クラシック音楽

「クラシックを練習している」というと、「人が作ったもん弾いてどこが面白い?」とか、「クラシックの人ってなんで耳で聞いて弾かへんねんやろ?」とか挑発的な言われ方を何度かしてきた。つまり、楽譜=受け身と解釈されているようだ。20代の時は自分に確固たる自信も理論もなく、『なんか違う』と思いつつ何が違うのか人にも自分にも説明ができなかった。

落語をよく聞くようになると、クラシック音楽となんら芸の質には変わりないと思うようになった。昔から伝わっている話をそのまま、自分の個性を生かして演じている。練習の仕方もクラシック音楽とほとんど変わらない。話を覚えて自分の身体から言葉が出るくらいまで何度も何度も舞台で演じる。練習だけではアカンと聞いた。客の前で演じるからどんどんうまくなるのだと。だから落語家は入門したと同時にプロとして、前座で舞台に上がる。(ついでに雑学を。前座はまだ一人前ではないから羽織を着てはいけないそうだ。)

芝居のセリフも自分の身体から自然な言葉として出てくるように訓練をするようだ。単なる発音の訓練以外にイメージを豊富に蓄えていなければセリフに体温が感じられない。

そして、つい最近、ラジオで次ぎのような放送を聞いて、これもクラシック音楽と同じだなあと共感したことがあった。

『NHKアナウンサーのはなす きく よむ』
(2003.1/26放送)
中条誠子アナウンサー

「私達アナウンサーは文字をいかに表現するかという仕事が多いわけですが、ただ、文字ををうまく音声化しようとしているだけでは、やがて限界が来ると思います。自分で調べ、訪ね、見て、想いをはせて、存分に伝えたいと思う気持ちを高ぶらせたその時に、本番を迎えられるのが一番いいのでしょう。きれいに話したい、きちんとしたアクセントで話したいという基本的なテクニックを追求することも、もちろん大切です。怠ってはいけませんが、なによりも大切だと思うのはその情報、その想い、その事実を伝えたいと思う気持ちだと思うのです。ニュースもナレーションもそういった姿勢が届く、響く伝え方になっていくのだと思っています。」

最後に、クラシック音楽の特徴を考えてみる。
何人もの作曲家の曲を演奏するということは違う個性にいつも接していると言える。また、幅広い時代(16世紀〜20世紀)の作品が多々ある中で、それらを演奏できるようにするには、楽譜を読む力が必要となる。更にその作曲家の個性を感じ、感じたことを音として出すには相当時間を必要とする。ただ、作曲家の個性は音に表れているので、楽譜通りに弾いていけば自然と出てくると言える。あとは自分が何をイメージするかだ。作曲家と演奏家は世界が違うのかもしれない。作曲家の思いは、楽譜になった時にすでに作曲家の手を離れている。更に言えば、演奏家の思いは、音を出した時すでに演奏家の手を離れている。

少し理屈っぽくなってしまったが、「人が作ったもん弾いてどこが面白い?」という問いに対して30年以上経った今、やっと返事ができるようになったような気がする。



2003.3.1.