視線


私がその視線に気付いたのはいつのことだろう?
はっきりとはわからない。
だが気付いた時には私は誰かに背中を見つめられていた。
それが誰のものかはわからない。振り返っても誰もいない。
私は気のせいだと自分に言い聞かせ今日まで過ごしてきたが、もう限界に来ている。
その視線の主は、少しずつ少しずつ私に迫ってきている。
そうはっきり感じたのは、私が妻を抱いている時である。
それまでは家にいるときは視線から解放されていたのだ。
ところが、とうとう私が家の中にいる時までその視線が向けられるようになった。
私はその事に気付いて、それどころではなくなった。
だが妻は私のその態度に不満を露わにした。
私は妻に「誰かが見ているんだ!」と叫んだ。
すると妻は、しばらく部屋を見回して、「どこで?」と無神経に言った。
私は腹立たしげに「それがわかったらこんな風に苦しんだりしない!」と妻に八つ当たりし、
掛け布団を頭からかぶった。
妻は「ふん!」と私を笑い、背を向けて眠った。だが私は眠れなかった。
翌朝、私は会社に向かった。視線は私を追ってきている。誰が?わからない。
私は振り返った。
私の後ろには私同様会社に向かうサラリーマンやOL達がぞろぞろと歩いていた。
私は道の端に寄り、ガードレールに腰を下ろし、しばらく通りを眺めた。
見れば見るほど、視線の主はこいつではないか?という人物が通り過ぎて行く。
だが彼らは私のことなど全く関心を示さず通り過ぎて行く。
そんな間にも視線は私に注がれている。
私は視線の主を捜すことをあきらめて会社に向かった。
だが会社の中でも見られている感覚は消えない。
すると視線の主は会社の、それもこの部屋の人間か?
いや、それならもっと前からそう感じるはずである。
それに私は同僚達からじろじろと、それも家にいる時まで見られるようなことはしていない。
そこで私は自分が誰かに監視されるようなことをしたのだろうか?と考えた。
例えば、この視線の主が探偵であるとするならば、
その探偵を雇ったのは誰か?妻だろうか?いや、それはない。
もし妻が依頼したのなら、どうして妻と一緒にいるときまで監視しなければならないのか。
では会社の人間か?理由が見当たらない。私は小さな会社の平社員だ。
はっきりいって出世コースからもとうの昔にはずれている。
このことからライバル会社からというのもあてはまらない。
ストーカーというのはどうだろう。だがこんな冴えない甲斐性なしを
ストーキングするような物好きがいるとは思えない。
それに私は妻以外の女性と寝たこともない。では視線の主は誰なのだ?わからない。
私はそれからもその視線の主を捜したり、考えたりした。
だが、どうしてもわからない。
それから数日が経った。
私は夜も眠れなくなり、食欲は落ち、仕事にも集中できなくなった。
体は見る見るうちに痩せこけ、無精ひげは伸び、目の下には黒いくまができた。
神経はかなり参っていた。何か物音が聞こえる度に、びくびくし、人を見ると疑う。
私はもう誰も信じられなくなっていた。妻とも寝室を別にした。
会社に向かう気も起きなかった。だが家にいると、妻がいる。
妻は最近私を見る度にヒステリーをあげる。
だから私は人のいないところあてもなくを彷徨っていた。
この頃になると一カ所にとどまることが怖くなり始めた。
視線は確実に私との距離を縮めはじめている。立ち止まれば捕まってしまう。
私はビルとビルの合間を縫うように歩いた。しばらく歩くと突然通りにでた。
そこは会社から五百メートルくらいの所だった。
どうして私はこんな所に来たのだろう。犬の帰省本能のようなものだろうか?
そうだとしたら家ではなく、会社に戻ってきた私にとって家族とはなんだったのだろう?
私が毎日戻っていた場所はなんだったのだ?私に何を与えてくれた?
そう考えると涙が溢れてきた。私は孤独だ。心を許せる者など誰一人いない。
私は急に会社が懐かしくなってきた。恋しいと言っても良い。
私の帰るべき所は会社なのだ。そうだ。会社に行こう。
私はよろよろと走り出した。玄関口を通り過ぎ、エレベーターに乗り、
私の務めていた部署へ。私は入り口の扉を開き、部屋に入った。
そこには同僚達が、私の同僚達が待っているのだ。
だが彼らは私のことなど待ってはいなかった。
それは私が入ってきたときの彼らの態度ですぐにわかった。
彼らは私を見て動きを止めた。まるで物珍しい動物でも見るような目で私を見つめる。
その目が私を追ってくる視線と重なる。私は恐怖に体が震え出す。
ここは私の帰るべき場所ではなかったのか?
そう思っていると、係長が私の所へやってきた。
「今までどうしたんだ?無断で休むなんて。それになんだその格好は。ぼろぼろじゃないか」
係長が私の顔をのぞき込む。目が見ている。
「俺を見るなぁぁぁ!」私はその顔を右手でなぎ払った。
係長は不意を突かれ、床に倒れた。めがねが転がる音がした。
その様子に同僚達が駆け寄ってくる。どこか遠くからOLたちの悲鳴が聞こえる。
駆け寄ってきた同僚の一人が私の腕を掴んだ。私は何事か叫びながら彼を突き飛ばした。
いったい私のどこにこんな力があったのだろうと感心するほど彼は吹き飛んだ。
私は走って部屋を出た。エレベーターが来ないので誰も使わない階段を駆け下りる。
そして玄関口を抜け、通りに出た。
数人の通行人は私が猛烈な勢いで出てきたのを不思議そうに見ている。
「見るなって言ってんだろう!」
と私は彼らに怒鳴りながら走り去った。
しばらくして、息も切れてきて、私は立ち止まり膝に手を突いて中腰で振り返った。
彼らの追ってきている様子はない。
私は安心したのもつかの間、再び視線を感じた。
「どこだ?どこにいやがる?出てこい。それとも俺が探し出してやろうか」
そうわめき散らして、私はもう自分自身の制御ができなくなっていることがわかっ た。私はぐるりと一周回った。自然と笑みが漏れる。
「出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。
出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。
出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。
出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。
出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。
出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。出てこい。」
私はつぶやいている。そうなのだ、私はつぶやいている。
誰がって?私だよ、私。わかんないかなぁ。
「出てこぉぉいぃぃっ!」私は空に向かって叫んだ。
すると幾分気分がすっきりした。周りに人だかりができている。
「おまえらか?おまえらなのか?」私がゆっくり近付くと彼らは後ずさりする。
「なんだよ、逃げんなよ」
くすくすと笑いがこみ上げてくる。
誰が笑ってんだ?ん?ああ、おれか。なぁんだ、俺だよ。おかしいなぁ。
くすくす。誰が笑えっていった!出て来やがれ!
あれ?もしかして今のも俺?ごめんよぉ、みんな。ふふふ。
私の視界にふとビルが映った。
そして私はひらめいた。人生最高のひらめきと言ってもいい。
そーだぁ、そうなんだぁ、俺はやっと気付いたぞ。
うん、そうだ、そうしよう。あのビルに上るのだ。
ビルの入り口を抜け、エレベ−ターで屋上へ。
ん?鍵がかかっている。こんなものはこうだ!こうだこうだこうだ。やった!
壊れたぞ。あれ、手から血が出てる。なんでだろう?おかしいなぁ。
まぁいいや。俺には関係ないし。さあて、ここで。よっこいしょ。
クククククク、初めからこうすれば良かったのだ。
私は安堵からか、幾分正気を取り戻した。
私は屋上のフェンスにもたれて座っている。このビルはこの辺りで一番高い。
それもダントツに高い。私を見たいのならこの屋上に来なければならない。
勝った。私は勝った。完全勝利だ。
誰かは知らないがきっと悔しそうにしていることだろう。
私は口元を押さえた。だが指の間から笑いが漏れる。
最高の気分だ。もはや視線は感じない。一体いつ以来だ?そんなことはどうでもいいことだ。
とにかく私は解放されたのだ。もう絶対にここを離れない。
だがその時だった。私のすぐ後ろ。
ほんのすぐ後ろから、私を射抜くような視線が送られてくる。
なんだ?何かが伸びてくる。私は振り返ろうとした。体が言うことを聞かない。
来る!すぐ後ろだ!来るな!来ないでくれ!
私は目を見開くことしかできなかった。

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