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「エメラルドの指輪」(短編)
LES CABOCHON D'EMERAUDE
初出:1930年 「政治文学紀要」誌11月号 

◎内容◎

 公爵夫人オルガが友人たちに「アルセーヌ=ルパンをよく知っている」と思い出話を語りだした。数年前、自宅でひそかに恋する男性と一緒にいてピアノをひ いているときに、外しておいたエメラルドの指輪が忽然と消えた。いくら探しても見つからず、オルガはバーネット探偵社に電話をする。ところがやってきたの はバーネットではなく、その友人のデンヌリ男爵だった。話を聞いたデンヌリはたちまちのうちに真相を解き明かす。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。

☆オルガ
すでに夫と死別した若き公爵夫人。青い目と金髪の美女。

☆ジム=バーネット
私立探偵。難事件を次々解決するが「ピンはね営業」で危険視もされている。

☆ジャン=デンヌリ
ジム=バーネットの友人の青年貴族。男爵。

☆マクシム=デルビノル
銀行家の息子。オルガとはちょっといい仲。


◎盗品一覧◎

◇エメラルドの指輪
エメラルドの表面を丸く磨いた(カボション)の指輪。8万フランの価値はあるとされる。ルパンが盗んだものではなく、紛失を解決する話である。


<ネタばれ雑談>

☆あまり知られていない「バーネット」ものの一編

 ルパンシリーズをかなり読んでいる、という方でもこの一編を読んだことがない、という人は多いのではなかろうか。日本でもっとも普及したルパン全集である保篠龍緒版、児童向けで保篠版以上に普及した南洋一郎版、はたまた書店でもっとも手に入りやすい新潮文庫・創元推理文庫のルパンシリーズでもこの『エメラルドの指輪』を読むことができない。現在この短編の日本語訳が読めるのは偕成社の「アルセーヌ=ルパン全集」の第25巻「ルパン最後の事件」の巻末に収録された、榊原晃三訳のみなのだ。

 そもそもこの一編は発表の場が変わっている。『政治文学紀要』(Les Annales Politiques et Littéraires)などという堅苦しそうな印象を受ける雑誌の1930年11月号にひょっこり載った作品なのだ。なお、この年の7月にシャーロック=ホームズの生みの親コナン=ドイルが死去し、その翌月の8月号の『政治文学紀要』にルブランは先輩であるドイルへの追悼文を寄稿しているという(「戯曲アルセーヌ・ルパン」所収の住田忠久氏の解説による)。この雑誌にルパンシリーズの一編を載せたのはその縁があったからかもしれない。
 発表の場がこんな雑誌であり、しかも単行本に収録もされなかったため、この一編の存在に気がついた人も少なかったようだ(あの保篠龍緒ですら気づいてなかった)。フランスでも長らく存在が忘れられていて、初めて「ルパン傑作集」に復刻収録されたのは実に発表から45年後の1975年のことだった(このとき『山羊皮服を着た男』も再発掘・収録された)。これを受けて、日本では1979年にパシフィカから発行された「名探偵読本」シリーズの1冊「怪盗ルパン」の中に榊原晃三の訳文で「本邦初訳」の目玉記事として掲載された。偕成社全集版に収録されたのは基本的にこの訳文そのままである。

 執筆の時期は不明だが、内容的に『謎の家』を踏まえており、その発表以後であることは明らかだ。この作品の発表に先駆けて『謎の家』の続編となる『バール・イ・ヴァ荘』の新聞連載が行われているが、『エメラルドの指輪』と『バール・イ・ヴァ荘』のどちらが先に書かれたのかは微妙なところ。あくまで印象だが、すでに「バーネットもの」の印象が薄れている『バール・イ・ヴァ荘』に対して本作は『バーネット探偵社』シリーズの番外編的内容となっており、こちらのほうが先に書かれたのではないか?と僕は感じている。


☆バーネットとデンヌリと

 『謎の家』のなかで、ベシュ刑事は「十二たび協力し、十二たびだまされたバーネット」と語っている。このため単行本『バーネット探偵社』に収録されてないがルブランが執筆した「バーネットもの」が4編存在するのでは、と推測されていた。そして実際に「発見」されたのが『壊れた橋』であったのだが、この『エメラルドの指輪』もすでに書かれていながら単行本に収録されなかったバーネットものの一つの可能性がある。ただ、本作にはベシュが登場しないこと、バーネット探偵社とジム=バーネットが登場はするものの実際に探偵役を務めるのは『謎の家』の主役デンヌリであることから、「十二」の中に含めないという見方もできる。また内容的にもバーネットシリーズとはかなり趣きを異にした作品でもあり、『政治文学紀要』という雑誌向けに新たに書き下ろした作品とも思えてくる。

 この小説は公爵夫人オルガが友人に語った打ち明け話、という、いわば「劇中劇」のスタイルをとっている。オルガが友人たちに語っている時点ではジム=バーネットおよびその友人デンヌリはアルセーヌ=ルパンと同一人物であることが世間で明らかになっており、「ルパン史」のなかでは『謎の家』(1910年?)の冒険以降の時点ということになる。しかしオルガが語る「エメラルドの指輪紛失事件」はそれ以前、「バーネット探偵社」が難事件を解決してくれると評判になっていた(と同時に「ピンはね」営業でも有名だった)時点である。
  探偵役をつとめるデンヌリ男爵は「探検家」と自称しているので『謎の家』のデンヌリ子爵と「同人格」であるのは明らかだが、「子爵(vicomte)」よ り格下の「男爵(baron)」となっている。これは単にルブランの記憶違いなのかもしれないが、深読みするとルパンは『謎の家』でヴァン=フーベンに接近する以前は「デンヌリ男爵」と称していた、と推理することもできる。事件発生の段階ですでにバーネットの善悪両面の評判が知れ渡っていることから、『バーネット探偵社』の最後の作品『ベシュ、ジム=バーネットを逮捕』と『謎の家』の間に入る時期の物語とみられる。

 オルガは事件以前に友人からバーネットを紹介され、会ったことがある。その印象を「古いフロックコートをきっちり着こみ、かつらをかぶったおかしな人」と表現している。バーネットが緑色に変色したフロックコートを着ていることは『水は流れる』の 中でも描かれていたが、「かつら」について言及されるのはこれが初めてだ。「かつら」とすぐわかるような変わった髪形をしていたということなのだろう か……どうせバーネットもルパンの変装の一つにすぎないので、かつらは変装小道具としてしばしば使われているのだろうが、ジム=バーネットは相当に「変わ り者」の外見をしていたことにはなりそうだ。
 ところが実際にやってきたのは「ひかえめで優雅な服装をした若くて感じのいい人」だったのでオルガは驚いている。これが「バーネットの友人デンヌリ」というわけだが、『水は流れる』でもラストでバーネットが変装メイクを落とし、ダンディな紳士に変身する描写があった。あれも「デンヌリ」だったということなのかもしれない。

 この物語の語り手の名前は『白い手袋…白いゲートル』に登場したベシュの元妻オルガと同名だが、もちろん別人。ただ友人たちの会話の中に『白い手袋…白いゲートル』の結末に触れている箇所があり、ルブラン自身意識してこの名前をつけたと思われる。アルセーヌ=ルパンの多情家、漁色家っぷりが改めてうかがい知れる一作でもあるのだ。


☆人間の行動心理を突いた異色ミステリ

 本作はミステリとしてはかなり異色である。分類としては「意外な隠し場所」ジャンルに入るのだろうが…。
  登場人物はデンヌリ、オルガ、マクシムの三人だけであり、ピアノのある客間一室のみが舞台である。ピアノを弾くために外した指輪のうち、唯一本物の宝石で あり8万フランもの値打ちがするエメラルドの指輪だけが忽然と消える。被害者はオルガであり、当然マクシムが疑われるわけだが(後日彼が紙幣偽造などの犯罪により獄中で自殺したことが前もって語られている)、 「推理小説」のパターンとしてはマクシムが犯人であるとは予想されない。したがって真相は…ということで、なんとなく勘づく読者もいそうだ。オルガ自身が 語り手であり、当人が無意識のうちにやった行動なので肝心の部分が語られていないという点で「アンフェア」との声も出そうである(などと書くと、某有名作家の問題作を想起してしまうな)

  種を明かされると「なーんだ」と思いつつ、「そんなこと、ありうるか?」といまいち釈然としない読者も多そうだ。ただ、作者ルブランとしてはこの作品を純 粋に謎とき推理小説として書いたつもりではなかったのではないか。この作品のテーマは恋愛状態にある男女、とくに女性の深層心理の奇々怪々ぶりを描くこと にあったと思えるのだ。デンヌリ男爵の謎ときは探偵というよりも心理学者、精神科医の分析を聞いているかのようである。

「わ れわれ人間はつねに絶対的な自制心と人格の全的な均衡をたもっているとはかぎりません。(…中略…)われわれが生きているあいだに、話をしているあいだ に、考えているあいだに、我々の知らないうちに、しばしば異常で、ばかばかしく、没理性的な方法で、われわれの無意識がわれわれの本性を決定づけ、われわ れを暗闇のなかで行動させるのです」(榊原晃三訳)

 こうした無意識、深層心理と呼ばれるものに人間の行動が動かされている――という精神分析の考え方は19世紀末から20世紀初頭にかけてフロイトユングといった学者たちによって主張され、精神医学のみならず文学・芸術の各方面に多大な影響を及ぼした。もともと純文学系の心理小説を志していた(ルパンで成功後もポツポツとは書いていた)ルブランが彼らの学説の影響を受けなかったとは考えにくい。実際ルパン・シリーズを振り返ってみても、純粋ミステリというよりは登場人物たちの複雑な心理の動きを読み解くことを主眼にしている物語が目につく。
  もっとも、この手の「深層心理」「無意識の行動」を全面的に持ちだしてしまうとミステリは成立しがたい。それはルブランも分かっているから、それ自体をト リックに使っているのは本作だけだ。掲載された雑誌の現物は見てないのでなんとも言えないが、もしかするとこの小説自体「深層心理」をテーマにした特集企 画か何かの一編として書いてくれ、と雑誌側から頼まれて書いたものではないか?という気もしている。ルパンシリーズの中にあってもっとも「大人っぽさ」を 感じさせる余韻あるラストも、そうした掲載誌に合わせたものではなかったかと思えるのだ。


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