第四十六回「兄弟の絆」(11月17日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:榎戸崇泰

◇アヴァン・タイトル◇

  師直のクーデターによる政変のまとめ。直義の失脚と将軍の後継者・義詮への一本化が固まる一方、直冬は実父尊氏・異母兄弟義詮への憎悪に燃え、直義派の武将たちも巻き返しを図っている。


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

大地康雄(一色右馬介)

高嶋政伸(足利直義)

片岡孝太郎(足利義詮) 

筒井道隆(足利直冬)

麿赤児(文観) 田武謙三(夢窓国師)
森口瑶子(二条の君) 内山森彦(石塔頼房)
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継)
加持健太郎(少弐頼尚) 山崎満(洞院公賢)

柄本明(高師直)

塩見三省(高師泰)

久保忠郎(畠山国清) 佐々木正明(越智伊賀守)  渡辺博貴(後村上天皇)
蓮見領(大友氏時) 舟久保信之(阿蘇惟時)  美里ルイ(女官)
片岡たか志(急使) 中川歩・木村幸人(近習)  中村麻沙希(重臣)
山浦栄・村添豊徳・須藤芳雄(重臣) 苑村美月(直冬の花嫁)
   
若駒スタントグループ クサマライディングクラブ
ジャパンアクションクラブ 早川プロ 園田塾 劇団ひまわり 劇団いろは

陣内孝則(佐々木道誉)

原田美枝子(阿野廉子)

近藤正臣(北畠親房)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:稲葉一寿○技術:小林稔○音響効果:加藤宏○撮影:川邨亮○照明:大西純夫○音声:大塚茂夫○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 九州へ逃れた足利直冬は九州の土豪たちの支援を受けて挙兵した。その勢いは中国地方でもこれに呼応する者が出るほどであった。
 観応元年6月、事態を重く見た幕府では直冬討伐軍の派遣が決まり、高師泰が石見への出陣を自ら買って出る。しかし全ては 高師直と師泰らが勝手に決めてしまい、幕府の政治を預かっているはずの義詮には一言の相談も無く、決定後に事後承諾だけ取りに来たのであった。義詮は不満を感じながらもそれを受け入れるしかない。
 「義詮の沙汰にしては目の付け所がよいわ」と師直から師泰派遣決定を聞いた尊氏は感心するが、師直はこれが兄・師泰の主導で決まったことを尊氏に明かし、鎌倉暮らしの長かった義詮にはまだ全般を任せるわけにはいかないと言う。そして失脚した直義派の 桃井直常斯波高経らが地方で不穏な動きを見せていることに触れて、これが 直義と連絡をとったものとしか考えられないと言って、師直は直義の処分を尊氏に求めた。尊氏は「直義は出家遁世の身、そんなはずはない」と聞く耳をもたない。 「そは思わぬ仰せ。将軍は御舎弟の出家を真に受けておられますのか?」と言って師直は直義が陰謀をめぐらせていることは間違いないと訴え「いまのうちにその芽を摘むことが肝要でございましょう」と鋭い目で尊氏に迫る。「師直!何を申したか、そなた分かっておるのか?」と思わず声をあげる尊氏に、「はい」とすまして答える師直。 「兄弟であれ親子であれ、天下を争うのにそれが何ほどのくさびとなりましょうや?」師直はなおも訴えるが、尊氏は「さようなことは断じてさせぬ」と断言した。
 そこへ佐々木道誉がやって来て登子 から「義詮を頼む」としつこく言われて参っていると笑いながら尊氏に言う。入れ替わりに退出しようとした師直に、尊氏は「義詮のもとへの出仕を控えてくれ」と命じた。首をかしげる師直に、尊氏は義詮を後継者として育てるためにも一人でやらせるようにしたいのだと説明した。

 夜、自らの館で師直は思いつめたような顔で酒をあおっていた。これを見て二条の君が笑う「何ゆえこのわしが将軍よりとがめだてを受けねばならん?」と師直はつぶやき、西国鎮圧のためには自分の力が必要だということは将軍も分かっているはずとぼやく。二条の君は、昨年の将軍邸包囲の一件に触れて 「思えば、得がたき折でございました…あの時、将軍を殺して天下をおとりになれば…」とささやく。「愚かなことを申すな」とにらむ師直に、二条の君は 「いいえ、殿ならばなせるものと、わたくしは密かに心をときめかせておりました」と続ける。尊氏はしょせん師直を累代の執事としてしか見ない、力を持てばますますにらまれるだけ、今こそその力を見せる時、と二条の君は師直をけしかける。「二条、そなた…」と呆れたように見る師直に、二条の君は 「殿は天下を取れるお方と思えばこそ、わらわはこうして殿に従うたのでございます…殿、ご自分のお力を信じられませ」と言いながら体を寄せ、しなだれがかる。

 大和国・賀名生(あのう)。北畠親房は何やら手紙を読んでほくそ笑んでいた。そこへ 阿野廉子がやって来る。「また先帝の命日が近づいて参りました…また今年も賀名生で迎えるかと思うと…」と心細げに言う廉子に、親房は「この賀名生におるのも今しばらくのこと」と言う。足利のうちに潜ませた者たちから情報が入ってきていると言うのだ。しかも 「最も信頼している耳目」として師直の愛妾・二条の君の名を挙げ、彼女から足利兄弟の対立だけでなく師直も尊氏に背こうとしているとの情報が入ってきていると、親房は廉子に明かした。 「我らの策が、功を奏して参りましたな…遠からず足利の命運は尽きましょうぞ」と親房はニンマリと笑う。

 失脚後、直義は出家して「恵源」と号し、ある寺に幽閉されていた。そこへ尊氏、直義が帰依する禅僧・夢窓国師 が訪ねて来る。直義は「頭を丸めると世の中が違うて見えるかと思いましたが、さほど変わらぬものでござりましたな」 と笑って夢窓に言う。夢窓は「悟りの妨げになるとは思うが…」と言いながら、密かに直冬から預かっていた手紙を直義に渡した。直義が開いて読むと、直冬が九州の豪族・ 少弐頼尚の婿となること、大友や阿蘇といった周辺の豪族たちも直冬のもとへ馳せ参じているとあった。
 そのころ大宰府の少弐頼尚の館では、直冬と頼尚の娘との婚礼の宴が開かれていた。「力のある者が上に立てばよいのじゃ」と叫ぶ直冬に、頼尚や大友・阿蘇らは酒をすすめ、直冬を将軍のまことの子と誉めそやす。直冬らは各地の直義党と呼応して京へ攻め上ろうと気勢を上げた。

 師泰の軍が石見で苦戦を続けているとの報告に、義詮は師直を呼びつけて当り散らす。九州の事態の深刻さを思い知った尊氏は師直に直冬討伐の出陣を命じ た。師直は引き受けるが、将軍の子である直冬に軽々しく立ち向かうのは無理と述べ「旗印をいただきたい」と義詮を大将に奉じたい意向を尊氏に示した。「面 白い。師直、参ろうぞ」と乗り気の義詮だったが、尊氏はこれをとどめ、自らが出陣すると言い出した。不満げな顔を見せる義詮に京の留守を守る大任を任せ、 尊氏は明後日に出陣と師直に言い渡す。
 その夜、師直は自分の屋敷でまとわりつく蚊を叩きながら「楽しそうじゃのう。そなた、わしが戦に行くのが嬉しいか?」と二条の君に声をかけていた。 「将軍を狙うにはまたとない良い折でございましょう?」と言う二条の君。尊氏が死ねば都は大騒ぎ、対抗できるのは直義だけだが、 「いっそ出発前に…」と言って二条の君は考え込んでいる師直の頬をパチンと叩いた。師直が驚くと、二条の君は笑いながら手のひらを見せる。そこには叩き潰された蚊の姿があった。

 尊氏自らの出陣には登子も、そして佐々木道誉も反対していた。「いま都を離れ るは危険」と道誉が諌めるが、「火は小さなうちに消すが肝要」と尊氏はきかず、留守の間の京を道誉に頼む。しかし道誉は領地の近江に隣国の兵乱が飛び火し ていて、と京にとどまることを渋った。尊氏は登子に「こたびの出陣は義詮のためでもあるのじゃ」と説く。この出陣で義詮こそ足利の後継者であることを示 し、直冬と親子の縁を絶ち切るのだと尊氏は言った。
 その夜。幽閉所で眠りについていた直義は、何者かの気配を察して目を覚まし、短刀を手にした。「何奴じゃ!」と立ち上がると、黒装束の 一色右馬介が姿を現した。右馬介は師直が直義暗殺の刺客を放ったことを明かし、直義を安全なところへ逃がすと言った。 「そなたと共に行くのが今より危険でないと何ゆえ言える?」と 直義は疑心暗鬼で問う。右馬介は三十数年足利家に仕えてきた自分を信じてほしいと言うが、直義は右馬介が忠実なのはあくまで兄・尊氏であろうと言って信用 しない。右馬介は尊氏が「心ならずも道を違えたが、また合うこともあろう。それまでは直義の命を守れ」と命じていることを明かした。それを聞いた直義は 「そちを信じるぞ」と言って右馬介のあとについて寺を抜け出し、大和方面へと身を隠した。
 直義が都から姿を消したことに、師直は焦った。朝食をとっている尊氏のところへ報告に行くが、「そは困ったことよのう」 と尊氏はまるで気楽に言う。師直は出陣を中止して直義の行方を徹底的に捜すべきと進言するが、尊氏は「直義がわしの命を狙うなどあろうはずがない。直義は我が弟、わしには背けぬ」 と言って予定通り出陣する旨を伝える。すると師直は笑う。「大殿には、弟の気持ちがわからぬものと見えまするな」 そう言って師直は幼少時から兄・師泰の下にあった自らの経験から「弟の気持ち」を語る。「兄を敬うと同時に、兄を打ち倒そうと思うのが弟」 と師直は言い切る。しかし尊氏は「わしは直義を信じる」というばかりである。
 
 間もなく、尊氏は師直を連れて九州に向けて出陣した。11月初めには備前国・福岡に到着、ここに陣を布いた。夕陽の中、尊氏は目前に迫った息子・直冬との決戦に己の因果を思う。
 陣の外の井戸で尊氏が自ら水を汲んでいると、そこへ師直がやってきた。師直が来たことに尊氏は気づかず、師直に背を向けている。その背を師直は鋭い視線 でじっと見つめる。刹那、師直は尊氏に駆け寄り、驚いて振り返った尊氏の首に短刀を当て、その喉を掻き切った。尊氏は目を見開き、驚きの表情のまま、土の 上に倒れた…
 「師直、いかがいたした?」尊氏に言われて師直は幻想から現実に引き戻された。「さ、寒うなりましたゆえ、陣内にお入りになってはと…」 と答える師直。尊氏が陣内に入っていくのを、師直は冷や汗びっしょりになって見送っていた。
 
 賀名生では雪が降っていた。「亜相(あしょう)どのーーー!!亜相どのはいずこじゃーー!?亜相どのぉーーっ!!」文観の親房を探し求める絶叫が行宮に響く。廉子と談笑していた親房は「あのお方は何事も大袈裟じゃからのう。やれ雪が降った、滑って転んだのといったたぐいでもあれじゃ」と苦笑する。廉子の女官に呼ばれた文観は、書状を手に親房の所へ飛び込んでくる。 「足利直義からの、和議の申し入れじゃ!」「なに!」親房も驚いて書状を開く。
 さっそく後村上天皇の御前で南朝の首脳による会議が開かれた。「かほどに直義が追い詰められておったとはのう」と親房は笑う。文観や他の公家は直義が何を企んでいるのか見定めるべきと慎重論を唱えるが、廉子と親房は「これを利用せぬ手は無い」と主張。意見を求められた後村上は 「朕は先帝の御意志を果たさんがため、都に戻りたい一心じゃ。良きにはからえ」と言って退出した。12月13日、南朝は直義と和睦し、直義に天下平定の綸旨を与えた。

 河内国・石川城に入った直義のもとに吉野からの綸旨が届けられ、集まった諸将の前で読み上げられた。「すみやかに高師直、師泰を討ち、将軍の目を覚まさせねばならん」と言う直義。 畠山国清が綸旨に応じて畿内の武士が集まってくると励まし、越智伊賀守はつながりのある楠木党に連絡をとると約束、さらに直冬や桃井直常など各地の味方が集まるだろうと一同は気勢を上げる。 「わしは今まで、いかなる時も将軍を立てて参った。多少のことには目をつむっても将軍の、兄上の無理に従って参った。将軍である兄上に対し弟として分を越さぬよう身を正してまいったつもりじゃが…結局のところ、弟の気持ちを分かってくれなかったようじゃ」 と直義は言い、兄に過ちを悟っていただき正しい政治に戻すと挙兵の目的を一同に伝える。

 「直義が吉野方と…!?」急使の報告を聞いた尊氏は愕然とする。直義が大軍で京に攻め上る勢い、との報告を受けると、尊氏の脳裏に、夕陽の中兵を率いて怒涛の進撃をしていく直義の幻影が浮かんだ。


◇太平記のふるさと◇
 
 京都府・京北町。出家した光厳上皇が終の住処と定めた常照皇寺を映し、光厳上皇がお供一人を連れて諸国を行脚し、この寺で52年の波乱の生涯を閉じたことを紹介。


☆解 説☆

 タイトルにもあるとおり、この回から尊氏と直義の兄弟がついに全面対決へと突入していく。一方で重臣である師直の心にも天下奪りへの野望が次第に広がっていく。まさに泥沼の「観応の擾乱」である。

 ドラマでは直冬が九州に下る前に尊氏と会見する創作を挟み込んだので、直冬がどうやって九州で勢力を広げたか分かりにくい。その辺りをここで補足しておこう。
 直義が失脚した直後の9月初め、師直は長門探題として鞆にいた直冬を、尾道に住む武士・杉原利孝に命じて討たせた。古典「太平記」はこれを9月13日の こととして、危うく殺されるところだった直冬を磯部左近将監が奮戦して救い、肥後の武士・川尻幸俊が直冬を船に乗せて肥後へと逃れたと記している。船上で 13日夜の名月を仰いだ直冬は 「梓弓われこそあらめ引きつれて人にさへうき月を見せつる」(「梓弓」は「引く」の枕詞。私だけでなく人々をも辛い目に合わせてこの月を眺めさせることよ、が歌の意) と詠い、人々は涙したという。どうも古典「太平記」でも直冬はどこか哀感を誘う描かれ方をしているな。
 川尻に連れられて肥後に下った直冬に、少弐、阿蘇、大友といった九州の有力武士たちが馳せ参じてくる。これはこの乱世の各地で見られる現象なのだが、地 方の武士たちは自らの勢力拡大のために、しばしば中央から来た「貴種」を旗印に奉じようとした。関東における北畠親房、九州における直冬、そして懐良親王 をはじめとする後醍醐の皇子たちなどがこの例として挙げられるだろう。少弐頼尚にいたっては直冬に自分の娘をめあわせて婿にまでしてしまっている。ところ でこの頼尚、覚えておられるだろうか。ドラマではここで初登場なのだが、第35回「大逆転」の解説で触れておいた尊氏九州平定の際の「多々良浜の合戦」で 重要な役をつとめた人物だ。
 古典「太平記」は直冬が九州に独立勢力を築いたことをもって「宮方(南朝)・将軍方(尊氏派)・兵衛佐殿方(直義派)と、国々が三つに分かれたため、世の中の戦乱はいよいよ止む時は無い。まるで漢王朝が衰えて後の、呉・魏・蜀の三国鼎立のごとくである 」と 記している。日本全国は「南北朝」はおろか「三国志」の様相を呈してしまった、と中国史の「見立て」をやたらに好む「太平記」の作者はこの状況を見たわけ だ。ちなみに「太平記」はこれ以前に義貞を諸葛孔明に見立てて状況を三国志になぞらえる記述もしているのだが、その「三国志」知識はまるで史実から乖離し たムチャクチャなものである。興味のある三国志マニアは一読してみること。首をかしげること必至。

 ところで九州の話に戻るが、中央の状況変化と連動しつつ九州は九州で「南北朝三国志」の戦乱を繰り広げていく。とにかく複雑怪奇な展開をするので詳細は 省くが、一時直冬を奉じて覇権を握るかにみえた少弐頼尚は直義の死、直冬の没落でこれを見限り、懐良親王を奉じる肥後の菊地武光と結んで尊氏派で足利一門 の一色範氏を攻め、これを九州から追い出した。懐良親王と菊地武光は九州各地を転戦し1358年には全九州をほぼ制圧するが、菊地氏の勢力拡大に焦った少 弐頼尚が幕府側に戻りこれに戦いを挑んだ。1359年(延文4、正平14)8月、筑後川を挟んで少弐軍と懐良・菊地軍が激突し、激戦の末懐良・菊地軍が勝 利を収め、これ以後少弐氏は衰退の一途をたどっていく。1361年には菊池軍は博多周辺の少弐勢を一掃し、懐良親王は大宰府に入城、ここに九州は完全な 「南朝王国」となるのである。
 後醍醐の皇子の中で唯一軍事的成功を収めたこの懐良親王だが、なぜか兄弟の後村上の呼びかけに応じず九州にとどまりつづけた。このあたり、北方謙三さん の歴史小説「武王の門」が参考になるが、懐良親王の目はむしろ海の彼方に向かっていた。彼が「倭寇」と深いかかわりを持っていた可能性は指摘されるところ で、中国に明王朝が成立して倭寇鎮圧を要求する使者が九州にやって来ると懐良は「日本国王」としてこれに接し追い返している 。明側が「国王」と誤認したとも言われるが、僕は懐良が自ら名乗った可能性を捨てきれないでいる(まぁ皇子ではあるけど) 。なぜならその後懐良は明に対して「朝貢」を行い「国王」に冊封されていたフシがあるのだ。
 この情勢に焦ったのが「日本の正統政権」を自負する室町幕府で、義満の補佐となった細川頼之は1371年に腹心の今川了俊(貞世)を九州に派遣した。了 俊は翌年大宰府を攻め落とし、懐良と菊地氏による「九州南朝王国」の栄華はついえた。抵抗を続けた懐良親王は1383年に筑後で失意のうちに死去。一方の 了俊はその後じっくりと九州豪族たちを手なづけてゆき20年がかりで九州を平定、独自で高麗と倭寇対策の交渉をするほどの存在となっていった。これがまた 警戒されたのだろう、義満は1395年に突然了俊を九州探題から解任する。やがて足利義満が明と交渉し、「日本国王」に冊封されることはご存知の通り。こ うしてみるとこの辺り、何やら「日本国王」争奪戦という側面もあったみたいですね。


 師直の野心をけしかけるようなささやきを繰り返す二条の君の「正体」がこの回で割れる。なんと南朝のスパイだったという設定なんですね。親房が「我らの 策が功を奏してまいりました」などと言っているのを見ると、なんだか「観応の擾乱」全体が南朝の策謀であったかのように感じられてくるのだが…それは親房 を買いかぶりすぎと言うものでは(笑)。それにしても建武新政期はあんなに仲の悪かった親房と廉子、後醍醐死後、妙に仲が良いような気がするのだが…

 直義のもとを訪ねてくるのが夢窓疎石(ドラマでは「夢窓国師」と表記されたが)。 当時の禅宗界を代表する名僧で、尊氏と直義はおろか後醍醐天皇まで深く帰依した大人物である。その経歴は華々しいもので、9歳で出家、18歳で東大寺で受 戒、20歳で禅宗に帰依し、鎌倉の建長寺で「問禅」の大役をいきなり務めた。24歳のとき宋から来日した一山一寧の弟子となろうとするが、なんとこれには 希望者が殺到したため入門選抜テストがあった。これを最上級でパスしたのはたった2人だったが、夢窓はその一人だったそうで。今でいうなら東大出のエリー トみたいなもんですな (「東大寺出」ではあるが)。後醍醐から始まって七代の天皇から「国師」の称号を受け(後醍醐に彼を推薦したのは尊氏だったらしい) 、尊氏兄弟にも信頼され天竜寺の創建となり…イヤになっちゃうほど順風満帆の僧侶人生である(笑)。もちろん、それだけ魅力のある人ではあったようだ。ドラマだとなんだか普通のおっさん風の方が演じてますね。
 この夢窓は有名な「尊氏評」を残している。尊氏には三つの徳がある、というのだが、それを口語訳してみると…
(1)心が強く、合戦の時、命が尽きそうになることも度々でありながら、いつも笑いを浮かべて恐れる色を見せない。
(2)生まれながら慈悲深く、人を憎むということが無い。多くの怨敵を許すこと、まるで我が子に対するかのようである。
(3)心が広く、物を惜しむということが無い。金銀も土石も同じように思い、武具や馬などの物を人々に与えるにあたっては、その人の財産や地位を考慮せず、手にとったままに与えてしまう。

 どうだろう。自分の弟子とも言える最高権力者に対する評だから「ひいき目」や「誇張賛美」がある可能性は否定できないが、ここまで僕が書いてきた尊氏像 とかなり一致する点が見受けられないだろうか。(1)については古典「太平記」の記述からすると「そうかなぁ?」と思うところもあるが、そういう一面も確 かにあったかもしれない。でないと、人はついてこない。(2)についても疑義が出そうだが、尊氏がいくつかの局面で「お人好し的甘い判断」から敵に有利な 状況を作ったことはあるし、降伏してきた者を寛大にあつかった事実もある。(3)は以前に触れたが、「八朔」の贈り物のエピソードでも尊氏がポンポン人に 物を与える性格だった事は確認できる。それが彼のもとに武士を集めた最大の要素でもあるのだ。

 師直がまたも直義暗殺を図るのは史実としては確認できないが、直義が突然都から姿をくらましたのは事実。それは観応元年の10月26日のことで、そのわ ずか2日後に尊氏と師直は九州へ出陣している。出陣にあたって師直が直義の動静を全く気にしなかったとは考えられないが、尊氏のほうが「放っておけ」と 言った可能性はある (以前、後醍醐脱出の際の「前科」がある)。となると、ドラマのように尊氏が直義を逃がしていた…という想像も出来ないわけではない。
 この遠征の道中、師直が尊氏を殺す幻影を見るシーンがある。大河ドラマとしてはちょっと大胆な描写だったように思う。見ていて「あれ?」と思った人も多いのではないだろうか。師直が尊氏を殺そうと思ったことが本当にあったのか…という検証については次回解説で (引っ張ってますな)

 直義が南朝と和睦する。ドラマで見ていると、ついこの前まで尊氏の勝手な和睦交渉に激怒していたはずの直義が…と思っちゃうところ。この直義からパター ン化するのだが、室町幕府で失脚した人間はすぐ南朝に走り、その錦の御旗を仰いで幕府に立ち向かうことになるのだ。裏返せばそれだけ南朝の天皇の権威も捨 てたもんじゃなかったということだが。
 賀名生のシーンで、「大逆転」の回以来、久々に文観が登場。忘れたころにやってくるこの人だが、久々の登場にも関わらずその印象は強烈。「亜相どの 〜!」と大騒ぎしまくるシーンは思わず笑ってしまう怪演。なお、「南北朝のラスプーチン」こと文観は最後まで後醍醐と南朝に仕え、1357年に河内・金剛 寺において80歳で亡くなっている。この裏切りまくりの時代の中で、それなりに節を通した生き方であったとは言える。

 「ふるさと」コーナーで光厳上皇のその後について触れているので、ここでもちょこっと補足しておこう。
 思えばこの天皇の人生は時代に振り回され続けた人生だった。極論すれば後醍醐一人に振り回された人生と言えなくも無い(笑)。後醍醐と違って自らの意思 で世を動かすことも無く、ほとんど状況に流され利用されていただけなので、いっそう哀れさを感じてしまうお人である。この人が歴史上決定的な行動を行った のはなんといっても九州へ落ちた尊氏に「院宣」を与えて逆賊の汚名を免れさせたことで、結果的に足利幕府成立の功労者となった。それによって最高君主「治 天の君」にもさせてもらえたのだが、しょせん幕府に担いでもらっている観はぬぐえず、高師直や土岐頼遠の言動に見られるように幕府の武士たちにも軽んじら れているのが実態だった。
 このドラマだと最終回の内容にあたるのだが、尊氏は直義と全面対決するにあたって南朝と和睦して関東へ下った。南朝軍はこの隙をついて京都へ突入、一時的とはいえついに京都奪還の宿願を果たし、北朝から三種の神器を奪って (本来「偽物」と言っていたはずなんだけどな)崇 光天皇・光明上皇・光厳上皇を軒並み廃した。いわゆる「正平の一統」である(1352)。そして南朝側は北朝の皇室の面々を賀名生の山奥へ幽閉してしまう という措置に出た。足利幕府が京を奪還しても担ぐ皇室がいないようにしてしまおうと考えたわけである。光厳・光明らは「我々はなりたくて皇位に即いたわけ じゃない。もう出家して隠遁したいのだ。それだけは勘弁してくれ」と泣いて頼んだと言うから同情を禁じえない。結局光厳らは数年間賀名生で幽閉生活を強い られることになった。ちなみに彼らが留守の間に尊氏らは出家して寺に入っていた光厳の皇子を口説き落として新天皇に擁立した。これが後光厳天皇である。
 数年後に後村上天皇から京に戻ることを許された光厳と光明の両上皇は、世をはかなんで出家し夢窓疎石に帰依した。古典「太平記」はその終幕近くに「光厳 院の諸国めぐり」の物語を載せている。光厳上皇は供を一人だけ連れて畿内各地を行脚する。途中でまさか上皇とは知らない猟師から乱暴な扱いをうけたり、千 早城の跡を眺めて自分たちの関わった戦乱を嘆いたりしながら旅を続け、なんと吉野にも立ち寄る。後村上と再会した光厳は語り合って旧交を温め (おいおい)、「今は仏門に入り心安らかな日々を送っている」と語ったと伝わる。この旅から帰って間もない1364年(貞治3)に光厳上皇は52歳で亡くなり、遺言により数人の僧のみによるごく簡素な葬儀が行われている。