飫肥城下まつり (宮崎県日南市) |
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飫肥城下まつりを観光してきました。 (H19.10.20ー21.) この飫肥城下まつりは今年が第30回で、好天に恵まれて多くの観光客で賑わっていました。 <前夜祭> 城下まつりは、飫肥城趾・大手門前の泰平踊りから前夜祭がスタート。 泰平踊りは朱紐で飾った折編笠を被った武士姿の踊り手たちが武芸十八般を織り込んだ所作で優雅におどり、そのあとに中腰姿で力強い奴のおどりが続く。 泰平踊りに詠われる歌詞は 「♪千代のはじめのひと踊り、松坂こえてサアーサアー 旅衣きつつ馴れにし舟人の ちらと恋風帆に受けて 思う港にこがれてぞ・・・・・♪」と 尺八、三味線、太鼓を伴奏に、江戸時代の泰平の世を歌っている。 泰平踊りに続いて琉球舞踊の協賛の踊りがあり、沖縄の華とされる優雅な舞を観賞できました。 この泰平踊りは現在、宮崎県の無形民族文化財に指定されており、泰平踊り保存会によって受け継がれている。 踊には亀組(本町組)と、鶴組(今町組)があり、本まつりでは地元の小学生や幼稚園児たちも力強く踊りに参加していた。 泰平踊りの原型は江戸時代・元禄年間(18世紀初頭)に踊られた盆踊りが起源とされている。 この時代の飫肥藩は太平を謳歌していて、武家は三京踊、町民は歌舞伎・大奴・子奴の踊りを楽しんでおり、毎年8月の盂蘭盆には、総役所または報恩寺前(楠原)で酒肴を携えて見物していたようだ。 しかし、天保年間(19世紀中期)になると幕府の財政難と武士の困窮などで、武士踊は廃止され、本町と今町の町民の歌舞伎踊りのみが残された。 その後、明治中期まで泰平踊りは中断していたが、明治33年に藩祖・伊東祐兵没後300年祭で復活し、小村寿太郎が帰郷(明治40年)の際にも踊られている。 また、泰平踊りの歌詞は参勤交代時のお召関の舟歌で、南日向の海岸の地名が多く詠われている。 <本 祭> 10月21日(日)午後、本町通りを会場にして、日南市議会議員団、現在の城主・飫肥小学校生の踊で本祭りがスタート。 祭りは田上八幡神社の弥五郎さん、小学校マーチング、近隣の獅子舞と盆踊り、沖縄エイサーと沖縄舞踊、泰平踊り(本町組、今町組、飫肥・吾田小)とバラエテイに富んだ城下まつりでした。 |
![]() 飫肥城大手門 |
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![]() 泰平踊り(武士踊) |
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![]() 泰平踊り(奴踊) |
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![]() 泰平踊り(歌い手) |
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![]() 協賛の沖縄舞踊 |
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![]() 先導の日南市議員団 |
![]() 飫肥小学生たち(現城主?) |
![]() 田上八幡神社の弥五郎さん |
<飫肥城下町の歴史メモ> 1.古 代 飫肥(オビ)の地名は律令時代(8〜9世紀)の日向国・那珂郡・飫肥郷に始まるようだ。 10世紀初頭には、律令体制の公地公民制が崩壊して荘園制に移行し、貴族や寺社の私有地化が進んでいる。 この時代、日南海岸は一大製塩地帯だったようで、現在の小村寿太郎記念館(飫肥城・大手門傍)の建設用地から製塩土器が、また狐塚古墳(日南市)から製塩炉の石組と製塩土器などが多く出土している。 2.中 世 鎌倉時代には地方官として守護が配置され、日向および薩摩は地頭・島津氏の支配下にあった。 この時代、現日南市南部と南郷町は飫肥南郷として、日南市中・北部と北郷町は飫肥北郷として統治されている。 室町時代の南北朝期(14世紀中期?)に、島津氏は日向の南部地区を支配する拠点として、酒谷川流域に飫肥城(現飫肥城趾)を築城している。 室町後期の戦国時代になると、飫肥城の支配を巡って日向の戦国大名・伊東氏(都於郡城(現西都市)を拠点に勢力拡大)と島津氏との抗争が頻発したが、1568年に伊東氏(祐兵)が飫肥城主となって一段落した。しかし、伊東氏はその直後に木崎原の戦いで島津氏に敗れて豊後(大友氏)に落ちのび、豊臣秀吉に仕えた。 豊臣秀吉が全国統一した安土・桃山時代に、秀吉の九州征伐(1587年)に先導役を務めた伊東祐兵(藩祖)はその功績で飫肥藩(2万8千石)に復帰し、文禄検地で3万6千石になる。 3.近 世 1600年に勃発した関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康が勝利し、江戸幕府の時代が始まる。 この関ヶ原の戦で西軍についた大名の領地は没収され、東軍に味方した大名には恩賞として領地が与えられた。 東軍側に加担した飫肥藩は伊東祐慶(2代)に5万7千石(→5万1千石)の領地が与えられ、そのあと明治維新に至る14代祐帰まで伊東氏が飫肥藩を統治した。 その藩政のなかで、5代祐実は郷士制の制定や盆踊りの公認などによって藩中興の祖とされる。10代祐鐘は林業(飫肥杉)を、11代祐民は日向和紙を産業として発展させたこともあって、江戸時代の飫肥藩は日向のなかでは豊かな藩だったようだ。13代祐相は藩校・振徳堂を建て、儒学者の安井そう州・息軒親子を迎えて学問を奨励している。この藩校から明治時代に活躍した小倉処平(西南の役で戦死)や小村寿太郎(ポーツマス条約全権大使)を輩出した。 この飫肥藩でも江戸時代に百姓一揆が数件記録されており、農民生活は厳しかったようだ。 4.近現代 1867年の王政復古によって、265年続いた江戸幕府が終わり、明治時代が始まる。 明治政府は近代化に向けて国内の構造改革を推進し、明治4年(1871年)に廃藩置県が断行される。 当初は旧藩がそのまま県になるが、半年後に(飫肥県)は都城県に編入。明治6年に宮崎県を設置→明治9年に鹿児島県と統合→明治16年に再配置で現在の宮崎県域となる。 明治22年の市制町村制施行によって飫肥村となり、明治33年に飫肥町へ。昭和25年に飫肥、油津、吾田の3町と東郷村が合併して日南市が誕生する。同30年には鵜戸村と細田町、同31年には酒谷村と榎原・大窪と合併。 昭和54年に飫肥城下が復元され、国の重要伝統的建造物群の保存地区に選定されている。 | |||
![]() 現在の本町通り (城下まつりのメイン会場) |
![]() 振徳堂 (江戸後期の藩校) |
![]() 小村寿太郎碑 (生誕地) |
![]() 忠霊塔 (西南役、日露、日清、第二次大戦の慰霊碑) |