第四十七回「将軍の敗北」(11月24日放送) 
◇脚本:仲倉重郎
◇演出:竹林淳

◇アヴァン・タイトル◇

  直冬が九州で挙兵、それを討つために遠征した尊氏だったが、その留守を狙って直義が南朝に降伏し挙兵した。一方で尊氏に同行する高師直の心にも尊氏にとって代わろうとする野心が芽生えていた。尊氏は内と外とに敵を抱えていた。


◎出 演◎

真田広之(足利尊氏)

沢口靖子(登子)

大地康雄(一色右馬介)

高嶋政伸(足利直義)

片岡孝太郎(足利義詮)

山本伸吾(仁木頼章) 内山森彦(石塔頼房)
久保忠郎(畠山国清) 田城勲(仁木義長)
渡辺寛二(大高重成) 樫葉武司(南宗継)
小池雄介(三浦八郎) 伊藤哲哉(斎藤利泰)  俵一(吉江小四郎)

柄本明(高師直)

森次晃嗣(細川顕氏) 

塩見三省(高師泰)

梶原浩二(上杉能憲) 中川歩・木村幸人 (近習) 
斧篤(近習) 堅山博之(家臣)  美里ルイ(女官)
片岡たか志(急使) 石川佳代・壬生まさみ (侍女) 
   
若駒スタントグループ クサマ・ライディング・クラブ
ジャパン・アクション・クラブ 鳳プロ 劇団ひまわり 劇団いろは

高橋悦史(桃井直常)

原田美枝子(阿野廉子)

近藤正臣(北畠親房)



◎スタッフ◎

○制作:一柳邦久○美術:田中伸和○技術:鍛冶保○音響効果:藤野登○撮影:杉山節夫○照明:森是○音声:坂本好和○記録・編集:久松伊織 



◇本編内容◇

 観応元年(1350)12月、九州へ遠征中の足利尊氏のもとに、弟・ 直義が南朝に降伏しその綸旨を得て挙兵したとの急報が入った。愕然とした尊氏は遠征を中止しただちに京へ戻る指示を出す。「やはり、直義どのを放って置かれるべきではなかったようですな」と言う 高師直だったが、尊氏は何も答えず出立の準備を命じた。
 一方、摂津天王寺の直義の本陣には腹心の細川顕氏が兵を率いて馳せ参じ、直義は「千万の味方を得たも同然」と喜ぶ。ただちに軍議が開かれ、直義はまず京を占領し、自分が執政を取り戻したことを世間に知らしめるべきと提案する。その上で引き返してくる尊氏・師直の軍を迎え撃つという作戦である。直義派の有力者・ 桃井直常の軍も北陸から京へ進撃し、直義自身も京の喉元である男山八幡に陣を布いた。

 京の守りを任された義詮の屋敷は合戦の準備で大忙しであった。しかし当の義詮自身は庭に野良犬を集めて餌を投げて喜んでいる始末。 登子が眉をひそめるが、「母上はお嫌いか。可愛いものでござりまする…野良犬とはいえ、餌をくれる者には絶対服従じゃ」 と義詮は言い、「北野あたりで盛大に闘鶏でも…」などと呑気なことを言っている。登子は直義が今にも攻めてくるというのにと叱るが、義詮のもとに集まって いる兵は一日ごとに半減する状況で今や二千騎もいない有様。やけになって「いっそこちらから攻めてみたいわ」と言い出す義詮を、登子はむかし尊氏がいない 鎌倉を母と二人で守ったではないかと諭し、 「都を守りきってこそ将軍のお子ぞ」と励ます。しかし義詮は子犬が寄ってくると「まだ餌がほしいか?よし、わし自らみつくろってやろう」と立ち去ってしまった。登子は呆れ顔でため息をつく。

 桃井直常の軍が京の入り口の坂本に到着、その灯す火が男山の直義の陣からも見えた。直義の陣が明かりで合図を送ると、直常はかがり火をどんどんたかせ、大軍が押し寄せていることを京の義詮に見せ付けてやれ、と命じる。
 坂本には二万、男山には三万の大軍が集まって京を狙う情勢に、仁木頼章ら はいったん京を捨てて山崎に布陣している尊氏軍と合流すべきと義詮に進言する。「絶対に退かぬぞ」と頑張る義詮だったが、今川範国など寝返り者が続出した ことを聞いてやむなく京から撤退することに同意した。観応2年1月15日、義詮らは京を脱出し、桃井直常軍は無傷で京を占領する。

 義詮は山崎・日向明神に布陣していた尊氏の軍へ合流した。「無益な戦をせずに都を退きしはなかなかの策じゃ」と誉める尊氏だったが、師直の「ところで上皇と帝は安全なところに?」との質問に義詮が 「上皇…?それは…」と戸惑うような表情をするのを見て顔色を変える。義詮は京を出るにあたって北朝の上皇・天皇たちをほったらかしにしていたのであった。激怒した尊氏は 「都の守りを任せたは朝廷の守りを任せたることぞ。そを果たさぬとは何たる愚か者じゃ!直義が上皇に通じてみよ、我らは逆賊の汚名をきることになるぞ!」 と義詮を叱責する。師直も仁木らを怒鳴りつけ、ただちに尊氏とともに軍議に入った。義詮は呆然とし、ただただ恥じ入る。
 尊氏たちは京へ攻め入り、四条河原で桃井直常の軍と激突した。しかし直常軍の勢いに押されて撤退、さらに丹波へと敗走した。丹波に義詮を残した尊氏は播磨に向かい、書写山に陣を構えた。

 賀名生では阿野廉子が「九重の 玉のうたての 夢なれや 苔の下にし 君を思えば」と 後醍醐天皇をしのぶ歌を詠んでいた。そこへ北畠親房が姿を見せ、 「始まりましたぞ。将軍尊氏と直義、互いに弓矢をとっての大合戦じゃ」と 嬉しげに言い、直義軍の勢いは後村上帝の綸旨のおかげと誇った。「我らも都に戻れまするな?」と喜ぶ廉子に、まだ状況は二転三転しようと読む親房。「とも あれ、とことん戦うてもらわねば面白うござりませぬわ」と親房はニヤリとする。廉子が尊氏と比べて直義については良く知らないから性が合うやら合わぬやら わからぬとぼやくと、親房は「取り越し苦労」と笑い、直義が勝てばかえって混乱が増し、自分たちが都を奪回する機会が生まれると廉子に説く。 「それゆえ、今は直義に勝ってもらわねばなりませぬ…あせらず、待つことにいたしましょう…」と親房は言うのだった。

 男山八幡の直義の陣には、前年師直によって暗殺された上杉重能の子・ 能憲が関東からやって来て、畠山国清と 師直を討つ決意を語り合い、気勢をあげていた。直義の軍には日々続々と師直を見限った武士たちが集まってきて処理に困るほどだと桃井直常は笑う。直義は 「味方は多いほど良い」と言い、直常に京の守備を任せ、細川顕氏を播磨攻めの大将を任じた。「みなの者、頼みに思うぞ!」と直義は一同を励ます。
 一方、書写山の尊氏の陣には石見から戻ってきた高師泰の 軍が合流していた。尊氏と高兄弟らは戦前の酒宴を開いて気勢をあげる。「その方らは兄弟そろわぬと力が出ぬようじゃのう」と尊氏がからかうと、師直は 「は…」と小さな声で答え、一同は大いに笑う。気がはやる師泰はただちに軍議、とせかすが尊氏は「まずは腹ごしらえじゃ」とのんびりしている。

 2月17日。摂津・打出浜で尊氏・直義の両軍は対峙した。尊氏と師直らは全軍を二手に分け直義軍を挟み撃ちにする作戦をたて、戦闘に突入する。戦いは熾 烈をきわめるが、次第に直義軍の優勢が明らかになってくる。その戦況を本陣で満足そうに見る直義。一方で思わぬ戦況に焦りの色を見せる尊氏。師直・師泰兄 弟も戦場で太刀をふるって奮戦するが、師泰が腕に、師直も足に矢を受け負傷してしまう。数の上では有利だったはずの尊氏軍は士気にまさる直義軍の前に完敗 を喫し、2万はいた軍勢が1000足らずにまで打ち減らされ、尊氏・師直たちは悄然と戦場から退却していった。

 夜。本陣に戻った尊氏は師直に言う。「師直…この戦、負けたな…わしと一緒にあの世にいくか?」 師直は傷ついた足を引きずって這い寄り、「いけませぬ、師直の首を差し出せば良いと御舎弟どのは言うてきておるのです…この首、おとりくださりませ!」 と尊氏に訴える。しかし尊氏は「まことにそれで良いのか?」と師直を見下ろし、断固渡さぬと言い切る。幕府を作ってから15年、執事の師直の力が無ければ 今日の自分は無かった、師直が諸国の武家の不満を飲み込んでくれた、と尊氏は語る。そしてここにいるのは師直の一族と赤松の一族のみ、戦場で血で血を洗う 戦いをしている相手は昔馴染みの身内ばかり、と嘆く。 「まことの敵は、味方の中にあったのじゃ…!こんな世を、誰が望んだ?わしが目指した美しい世は、美しい世とは…いったい、何だったのじゃ!」 そう叫んで、尊氏は大の字に横たわった。
 雨が激しい音を立てて降り始めた。家臣たちが戸閉まりをしていき、あたりは静まり返る。「師直…そなた、わしを敵に回し、あわよくば、と思っておったのう…」 突然尊氏が言い出した。慌てる師直。「それもこれも…ここで果てれば意味がなくなるのう」との尊氏の言葉に師直が何かを言いかけたとき、 一色右馬介が姿を現した。直義からの和議の条件を伝えに来たのである。条件は師直・師泰の身柄を直義に引き渡すことだったが、尊氏はこれを拒絶する。 「渡さぬ!我らと師直兄弟とは多年にわたり主従のよしみを結んだ間柄、親にもまさり子にも劣らぬ深き仲じゃ。直義にも分かるはず。わしから両名を取り上げての和議はありえん!」 そう言って尊氏は、直義が政務に戻り師直が執事職を下りる、これだけが和議の条件であると言い張る。右馬介はそれを直義に伝えるべく、姿を消した。「師直…しばらく運を天に任せてみるか。この世が我らを必要とするなら、また生かされもしよう」尊氏はそう師直につぶやく。
 すると、師直が肩を震わせ嗚咽し始めた。「大 殿!お許しくださりませ!この師直、不遜にも大殿に成り代わろうとしたこと、確かにござりました…!大殿を滅ぼし、御舎弟どのを亡き者といたさばおのずか ら天下は動かせるものと…愚かな夢を見たこと…かくも広大なる御慈悲、大殿より賜るとは…それに比しておのれの余りの卑しさに、ただただ恥じ入るばかりで ござります!」 師直は涙ながらにそう告白し、「大殿を我が主人と仰ぎまいりし我が生涯、まことに幸せでござりました!」と短刀を抜いた。 「それがし、今にして大殿のおんためならば命を捨てても尽くさんとの思いが心に生まれたように思います!いや、今こそ捨つるべしとと叫んでおります!どうぞこの首、存分にお使いくだされ!」 そう言って師直は自らの首に刀を当てる。
 しかし尊氏は「愚かよのう」とそんな師直をかわすように言う。「そなたを死なせては、わしはまたそしられるのみぞ。のう師直、共にしばし生きてみぬか。命を捨つる気ならばそれもできよう…」 尊氏の言葉に、師直は刀を落とした。「おおとの…おおとの…」師直は平伏し、嗚咽し続ける。

 2月26日。尊氏と直義との間に和議が成立し、尊氏は直義軍に伴われて京へ戻ることになった。師直・師泰兄弟は出家させることで話がつき、師直らは僧の姿になって尊氏の後に続いていた。「情けなきはこの姿じゃ。神も仏も信じたことはなかったに…」と嘆く師泰に、 「それがしは信じることに致した」と師直が言う。「何を信じるというのじゃ。神か、仏か?」と師泰が問うと、 「神でも仏でもない。もっと確かなものじゃ…」と師直。首をかしげる師泰に、師直は先行している尊氏と離れてしまった、と馬を急がせる。
 途中、援軍と称する武士が次々と加わって来て尊氏と師直の間に割り込み、両者の間はしだいに引き離されてしまった。武庫川付近に差しかかったとき、突然「待て!」と師直の目の前に二本の薙刀が突きつけられ、師直は馬からひきずりおろされる。見れば上杉能憲の家臣 三浦八郎たちである。師直が笠で顔を隠すと、「そこな遁世者、その笠をとれ!」と三浦は笠に刀を振り下ろした。行列の先を進んでいた尊氏は、ふと胸騒ぎを感じた。何か予感を感じた尊氏は馬の向きを変え、行列の後ろへと駆けてゆく。
 「師直じゃ…!狙うていた通りじゃ」と師直の顔を見た三浦たちは喜ぶ。「狼藉いたすな!我らの命の保証は、和議の条件ぞ!」 と叫ぶ師直に、三浦は「師直は上杉一族の仇敵」と怒鳴る。そこへ馬上にいた師泰が「師直!逃げろ!」 と叫んで三浦達に飛びかかった。「兄上ーっ!」と叫ぶ師直。その師直に上杉の家臣たちが襲いかかる。「大殿との約束じゃ…!こんなところで死ぬわけにはまいらん…!」 と師直は必死の格闘をし、逃げようとしたところを背中にひと太刀浴び、さらに背中から一突きにされ倒れ伏した。上杉たちは逃げるように引き上げてゆき、師直は「大殿…」とうめきながら這いずっていく。
 雷が光り、激しい雨が降ってきた。現場に駆けつけた尊氏は師直の姿を求める。ふと見ると、そばを流れる川に頭を突っ込んで仰向けに倒れている者がいる。 師直のむくろだった。師直のむくろから流れる血が、雨の叩きつける川面を赤く染めている。尊氏が天を仰ぐと、稲光がさした。

 2月27日。尊氏は敗軍の将として京に入った。師直を失い、翼をもがれた鳥のような、みじめな帰京であった。


◇太平記のふるさと◇
 
 兵庫県・山南町・滝野町。山南町にある京を逃れた義詮が宿った石龕寺、「義詮の爪あと」が残る栗の実の話、直義軍が陣を布いた滝野町の光明寺などを紹介。


☆解 説☆

 尊氏と直義の全面戦争と尊氏の敗北を描く回なので「将軍の敗北」というタイトルもわからないではないのだが、個人的には「師直惨死」とかつけてみたかっ た回。いやあ、なんてったって、この回の主役は師直でしょう。師直ってこんなに良い奴だったんだなぁ、と思わせてあっさり殺してしまう、思えばかなり残酷 な内容である。

 遠征の途次にあった尊氏が直義の南朝降伏と挙兵を知り急遽軍を引き返したのは観応元年12月29日のこと。戦乱は年末年始にかけて起こったため、当然と 言うべきか北朝は正月の行事を一切停止している。その北朝を義詮がほったらかしにして京を逃げ出すくだりがあるが、これは史実。義詮はその後も同じ失態を 繰り返しているが、義詮に限らず幕府側の武士たちは北朝の皇室なんてあまり重視していなかったということかも知れない。もちろんいないと困るとは思ってる んだけど。
 直義派の重鎮・桃井直常がいきなり北陸からやってくるが、彼の越中の守護で、前年直義が幽閉先から姿をくらます数日前にやはり都から姿をくらまし、越中 へと走っていたのだ。以後直常は延々と越中で反幕府勢力として存在を誇示し続けるのだが…それは後のこと。彼がかがり火をたいて男山と連絡をとりあい、た くさんの火で都を圧迫するくだりは古典「太平記」に書かれているもの。この「観応の擾乱」あたりは吉川英治の原作が無い (全く無いわけではないのだが、吉川英治の体調もあって「湊川」以後は大ダイジェストで済まされている)せいもあって古典「太平記」からと思われる脚色が目に付く。義詮の兵が日に日に半分になるというセリフも、やはり古典「太平記」に似たような文が書かれている。
 1月15日に桃井直常に京を明け渡した義詮は尊氏と合流、その日のうちに京へ攻め込み、四条河原で桃井直常と合戦に及んだ。ドラマで義詮、直常が刀を振 るって戦闘するシーンはここでしか見られない。あとは全て鎌倉攻防戦、北畠顕家との京都攻防戦を再編集して見せている。新田の旗がところどころに見えるん だよなぁ(笑)。ついでに言うと、義詮邸が合戦の準備に大忙しのカットも「人質」の回で使われたカットの使い回しだ。
 そんな予算上の都合もあってカットされちゃったのだろうが、実は古典「太平記」によればこの四条河原の合戦では佐々木道誉が尊氏側で大活躍している。楠 木正行に対した四条畷の戦いでもそうだったが、道誉という男は戦場でいつも抜け目ない。やっぱり直常が尊氏軍向けて突っ込んでいくと予測してその裏手に回 り、戦いたけなわの時に背後から奇襲をかけて猛将・直常をあわてさせている。直常は下馬して「運は天にあり。一歩も引かず討ち死にせよ」と叱咤して奮闘し たが結局敗れている…あれ?ドラマでは尊氏側が負けているぞ?
 このへん、正直言うと正確なことはよく分からない。ただこの日の戦闘においては直常が負け、翌日なぜか尊氏たちが丹波方面へ敗走してしまったと言うこと は確かなようだ。古典「太平記」では戦闘に勝ったのに尊氏側から直義側へ寝返る者が続出し尊氏が逃げることにしたと記しているが…。そうそう、尊氏が丹波 方面へ敗走するカットは、「大逆転」の回の丹波方面敗走カットの使い回しである。まぁ似たようなシチュエーションではあるが。

 この幕府内の混乱をほくそえんで見つめる南朝の親房と廉子のお二人。「太平記」最強の女性キャラ・阿野廉子さんもこのシーンで出番はおしまい。彼女は尊 氏が死んだ翌年の1359年に48歳でこの世を去っている。この時代、50歳前後で亡くなるのは当たり前のことだったんだな、と改めて思わされる。そうし た中では70代 (異説もあるが)まで生きた佐々木道誉はホントに「政界の妖怪」みたいなものだったかもしれない。ま、ともかく廉子さん、ご苦労様でした。

 尊氏と直義の直接対決、摂津・打出浜の戦いは例によって過去の平原戦映像使いまわしのオンパレード。湊川合戦のシーンがほとんどで (まぁ実は場所は大して離れていない)、 「湊川の決戦」の回で海上に船が浮かんでいる合成カットを船だけ消去して再利用しているのは涙ぐましいものがある。こうした再利用カットを編集して見せな がら、本陣にいる余裕の直義と焦る尊氏のカットを挟んで、なんとか「打出浜の合戦」に見せているというところ。さらによく見ると、尊氏軍・直義軍が霧の中 で横一列にズラッと並んで対峙するカットがあり、これはどうもこの時期撮影中の次期大河ドラマ「信長」の合戦シーンの映像を流用しているように思われる (兵士がシルエットでよく見えないのだが、どうも戦国ものの格好に見えるのだ)。前回の直冬の婚礼の宴の場面でも「信長」で使っていた清洲城セットの夜景としか思えないカットがある。いやあ「太平記」終盤戦は大変だったんだなぁと思うばかりだ。思い返せば前半戦はすごかったですからねぇ。
 古典「太平記」ではこの戦いは「小清水の合戦」として語られている。錯綜を極める戦闘の模様が記されているが、終わってみれば尊氏軍はまさかの大敗北を 喫してしまった。「太平記」はこの時に師直らが敗北・滅亡するさまざまの予兆(神託・瑞夢)があったことを記し、横暴を極めた下剋上男の高兄弟が滅んでい くのを必然視する「物語」を構成している。以下も「太平記」の記述に沿ってまとめてみよう。
 敗れた尊氏らは「松岡の城」(赤松氏の城らしいが詳細不明…と書いていたのですが、地元の方から情報を頂きました。文末参照)にたてこもる。ここで気がつくと味方についていた諸将がいつの間にかいなくなっており、尊氏の小姓・饗庭命鶴丸 (成人して氏直)までが姿を消していて、尊氏は愕然とする。「さてはこの世は今夜限り。おのおの用意されよ」と尊氏は一同に自害を勧め、自らも鎧を脱いで用意を始める (何度目だろう…)。高一族、赤松一族(円心の息子、範資・則祐らが尊氏について戦っていた) らも覚悟を決める。そこへ突然城門を叩いて「和睦が成りましたぞ、あわててご自害めさるな」と叫ぶ者がある。みれば姿を消していた命鶴丸だった。命鶴丸は 独断で直義の陣営に赴き、和平の交渉をまとめてきていたのである。「兄である将軍を死なす気は無い。師直が出家して執事をやめればよい」という直義の意向 を聞いた尊氏らは自害をとりやめ、師直・師泰兄弟はただちに出家する。師直の家臣・薬師寺公義が「助かるわけがない」と師直を諌めるが、もはや気力も失せ ていた師直は聞く耳をもたなかった。
 以上が「太平記」の記すところ。命鶴丸が和平交渉に奔走したことは他の資料でも確認できることで史実だろう。この命鶴丸は尊氏のいわゆる「寵童」であったと言われ、後に佐々木道誉を尊氏に讒言して道誉が怒って近江に帰るという事件を引き起こしている (北方謙三氏の小説「道誉なり」で命鶴丸は詳しく描かれている)。ドラマではこの命鶴丸の役割を右馬介が代わりに果たす形になっている。

 この場面での尊氏と師直の対話は非常に印象深い。尊氏と師直が本音をさらけ出しあい、一対一で話す場面は意外にも唯一このシーンしかない。直後に来る師 直の非業の死を強調するためのドラマ的創作ではあるのだが、師直と尊氏の、屈折しているようでいてどこか純粋な主従関係と、尊氏が「真の敵は味方の中に あった」と悟る描写とがあって見ごたえがある。
 「師直が尊氏を殺そうとしていた」という設定があるが、これは単純なドラマの創作とは言えない。かなり後世の江戸時代に編纂された資料だが「続本朝通 鑑」という歴史書に、このとき尊氏が「師直がわしを殺そうとしている」と命鶴丸を通じて直義側に内密に伝え、和議成立後に師直兄弟を殺すよう命じた、との 記事があるのだ。佐藤進一「南北朝の動乱」はこの記事がかなり真相をついたものと考えているが…僕自身はどこか尊氏を悪く取れないところがあるので、この 推理はちと邪推ではないかと思っているのだが、無視できないところがあるのも事実。このあとの展開でもうかがえるが、尊氏自身はこの戦いは「師直と直義の 争い」と考えていて、自分はその上に立つ「不可侵の第三者」と位置付けていた節がある。これについては次回解説で。

 出家した師直兄弟はとりあえず四国にでも落ち延びて再起を図るかと考えていたらしい。しかし頼みにしていた一族の高師冬が同時期に関東で滅ぼされ、軍事的に復活する可能性はほとんど無くなってしまった。そして父を殺された上杉能憲が家臣の三浦八郎左衛門 (ドラマでは「三浦八郎」の役名になっている)をつかわして師直兄弟を惨殺させた。「太平記」によれば師直と二条関白の妹 (ドラマで出てくる「二条の君」のモデル)と の間に生まれた師夏も捕らえられ、まだ十五に満たない若さを哀れんだ上杉家臣が「出家せよ」と勧めたが、父・師直の死を知った師夏は出家を拒否して死を選 んだと伝えている。この時に高一族およびその郎党は完全に根絶やしにされてしまっている。師直兄弟が新興武士層の強い支持を受けつつ、一方からは激しい憎 しみを買っていたことがよく分かる。
 ドラマのほうでは師直の悲劇性を意外なまでに強調して描いたな、という印象を受けた。「わしは信じることにいたした、もっと確かなものじゃ」と吹っ切れ たようにさわやかに師直が言うセリフも忘れがたい。その「生まれ変わった」師直がその直後にあっけなく殺されてしまう展開は、かなり残酷な脚本だなぁと 思ってしまったところ。「大殿との約束じゃ、こんなところで死ぬわけには参らん…!」と言いながら結局殺されていく師直が哀れで仕方がない。師直の危機を 感じて尊氏が馬を馳せるが、スタジオ内撮影ということもあって、ちっとも急いでいるように見えないのが残念なところ。さきほど触れた「師直暗殺は尊氏の指 示」説を知っている人には、尊氏がわざと馬を遅らせているようにすら見えてしまう(笑)。

 南北朝を代表する風雲児の一人、高師直が死んだのは武庫川付近(兵庫県・伊丹市)である。現地には「師直塚」と記した石碑が建てられており往時に思いを馳せる事が出来るのだが、「ふるさと」 コーナーで触れてもらえなかったのが残念。


<補足>
解説中で触れた「松岡の城」について、地元の方からこんなメールを頂きました。

さて、もしかして既に他の方からご指摘があるかもしれませんが、47話「将軍の敗北」のところで「松岡の城」について詳細不明となっていたので、私の知っている範囲でお知らせします。
松岡城は神戸市須磨区に今も跡がのこっていると思います。(お寺だったと思います)
私は須磨区出身なのですが、子供の頃、須磨区の歴史を教わったときに、昔、足利尊氏が松岡城にたてこもって、切腹しようとしたときに、講和の使者が到着して間一髪で死をまぬがれた・・・という話を聞きました。
そのときこもったお堂が「ハラキリ堂」という名前だそうです。その名前が子供心にとても印象に残りました。
そのころは何が何だかよくわからなくて、更に、神戸には湊川神社があるので、なんで、楠木正成と戦ったあとに弟と戦って板宿(松岡城のあるところ)にくる ねん、と思っていたのですが、あとになってやっと歴史の流れを理解するようになり、ああそういうことがあったんだなーと思いました。
神戸市須磨区にある「板宿」という駅の北側には今も「大手町」という地名が残っていて、これは松岡城が昔あったことを示す名残だそうです。


情報ありがとうございました。連絡をいただいてから少々遅くなりましたが、転載させていただきました。