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「アンベール夫人の金庫」(短編)
LE COFFRE-FORT DE MME IMBERT
初出:1906年5月「ジュ・セ・トゥ」誌16号 単行本「怪盗紳士ルパン」所収
他の邦題:「マダム・アンベールの金庫」(新潮)「ルパンの大失敗」(ポプラ)

◎内容◎

 初めての本格的な泥棒稼業に乗り出した駆け出し時代のアルセーヌ=ルパン。彼はアンベール氏を暴漢から救出する一芝居をうち、アンベール夫妻の家に秘書 として住み込む。狙いは夫人の金庫の中にある莫大な額の株券。ある夜、部下と共に屋敷に押し入りまんまと奪取に成功したと思ったルパンだったが…



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン(Arsène Lupin)
青年怪盗紳士。まだ駆け出し時代だったため、「アルセーヌ=ルパン」と名乗ってアンベール夫妻に接近する。

☆アンクティ代議士(député Anquety)
アンベール氏の知人。

☆グルーベル弁護士(bâtonnier Grouvel)
アンベール氏の知人。

☆ジェルベーズ=アンベール(Gervaise Imbert
リュドビック=アンベール氏の妻。小柄でまるまると太り、よくしゃべる女性。貧しい人を助けるためとしてルパンから1500フランを借り受ける。

☆ブロフォード老人(vieux Brawford)
詳細は不明だが、アンベール夫妻に一億フランもの遺産を贈与した人物。

☆リュドビック=アンベール(Ludovic Imbert)
実業家。何百万フランにも上る株券を所有しているが、その金の出所については黒い噂も流れ、詐欺師の疑いも報じられている。命の恩人と思ったルパンを住み込みの秘書に雇う。

☆「わたし(ぼく)」
ルパンの伝記作家。


◎盗品一覧◎

◇アンベール夫妻所有の株券の束
アンベール夫妻が金庫にしまっていた、価値数百万フランとも言われる証券群。鉄道公債、パリ市債、国債、スエズ運河債、北部鉱山株など有料銘柄ばかり…だったのだが、なんと全て偽造株券だった。


<ネタばれ雑談>

☆怪盗ルパン、あまりにも苦いデビュー戦

 ルパンとしても「認めたくないものだな」と言いたくなる「若さゆえの過ち」(笑)。本作『アンベール夫人の金庫』 は怪盗ルパンのプロデビューを物語る貴重な一編だが、先達のワルたちに手玉に取られて終わってしまうという異色の一編でもある。スーパーヒーロー・ルパンにも若さゆえの苦い失敗談があったというわけで、かえって共感を覚える読者も少なくないエピソードであろう。

 『女王の首飾り』のわずか6歳での華々しいデビューで泥棒の味を占めてしまったルパンは、その道に入るべく着々と準備を進め(奇術師に弟子入りしたり医学を学んだり) 、ついに最初の大仕事にとりかかった。狙いは時価総額一億フランとの噂すらあるアンベール氏の所有株券だ。アンベール氏に接近するため相棒と共に暴漢襲 撃・救出の狂言まで演じ、屋敷に住み込んで聴音管兼潜望鏡のパイプを天井に通して情報を収集するなど、彼なりに慎重で手の込んだ作戦を展開している。ルパ ン自身も「おびただしい計略と努力と天才的な悪知恵が必要だった」と述懐している。

 しかしアンベール夫妻の方がずっと役者の格が上で(まぁ夫妻も「ルパン君」が強盗目的で接近してきたとは思ってなかったようだが)、ルパンは知らぬ間に夫妻が債権者の信用を得るための架空の人物「アンドレ=ブロフォード」の役割を演じさせられた挙げ句、慈善事業のためと称してアンベール夫人に当時の貯金すべての1500フランを借りられてしまった(この件はラストで明かされるが、まだまだルパンも世間知らずだったなと思わされる) 。秘書としての給料は1フランも受け取っておらず、この冒険の収支は「骨折り損のくだびれもうけ」どころか赤字1500フランという惨憺たる結果に終わっ てしまう。本作のタイトルに「アンベール氏」ではなく「アンベール夫人」の名が冠せられているのはまさにその1500フランをルパンから巻き上げた当人だ からだ。
 「ぼくの一生のうちでぼくがだまされた唯一の機会だ。しかし、このときばかりはずいぶんひどい目にあったものだよ。みごとに、しかも大仕掛けにね!」とルパンは自嘲する。その後有名となった「アルセーヌ=ルパン君」について、アンベール夫妻がどのような感慨を抱いたか、想像すると楽しいものがある。

 実はこのお話、1902年に実際に起こった詐欺事件をモデルにしている。その名もテレーズ=アンベール夫人 という女性によって起こされた大規模詐欺事件で、自身の金庫に多額の金があるように見せかけて多くの人から多額の金を集めていたという。ルパンが役割を演 じさせられた「ブロフォード」も、実際にこの事件に関与した「クロフォード」なる人物の名前をもじったもので、当時の読者はすぐにモデルとオチがわかる仕 掛けだったわけだ。
 ルパン・シリーズには実際に起こった事件、それもニュースに近いレベルの最近の事件をモデルにした作品がいくつかある。そもそもルパンのキャラクター自体が実在した怪盗をモデルにしているし、パナマ運河疑獄事件をモデルにした『水晶の栓』が傑作として知られており、第一次世界大戦の情勢を背景にしたシリーズもある。しばしば荒唐無稽に思われがちなルパンも当時の読者には現実世界としっかりリンクした、リアリティのある内容だったのだ。

 なお、南洋一郎訳のポプラ社版では本作は「ルパンの大失敗」のタイトルでリライトされているが、このときの1500フランは乳母のビクトワールが堅実に貯金していたものを「坊ちゃまが生きるか死ぬかという難儀にあった場合や、不幸な人を助けるばあいにだけ使ってください」とルパンに渡してくれたという、ちょっと泣ける話になっている。

 この作品ですでにルパンの部下もしくは相棒となる男が出てくることにも注目したい。これも名前は一切出てこないが、まだ若く、初仕事にかかる新米泥棒ル パンを親分と仰いで部下になっているというのは少々不自然でもあり、それ以前からルパンと個人的に関係を持っていた人物と考えるのが妥当だろう。その条件 に合うのは、『獄中のルパン』でも考察したが、『ルパンの冒険』で登場するシャロレ父あたりではないだろうか…もちろんルブラン自身はこの時点でそこまで深く考えなかっただろうけど。


☆まだ「城壁」があった当時のパリ

 本作の冒頭、アンベール氏が午前三時までベルティエ通りで過ごし、朝帰りするところを暴漢に襲われルパンに助けられる(実は全部狂言だが)くだりで、アンベール氏が「マイヨ門」まで「城壁」に沿って歩く、という描写がある。
 ヨーロッパの古い都市は中世以来の城壁に囲まれていることが珍しくないが、20世紀初頭のパリもまだ市街を取り囲む城壁が残っていたのだ。ただしそれは中世のものではなく(中世のものも今も部分的に残っているらしいが)、この時代からさしてさかのぼらない19世紀に築かれたものだ。
 ここで現在のパリ全体図を見ていただきたい。現在のパリ市が太目の卵のような形をしており、その外郭をぐるりと道路がめぐらされているのが分かる。その環状道路がかつて城壁がめぐらされていた跡なのだ。

 この城壁は七月革命(1930)で成立した「七月王政」におけるティエール首相の内閣が対プロイセン戦争を想定してパリの周囲にぐるりと築かせたもので、「ティエールの城壁」 と呼ばれている。以前のパリ城壁よりも大きく外に張り出し(以前のパリ城壁はその内側のカクカク曲がる環状道路が痕跡)、壁の内側にかなりの幅の築堤をもつ近代型城壁で、この城壁が1860年以後今日に至るまでパリの市境となるわけだ。
 しかし想定していたはずの普仏戦争(1870)でフランス皇帝ナポレオン3世は東部国境のセダンでプロイセン軍の捕虜となってしまい、パリは包囲されたのち1871年1月に開城した。その後親ドイツ政権の首班となったのがこれまたティエールで、彼は反対する「パリ・コミューン」を鎮圧して「第三共和制」初代大統領となる。

 こういう歴史のためか城壁自体は早いうちに無用の長物となったようで、当初建築物が禁じられていた城壁の外側には間もなく貧民層が住み着いてスラム街が 形成された。アンベール氏が歩いているのはあくまで城壁の内側だが、パリの場末を午前様で歩いていると危険な目に遭いかねない状況だったのは事実なのだろ う。ルパンはそれを付け目に襲撃芝居を仕掛けたのだと思われる。

 ところで城壁に沿って歩くうち、追跡者がいることに気づいたアンベール氏は「テルヌ門の入市徴税所」 までたどりつこうと足を速める。これはマイヨ門の少し手前にあったもので、その名のとおり城壁を通ってパリ市街に入る者から税金をとる場所だった。もちろ ん通行税ではなく、パリ市内に外部から持ち込まれる商品類から「関税」をとるのである。中世以来の伝統なのだが、パリではなんと第二次大戦終結後までこの 制度が残っていたという(現在は商品に対する付加価値税=間接税に取って代わられている)

 さてテルヌ門の前を通り、マイヨ門を目指していたアンベール氏の邸宅はどこにあったのだろう?小説中に直接的な住所は書いてないが、アンベール邸の昼食 会に招待されたルパンはモンマルトル(パリ市内北部)の安アパートを出て電車に乗り、エトワール広場で降り、そこから歩いて五分でアンベール邸に入ってい る。地図で見れば「ルパンの苦いプロデビュー戦」の現場のおおよその見当はつけられるだろう。
(※パリ城壁と入市税徴収所の話題については宮下志朗著『パリ歴史探偵術』(講談社現代新書、2002刊)を参考にしました)


☆「アルセーヌ=ルパン」の名の由来は?

 本作でどうしてもひっかかりを覚えるのが「『アルセーヌ=ルパン』という名前はこの時はじめて思いつかれたのである」という箇所だ。この表現からするとこの名前もルパンの数ある偽名の一つに過ぎず、このアンベール事件で初めて「思いつきで」名乗ったというように読める。しかし後に書かれた『カリオストロ伯爵夫人』では二十歳のラウール=ダンドレジー「(本当の名前は)アルセーヌ=ルパン。ぱっとしないから変えたほうがいいかもしれないな」とクラリスに語り、その父はテオフラスト=ルパンであり、父の死後母方の姓を名乗っていることが判明する。さらにカリオストロ伯爵夫人ことジョゼフィーヌ=バルサモ「あんたの名はアルセーヌ=ルパン」と暴露する場面もある。だとするとこれは「思いついた」ものではなく本来の彼の名前だということになるのだが…

 また『アンベール夫人の金庫』と『カリオストロ伯爵夫人』のどちらが年代的には先なのか、という問題もある。『アンベール夫人の金庫』は「彼が実戦の洗礼を受けたのはこのときがはじめてだった」と記すが、『カリオストロ伯爵夫人』も冒頭に「これはルパン最初の冒険である」 と明記しルパンの年齢を二十歳と確定している。『カリオストロ伯爵夫人』はルパンの6歳のデビューを描いた『女王の首飾り』もストーリーに絡めており、ル ブランもシリーズの初期作品を読み返したとは思われるのだが、どうも『アンベール夫人の金庫』についてはチェックを忘れていたんじゃなかろうか?と思え る。

 「アルセーヌ=ルパン」と名乗ってアンベール夫妻に接近したルパンが自分の不幸せな過去を語って同情を買おうとする場面がある。その「過去」では彼の父親は「清廉な裁判官」ということになっており、これは『女王の首飾り』でルパンが扮したフロリアーニ勲爵士のキャラクター(やはり父親が裁判官ということになっている)とかぶらせたものかと思われる。そして「少年時代のさびしさと現在の生活苦」を語ったとされるが、これは聞き手の同情を買おうという意図があるとはいえ、ある程度事実を語っていたかと思えるフシがある。モンマルトルのアパートから出てアンベール邸に向かうルパンが、「よれよれのフロックコート、すりきれたズボン、いささか日焼けした絹の帽子、糸のほつれが見える袖口、同じくほつれの見えるカラー」「黒いリボンをネクタイ代わりにし、人造ダイヤのピンでとめた」という格好で、“せいいっぱいのおめかし”をしているのはあながち偽装でもないのだろう。

 ルパン研究本などでは『アンベール夫人の金庫』は『カリオストロ伯爵夫人』の直前、ルパン20歳間近ごろの物語と設定するのが通説のようだ。一つの解釈として、ルパンの父親の姓は確かに「ルパン」だが、彼自身の名前は『女王の首飾り』そのままに「ラウール」であり(シリーズ中ラウールと名乗ることが一番多い)、「アルセーヌ」という名前はアンベール氏に接近する際に「思いついた」名前で、恋人クラリスの前でもそれを名乗ったのではないか、ということは考えられる。ま、この解釈もジョゼフィーヌ=バルサモのセリフの前では弱いので、決定打にはなりえないが。
 またその説で考えた場合、なぜ彼が「アルセーヌ=ルパン」という名を「通名」として使い続けたのかについて一つの有力な仮説が生まれる。ルパンは自分の 初仕事における「若さゆえの過ち」を、二度としてはならない失敗経験として忘れぬために、また自分自身への皮肉も込めて、そのとき名乗った偽名「アルセー ヌ=ルパン」を使い続ける事にしたのではないか…という仮説である。本作のラスト、伝記作家に対して最初は恥ずかしがって事件の真相を隠そうとし、暴露し たあと自嘲の大笑いしているルパンの様子にもそんな空気がうかがえるではないか。


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