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「偶然が奇跡をもたらす」(短編、「バーネット探偵社」第7編)
LE HASARD FAIT DES MIRACLES
初出:1928年1月「レクチュール・プール・トゥース」誌」
他の邦題:「偶然の奇蹟」(保篠版)「偶然が奇跡を作る」(新潮)「偶然が奇跡をつくる」(創元)「空とぶ気球の秘密」(ポプラ)

◎内容◎

 中部フランス、クルーズ川のほとりに建つ古城の天守閣の近くで、対岸に住む若きダレスカール伯爵が墜落死していた。あきらかに事故と思われたが、伯爵の 姉は殺人と確信していた。古城はもともとダレスカール家のものだが現在は実業家カゼボンに奪われており、その天守閣には姉弟の父が残した重大な秘密が隠さ れているはずで、伯爵はそれを手に入れようとしていたのだ。伯爵の姉はカゼボンが弟を殺したと名指しするが、死体の状況は全く不可解。捜査のため現地に 入ったベシュを待っていたのは、またしてもバーネットだった…



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆エリザベート=ダレスカール
伯爵令嬢。墜落死したジャンの姉で、弟の死は殺害と断言する。

☆オーギュスト=カゼボン
ジョルジュの父でマジュレック城をダレスカール伯爵から買い取る。故人。

☆グレオーム
新聞販売店経営者。以前カゼボンの工場で会計係をしていた。

☆ジャン=ダレスカール
若き伯爵。クルーズ側で墜落死体で発見される。

☆ジョルジュ=カゼボン
マジュレック城の所有者。裕福な実業家で県会議員でもある有力者。

☆ジム=バーネット
私立探偵。「調査費無料」を掲げる。

☆ダレスカール伯爵
ジャンとエリザベートの父。破産して実業家カゼボンから多額の借金をする。故人。

☆テオドール=ベシュ

国家警察部の刑事。ガニマール警部の直弟子。


◎盗品一覧◎

◇十万フランの小切手
バーネットがジョルジュ=カゼボンにダレスカール嬢への見舞金として出させる。ダレスカール嬢はこれを破り捨てるが、バーネットがそれを見越してすりかえ、自分のふところに収めた。


<ネタばれ雑談>

☆田舎に出張した怪事件

 ほとんどがパリとその周辺、一回だけ少し遠出してルーアンでの事件があった『バーネット探偵社』シリーズだが、この『偶然が奇跡をもたらす』の一編だけはフランス中部の田舎へ出張している。場所はクルーズ県の都市ゲレ(Guéret)からほど近い、クルーズ川のほとりのマジュレック(Mazurech)村だ。
 例によって事件現場の「マジュレック」という村も城も地図では発見できず創作と思われる。ただゲレという都市は実在しているし、クルーズ川だって当然実在する。そもそもルパンシリーズの読者ならすぐピンとくるはずだ『奇岩城』イジドール=ボートルレが冒険したのはクルーズ県のエギーユ城だったじゃないか!地図を確かめてみよう。

  
  左の地図がフランス全土のクルーズ県の位置。そして右の地図が『奇岩城』の舞台となったアンドル・クルーズ両県の県境付近とクルーズ川、そして今回の舞台 のゲレ周辺の位置関係だ。こうして見ると『奇岩城』と『偶然が奇跡をもたらす』はかなり近いところが舞台になっていることがわかる。『奇岩城』は1908 年春の事件と推定され、『バーネット探偵社』は明記はないが1909年かな?と思われるので時間的にもそう遠くない。
 拡大した地図で確かめるとクルーズ川はウネウネと細かく蛇行しており、マジュレック城の位置はその蛇行のどれかの先端だろうということしか分からない。本文では謎を解くカギとなる気球が砂袋を落としたのが「ゲレの北方15km付近」とあるのでおおよその位置は推測できるが。

 フランスはかつての封建時代に各地に貴族領主の館である城が築かれたが、18世紀末以降の革命の繰り返しによる貴族の没落で荒廃、19世紀後半以降に力をつけてきた新興ブルジョア層に買い取られるというケースが多かったようだ。ルパン・シリーズでは『獄中のルパン』のマラキ城、『おそかりしホームズ』のティベルメニル城、『ルパンの冒険』のシャルムラース城などが、新興ブルジョア層(貴族称号を買い取った者も多い)に買い取られていた。この『偶然が奇跡をもたらす』もその一例で、本物の貴族の末裔と新興実業家とのせめぎあいがもたらした悲劇だ。ルパンシリーズではおおむね城を奪う側の新興ブルジョア層がルパンの標的になり(もちろんカネを持っているからだ)、この話も例外ではない。


☆天守閣とダンジョンと

 今回の事件の現場となるのは、そうした古城の「天守閣」である。これ、小説を読んだかぎりでは「古塔」といったイメージだったので、「天守閣」という訳はいいのだろうか、と内心思っていたのだが、原文は「Vieux-Donjon」となっている。「Vieux」は「古い」で、問題の部分は「Donjon」である。ゲームを良くやる方はピンとくるだろう。そう、「ダンジョン」なのである!
  RPGなどで「ダンジョン」というと多くはプレイヤーがさまよって冒険を進める地下、あるいは建物内の迷路を指す。ネットの自動翻訳で仏語の 「Donjon」を訳してみてもやはり「地下牢」と出てしまう。しかしもともと「ダンジョン」とは中世の城の中の塔のようにそびえる建物のことで、遠くの 敵を見張るとともに敵が攻め込んできた段階ではたてこもって最後の抵抗をはかる場所。確かに「天守閣」と訳せるもので、実際フランス語版 Wikipediaの「Donjon」の項目をみると世界の「Donjon」の例として日本の大阪城の天守閣の写真が紹介されている。

 ただ日本近世の城の「天守閣」は防衛施設よりも権威の象徴という意味合いが強い。これに対してフランスの城の「Donjon」は防衛設備に徹するか(この小説の「天守閣」も銃眼があることが書かれている)、あるいはその機密性を生かして囚人を閉じ込める「牢屋」の役割をになうようになっていった。実際に地下に牢が作られることも多かったようで、RPGにおける「ダンジョン」の語源はおもにここからきている。
 南洋一郎ルパンにおける『水晶の栓』のタイトルが『古塔の地下牢』になっていたことにハタと思い当った人もいるだろう。あれも城の「ダンジョン」に地下牢があって、そこにドーブレック代議士が閉じ込められていたのだ。
 こうした「ダンジョン」に宝物を隠しておくという話もよくあったらしく(RPGのダンジョンでよく宝箱にめぐりあうでしょ?)、この『偶然が奇跡をもたらす』の1話もそういうイメージが念頭にあるんじゃないかという気もする。もっともこの話、大金を支払った受領書をこんなところに隠しておくという、いささか不自然に思えてしまう設定なのだが…(二十万フランの現金を隠す方がまだありうる気がする)
 
  マジュレック城の「天守閣」は30mの高さはある。あまりに古く、放置されたままになっていたため内部の木製の階段も崩壊していて登ることはできない。被 害者はこの天守閣に明らかに登り、そしてロープを撃たれて墜落死させられと推測され、それはいかなる方法によったのか?がこの小説の最大のミステリーだ(殺人の方法よりも被害者の行動のほうに謎の主眼がある)。事件自体は密室殺人の変形版ともいえ(『八点鐘』の『塔のてっぺんで』にも似ている)、そこに「一見事故死に見える殺人」の要素も加わってくる。


☆気球がもたらした「奇跡」

 ダレスカール伯爵はいかにして「天守閣」に登ったのか?その答えは「空から落ちてきた縄」だった。それは気球から落とされ、たまたま天守閣の銃眼にひっかかったものだ…という種明かしになる。
 「そんなのアリ?」と思った読者も多いんじゃないかなぁ。あまりにも物凄い偶然によるものだし、終盤になって前ぶれもなく唐突に明かされる(それもバーネットは新聞記事でそれを確認する)ので、「推理小説」としては拍子抜けしてしまう人も多そうだ。ただこの話、そもそもタイトルからして「偶然」「奇跡」が明示されているので、一応アンフェアというわけではない。ただ気球の件がいきなりなのは確かで、南洋一郎版ではタイトルも『空とぶ気球の秘密』と明示したうえに物語の冒頭で村人たちに気球の飛行の目撃話をさせて、児童読者にあらかじめヒントを与える配慮をしている。また、南版ではジャン=ダレスカール伯爵の年齢を明らかに下げて「子供」に設定し、読者の共感を呼びやすいようにしている。

 この一話は「古城の塔からの墜落」というインパクトのある要素があるためか、ポプラ社・南洋一郎版『バーネット探偵社』である『ルパンの名探偵』の表紙絵は旧版・新版ともにカバー絵のテーマに選ばれている。それだけでなく、1958年〜1961年にかけて最初に刊行された「怪盗ルパン全集」の最初のバージョンでは、この『空とぶ気球の秘密』は『七つの秘密』(「ルパンの告白」がベース)の一話として収録されており、そちらのカバー絵も同じ話をモチーフにしている。のちに『七つの秘密』からバーネットものは外されたのだが、絵がカッコいいと思ったのか、カバー絵は変更されないままだった(下図参照)

旧版「七つの秘密」。内容変更後もこの表紙のまま。「天守閣」がどんなものなのか分かりやすい絵。旧版「ルパンの名探偵」。「七つの秘密」と同じ場面であることにどれほどの読者が気づいたか…新版「ルパンの名探偵」。「天守閣」と共に「気球」もしっかり描かれている。

   バーネットも作中の台詞で言っているが、この時代には気球だけでなく飛行船、飛行機も実用化され「空を飛ぶもの」は結構多くなっていた。ただ1909年 ごろだと飛行機は発明はされたとはいえ、まだまだめったに見られるものではなかったし、飛行船にしても実用はドイツが本場だった。このころフランスの空を 飛んでいるといえば気球にしておくのが無難ではあったろう。それでも新聞に飛行コースや状況が報じられているところをみると、珍しいものには違いなかった ようだ。

 「気球」そのものは18世紀からすでに実用化されていた。NHK「映像の世紀」で紹介していたが、20世紀初頭のベル・エポックのころには気球でパリの遊覧飛行をしゃれこむ上流階級も多かったという。
  気球には「熱気球」と「ガス気球」の二種類がある。熱気球は気球の内部の空気を火で暖めて上昇するもので、火力を調節して高度を変える。いっぽうのガス気 球は飛行船同様に袋のなかに水素やヘリウムといった軽いガスを入れて浮上するもので、こちらは下降するときにはガスを抜き、上昇する時には「バラスト」と 呼ばれる砂袋を落としていた。『偶然が奇跡をもたらす』もこれを知っておかないとなんで気球がわざわざ砂袋を落としたのかよく分からないはず。南版は親切 にもそのことも説明してくれている。

 ラストは毎度お楽しみの「ピンはね」(笑)。今回は法的には追及できない犯人(物的証拠はまるでない)を懲らしめるという意味合いもある。ほんらい受け取るべき人が小切手を破り捨ててしまうことを見越してバーネットがすりかえて頂戴しておくのだが、これならそう「悪事」でもないと判断したか、南洋一郎もこの部分は原作そのままだ。
 最後の最後、ベシュはバーネットに向かって「この男は、もしかしたら悪魔の化身じゃないかと、ときどき考えるときがあるよ」(偕成社版、矢野浩三郎訳)と憎々しげに言う。これに対してバーネットは「僕も時々そう思うことがあるよ」とケロリと答える(笑)。この部分、保篠龍緒の訳ではベシュのセリフは「俺はときどき、貴様は真実の悪党じゃないかと考えるよ。まるでアルセーヌ・ルパン見たような男だ」と なっている。「〜見たような」という今となっては完全に死語となっている表現も面白いところだが、ここでハッキリと「アルセーヌ・ルパン」の名を口にして いることに注目。保篠氏が勝手に付け加えた可能性も否定できないが、もしかしてもともとそうなっている原稿を忠実に訳したのではないかという想像もでき る。保篠版『バルネ探偵局』は各編の順番も最初の3話のみ雑誌掲載順に準拠するなど、底本が単行本とは別物の可能性が高いからだ(さらに細かいところでは、ダレスカール伯爵の借金が「200万フラン」とひとケタ多い)
 保篠龍緒だけではない、南洋一郎も『七つの秘密』に収録した旧バージョンでは「まるで、きみはルパンみたいな、すばしこいやつだ」となっていた。南版はその後の『ルパンの名探偵』収録版では「すごい大どろぼうか、悪党じゃないのかな」と改められている。


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