったのだった。
 ただ、このとき書いた「神皇正統記」が後の世の歴史観にかなりの影響を与えることになるのは事実。しかし、それも結果的に多くの日本人を犠牲にしただけのような気もしなくはない。