第四十三回「足利家の内紛」(10月27日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:榎戸崇泰


◇アヴァン・タイトル◇

 尊氏・直義兄弟の母・清子が死んでから五年、その遺言は守られ兄弟の全面対決はなんとか避けられてきたが、兄弟間の対立は次第に増し、幕府内も直義派と 師直派の対立が深まっていった。そしてこれに乗じるように南朝勢力が息を吹き返しつつあり、河内では楠木正成の子・正行(まさつら)が活動を始めていた。

◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

陣内孝則(佐々木道誉)

高嶋政伸(足利直義)

筒井道隆(足利直冬) 森口瑤子(二条の君)
中村繁之(楠木正行)  辻輝猛
(光厳上皇)
芹沢名人(細川頼春) 渡辺寛二(大高重成)  樫葉武司(南宗継)
中島定則(三戸七郎) 渡辺博貴 (後村上天皇) 尼崎京子 (公家の娘)
中川歩・渡辺高志・木村幸人
(近習) 
尾井治安・吉永智栄(僧) 石川佳代・壬生まさみ (侍女)

柄本明(高師直)

森次晃嗣(細川顕氏) 

塩見三省(高師泰)

高橋悦史(桃井直常)

武藤令子(直義の妻) 枝松拓矢 (光王=基氏)
山崎海童(大名) 野上修 (公家) 嶋田順光(僧)
横尾三郎・土田大・古屋敷正満(蔵人)

若駒スタントグループ 
鳳プロ 早川プロ 丹波道場 劇団東俳 劇団ひまわり 
 
原田美枝子(阿野廉子)

近藤正臣(北畠親房)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:加藤宏○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:坂本好和○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 母・清子の死から五年が経った貞和3年(1347)秋。 足利尊氏はこの間に生まれた次男・光王(後の足利基氏)を相手に屋敷の庭で蹴鞠を楽しんでいた。その様子を見て 登子が「そなたは幸せじゃのう、兄上と違うていつも父上とご一緒じゃ」と声をかけるが、光王は「また兄上の話じゃ…好かん!」とすねる。
 そこへ直冬が養父・直義の名代として尊氏を訪ねてきた。直義が風邪をひいて寝込んだため代わりに来たのだという。尊氏が用件を聞くと、直冬は最近の吉野方の勢いについてどう思うか、と尊氏に問う。 北畠親房が東国から帰ってきてから南朝側の活動は盛んで、中でも河内の楠木正行 の活躍はめざましいものがあり、幕府側の細川顕氏が連戦連敗するありさまだった。
 「正行どのか…はや大将をつとめられる歳になったのだのう…」 と尊氏は感慨深げにつぶやく。直冬は正行の父・正成の湊川での壮絶な戦いぶりは自分たち若者の間でも語り草になっていると言い、 「正行が正成どのの遺児ならば、不肖・直冬もまた将軍をまことの父とせし者でござりまする」と胸を張り、正行と戦って討ち取ってみせると尊氏に言う。尊氏は「さほどに戦がしたいか?」と呆れ、まだ若い、功名心にはやるだけでは大将とはいえぬと直冬を諭す。すでに 高師直師泰兄弟に出陣を命じてあることを教えて、「戦など参らずともよいではないか。直義どののそばにいて、補佐してやるが親孝行というものぞ」と尊氏は直冬に言いつけるのだった。

 帰宅した直冬は病床の直義に、尊氏邸での首尾を報告した。「将軍はこの直冬の成長をお認めになりたくないのじゃ。御台どのもこのわしを憎んでおられる」と直冬はぼやく。 桃井直常は直義派の細川顕氏が敗れ、戦上手の師直が正行を破ることになればますます師直が勢いづくと懸念するが、直義はひとまず師直の手並みを見ようと直冬らに言う。

 上総に流刑となったはずの佐々木道誉はいつの間にか京に舞い戻っていた。道誉 の館では闘茶の宴が催され、師直は立て続けに茶を当てて賞品を独占していた。師直は正行討伐のために帰宅を急ぐが、道誉は「さては二条の君との別れを交わ さんと帰り急いでおるな」とからかう。師直も「あれほどの女性、ほかにはおりますまい」と言い、二人で大笑いする。
 酒に酔い、歌いながら帰路を急ぐ師直一行の前に、突然黒装束の刺客たちが襲いかかってきた。師直は彼らと斬り合いになるが、背にした塀が崩れて後ろ向きに塀ごと水たまりに落ちてしまう。そのおかげで命拾いもするが、服は泥水でずぶ濡れである。
 館に戻った師直は火桶にあたってくしゃみを連発。その様子を見て「悪運の強い方じゃ」と二条の君 が笑う。師直が死んでくれれば美しい妻を持つ多くの都中の人が安堵するだろうと二条の君が言うと、「西台か…あれは惜しいことをしたな」と師直はぬけぬけと言う。「そなたはわしが憎くはないか?」師直が問うと、二条の君は 「はい、もう憎らしゅうて憎らしゅうて…」と師直に抱きつく。そして「とりわけ憎んでおられるのは上杉、細川…とくに細川顕氏どのは憎んでおられましょうな 」と師直にささやいた。家来筋と思っていた師直の台頭を足利一門の者はみな憎んでいるはず、と二条の君は笑って言う。
 「そのようなこと、誰に吹き込まれた?」師直は急ににらむような顔で二条の君に聞く。しかし二条の君は笑ってはぐらかすだけ。 「誰の恨みでもよい。みな、引き受けようぞ…」と師直は言うと、二条の君の手をとって抱き寄せ、押し倒した。

 一方、吉野の行宮(あんぐう)には出陣を前にした楠木正行が参内し、後村上天皇に 拝謁していた。後村上は正成について「いかなる父であった」と正行に尋ねる。正行が湊川合戦の前の桜井の宿での別れを語ると、「父とは、そのようなもの か」と後村上は感動したように言う。正行は父から「大人になったら自分の命をいかようにも使え」と言われた、だから吉野に参り忠義を尽くす、と高らかに言 う。そんな正行に阿野廉子は「血気にはやって死に急ぐではありませぬぞ」と語りかけた。後村上は「楠木、頼みに思うぞ」と声をかけ、正行に御酒を賜うよう命じた。
 正行が賜わった酒を干し、退出しようとすると、一人だけ残っていた北畠親房が「今ひとつ申しておくことがあった…顕家のことじゃ」 と正行を呼び止める。親房は息子のことゆえ誉めにくいが、と言いながら、千里の彼方から駆けつけ一時は京を奪回した顕家の戦いぶりを誇らしげに正行に語る。 「されど、この吉野へは京の都を奪回するまではと、一度も伺候せず、ついには武運つたなく…まさに神の子の如くであった…そなた、帝に拝謁し御酒まで賜うた幸せ者よのう…」 と言う親房に、正行は少し当惑したように「はっ…」と答える。
 すると突然、親房は正行の肩をグッとつかんだ。「そなたも正成の子、父に劣らぬ見事ないくさぶり、見せてもらうぞ!」 そう言って親房は正行に顔を近づけ、にらみつける。正行は「師直、師泰が首(こうべ)をとるか、正行が首をとられるか、二つに一つ、命をかけて戦うて参りまする!」 と答えた。「うむ!」とうなづく親房。退出していく正行を、親房はどこか物悲しげに見送っていた。

 正行と師直の軍は河内・四条畷で激突した。激戦が続いたが、次第に正行側の敗色が濃厚となり、正行は全身に矢を立て髪を振り乱して戦場をさまよい、つい に雄叫びを上げて敵陣に突入していった。吉野を訪ねてわずか八日後、貞和4年(正平3・1348)正月5日、楠木正行は戦死した。まだ23歳の若さであっ た。
 正行を破って勢いづいた師直は、そのまま吉野へ進撃。吉野の行宮をはじめ多くの寺院を焼き払った。燃え上がる炎に照らされて、師直は高笑いする。後村上帝ら南朝の人々は、さらに奥地の賀名生(あのう)へと落ち延びていった。

 都に戻った師直は部下たちと戦勝の宴に酔いしれていた。「賀名生で猿を相手にいかなる天下をしろしめすや。吉野はもう終わりじゃ」と師直は笑い、二条の 君も師直に酒を注ぎながら師直の功績をたたえる。しかし師直は尊氏は自分の功績を認めてくれようが、直義はそうはいかぬだろうとつぶやく。そこへ、師直の 部下の一人が「道に落ちていた」と笑いながら、公家の娘を一人連れ込んできた。その場の武士たちが娘を取り囲んではやし立て、師直もそれに加わっていく。

 直義邸では直冬が弓の稽古をしていた。「的の向こうに師直がいると思えば面白いように当たります」 と直冬は笑い、直義も久しぶりに弓を引いた。その場にいた桃井直常、細川顕氏も師直の傍若無人ぶりを口々に言い、対抗するためには直冬をたてて戦功を上げさせねばと直義に進言する。「将軍が出陣を許すまい」と直義が言うと、直常は 光厳上皇から吉野方討伐の院宣を得ては、と献策する。土岐頼遠の一件いらい上皇は直義を頼りにしており、頼みを聞いてくれるはずだと言うのだ。
 しばらく後、直義は尊氏に何の断りもなく光厳上皇から吉野方討伐の院宣を受けた。そしてその討伐軍の大将に直冬をたてることを決めてしまう。
 これを聞いて怒った尊氏は直義を館に呼びつけるが、やって来たのは直義ではなく直冬で、尊氏はさらに怒って会おうとせず追い返すよう命じる。しかし直冬 も自分は直義の名代だけではなく吉野攻めの大将として将軍に挨拶に来たのだと言って引き下がらない。それを取次ぎから聞いて尊氏は「わしは認めておらん」 と無視を決め込むが、師直は「負けでございますな、大殿。三条どのが上皇を動かすとまでは読めなかった」と言う。
 すると尊氏と師直がいる部屋の障子にいきなり直冬の影が現れた。直冬は障子越しに尊氏に向かって「この直冬、幼き時より足利の二つ引両の旗印にあこがれ、二つ引両を掲げて戦場に赴く日をどれほど思い焦がれていたことか、将軍にはお分かりのはずでございます!」 と訴える。障子に映る直冬の影を複雑な思いで見つめる尊氏。「この直冬、力の限り戦い、必ずやその名をあげてみせまする!武運長久をお祈りくださりませ!」 直冬は一礼して去っていった。
 直冬は紀伊に出陣し、南朝軍相手にいきなり戦功を上げ、天下にその存在を誇示した。しかしその後の戦況は一進一退であり、南北朝動乱のやむ気配は一向に見えなかった。

 貞和5年(1349)6月。尊氏は京の天竜寺である人物と密会していた。「お久しゅうござりまする…」「うむ…。会うてはならぬお方じゃが…」 密会の相手はなんと南朝の総帥・北畠親房であった。親房は尊氏が後醍醐の霊を慰めるために建てた天竜寺の見事さを讃えつつ、後醍醐への思いを己の権勢の誇 示に利用するとは「さすが足利どのよと誉めておこう」と皮肉も言う。尊氏は親房を「共に天下を語れるお方」と呼び、親房も右往左往する公家よりも尊氏の方 が信じられる、 「ただし、敵としてじゃ」と応える。
 尊氏は本題に入った。「われらの幕府をお認めくださるなら、吉野の帝に都をお返ししてもよい」 と尊氏は和議を提案する。親房はやや驚き、「直義も承知のことか」と聞く。尊氏は「将軍はこの尊氏でござる」と言うが、親房は政治は全て直義が行い尊氏の 思うようにはならないと聞いている、と皮肉っぽく笑う。そして後村上天皇が強く先帝・後醍醐を慕って公家一統の世を夢見ており、 「我らが幕府を認めることが出来るなら、かような長いくさしておらぬ」と親房は尊氏の提案に静かに首を振った。「賀名生では先細り」と尊氏が言うと、 「我らの味方は健在でござるよ…それより足利殿、そこもとの足元に気をつけられたがよかろう」と親房はやり返す。「では、どうあっても…?」「どうあっても…」二人の会談はここで終わった。

 尊氏と親房の密会は天竜寺の僧の密告で直義の知るところとなった。激怒した直義は尊氏邸に駆けつけ、尊氏に問いただす。「ずいぶんと早耳よの」ととぼけ る尊氏に、直義は両雄が会ってまさかよもやま話をしたわけではあるまい、と会談の内容を聞く。尊氏が和議の条件を明かすと、 「なんと!将軍はこの都の朝廷をいったいなんと思っておられます!」と 直義は激しく尊氏を責める。「近頃の兄上は狂うておりまするぞ。兄上だけではない…」と直義は道誉や師直らの朝廷や公家・寺社をないがしろにする行状に憤 る。和議の話について「安心せい、見事に蹴られたわ」と尊氏が言うので直義もひとまず気を静め、「これ以上この件で兄上を責めるのは止しにいたしましょ う」と言った。
 「しかし条件がある」と直義は続ける。条件とは高師直を執事の座から外すことであった。今後、将軍は生臭い政治現場には直接関わることなく、評定所の政治を高みから見ていただく、と直義は言い渡した。そして母・清子の前で誓ったように兄とは争いたくない、ただ 「師直こそ獅子身中の虫、除かねばなりません」と直義は尊氏に言った。
 
 突然執事職を解任された師直は怒って尊氏のもとへ駆け込んできた。師直の激しい抗議に、尊氏は師直にその行状を改めるように諭しつつ、「師直、引かねばならぬときは潔く引け。時機を待つのじゃ」と慰めるように言った。
 師直の執事解任により、直義派がいったんは勝利したかのように見えた。しかしこのことにより足利家の内紛は逆に深刻さを増していくのである。


◇太平記のふるさと◇
 
 奈良県・西吉野村。吉野を追われた南朝が新たな拠点とした賀名生の地を紹介する。丹生川のほとりの堀家(皇居跡)、後醍醐天皇愛用の笛や茶碗、後村上天皇直筆の旗、この地で亡くなった北畠親房の墓などを映す。


☆解 説☆
 
 前回から少し時間が飛んで、今回から物語は室町幕府の陣痛ともいうべき「観応の擾乱」へと突入していく。この回はその序曲ともいうべき暗闘が描かれる一方、正成の遺児・楠木正行の活躍とその戦死も挿入されている。

 冒頭、尊氏と登子の間に生まれた次男・光王、すなわち幼時期の足利基氏が登場する。残念ながら基氏はこの場面のみの登場で、以後まったく姿を見せない。 基氏はこのあと鎌倉から呼び返された義詮と入れ替わりに鎌倉に下り、「室町幕府関東支社」というべき「鎌倉公方」の初代となる。以後、この基氏の子孫たち は何かにつけて京都の将軍家とにらみ合い、室町時代を通して隠然たる反幕府勢力であり続けた。明治になってから華族とされた足利家は本家のほうではなくこ の基氏の子孫の系統である。
 なお、基氏は叔父の直義を深く敬愛し、理想の政治家と仰いでいたと伝えられる。直義の執政期に基氏はまだ幼児で、成長したころには直義は「反逆者」として殺された (公式には「病死」だが)あ とだったはずで、個人的にそれほど交流があったとは思えない。だがそれでもそのように尊敬していたということは、それだけ直義が優れた政治家であったとい う評価が周囲に満ちていたのだろう。とくに直義のクソまじめぶりを示す話として伝わる「政治に没頭するために演劇(猿楽など)を見なかった」ことに基氏は 感じ入り、自らもそれを実践していた。そんな直義に対して基氏の父である尊氏は猿楽見物が大好きだったのであるが…。
 大変まじめで優秀な政治家であった基氏だが(兄の義詮の方は残念ながら政治家として誉められている資料はまるでない) 、惜しいことに1367年に兄・義詮に先立って28歳の若さでこの世を去ってしまった。

 道誉の館で師直たちが「闘茶」をしているシーンがある。茶を飲む習慣は鎌倉時代に禅宗と共に中国からもたらされたものだが、このころの茶のたしなみ方の 一つに、飲んだ茶の産地や種類を当てる「闘茶」と呼ばれるゲームがあった。「闘茶」は賭けごとでもありその集まりは自然派手なものとなり、道誉などバサラ 大名が好んで闘茶で遊んでいたようだ。
 師直が刺客に襲撃されるシーンがあるが、これはドラマの創作。またこの後の会話で二条の君がひそかに何かを企んでいる様子を初めて見せる。また本文では カットしたが、この場面の会話で「二条の君」が「さきの関白」の妹であることが言及されている。古典「太平記」にも「二条前関白殿の御妹」が師直に盗み出 されてその妻とされ、一子・師夏をもうけたことが記されているが、ドラマの「二条の君」のモデルはこの女性なのだろう。ドラマの方はかなり自由にこのキャ ラクターをふくらませて物語に絡めている。

 楠木正行が「正成自刃」以来久々の登場。立派な成人に成長したが、悲しいことにこの回で出番終了である。
 正行が初陣を果たすのはまさにこの回の冒頭にある貞和3(正平2・1347)年の秋8月である。ちょうど父・正成の十三回忌という節目でもあり、東国か ら戻ってきた北畠親房が京都奪回のための大作戦を開始したタイミングにも合っていた。出陣した正行は足利幕府軍を相手に父・正成の再来を思わせるような神 出鬼没の戦いぶりを見せ、9月17日に藤井寺の戦いで細川顕氏の軍を破り、11月26日には天王寺の瓜生野で山名時氏軍を撃破し大将の時氏に重傷を負わせ た。
 この正行軍の勢いに驚いた幕府は、12月に幕府軍最強の司令官というべき高師直と師泰を主力とした大軍を投じた。ドラマの師直のセリフにもあるが、佐々 木道誉もその一員として参加している。幕府の中でも最強の人員をそろえた大軍の襲来を前に正行は拠点の上赤坂城を出て、吉野の行宮に赴き後村上天皇に拝謁 した。古典「太平記」によれば後村上帝は「朕は汝をもって股肱とす。慎んで命を全うすべし」と正行に声をかけたが、正行自身はこの戦いで敗れれば確実に死 ぬと覚悟しての出陣だったようだ。正行は後醍醐の墓の北の如意輪堂に行き、ここの壁に 「返らじと かねて思えば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」と歌を書き、自分以下143人の名を壁に刻み付け、全員の鬢髪(びんぱつ)を仏殿に納めていった。どう見ても戦死を覚悟の上で出陣したとしか思えない描写である。その様子もまたどこか父・正成の行動をなぞっているように思える。
 あくまで一つの解釈なのだが、正行は河内周辺でそこそこ暴れた後、父と同じように山岳ゲリラ戦を戦うつもりだったのに、総司令官の親房がそれに反対し京 都方面への進出を強要したのではないかという推理がある。父と同様に作戦案を退けられた上無謀な作戦を押し付けられてしまい、もはや玉砕するしか道はない と考えたのかもしれない、というものだ。ドラマで親房が息子・顕家のことを持ち出してまるで正行を脅迫するように激励(?)するシーンがあるが、これなど もそんな見方を念頭に置いたものだろう。正行戦死シーンが捨て身の突撃をしていくストップモーションで終わるのも、どこか親房に対する抗議のようにも見え る。

 師直軍と正行軍の決戦は翌年の正月5日に四条畷で行われた。正行ら必勝の作戦はただ一つ、敵の総大将・高師直の首をあげることだった。少数精鋭の正行ら 百数十騎は師直の本陣めがけて一直線に突入していった。ここでしたたかな戦ぶりをみせたのは道誉で、正行が師直本陣だけを狙って突入すると読んで高みに 上ってその進撃をやり過ごし、正行軍が通り過ぎたところでその背後をふさぐように襲いかかっている。後陣をふさがれた正行は幕府軍の諸将を蹴散らしつつ師 直だけを狙って突進し続け、ついにその勢いに押されて師直周辺も乱れ始めた。しかし師直は顔色一つ変えず、 「きたなし返せ、敵は小勢ぞ。師直ここにあり!見捨てて京へ逃げたらん人、何の面目あってか将軍の御目にもかかるべき。運命天にあり。名を惜しまんと思わざらんや!」 (「太平記」原文より)と周囲を叱咤した。目の前を逃げていく武士にも「日ごろの放言に似ず、ぶざまよのう!」と声をかけ、言われた武士が「では見てお れ」と引き返して戦死するなんて一幕もある。そうこうしているうちに正行らが一町(約55m)の近くまで迫ってきた。すると、上山六郎左衛門という師直の 家臣が「高武蔵守師直これにあり!」と名乗って飛び出し、正行らに討ち取られた。
 「太平記」は上山の身代わり戦死の理由をこう語る。上山はこの戦いの直前、たまたま師直の陣屋に入ったときに敵の襲来を聞いて、慌ててそこにあった師直 の鎧を肩にかけた。それを師直の若党が見とがめて奪い取ろうとしたが、師直は「何をする。わしの身代わりになってくれようという者になら、たとえ千両・万 両の鎧であろうと惜しくはない。出て行け!」と若党を叱り、上山を褒め称えた。この恩義に感じて上山は師直のために命を捨てたというのだ。事実かどうかは ともかく (前に湊川の義貞でソックリな話があったし)、たいてい「東夷の成り上がり者」である師直を悪く書く「太平記」も、この戦いではやたら師直がかっこ良く描かれているのが不思議ではある。こういう戦場での行動があったからこそ、多くの新興武士が師直についていったとも考えることもできるだろう。
 師直の首を取ったと大喜びした正行だったが、よく見れば別人の首。正行は激怒するが、「お前は日本一の剛の者よ。我が君にとっては朝敵であるが、あまりの勇気に感じ入ったから他の首とは一緒にすまいぞ」 と言い、着ていた小袖の袖をちぎって首を包み、丁寧に安置してやった。正行はさきの瓜生野の戦いでも川に落ちた敵兵を助けてやり着替えをさせて薬や傷の手 当てを施してやり、馬や鎧を失った者にはそれを与えて帰らせてやったという情け深いエピソードを持つ。このとき感激した兵士の中には四条畷で正行につき、 共に戦死した者も少なくなかったという。
 上山の戦死ののち、正行らはわざと退却して師直を誘い出す作戦に出たが、そんな計略に師直がひっかかるはずもなく、ついに追い詰められた正行らは「もは やこれまで」と自害した。正行は弟の正時と刺し違えて死んだといい、まるで父・正成のコピーのような最期を遂げたのだった。
  ずっと後のことになるが、尊氏の子で室町幕府二代将軍の義詮はその死に際して「楠木正行の墓の隣に葬ってほしい」と遺言している。義詮はこの「敵将」をか ねて敬慕していたといい、実際に正行・義詮の墓は京都・宝筐院に隣あって建っている。確証はないが父親同士も公私ともに交流があったとする話もあるので、 その「二世」同士で何らかの交流があったのかもしれない。直接会ったことはなくとも間接的に「二世」同士の共感はあったではなかろうか。

 正行のあと楠木家を継いだのは正成の三男で正行の弟・正儀(まさのり)だった。彼もまた南朝に仕えたが、父と兄の非業の死を見て思うところがあったの か、その行動はどこか迷い続けていたようなところがある。はるかのちに南朝軍が京都を奪還した際に佐々木道誉の留守宅に入ったら敵将に対して歓待の用意を させていた道誉の粋な計らいに感激し、撤退時に礼として刀を置いていったなんて微笑ましいエピソードも残しているが、それが縁で道誉と南北朝和議交渉にあ たったりもした。細川頼之が管領となるとその誘いで北朝に帰参し、頼之が失脚するとまた南朝に戻ったりして、後世「楠木二代の忠義を汚した」などと非難さ れることにもなる。しかし正儀の本音は和平にあったんだろうなあと僕は思う。父や兄は味方に殺されたようなものだもん。
 放送時に発売されていた「大河ドラマストーリー」の正成の妻・久子の紹介に「南朝と北朝の間にたって、和平の道を模索した正儀の行動の背後には、母久子 の、平和を願う祈りがうかがわれる」との文がある。どうもこの正行戦死の部分で久子が登場する予定もあったことをにおわせる文だ。そして夫と息子を死なせ た久子の無念が正儀の行動につながっていった、という展開が考えられていたのかもしれない。

 正行を滅ぼした師直は、一気に吉野へ攻め入って多くの寺社がある古くからの聖地とも言えるこの地を火の海にしてしまった。かつて北畠顕家を破った直後に 男山八幡宮に火を放ったのと同じく古い権威を恐れぬ師直の真骨頂ともいえる行動で、さっきまで戦場での勇猛な師直をかっこ良く描いていた「太平記」も「だ から罰が当たったんだ」と言わんばかりに非難している。
 吉野を焼かれた南朝中枢はほうほうのていでさらに山奥の賀名生へ逃げ込んだ。周囲には護良親王以来南朝勢力を支持し続ける土豪や山伏たちがおり、師直もさすがに手が出せるところではなかったようだ。もちろん、これでもう決着がついたという気分もあっただろうが。
 正行戦死の直後に直冬が紀伊で初陣を果たしたのは事実。やはり直義の手配であったようで、貞和4年(1348)四月に出陣が発表され、確実な一次史料の 中に「直冬」の名が初めて現れる。6月から9月にかけて直冬は紀伊の南朝勢(現在の清水町・日高町付近に拠点があった)を相手に転戦し、ひとまず平定に成 功して凱旋する。古典「太平記」によればこの戦功に人々の直冬への評価は大いに上がったが、直冬が尊氏のもとへ報告に行くと、仁木や細川といった足利一門 の2ランクたちと同席に扱われたうえ、さして褒められもしなかったという。こうした状況に直義も気を使ったらしく、このあと直冬は長門探題に任命されて長 門へ赴くことになる。

 天竜寺で尊氏と親房が密会するシーン、両雄のなかなか面白いやりとりがみられる忘れがたい名シーンなのだが、いくらなんでも親房がノコノコ京まで出てく るのは無茶というものだろう。ただ、尊氏が似たような提案による和平交渉をしていた可能性は考えられなくもない。いや、案外直義だってひそかに進めていた かもしれない。やはり幕府は自らの奉じる朝廷の正統性にどこかうしろめたさを感じていた節があるのだ。
 
 この貞和5年はついに足利幕府内の対立が頂点に達し、内乱が勃発する年である。ドラマで尊氏と親房が密会した時期に動乱の予兆のような珍事件が起こっている。
 6月11日に四条河原で橋勧進の田楽が催され、皇族・公家から庶民まで多くの人が見物に押しかけた。弟と違って田楽の大ファンであった尊氏も見物に出か けている。このころの田楽ブームというのは大変なものであったようで、150mもの長さで木造4層の桟敷席が組まれ、そこに満員で詰め込まれた人々が「あ ら面白や、堪えがたや」と熱狂して田楽に見入っていた。すると突然桟敷席が轟音を立てて将棋倒しのように崩れ、百余人もの死者を出す惨事となってしまっ た。桟敷の下敷きになっただけでなくパニックになった現場で斬り合いなども起こり、それによる死者もあったようだ。尊氏はじめVIPはほとんど無事だった が、この事件はよほどの衝撃だったようで当時の多くの記録に記されている。「太平記」はこれを世を騒がす天狗の仕業として、この直後の観応の擾乱の予兆と して描いている。
 直義の要請による師直の執事解任はこの事件のほぼ一ヵ月後、閏6月15日のことである。その直前から直義と師直の間で武力衝突があるのではとの噂が飛び 交い、都の人々が騒いだというから、もはや誰の目にも幕府内内戦の勃発は時間の問題と映ったのだろう。こうした情勢の中で、尊氏はまたしても常人には理解 不能な 行動を見せるのだが、それは次回で。