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「バルタザールのとっぴな生活」(長編)
LA VIE EXTRAVAGANTE DE BALTHAZAR

<ネタばれ雑談その2>

☆バルタザールと共に右往左往

 実はバルタザールとルパンにはもう一つ共通点がある。「若い時期にモンマルトル界隈をうろついていた」という点だ。アルセーヌ=ルパンが20歳前後の駆け出し時代にモンマルトルの安アパートに住んでいたことは『アンベール夫人の金庫』で描かれている。そのアパートからルパンが初の大仕事にむけてせいいっぱいのおめかしをして出かける描写は、なんとなくバルタザールのお出かけスタイルに似ていなくもない。
  モンマルトルはパリ北方にある丘陵地で、ながらく城壁の外にある「郊外地」だった。パリ市内に組み込まれたのは19世紀後半のことで、20世紀初頭までこ の地は家賃が安く低所得者層や芸術家たちが多く住む町だった。しかし第一次大戦直前になるとこの地もかなり宅地化が進んで家賃も上がり、しだいに芸術家た ちも去っていったという。

 もっともバルタザールが住んでいる貧民街はアパートどころか掘立小屋みたいなあばら家ばかりで、さらにひどい地域だ。この通称「バラック街」は作中の「XYZ探偵社」の報告によるとモンマルトルの丘の北側、さらにパリ城壁(ティエールの城壁)を超えた向こう側にあるようだ(竹西訳、三輪訳ともに「城壁跡」と訳しているのだが、原文に「跡」にあたる言葉はなく、まだ城壁があった時期の話と思われる)。バルタザールと男二人が酒を飲んでテルヌ門で別れ、バルタザールだけが城壁の外に出て家に帰る描写もある。
 『黒真珠』の雑談でも触れたが、城壁の外側の地域は城壁が出来た直後からスラム街(「ゾーヌ」と呼ばれた)と 化し、この小説でも描かれるように掘立小屋ばかりでクズ屋が集まって住んでいた地域だった。少々いかがわしく危なっかしい界隈であると同時に芸人たちが集 まって芸を見せるなど一種の観光地ともなっていたらしく、この小説の中でも「バラック街のお祭り」が行われてにぎわう光景が描かれている。
 こういう地域の描写はオシャレな高級住宅地や城館ばかりが登場するルパンシリーズにはでてこない(そりゃあ、貧民街には盗むものがありませんから)。バルタザールやコロカントら、こうした貧民街で貧しくもそれなりに日常を楽しくたくましく生きている人々が描かれているという点もこの小説の読みどころだろう。

 バルタザールがしばしばコロカントと待ち合わせをする場所がバティニョル広場。そのすぐそばにはバティニョル公園があり、バルタザールがコロカントへの愛を自覚する名シーンの舞台がここだ。バルタザールとコロカントが昼食をとるシーンがあるのが、そこからさして遠くはないモンソー公園だ。ここから二人は「ヨーロッパ地区」を抜けて、サン・トノレ通りにある公証人の事務所に向かっている。

 バルタザールの両親探しの旅は、まず父の遺産が埋められているというマルリ―の森から始まる。これはパリ西方20kmほどの郊外にあり、バルタザールたちは鉄道を利用してマルリーの駅まで向かっている。続いて母親と思われるアンリュ―嬢に会いに行くグルネーの村というのは、逆にパリ東方に15kmほど行ったところにある。サーカス一座「アトラスのライオン」を訪ねて二人がおもむく「トローヌの市(縁日)」(Foire du Trône)というのは毎年春もよおされる1000年も続くお祭りで、パリ南東部のヴァンセンヌの森に現在も「仮設遊園地」がもうけられてにぎわう。この時代はもっぱらこうしたサーカスが集まっていたんじゃないだろうか。


 終盤に登場する元王妃が住んでいるのはアンヴァリッド大通りに面した別邸(『バーネット探偵社』の『十二枚の株券』の舞台が近い)。そして詩人ボーメニルを追って行ったバルタザールがいともあっさり追跡を放棄してしまう場面の舞台となったのがパリ南西部、セーヌ対岸にあるサン・クルー公園。ここからの帰りにセーヌ川を渡る船の上でバルタザールとコロカントがしっかりと手をつなぐ場面も印象的だ。


☆レバド=パシャの国はどこ?

 物語の中盤になると、バルタザールはイギリス工作員らに誘拐されたかと思うと今度はフランス警察に奪回され、そのまま中東某国の「レバド=パシャ」なる人物のもとへ連れて行かれる。このパシャがまたまた「父親」というわけで、バルタザールはいきなり一国の皇太子となって、イギリス・フランスも絡んだ隣国との大戦争(といっても元夫婦どうしの痴話ゲンカの発展形なんだよな)へと巻き込まれてゆく。このあたり、それこそウソみたいにムチャクチャな展開であるため、読者は苦笑しながらバルタザールともどもとんでもない事態の推移に翻弄されることになる。
 
 この展開、もちろんフィクションであるわけだが、ルブランはどのあたりを想定して書いているのだろう?「パシャ」といえばオスマン帝国(トルコ)の「太守」を指す言葉であり、文中に「トルコ」の表現もあることからオスマン帝国の領土の一部ではないかと想定される。
 しかもバルタザールの乗る船の航路を読んでいくと、シチリア島からイタリア南端を経由してアドリア海に入っているので、どうやら目的地はバルカン半島なのでないかと思わせる。バルタザールを運ぶレバド=パシャの部下たちもギリシャ人、アルバニア人が混じっているのだ。
 ハチャメチャな展開のフィクションに考証を加えるのも無理があるのだが、僕が読んだ印象では「レバド=パシャの国」はかつてオスマン帝国の一部であり今もイスラム圏であるアルバニアが一番近いのではないかと思う(もちろんアルバニア全土ということではなく、その中の小国だろうか)。前述のように保篠龍緒が「バルタザール〜」の未発表原稿を受け取った時期からするとルブランは本作を第一次大戦前にすでに書いていたとも考えられ、物語の中でイギリスとフランスがこの国をめぐって外交駆け引きをしている描写も第一次世界大戦前の状況であるように思える。

 ついでながら、このレバド=パシャの息子の名は「ムスタファ」。第一次大戦敗北後に列強の影響を排除し、この小説が発表される前年の1923年に国民国家としてのトルコ共和国を建設したケマル=パシャ(ケマル=アタチュルク)の名前も同じ「ムスタファ」であった。


☆バルタザールの名前の由来

  欧米の小説を読んでいると、読者層に聖書の知識がある前提で書かれていて、なんのことやら、と戸惑わされることが少なくない。本作にもそうした要素がいく つかあり、偕成社版・創元版ともに訳者が巻末で詳しい解説を加えてくれている。それらを参考に、ここでも軽くまとめておきたい。

 まず主人公「バルタザール(Balthazar)」の名の由来は、新約聖書にある。イエス=キリストが誕生した時に祝福にやってきた「東方三博士」の一人の名が「バルタザール」なのだ。このためキリスト教圏では多数派でこそないが、そこそこ見かける名前だという。
 ただし、フランス語で「バルタザール(Balthazar)」と言った場合、聖書に出てくるもう一人の人物の名も思い浮かぶ。旧約聖書の「ダニエル書」に登場するバビロニア王国の王ベルシャザルもフランス語ではスペルも同じ「バルタザール」になっているのだ(他言語ではスペルも発音も異なる)。『バルタザールのとっぴな生活』ではとくにこのバビロニア王のほうが本筋に絡んでいる。
 「ダニエル書」第5章によると、バビロニア王ベルシャザルが宮殿で盛大な宴を開いていたとき、空中に人間の手が現れて壁に「メネ、テセル、ファレス」という謎の文句を書いた。預言者ダニエルはこれをバビロニアの滅亡の予言と解読する。このエピソードを元に冗談半分で水夫がバルタザールの胸に謎の文句の頭文字「M・T・P」の入れ墨を彫ってしまい、のちのち騒動の種となっていくわけだ。

 バルタザールの住まいは「ダナイデス荘(Danaïdes)」(三輪訳では「ダナイード」、保篠訳では「ダナイド」で、フランス語読みにしている)。 これは偕成社版の竹西英夫氏の解説がかなり詳しいが、元ネタはギリシャ神話で、「ダナオスの娘たち」という複数形で「ダナイデス」となる。ダナオスが50 人の娘たちに初夜に各自の夫を殺させ、一人ヒュペルムネーストラーだけが父のいいつけに従わなかったが、残り49人の娘たちは夫殺しを実行した。この罪に より「ダナオスの娘たち」は地獄に落とされ、底のぬけた壺に水を満たす罰を永遠に受けている、というお話。この小説の主人公の住まいの名前についている理 由ははっきりしないが、「地獄のドン底」といったニュアンスを持たせているのかもしれない。

 さて、本作のヒロイン、コロカント(Coloquinte)はどうだろう。終盤でその名前を聞いた神父が「キリスト教徒らしい名前ではない」と言ってるように、あくまであだ名であり、聞いた瞬間に女の子の名前だと分かるものではない。調べてみると、「コロカント」とは「コロシント瓜」のことで、一見小柄なスイカに似たウリの一種(ヒョウタン、と訳す例もあるみたい)。彼女について「芽を出させるためには、いささかの埃(ほこり)があればそれでじゅうぶんといったたぐいの種子のひとつ」という表現がされているのも、その名が植物の名前だからだ。
 コロカントは苦味があるので食用ではなく(種子を食べる国はあるらしい)、 むしろ下剤や皮膚病治療薬にするケースがあるそうだ。一方でフランスで秋になると干した小型の「コロカント」が室内装飾用として花屋さんで普通に売られて いるそうで、フランスでは「コロカント」というと可愛い飾り物のイメージがあるのかもしれない。さらに調べてみると旧約聖書のなかでエルサレムのソロモン の神殿に「コロカント」の彫刻が飾られていた、という記述があるそうで、これも「バルタザール」ともども「聖書ネタ」の香りがする。
 個人的な思 いを書いてしまうが、僕がルブラン作品中いちばんのお気に入り女性キャラクターが、このコロカントである(笑)。秘書兼家政婦としてひたすらけなげにバル タザールについてゆき、一番真面目で熱心な教え子であり、バルタザールのためならたとえ火の中、水の中という積極派。バルタザールが最後の最後になってよ うやく自分が本当に愛していたのは彼女だったのだ、と気づくまでの展開のいじらしいこと(ヨランド嬢も気の毒なんだけどね)。ハチャメチャな大騒動の末に、バルタザールとコロカントの「本当の冒険(アバンチュール)」が始まる、という見事なラストには不覚にも感激したものである。
 偕成社版ルパン全集は全巻の挿絵を田中槇子さ んが担当されていて、シリアスからギャグまで幅広いルブラン作品の内容に合わせてそれぞれ雰囲気を変えた魅力的な挿絵を描いている。この『バルタザール 〜』の挿絵も内容に合わせて非常にコミカルなタッチになっているのだが、この挿絵のコロカントが実に魅力的なのである!女性の目から見てもコロカントは魅 力的に見えたのではないかな、と勝手に想像している次第。


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