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「ハートの7」(短編)
LE SEPT DE CŒUR
初出:1907年5月「ジュ・セ・トゥ」誌28号 単行本「怪盗紳士ルパン」所収
他の邦題:「ハートの七」(新潮)

◎内容◎

 小説の執筆者「わたし(ぼく)」が怪盗アルセーヌ=ルパンと知り合うことになったエピソード。「わたし」の家に深夜何者かが侵入。しかし朝になってみる と誰もおらず、何も盗られた様子がない。残されていたのはトランプの「ハートの7」のカード…。この事件を新聞記事にした数日後、「わたし」の家を訪ねた 紳士が突然謎のピストル自殺を遂げた。事件は潜水艦開発の秘密も絡んで発展してゆき、「わたし」の親友ダスプリが謎の解決に挑む。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン(Arsène Lupin)
青年怪盗紳士。

☆アントワーヌ(Antoine)
「わたし」の家の下男。

☆アルフレッド=バラン(Alfred Varin)
バラン兄弟の兄のほう。スイス出身で弟ともども賭場に出入りしたり強盗をはたらいたりした。ルイ=ラコンブから潜水艦設計図を奪い、外国に売り飛ばす。

☆アンデルマット夫人(Madame Andermatt)
銀行家ジョルジュ=アンデルマットの妻。ラコンブに出した恋文を種に夫が脅迫される。

☆エティエンヌ=バラン(Étienne Varin)

バラン兄弟の弟のほう。スイス出身で兄と共にいくつかの犯罪に関与、「わたし」の家を訪れて謎の自殺を遂げる。

☆サルバトール(SALVATOR)
「エコー・ド・フランス」紙の記者。「ハートの7」事件について詳しい事情を知っているらしい。

☆サン=マルタン夫妻(Les Saint-Martin)
「わたし」の友人。レストラン「カスケード」で夕食会を共にする。

☆ジャン=ダスプリ(Jean Daspry)

「わたし」の友人。のんき者だがマイヨ通りの怪事件に首を突っ込み、捜査を進める。半年後にモロッコ国境で悲劇的な最期を遂げる。

☆ジョルジュ=アンデルマット(Georges Andermatt)

ペリー通りに住む大銀行家。フランスの冶金産業を大発展させた金属産業銀行の創始者にして頭取。四頭立ての馬車や自動車、競走馬まで所有する豪勢な暮らしをしている。

☆デュドゥイ(Dudouis)
国家警察部部長。マイヨ通りの自殺事件の捜査に当たる。

☆フォン=リーベン少佐(le major von Lieben)
バラン兄弟から潜水艦設計図を買い取った外国の軍人。

☆ルイ=ラコンブ(Louis Lacombe)
鉱山技師の青年。新兵器となる潜水艦開発計画に打ち込み、銀行家アンデルマットに資金提供を受ける。十年前に失踪。

☆わたし(ぼく)
実名不明。マイヨ通り102番地の屋敷に住み、新聞や雑誌に寄稿する物書きをしている。自宅を舞台にした「ハートの7」の怪事件に巻き込まれたことをきっかけにアルセーヌ=ルパンの友人にして伝記作者の立場になる。


◎盗品一覧◎

◇バラン兄弟の宝石小箱
バラン兄弟がいくつもの押し込み強盗で手に入れたダイヤ・真珠など「かなりすばらしい宝石のコレクション」。

◇フォン=リーベン少佐の手紙
バラン兄弟が設計図を外国に売り渡していた証拠の手紙。

◇アンデルマット夫人の恋文
アンデルマット夫人が青年ラコンブに密かに出したラブレター。ルパンが偽物とすりかえておいた。

◇潜水艦設計最終書類
ルイ=ラコンブが作成した潜水艦建造に関する最終書類。これがなかったために某国は潜水艦実験に失敗。ルパンはこれを入手しフランス海軍に届けた。

◇二万フランの小切手
アンデルマット氏が潜水艦関係書類と妻の恋文の代金として切ったもの。ルパンが頂戴し政府に寄付する。


<ネタばれ雑談>

☆ルパンの伝記作者登場!

 シャーロック=ホームズの物語はごく一部の作品を除いて、同居人であり友人のワトスン博士が執筆した形式をとっている。凡人ワトスンの目からみ た天才探偵ホームズの活躍を驚きをこめて描き出し、読むものに対して物語のリアリティを高めさせ、いっそうのめりこませる効果を持つやり方だ。
 ルブランは初めて探偵小説を手がけるにあたり、第一作『ルパン逮捕される』は 「犯人自身の一人称形式」というトリックを使ってみせた。しかしシリーズ化が決定してから先達であるホームズシリーズに倣うのが賢明と判断したのだろう。 単行本収録時の『ルパン逮捕される』はエピローグとしてルパンが伝記作者「わたし」に自分の体験を語る場面が挿入されている。『ふしぎな旅行者』でもルパン自身による一人称形式が試みられているが、それがその形の最後となった。
 この『ハートの7』は短編集『怪盗紳士ルパン』の中でいちばん雑誌初掲載が遅い(やはり「わたし」が登場する『金髪の美女』より後)。ルパンシリーズを連作して評判をとったルブランが「どうやって執筆者とルパンは出会ったのか?」をテーマに満を持して書いた一編、といったところなのだろう。

 あくまで想像だが、ルブランは「ハートの7」というタイトルを先に思いつき、そこからストーリーを組み立てていったのではないか…と読んでいて思える。 「わたし」の屋敷で深夜に謎の侵入事件があり、トランプの「ハートの7」が残される。その話を聞きつけた男が屋敷を訪ねてきて謎の自殺を遂げ、やはり 「ハートの7」が残される。某国に設計図が流出した潜水艦の名前も「ハートの7」。掘り出された白骨死体のそばにも「ハートの7」。そして秘密の隠し扉を 開ける鍵が「ハートの7」…という具合。
 これまでになくショッキングな場面もあり、次々と現れるトランプの一枚をめぐり謎が謎を呼ぶ面白い展開なのだが、正直なところアラも目につく。ルパンが 泥棒よりも探偵役をつとめているため話に「ねじれ」が生じていて、重大な謎解きを新聞記事によって解説してしまううえ、さらにそこに人妻の不倫問題まで絡 んでくるから読んでいて混乱しやすい。短編としてはいろんな要素を詰め込みすぎてしまった観が否めない。

 「ハートの7」の設定が唯一生きてるかな、と思うのが同じカードをひっくり返すとハートの位置が変わり、違う隠し戸が開くという仕掛けだろうか。トランプの話題で言えばハートのキングに描かれている「王様」はシャルルマーニュ、すなわちフランク王国の国王としてヨーロッパを征服し、西ローマ皇帝の帝冠を受けたカール大帝(在位768〜814)その人であることも謎解きの鍵になっていた。

 本作で正体を明かしたアルセーヌ=ルパンと交友を続け、その伝記作者となった「わたし」はワトスン博士と違い実名は一度も出てこない。そのためフランスのTVドラマ版(デクリエール主演のもの)や一部児童向けルパン本では「わたし(=モーリス・ルブラン)」と表記してしまっているケースもあるが、あくまでルブランとは別人ということにしておくべきではないだろうか。
 このルパンの伝記作者はルパンシリーズの初期作品にしばしば登場しており、『ルパン対ホームズ』『奇岩城』『ルパンの告白』『水晶の栓』で姿が見える。だがやはりワトスン博士と同様の役回りはできなかったようで、活躍らしい活躍もなく、第一次大戦期の重く暗い作品群では出番も無かったと見え、以降はまったく登場しなくなる。いちおう『カリオストロ伯爵夫人』でルパンの許可を得て書いたという断りが出てくるが。


☆第一次世界大戦の前兆と「愛国者ルパン」

 さてその第一次世界大戦の「影」がこの『ハートの7』にチラついていることは見逃せない。本文中「外国」だの「一大軍事強国」だの実名は一切伏せてあるが、ルイ=ラコンブの潜水艦設計図が流出し、失敗に終わったものの潜水艦建造および実験が行われた国とは当然ドイツ帝国のことである。「フォン=リーベン大佐」という名前もドイツ系だし、実験に「皇帝」自身が臨席したとあるから名指しはなくとも明白だ。当時のフランス人は読んでいてすぐピンと来たのだろうが、今日の日本人の僕らが読む場合はこの当時の国際状況を念頭に入れておく必要がる。

 まずこの物語で重要な要素となっている潜水艦建造計画。世界軍事史上初の潜水 艦実戦参加は意外に古く1860年代のアメリカ南北戦争中に実例があるのだが、まだまだ本格的に実用というレベルではなかった。この物語の設定時期とほぼ 重なる1900年に初の実用とされる潜水艦がアメリカで開発され、1904年から始まった日露戦争において日本・ロシア両国に納入もされている。実戦投入 は結局なかったのだがロシアのバルチック艦隊が北海航行中に「日本軍の潜水艦」の攻撃を受けたと勘違いする一幕があったりする。本作は1901年ごろの年 代設定と考えられ、ルイ=ラコンブが潜水艦研究を進めたのはその10年前とあるから、実質世界初の実用潜水艦だった…というわけ。

 『ハートの7』中の新聞記事に「将来の海戦の様相を一変する潜水艦」という文 があるように、海軍力によるイギリスの優位をくつがえす秘密兵器として特にドイツがその開発に熱心だった。実際ドイツが開発した潜水艦、いわゆる「Uボー ト」は第一次大戦、さらには第二次大戦まで大いに活動し良くも悪くもドイツ海軍力の象徴となった。本作を執筆した時点のルブランがドイツの潜水艦計画に敏 感であったことは確実で、この短編ではフランス人が開発していた潜水艦の設計図がドイツに流出して…という設定を作り、「愛国者」たるルパンが偶然その事 を知ってその阻止に動いたというお話に仕上げているわけだ。

 ところでルパンの宿敵たるシャーロック・ホームズにも似た設定の一編が存在する。シリーズ晩期の短編集『最後の挨拶』に収録された『ブルース・パーティントン設計書』がそれで、ここではイギリス海軍の潜水艦設計書がドイツ(名指しはしていないが設計書を盗み出すスパイの名前がオーバースタインなるドイツ系である) に流出するのをホームズらが阻止している。調べたところドイルが『ブルース〜』を雑誌に掲載したのは1908年12月のことで、ルブランの『ハートの7』 のほうが一年早いとはいえほぼ同時期である事に注目したい。当時のドイツの潜水艦計画に神経をとがらせていた英仏両国の気分が娯楽小説にも反映していたわ けで、迫り来る第一次世界大戦のきな臭い影が華やかなベル・エポック(古きよき時代)にもさしつつあったことがうかがえる。

 ルパンは反社会的存在である「泥棒」であるにも関わらず、熱烈な「フランス愛国者」ぶりをしばしば発揮する。本作『ハートの7』がその端緒となるが、これはやはり時代の空気を多分に反映する娯楽小説ならではの設定だろう。
 ルパンの愛国者ぶりはホームズを代表とするイギリスへの対抗姿勢にも現れるが、そちらがあくまで「よきライバル」に対する「ケンカ友達」的姿勢であるの に対し、ドイツに対する対抗姿勢はあからさまな嫌悪感をともなうのが目に付く。これは第一次大戦以前の多くのフランス人の間で共有されていた意識だっただ ろう。
 アルセーヌ・ルパンは1874年生まれの設定と推測されるが、その3年前の1871年、フランスはビスマルク首相が指導するプロイセンに「普仏戦争」で完敗、皇帝ナポレオン3世を捕虜にされたうえ、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王が皇帝に即位し「ドイツ帝国」成立を宣言、さらには多額の賠償金と共にアルザス・ロレーヌ地方を割譲させられるという屈辱を味わった。その怨念は1887年のブーランジェ事件(対独報復を意図し軍部独裁政権をめざした軍事クーデター未遂事件)、1894年のドレフュス事件(ユダヤ系軍人ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕された冤罪事件。無実が確定したのは1906年である)など右派・排外主義の事件としても現れた。ルブランはじめ平均的なフランス国民はそれらの事件には眉をひそめた口ではあろうが、ルパンが育った時代がそういう空気の漂う時代でもあった、ということは意識しておくべきだろう。

 ところでルパンシリーズの名編『奇岩城』で はラスト近くでルパンが自家用の潜水艦(潜水艇)で脱出を図るくだりがある。一部翻訳ではカットされているのだが、このときルパンはこの潜水艦は「ハート の7」事件の際にちょうだいした設計図をもとにしたと明言している。「愛国者」を気取りつつ抜け目がないからなぁ、この人は。


 最後に一つ気になることを。なぜか偕成社「ルパン全集」版では、他の訳本には出てくる「手紙を夫に渡されたと思ったアンデルマット夫人が『うっ』とうめき声を上げて失神する」一文がない。偕成社版が使用したオリジナルテクストにこの一文が抜けていたのだろうか?


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