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「オル ヌカン城の謎」(長編)
L'ÉCLAT D'OBUS

<ネタばれ雑談その2>

☆西部戦線異常あり

 『オルヌカン城の謎』の主人公・ポール=デルローズの父親は普仏戦争 (1870)で志願兵として活躍したことになっている。この戦争については『続813』の雑談でも触れているので繰り返しは避けるが、とに かくこの戦争に屈辱的な敗北をし、資源豊富なアルザス・ロレーヌ地方をドイツに奪われたフランスは、この屈辱をいつか晴らしてやろうと40年ばかりずっと 機会をうかがっていた。しかしドイツ帝国は強化される一方で、とてもじゃないが報復攻撃できる状況ではなかったし、逆に『813』でも出てきたモロッコ問 題のようにドイツ皇帝ウィルヘルム2世は積極的に帝国主 義的拡張路線をとったので、フランス国民はドイツに対して警戒心と憎悪感情をいっそうつのらせていた。これがルパンの時代、20世紀初頭の状況で、ルパン シリーズでも折に触れてドイツに警戒心を示すエピソードが重ねられてきた。
 一方で医学・科学技術分野でのドイツの先進ぶりも確かで、主人公ポールは父親をドイツに殺されたにも関わらず工学を学ぶためにドイツに留学している設定 だ(同時期に日本人も多くドイツに留学してさまざまな「ドイツ流」 を日本に持ち込んでいる)。これはポールがドイツ語が話せる設定にするためでもあるのだろうが、ポールが開戦ぎりぎりまで「戦争なんて起こ らない」と言ってるところなんかは「知独派」の間にそんな空気があったことも示しているように思える。

 だが1914年ともなると、すでにヨーロッパは一触即発の情勢になっていた。世界史的にみると帝国主義列強による「世界分割」はほぼ終わっており、もは や列強同士の直接対決しか状況の打開はできない限界点に達していたとも言える。そのため各国では迫る戦争勃発に備えて戦争計画をそれぞれひそかに進めてい た。
 フランスでは1914年2月に「第17計画」とい う作戦計画が立案されていた。これはいざ仏独開戦という事態になった場合、フランス軍はその主力でアルザス・ロレーヌ地方に一挙に侵攻・占領し、その上で ドイツ軍を撃破するといった計画だった。当時の独仏国境はこの地方だったからいたって自然な計画ではあるが、「アルザス・ロレーヌ奪回」にこだわるあまり 柔軟性を欠いた計画という感も無くはない。
 これに対してドイツでは1905年までに参謀総長アルフレート=フォ ン=シュリーフェン(1833-1913)により「シュ リーフェン計画」という対仏侵攻作戦が立案されていた。これはドイツ帝国が東にロシア、西にフランスという敵国にはさまれた状況を打破する ために練られたもので、開戦となったらまずドイツ軍の主力を中立国のベルギー領内に侵攻させ、そのまま一気に北フランスに乱入、時計の反対回りに前線を進 めて短期のうちに首都パリを落としてフランスを降伏させ、その後ロシアに当たる、という作戦だった。
 1914年8月初旬に実際に開戦となると、仏独双方はそれぞれ上記の計画をそのまま実行に移した。お互い相手の作戦計画を知らないわけではなかったが、 フランス側はドイツのシュリーフェン計画を補給困難などの理由から甘く見ていたフシがあり、またドイツ側はこのときの参謀総長ヘルムート=フォン=モルトケ(小モルトケ、1848-1916) がシュリーフェン計画に修正を加えてロレーヌ方面の防衛に力を回していた。このため、開戦序盤でアルザス・ロレーヌに侵攻したフランス軍はドイツ軍の反撃 にあって手痛い敗北を喫し、逆にドイツ軍は一挙にベルギーを占領してさらに北部フランスに進撃、各地で手薄になっていたフランス軍を撃破していくことにな る。

 連戦連勝のドイツ軍は9月初めにはパリ北方40kmの地点まで迫っていた。しかし9月6日から始まる「第一次マルヌ会戦」で仏英連合軍の大反撃が始まる。フランス 軍の総司令官はジョゼフ=ジャック=ジョッフル(1852 -1931)で、普仏戦争や植民地戦争で活躍した軍人だ(そういえ ばポールの父の軍歴とも世代は違うがほぼ重なる)。序盤の「第17計画」は完璧な失敗に終わったが、退却を続けていた各軍をパリ東方のマル ヌ川河畔で陣容を整えさせ、そこから一気に反転攻勢に転じた。『オルヌカン城の謎』本文中にジョッフルの名は直接は出てこないが、マルヌ会戦で「全体、とまれ!まわれ、右!敵に向かって突進せよ!」との 「不朽の名言」を“総司令官”が下す記述があり、“その気力と冷静さでフランスを救った総司令官”がポールの行 動の自由を保障する場面があり、最後の大団円の場面でも“総司令 官”“将軍”として登場している(敵側はともかく味 方の将軍の実名を出すのは控えたのだろう)。 南版『ルパンの大作戦』だとこのジョッフルがその愛国熱情に打たれてルパンを軍医中佐に特別推薦することになっているが、もちろんそれは南洋一郎の完全な 創作。

 結局この第一次マルヌ会戦によってドイツ軍の進撃は阻止され、後退を余儀なくされる。ここに短期決戦でフランスを破る「シュリーフェン計画」は実現不能 となり、ドイツ軍はベルギー・フランス国境付近まで後退、これを英仏軍が追って北上、たがいに相手の裏をかこうと戦線を広げ、とうとう両陣営が向かい合う 前線はアルザス・ロレーヌから大西洋岸にまで達してしまう。そして互いに塹壕(ざんごう)を掘って対峙する凄惨な消耗戦が延々と続くことになってしまうの だ。この塹壕戦の局面を打開しようと毒ガス、戦車、戦闘機…といった新兵器が投入されていき、戦場の悲惨さを増していくことになるのだが、結局1918年 の終戦近くまでこの前線はほとんど変化せず、ただただ犠牲者が増えていくことになる。
(以上の第一次世界大戦関連についてはJ・M・ウィンター著『第 1次世界大戦(上・下)』平凡社「20世紀の歴史」13・14巻、猪口邦子監修/小林章夫監訳を主に参考にしました)


☆主人公達の転戦

 と、一通り史実の戦争序盤の推移を頭に入れた上で小説を読み返してみると、主人公ポールとその義弟ベルナールが、戦況の推移と共に各地に転戦していく様 子が良く分かってくる。
 まず物語の最初から最後まで何度も登場し主要な舞台となるのがオルヌ カンの村。小説本文にはコルビニーという 近くの要害の町までローカル鉄道が延びており、そこから仏独国境まであと数キロまで近づいたロレーヌ地方の小さな村、と説明されている。国境を越えたドイ ツ側にはエブルクールという町がある。またポールが少年 時代に父と当時はドイツ領内だったアルザス地方のストラスブール(シュ トラスブルグ)からボージュ地方に向かい、そこから自転車で国境を越えてオルヌカンの地に入っている描写があり、こうした記述からだいたい の位置の見当はつくのだが、ネット検索や地図を調べる限りではオルヌカンもコルビニーもエブルクールも確認できず(検索でひっかかるが全部この小説の本文なのだ)、どうも架 空の地名なんじゃないかな?と思っているところ。これまでルパンシリーズはおおむね実在の地名が使われていたが、現在進行中の戦争を描く小説、しかもドイ ツ軍がひそかにトンネルを掘っていた、という設定だけに架空の地名にせ ざるを得なかったのだと思える。

 大戦勃発で入隊したポールはベルギーのリュクサンブール州(ベルギー南部。隣接国「ルクセンブルク」と同じ地名)へ通じ る街道が合流する地点で8月23日にドイツ軍と交戦している。ここでポールの機転もあってドイツ軍を撃破し、ベルギー領内へと進むが、半日ほどで退却命令 が出て不満を抱きつつベルギー領内から退却している。これは8月24日にドイツ軍主力がベルギー国境を突破してフランス領内に侵攻したためだ。以後、ドイ ツ軍が進撃、フランス軍が後退、という局面が本文中でも描かれ、あとで発見されるエリザベートの日記にもその情報が書かれている。
 退却に退却を重ねたポールは第一次マルヌ会戦にも参加、今度はドイツ軍を追ってコルビニー、そしてオルヌカンへとやって来る。ここではかねて掘られてい たトンネルを利用してドイツ軍が奇襲をかけ、8月20日にこの一帯を占領したことになっている。エリザベートの日記には9月6〜13日のマルヌ会戦の敗北 にドイツ軍が慌てふためく様子が記されており、9月16日にはドイツ軍はこの地を引き払ってドイツ領側へ撤退したことになっている。

 ここで主人公が連れ去られた妻を追わずに兵士としての義務を果たすべく別の戦場へ向かうところが、いかにも戦時中に書かれた戦争小説。ポールとベルナー ルは北部フランスへ向かい、ベルギー領内に入ってフランドル地方のイー プル(イーペル)の町に入り、ここで10月から12月まで、イゼール川(運河)を挟んでドイツ軍と地獄のような戦闘をくぐりぬけることにな る。これは実際に10月から11月にかけて行われた「第一次イープ ルの戦い」のことで、英仏軍は激戦の末にイープルの町をドイツ軍から奪取した。しかしその後も大戦終結まで都合三度の攻防戦がこの町で行わ れたため、イープルの町はほとんど廃墟になってしまうことになる。小説ではこの実際に行われた激戦の中に、ドイツ軍のスパイ活動やポールの父親を殺害した 謎の女の写真といったフィクションをからめ、緊迫感ある展開を生み出している(児童向け訳本ではいずれもこの部分はカットされている)

 このイゼール川の戦いで12月に重傷を負ったポールは野戦病院に入り、ここで軍医に化けたアルセーヌ=ルパンにアドバイスを受ける(先述のようにこの部分は1923年版で追加されたもの)。そ して陸軍病院を自ら訪れた“総司令官”つまりジョッフル元帥本人に自由行動のお墨付きをもらったポールは1月10日にオルヌカンへ向かい、地下トンネルを 発見して国境を越えドイツ側に潜入することになる。
 
 ところでこの小説で最大の悪役はコンラート(コンラッド)王子で ある。ウィルヘルム2世本人が小説中に登場し、コンラートがその息子であることが明記されているのでこちらも実在人物?と思う読者もいるだろうが、全くの 架空の王子である。ウィルヘルム2世には6人もの息子がいて、彼らの中には実際に第一次大戦で軍隊を指揮した者もいるが、「コンラート」という名の王子は 見当たらない。ドイツ皇帝本人を悪役にすることも可能(限りなくそ うなりそうな場面はあるが)だったが、ルブランもさすがにそこまでするのは礼を失すると考えたのだろう。『続813』同様にドイツ皇帝本人 に対しては一定の配慮もしつつ、架空の王子に悪役回りを押し付けることで憎悪対象の代役にしたものと思える。

 代役、ということではもう一人の悪役であるエルミーヌ伯爵夫人についても言える。終盤で彼女の姓がたまたま皇 帝家と同じ「ホーエンツォレルン」であることが明らか となって結局処刑されるが、これもフィクションとはいえ敵国の皇族を直接的に殺しちゃうのはまずいのでその代役として設定されたものだろう。まぁ現在の僕 らの立場からするとそこまでせんでも、と思うところだが…。
 このエルミーヌはもちろん架空の人物だが、さまざまな歴史上の事件の陰にいたことになっている。オーストリア、ロシアの皇族(原文は「Prince」で偕成社版では「皇太子」と訳しているが史実から見 て誤りと思われる)と結婚するがそれぞれ謎の死を遂げたとされ、1889年のオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の皇太子ルドルフの不審死(女性と心中したとされるが疑惑が多い)の時にウィーンにいて 関与した疑いをかけられている。1899年に南アフリカでイギリスとトランスバールの間で起こったボーア(ブーア)戦争の時にもトランスバールにいて工作をおこなっ たといい、1903年にセルビアのアレクサンドル国王とドラガ王妃が民族主義者に暗殺された時にもベオグラードにいてこれ に関与したとされる。1904年に起こった日露戦争の時 には日本にいたともいい、前後の文脈からするとロシアに敵対する工作を日本国内で行っていたということになるだろう。フィクションとはいえ、ルパンシリー ズの「正典」の登場人物が日本に来たことがあるなんて、日本人としてはちょっと楽しくなっちゃうではないか(日本人作家の贋作ではルパン本人が何度か日本に来てるけどね)


☆フランスとドイツの狭間で

 開戦一年で書かれたこの小説には、ドイツに対するフランス国民の敵対感情がかなり露骨に描かれている。たとえば、開戦間近の情勢の中でオルヌカン城の管 理人ジェロームは「ドイツの豚野郎ども」という表現 をする。ここは原文では「コション(Cochon)=豚」と なっており、フランス語版「あん畜生」といった侮蔑用の言葉で、実際ドイツ人を指して使ったケースも多かったのだろう。南版『ルパンの大作戦』ではポール がこの「コション」を口にし、フランス人がドイツ人をそう呼ぶとの説明がある。
 また偕成社版(竹西英夫訳)では単に「ドイツ軍」と しか訳されてないが、創元推理文庫版(井上勇訳)ではしばしば「ド ク助」と訳されている部分があり、これは原文では「ボッ シュ(Boche)=ドイツ野郎」という侮蔑語が使われているのだ。「ドク助」とは聞かない言葉だが、日本語にはドイツ人に対する侮蔑語が ないので日露戦争時にロシア人を「ロスケ(露助)」と呼んだことをヒントにした訳語ではないかと思われる。なお、保篠龍緒による贋作『空の防御』でもルパンがドイツスパイに「ボーシュ面(づら)」と呼びかける場面があり、「註曰、ボーシュは仏人が独兵を罵っていう言葉で豚野郎ともいうような言葉」と 保篠自身の「訳注」がある。

 侮蔑語の使用だけでなく、戦場の描写においてもドイツ軍の行為はかなり残忍に描かれる。ベルギーから撤退するポール達が目撃する村の描写や、終盤で読み 上げられるコンラート王子の日記の中で、ドイツ軍が占領地域で略奪や非戦闘員の虐殺といった非道行為を行っていることが記されている。むろん戦争であるか らこうしたことが起こらないとは言えず、実際ベルギー領内で略奪や抵抗した市民の処刑が行われた事実もあるが、ルブランのこの書きっぷりほどの事態があっ たというのは、戦争序盤の短期決戦を急ぐドイツ軍の実情からするといささか不自然にも感じる。当時の各国の新聞報道がことさらに敵国の残虐行為を報じ、し ばしば実態以上に誇張して書きたてたということも現在の読者としては念頭において読んで欲しいところだ。
 アルセーヌ=ルパンは敵が悪人であろうと殺しはしないことをモットーにしていた。だからこの戦争小説にも「夢枕」にしか登場しないのだろうが(「虎の牙」の件はそっちで触れることにして)、この小説の主 人公であるポール達は戦争だけに容赦はせず、「殺人」は当然行っている。さすがに悪役女のエルミーヌについては直接手を下さず銃殺刑という形になるのだ が…ここでエリザベートが総司令官(つまりジョッフル将軍その人)に 彼女の命乞いをしようとするが、それに対する総司令官の言葉も凄い。

「奥さん、あなたはいろいろなめにあってこられた。 にもかかわらず、あなたはあの女をあわれんでおられる。しかしながら、同情は禁物です。もちろん、あなたのお気持ちは、死んでいく人間に対する同情の心で しょう。しかしながら、このような女や、この種の人間たちに対しては、同情をしてはならないのです。このような連中に対しては、人類愛を説いてもはじまら ないのです。われわれはそのことを忘れてはなりません。あなたが母親になられたときには、お子さんたちにあるひとつの感情を教えてあげてください。それ は、これまでフランス人が知らなかった感情であり、将来、フランスを守ってくれる感情です。つまり、野蛮人どもを憎むという感情です」(竹西英夫訳)

 ここまで言わせてしまうか…と平和な時代からすると慄然としてしまうセリフである。「人類愛を説いても始まらない」「野蛮人どもを憎むという感情を教えよ」… 戦争やってるとこういう風になっちゃうんだな、と良く分かるセリフでもある。
 前にも書いているが、愛国心に何の疑問も持たなかったこの時代、どこの国でもこんな感じだった。フランスでは開戦直前にかけて対独感情は悪化の一途で、 戦争を回避しようとしてドイツに対して融和的とみなされた政治家は売国奴のようにマスコミと国民に叩かれた。開戦必至となった1914年7月31日には社 会主義者で反戦を訴えたジャン=ジョレス(1859- 1914)が暗殺されている(ジョレスは戯曲『アルセーヌ・ルパ ン』中のセリフに登場している)。国家・民族を超えた階級の連帯を唱えるはずだった国際社会主義・労働運動も、いざ開戦となると愛国心をと なえて雲散霧消してしまう。各国のキリスト教会も同様で、多くの聖職者が愛国心と敵国憎悪を煽り平和を訴える例などほとんどなかった。バチカンのローマ教 皇が中立的な立場でものを言うことに対してもカトリック各国から不満の声が上がったほどだ。
 もっとも、開戦当初の熱狂は戦線が膠着し長期化してくると次第に冷めてゆく。ルブランもこのあ『金三角』『三十棺桶島』といった世界大戦を 背景としたルパンシリーズを書くが、戦争そのものは背景に過ぎなくなり、ストーリーもこれまでになく陰惨な描写が多いものとなっていく。『金三角』では主 人公が戦傷兵であり、『三十棺桶島』では戦争の狂気が事件の背景となるなど、『オルヌカン城の謎』のような華々しい戦争描写と比べると明らかに厭戦気分が 高まっていく。まぁこの2作のころには戦局がやや連合軍優勢で余裕が出てきたという見方もできるが…。


 ところで『813』でも言及され、この小説でも大きな背景となっているア ルザス・ロレーヌ地方についても少し。
 フランス人には説明無用の話だから『オルヌカン城の謎』本文ではこの地方に対するフランス人の感情はそれほど明確には記されていない。日本の児童向け訳 本である『ルパンの大作戦』と『地底の皇帝』では子どもに理解させるためでもあろうが、プロローグで少年ポールが父親とこの地方を旅する場面でしつこいほ どに「この地方はフランスのものなのに、ドイツに奪われてるんだ。いつ か取り返さねばならない!」という、実にフランスよりな主張を読者に訴える。

 世代によってはアルフォンス=ドーテの短編『最後の授業』を思い起こすだろう。普仏戦争でアルザス地方が ドイツ領となり、フランス語の先生が生徒達に「最後の授業」を行う。そしてラストに「Vive La France!(フランスばんざい!)」と黒板 に大書して授業を終える、というあの話だ。戦前、そして1950年代から1980年代まで国語の教科書に定番で載る作品だったから読んだ日本人は圧倒的に 多い(僕も小学校の教科書で読んだ)。この話の感動 どころは教師と生徒の情愛あるやりとりにもあるかもしれないが、やはりキモは「征服者によって言葉が奪われる」ことへの悲しみとささやかな抵抗が語られる ところだ。だが、この物語はアルザス地方の実態を全く無視して、一方的にフランス側に都合よく書かれた小説なのだ。発表されたのも普仏戦争の直後のことで ある。
 実際にはアルザス地方は大まかに言って「ドイツ語圏」に属している。ここの住民の多くはドイツ語方言のアルザス語を話し、17世紀にフランスに征服され てもなかなか同化しなかった歴史がある。そのためフランス政府はこの地の「フランス化」をすすめる各種の政策を行っており、『最後の授業』の熱心な仏語教 師アメル先生もそんな政策の先兵だったという見方もできる。
 しかしドイツ領となったらなったで、この地方はやはりドイツにもなかなか同化しなかった。ドイツ帝国もこの地の同化に力を入れたが、1911年に形式的 に自治を認めていることを見ても、この地方が依然強い独立志向を持っていたことがうかがえる。『オルヌカン城の謎』の中でドイツ軍兵士となっていたアルザ ス人がポール達に「友よ、来るのを待っていた」と言う場面はフランスよりすぎるという見方もできるが、ある程度そういう部分もあったとは思える。意地悪な 言い方をすると状況によりどっちにも転んだのかもしれないが(笑)。
 ヨーロッパではこの手の話は珍しいことではなく、日本で言えば都道府県や下手すると郡や市町村単位で強い独立傾向が見られたりする。とくにドイツの場合 は1871年の「ドイツ帝国」の成立にいたってもドイツ語を話す多くの国の集まりという状態で、これが『813』におけるルパンの野望のポイントにもなっ ていた。実はフランスだってドイツほどではないがブルターニュ地方など独自の言語・文化をもつ地域を抱えており、19世紀以降の「民族国家」「国民国家」 の観念でむりやり統合していたとも言える。
(アルザス・ロレーヌの複雑な歴史事情については偕 成社全集版『オルヌカン城の謎』の翻訳を担当した竹西英夫さんによる巻末解説が、愛国調の本文内容に流されずあくまで客観的な立場から児童にも分かりやす く説明しており、オススメです)

 20世紀後半からはこうした地域文化の多様性も尊重する方向になり、なおかつ国家の枠組み自体もヨーロッパ統合という流れの中で乗り越えられようとして おり、アルザス・ロレーヌ地方はそうした地域尊重と統合の流れ、とくにフランスとドイツの友好を象徴する地域としてまた新たな重要性を持ち始めているとい う。


☆で、ルパンは何をしていたの?

 最後に、この小説中ほとんど出番がない、というよりオマケで出番を作られてしまったルパンについて。
 ルパンは『続813』の結末で「自殺」したあと、世間では死んだことになっていたが、実際にはスペイン人ドン=ルイス=ペレンナとしてアルジェリアのフランス外人部隊に入 隊していた。その後北アフリカで何をしていたかは『虎の牙』で 語られることになるが、ルブランは『オルヌカン城の謎』発表の時点ですでにアメリカ向けにはその辺の事情を書いてしまっている。また『虎の牙』はルパンシ リーズに一応の決着をつける終わり方にもなっており、ルパン物語は本来第一次大戦以前の段階で終わらせるつもりだったのではないかと思える。
 『オルヌカン城の謎』にルパンが登場する改変が加えられたのは戦後のことだが、大戦中に執筆された『金三角』『三十棺桶島』ではルパンがそれぞれ後半の みとはいえ実質主役として登場する。これらは先述のように戦争の長期化で厭戦気分も高まっていたこともあり、国民を元気づけようという作者および編集者の 意図もあってルパン再登場ということになったんじゃなかろうか。どちらもあえて言えばルパンが登場しなくても成立する話ではあるし。

 ともあれ、これらの「大戦中シリーズ」によって、この時期のルパンがモーリタニアに自分の「帝国」を作ってそこに半分の軸足を置きつつ、もう半分の軸足 をフランス国内において隠密活動をしていた、という設定が生まれる。『オルヌカン城の謎』ではフランス国家の秘密警察に部下がいて情報を集めているとのセ リフがあり、『金三角』では敵国への金塊流出を阻止、『三十棺桶島』では孤島の大量殺人事件に興味半分で首を突っ込んでいる。
 こうした設定を生かして「訳者」が勝手に作ってしまったのではないか―と疑われているのが、保篠龍緒のみが訳して各種「ルパン全集」に収録している『青色カタログ』『空の防御』の2編だ。いずれも第一次世界大 戦中にルパンがその組織を使ってドイツのスパイと戦う物語で、前者ではスイス、後者ではパリが舞台となっている。詳しくはパスティシュ・コーナーで語るこ とにしたいが、ルパンの第一次大戦中の活躍を描く、いわば「外典」のお話となっている。


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