第四十五回「政変」(11月10日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:田中賢二

◇アヴァン・タイトル◇

 師直、 直義の対立が頂点に達し、ついに武力蜂起が起こった顛末のまとめ。尊氏決断の時が迫る。


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

大地康雄(一色右馬介)

高嶋政伸(足利直義)

片岡孝太郎(足利義詮) 

筒井道隆(足利直冬)

渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継)
中島定則(三戸七郎) 安達義也 (畠山直宗)
谷嶋俊
(上杉重能) 山伏雅文(今川五郎)  岩井弘(仁木頼章)

柄本明(高師直)

森次晃嗣(細川顕氏) 

塩見三省(高師泰)

中村麻沙希・中川歩(近習) 石川佳代(侍女)
壬生まさみ(侍女) 斧篤・水谷宣克(近習)
   
若駒スタントグループ クサマ・ライディング・クラブ
早川プロ 丹波道場 劇団ひまわり 劇団いろは

高橋悦史(桃井直常)

陣内孝則(佐々木道誉)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:石川恭男○撮影:永野勇○照明:飯酒盃真司○音声:寺島重雄○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

 「こたびの戦は我らの意地ぞ。命を惜しまず、名を惜しめ!」そう言って直義 は兵を率いて尊氏邸から出撃しようとしていた。その足音を一室に籠もって聞きながら、じっと考え込んでいた尊氏は突然立ち上がった。戸を開け外に出て 「誰かあーる!」と大声で家臣たちを呼びつける。応じて駆けつけてきた家臣たちに、「直義の軍を止めよ!外に出すな!戦をさせてはならぬ!」 と尊氏は厳命した。
 脇門についた直義たちは兵たちに門を開けさせた。太刀を手に決死の出撃の構えを取る直義たち。ところが、開いた門の向こうに、馬に乗って 「しばらく、しばらく!」と叫びながら駆け込んできた者がある。誰あろう、佐々木道誉 である。「佐々木判官、申したき儀あり、しばしお控えめされよ!」と叫ぶ道誉に、「ほざくな!寝返り者めが!」と 桃井直常が弓を引いて矢を放った。道誉はひらりと太刀を抜いてこの矢を弾き、「待てというのがわからんのか!」 と直義に歩み寄った。直常が太刀を道誉の喉元に突きつけたが、直義は「まて」とこれを制した。
 道誉に導かれるように直義たちは尊氏のところへ戻ってきた。「折り入って話したいことがある。ことは幕府の生死に関わることゆえ…」と道誉が人払いを求めたので、尊氏は直義と道誉だけを連れて一室に入った。

 道誉は館を包囲している高師直が館に火を放つやもしれぬ、と切り出す。直義が 身を引こうとしないので師直の心に迷いが出始めている、と道誉は言う。話がよく読めない直義が「はっきり申されい」とせかすと、道誉は師直が直義もろとも 尊氏をも殺すつもりかもしれない、だから火を放つかもしれぬというのだ、と語気を強めた。 「事と次第によっては足利兄弟を討つ…そのことが師直どのの頭の片隅にチラチラし始めている。このわしの鼻には、その臭いがするのじゃ」 と道誉は言い、「下手をすれば足利家は滅びまするぞ」と 付け加えた。そうなれば師直では天下は治められぬ、諸国は乱れに乱れよう。しかしこの状況ではやれるのではないかと師直に錯覚が起きてもおかしくない。師 直についていくのも一興だがそうもいくまい、と道誉は苦笑し、「ここは何としても切り抜けていただかねばのう」と真顔で尊氏と直義に迫った。
 これを聞いた直義は「兄上…どうしたらいいんじゃ…」とつぶやくように言った。尊氏はここで飲まねばこれまでの苦労が水の泡になると諭し、 「やはりそなたは身を引け。それが嫌なら、わしはそなたをこの場で斬って捨てる!」と言い渡した。直義はガクッと座り込み、自分が 義詮の 後見人となること、上杉と畠山の命を保証することを条件に身を引くことを認めた。「よし、決まった!」と道誉は言って即座にこれを師直に伝えに行った。直 義の「降伏」により、直義派で集まっていた武士たちも武器を捨てて投降し、師直のクーデターは完全勝利の形で終わったのである。

 数日後、幕府内を高笑いしながら師直・師泰ら一同が歩いていた。見れば、反対側の廊下を直義が暗い顔で歩いている。直義と師直は視線を合わせるが、直義は黙って立ち去り、師直は満足げにそれを見送る。
 師直たちは将軍・尊氏の前に平伏し、幕府を正すためとはいえ将軍の館を大軍で包囲した罪をわびた。尊氏はそれを幕政への熱意から出た行動とねぎらって一 同を退出させ、師直だけを残した。二人きりになると師直は「いやー、殿。よろしゅうござりましたな」と態度を変えて二人で仕組んだ芝居のクーデターの成功 を喜ぶ。尊氏も師直をねぎらい、これから執事としてよく勤めてくれるよう頼んだ。師直が笑いながら直義がなかなか折れなかったことに触れて「昨夜はどうな ることかと気を揉みましたぞ」と言うと、尊氏も「わしも気を揉んだ」と言い出す。師直が首をかしげると、尊氏は師直だったからそう気にはしなかったがと前 置きして、 「五万の軍をおのれの軍といたし、この機に乗じて館を攻めれば、わしも直義もたやすう討てる。幕府を乗っ取り天下を狙えるやも知れぬ…」 と茶を口にして師直の目を見ながら言う。師直はポンと膝を打ち、「なーるほど…。それは気づかぬことでございました」 とさも感心したように言う。「今ごろ気づくようでは師直は天下は狙えぬのう」「こういうことは前もって言っていただかねば…殿ものんきでございますな」「師直ものんきよのう」「師直は、のんきでござりまする」二人は顔を見合わせて大笑いする。
 部屋を退出して外に出た師直は、どっと噴き出した冷や汗をぬぐってあたふたと立ち去っていった。その様子を隠れてうかがっていた道誉がニヤニヤと眺めて いる。尊氏が道誉に近づいて「師直に謀反の心があったとは思えぬ」と言うと、道誉は「まぁ人には魔が差すということがござるゆえ」と答えた。道誉は尊氏 に、武士と言うものはみな己の力を示したいと内心思っているもの、将軍という天下一の力を持つ者をみなそういう目で見つめているのだ、と語る。 「長年の友でもか」と尊氏は道誉の心を聞くが、「こういうことに友も家臣もござりますまい」 と道誉は笑い、ともあれ今後はこのような危ない真似はするなと真面目な顔で忠告した。「寂しいものじゃのう…天下一というものは。だがわしは御辺を信じておる。師直を信じておる。信じねば将軍などやっておれぬ」 と尊氏は言い、「のがさぬぞ」と道誉の肩をつかんだ。 「フッ、かなわぬな」と道誉が苦笑すると、「かなわぬぞ」と尊氏。道誉は大笑いして去り、尊氏はその後姿をどこか楽しげに見送っていた。

 二ヵ月後の十月半ば、尊氏に呼び出された義詮が一色右馬介と共に鎌倉から上洛してきた。足利宗家の期待を一身に浴びての入京である。尊氏の館で義詮は尊氏や 登子に「お懐かしゅうございます」と挨拶し、尊氏は長年の鎌倉暮らしの苦労をねぎらった。登子が「長旅、疲れはせなんだか」と問うと、義詮は「都が私を待っているかと思うと胸躍る心地で疲れもいたしませぬ」と答え、師直ら家臣一同は頼もしい言葉と大いに喜んだ。
 夜には尊氏と登子と義詮は久々の家族水入らずの夕食を楽しむ。登子はなにくれと義詮の世話を焼き、義詮が「母上、お構いなく」と笑うと、 「やらせてくだされ。今までできなんだ罪滅ぼしじゃ」と 言う。尊氏は食事をとりながら幕府の政治を行う上での心得をクドクドと説き、さすがに義詮は退屈してあくびをしてしまう。登子にたしなめられた尊氏は、義 詮に直義に会って話を聞くよう命じた。すると義詮は露骨に嫌な顔をして「叔父上に会わねばなりませぬか…?」と聞いた。失政をして政治を追われた直義に会 うのは無意味では、という義詮に、尊氏は直義は朝廷や寺社関係に詳しいから会っておけ、と言い渡す。
 そこへ備後から早馬で急報が届いた。一読した尊氏は別室に右馬介を呼びつける。長門探題を解任して都へ呼び戻した 直冬が 海伝いに逃亡して行方知れずとなったとの知らせであった。右馬介は西国の大名が直冬をかついで幕府を転覆するとの噂もある、と尊氏に告げる。「直冬は我が 子…!この舵取り、難しいのう」尊氏は天を仰ぎ、右馬介に直冬の行方を探るよう命じた。ただちに立ち去ろうとする右馬介を尊氏は呼び止め、「長々と義詮が 世話になった…」と礼を言った。

 しばらくして義詮の館に直義が訪ねてきた。直義は失脚後、義詮に三条の自分の館を明け渡し、部下の屋敷に身を寄せていた。直義は朝廷・寺社との取り決め をまとめた書類を義詮に引き渡し、義詮は型どおりに礼を述べる。義詮の後見になるはずの直義だったが、義詮の周辺はすでに師直の一派で固められており、直 義の入り込む隙間は全く無かった。
 直義が館を出ようとすると、突然右馬介が姿を現し、門の外に直義暗殺の刺客が潜んでいることを直義に教えて裏口へ導いた。用意した牛車に直義と共に乗り 込んだ右馬介は、師直が直義派の大名が直義を担いで挙兵するのではないかと警戒していることを教える。それを聞いた直義は「そのような企ては無い。あって もわしは乗らん」と言う。右馬介は師直が直冬のことも警戒していることを告げ、直冬の行方を直義に問いただす。しかし直義はこれには答えようとしない。
 右馬介は「北条を倒せば良い世になると思っていたが、世はいっこうに治まらぬ。あまつさえ足利が割れてはこれまで我らは何のために戦ってきたのか」と嘆 き、尊氏も自分もあくまで平和を望んでいることを直義に訴える。直義は「直冬は淀におる。将軍に会いたがっている」とようやく打ち明けた。

 二日後、京の南の寺で尊氏は右馬介の手引きで直冬と密会した。「なぜ都へ戻らぬ。なぜ逃げる」との尊氏の問いに、直冬は戻っては師直に殺される、まだ死 にたくはないからと答える。尊氏が「直義は過ちを犯した。だがそなたに罪は無い」と言うと、「ではまた探題に戻していただけますか」と聞く直冬。「それは 難しかろう…そちは直義の子…」と尊氏が言うと、直冬は自分が直義の子ではなく尊氏の実の子だと知らぬ者はない、尊氏がそれを公にすれば誰も探題に戻すこ とに文句は言うまいと尊氏に言った。
 「それがしは、一人の武士として、義詮どのに負けぬものという自負がございます!鎌倉で闘鶏にうつつをぬかしていた義詮どのが政を行い、この直冬が長門探題もお任せいただけぬ、それはあまりでございます!」 直冬は尊氏に声を上げて訴える。「直冬を抹殺なさいますか。お認めくださいますか。それを伺いとうございます!」と迫る直冬に、尊氏は 「そなたは…わしの子じゃ…」と かみ締めるように言う。うつむく直冬。「わしは大きな過ちを犯した。やはりそなたを武士にするのではなかった…」尊氏は嘆息し、直冬が寺の僧か名も無き庶 民であれば自分の子だと大声で言えもしよう、しかし幕府のためには義詮を後継者に育てそこに足利をまとめねばならない、望むと望まざると直冬のもとには人 が集まるから子と認めるわけにはいかぬ、と直冬を諭す。「許せ。そなたはどこまでも直義の子じゃ」と尊氏は言い、直義と共に世を捨てて穏やかに暮らしてく れと頼む。 「そは将軍の身勝手な申されようじゃ!」と立ち上がって叫ぶ直冬。「身勝手じゃ!それゆえ許せと申しておる!」 と尊氏は頭を下げた。直冬は泣きそうな顔になって「直冬は西国で独立独歩、思うように生きまする。思うように生きて力を試してみとうござります!」 と叫び、「それはならん!」と言う尊氏に、「御免…」と一礼して飛び出していった。尊氏は慌てて右馬介たちに直冬を追わせるが、直冬は庭を飛ぶように走って逃げ出していった。裸足で道を駆けていった直冬は涙を流しながら歩き出し、肩を落として都を立ち去っていった。

 翌年、直冬は九州で挙兵する。尊氏の新たな苦悩の始まりであった…。


◇太平記のふるさと◇
 
 栃木県・喜連川町。足利基氏の子孫の家系が喜連川氏を名乗り、喜連川公方として治めた町を紹介。菩提寺の龍光寺にある尊氏木像と歴代墓所、そして幕末に足利に姓を戻して明治を迎えたことを解説する。


☆解 説☆

 完全に前回とセットになって師直クーデター事件の結末と後日談を混ぜる回。したがって解説することはほとんど前回分でやってしまっているのだが…。

 佐々木道誉がえらくカッコ良く事態を収拾してしまうが、これはもちろんドラマの完全な創作。このとき道誉は恐らく師直派に属していたのであろうが (息子は師直邸に参じている)、 古典「太平記」に名前が見えないのを逆手にとって脚本の方が創作したのかも。直常が放った矢を道誉が刀で跳ね返すシーンは久々のアクション描写。このとこ ろ動きの無いシーンが続いたせいか、妙に印象に残る。尊氏と「かなわぬな」「かなわぬぞ」と友人同士としてやりあうシーンも道誉らしくて微笑ましい。そう いえばこの回の出演表示の「トリ」は陣内孝則さんになっている。
 印象に残ると言えば尊氏が師直に自分を殺す気が無かったか探りを入れるシーンも面白い。師直の内心ヒヤリとしつつ「なーるほど」などととぼけてみせる「演技」を演じる柄本明さんの名演も見もの。

 義詮がついに上洛、中央政界に登場する。やはりどこか凡庸そうな空気を漂わせており、同じく尊氏の息子である直冬と鋭く対比させた設定になっている。こ のあとドラマを良く見ると、尊氏と直義の兄弟ゲンカの陰で、この「兄弟」もそれぞれに相手にコンプレックスと対抗心を抱いた戦いを繰り広げている事がわか る。ドラマ「太平記」終盤戦がどこかホームドラマっぽい一因である。前回出てきたもう一人の尊氏の息子である基氏(光王)は義詮と入れ替わりに鎌倉へ下っ たのだが、これについては全く触れられなかった。
 直冬が長門探題を解任され、京への帰還命令を拒絶して姿をくらまし、いきなり京郊外で尊氏と密会してしまう展開があるが、これももちろん創作。実際には政権を取り戻した師直がただちに直冬追討を中国地方の御家人に命じ、直冬はそのまま四国を経て九州へと逃亡している (この年の9月初め)。 ここで顔を合わせておかないと尊氏と直冬の父子は今後永久に会えなくなってしまうのでドラマとしてはこの場面を設定せざるを得ないところだろう。不幸な関 係の父子の対話は涙ぐましいものではある。尊氏が実のところ庶子・直冬をどう思っていたかは分からないが、認知をずっと渋った上に弟の養子にしてしまった あたりを見ていると、およそ愛情を抱いてはいなかったのではないかと一般には言われる。一方の直冬はこのあとあくまで養父・直義に味方して実父・尊氏と戦 うことになるのだが、心情的には実の父に対してかなりのファザーコンプレックスを抱いていたようだ。この証拠については最終回の解説で。
 それにしても筒井道隆さんの直冬を見ていると、これがあの庶民の少年「不知哉丸」の成長した姿であることをついつい忘れがちになる (ついでに言うとこれが宮沢りえの子供であることをほとんどの人は忘れてるんじゃなかろうか)。 子役のほうが出番が長かったしなぁ。この回のラストで尊氏の前から逃げ出していくシーン、泣きながら道を裸足で駆けていくカットで、久々にそれを思い起こ させてくれる。僕としては成人後の直冬に、どこかまだ庶民くささが残っているような描き方をした方が効果的だったんじゃないかと思うんですけどね。

 失脚した直義を、今度は師直が暗殺しようとする。これは一応史実では確認できないが、十分にありえる話。ところでこの場面で右馬介が用意した牛車で直義 を逃がしているが、この牛車が進む映像は第10回「帝の挙兵」で後醍醐が内裏を脱出するカットの再利用。師直らの軍が京の市中を進み尊氏邸を包囲する場面 も、「正中の変」や「霜月騒動」のカットが大量に流用されている。このドラマのラスト10回ぐらいはとにかくこうしたカット再利用がやたらに目立ち、製作 現場の窮状が察せられる。戦闘場面については分からないではないのだが、ちょっとした人員動員場面にも再利用カットがよく見受けられる。ま、視聴者のほと んどは気づかなかったと思うのだが…。

 えーと、この回は書くことが少なかったのでコラム的に書き落としたことを。南北朝最強との評価もある武将・高師直の戦法についてちょこっと書こう。
 ドラマを見ていても分かるが、北畠顕家、楠木正行といった幕府軍を連戦連勝で蹴散らしていた南朝の勇将が、いずれも師直の前に敗れ壊滅している。「太平記」をテーマにした歴史シミュレーションゲームは決して多くは無いが (僕が知る限りビデオゲームで3作、ミニボードゲームで1作)、そのいずれもが師直にほぼ最強の戦闘数値を設定しているゆえんだ。その師直軍の強さの秘密はどこにあったのだろうか。ドラマでもしばしば言及があるように師直は家柄や血縁にこだわらず畿内の新興武士を軍団 (師直は幕府の執事であるから幕府直轄軍である)に 引き入れ、公家や寺社といった旧勢力から土地を奪って彼らに与えた。これに新興武士たちは大いに奮起し、よりいっそうの土地と地位向上を求めて戦場で大い に働く。上山六郎のエピソードに見えるように、師直もまたこうした下層武士たちの面倒をよくみてその支持を得ていたようだ。まずこうした組織的な強さが挙 げられる。

 それだけではなく、師直は時代の変化に応じた戦闘管理を行っている。良く知られているように、源平合戦以来の鎌倉武士は武将同士による一騎打ちを軸にしており、戦うにあたって「やあやあ、我こそは…」と高らかに名を名乗っていた (先祖や出身地も言うのでかなり長かったらしい)。これ、単純にかっこつけてるだけではなく、武士たちには死活問題ともいえる重要な意味があった。武士たちにとって戦場に出る最大の理由は「恩賞」として土地を確保すること (土地に命をかけることを「一所懸命」と言う)だっ たわけで、「誰が先陣を切ったか」「誰が誰を討ち取ったか」という事を周囲にしっかり確認しておいてもらわなければならなかったのである。「太平記」の時 代でも戦場には「軍奉行(いくさぶぎょう)」という係りがあって、戦功、戦傷、戦死の記録を毎日しっかりとつけて、戦後の恩賞の処理に備えていた。華やか な鎌倉武士たちの戦争にもこんな現実的背景があったのだ。
 ところが蒙古襲来で外国との戦争を経験したことが一つの転機になる。「やあやあ、我こそは…」なんて名乗ってるうちに毒矢が飛んでくる、しかも一騎打ち ではなく集団戦法、という「戦争カルチャーショック」を武士たちは体験した。これと連動するかのように畿内を中心に「悪党」と呼ばれる武士(?)たちが ルール無用のゲリラ戦を展開するようになり、楠木正成はまさにそうした戦法で鎌倉武士たちを手玉にとることになる。彼ら新興武士たちは関東武士的な騎馬武 者ではなく歩兵を大いに活用した。こうして南北朝時代は日本戦争史の画期をなすことになる (前にも書いたけど「槍」の使用もこの時期に始まる)

 師直が考案した戦闘管理で有名なのが「分捕切棄(ぶんどりきりすて)の法」と呼ばれるもの。1338年に北畠顕家と奈良方面で戦った際に始めて採用されたと言われる。これはどういうものかというと、 「敵の首をとったら後生大事に持っていないで軍奉行や周囲の味方に確認をとってもらったら、すぐその場に捨てなさい」というもの。なんじゃそりゃ、という声も聞こえてきそうだが、師直以前の戦場では、武士は敵の首をとったら後で戦功の証拠にするために首を手にしたまま戦場をウロウロしていたそうなんですな (凄惨というか滑稽というか)。師直はそれを改めさせ、手柄を確認してもらったら首をその場に捨て戦闘を続行するという軍法を明確にし、軍団の機動性を向上させたのである。
 こんなところを見ても師直というのがまさに「時代の申し子」であったことがうかがい知れるだろう。その女性関係の素行の悪さは事実だったようだが、それ も公家など高貴な女性ばかりに向けられていたところなぞ、やはり実力によってのし上がった「下剋上」の人間ならではの行動であったように思える。南北朝動 乱は時代を象徴する多くの英雄を登場させたが、高師直もまさにその代表的人物だった。「早すぎた下剋上」などと言われることもあるのだが、それが彼が悲劇 的最期を遂げた 最大の理由なのだろう。