「ま、好きなように動いていいよ。ちゃんとシナリオにその辺りのことも書いてある
し」
「ん?そっちにいくの?え〜と(シナリオを覗きながら)、そっちにはこういう建物
があって……」
上の二つの様な台詞、これは真っ赤な嘘です。シナリオには何も書いていません。 シナリオを覗くフリをしているだけです。そのプレイヤーの行動は初めからGMの想 定済みであると言わんばかりの態度を取りつつも、心の中では悲鳴をあげているので す。もし、心の声を音にする魔法のメガホンがあるのなら、この時のGMの心の中か らは
「ばかやろ!そっちは全然設定してないんだよ!ちっくしょう、何とか後二秒以内に ダンジョンを一つでっち上げないと…!」
と言う声が、周囲に大きく轟くことでしょう。しかし、それでもGMは自信たっぷり
なフリをしなければいけないのです。実質は伴わなくとも、気分だけは常にお釈迦様。
何故こんなことをしなければいけないでしょうか?GMとして見栄を張りたいから?
違います。
プレイヤーに世界への安心感を持って貰った上で、自由な行動をして貰いたいから
なのです。
プレイを始める前、自信無さげなGMから
「シナリオ、殆ど作ってなくってさ。変なことやられると破綻するから、手加減して
やってよ」
なんて言われたプレイヤーは、シナリオを破綻させたくなければ「手加減」するしか
ありません。あまり魅力のない依頼をやむなく引き受け、情報収集はそこそこに、N
PCの名前を聞くなど御法度です。常にビクビク先を探りながらの、強制的な出来試合(やら
せ)。手加減とはつまり、そういうことなのです。
テレビゲームとは違う、完全な自由を詠うTRPGも、実際プレイヤーの操るキャ ラクターにはそれ程の自由は存在しません。その世界での常識、ルール、キャラクタ ー個人の性格等、数えればまだまだ幾らでも自由を阻害する要因をあげることが出来 ます。そこに、更に「手加減をしなければいけない」という不自由さを加えたらどう なるでしょう。プレイヤーには一片の自由さえも存在しなくなります。
「先で右と左に道が別れているよ。どっちに行く?あ、右に行くと話が破綻するから そこんとこよろしくね」
プレイヤーの見る、これが典型的な悪夢ではないでしょうか。
もちろん、いつもいつもGMが、プレイヤーの奔放な行動の先の先をシナリオで見 通すなど不可能です。プレイヤーに今説明しているダンジョンの構造は、実はGMも 今まで知らなかったと言うことだってあるでしょう。それでいいのです。内情をプレ イヤーから隠している限り、でっあげと言うことがばれない限り。
皆さんは西遊記を御存知でしょうか。孫悟空と三蔵法師御一行、遥か天竺まで有り 難いお経を貰いにエッチラオッチラ。この中に、筋斗雲に乗った孫悟空とお釈迦様の こんな問答のシーンがあるのです。
「俺が筋斗雲を飛ばせば、どんな遠いところへでも一ッ飛びだ」
「ホッホッホ、それなら悟空、その筋斗雲を飛ばしてこの私の掌から抜け出してご覧
なさい」
「そんなの簡単だ。見てろ!」
ビューン……!
「はぁはぁ。ここまで飛べば、掌どころかその姿だって見えやしないだろう」
「どうした悟空?まだお前は掌の中だぞ?」
「何?へ、今のは手加減してたんだ。今度は本気で行くぞ!」
ババビューン……!!
「ぜ〜ぜ〜。ここまで飛べば、もう世界の果てまで飛んできたはずだぞ」
「どうした悟空?まだまだ、お前は掌の中から抜け出していないのだぞ?」
「ぎゃふん!」
この話は果たして、一体何を指しているのでしょうか?
実はこの話には裏があります。少し考えて下さい、いくらお釈迦様でもそんなに掌
が大きいわけがありませんよ。お釈迦様とは掌の大きさでなるものなのですか?この話の
真相はつまり、筋斗雲で何とかお釈迦様の掌から抜け出そうとしている悟空に合わせ
て、横でお釈迦様は必死に走っているのです。そりゃもう、息を荒げて全力で。
GMの仕事もこんなものです。
GMは、GMの創ったシナリオという世界は、プレイヤーから信頼をされなければ いけません。自分の行動をGMがちゃんと受けとめ、世界自体が反応を返してくれる。 この基本的な信頼関係さえ確立していれば、たとえ鬼と恐れられようと、悪魔と罵ら れようと(この辺りの下りと私個人の評判とには、何の関係もありせんので、念のた め)、GMは気にする必要はありません。プレイヤーが、自由に歩くことの出来る世 界。GMはこの世界の構築のためにその全力を尽くすべきであり、よってGMはなる べく自信のある様な顔をして、今日も撤退の出来ぬ、TRPGと言う背水の戦場へと向か うのです。