
「木炭の話 俳句」
木炭の運搬に炭俵が使われていた時代、富津には織本花嬌という女流俳人がおりました。
西川村(千葉県富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生まれ、本名は園。
富津村名主織本嘉右衛門に嫁ぎました。
織本家は代々名主の家柄で、家業は酒造業、金融業を兼ねた豪商でした。
夫の嘉右衛門が俳人であったことから、花嬌も俳句をたしなみ、
雪中庵蓼太や、小林一茶など当代一流の俳人と親交がありました。
小林一茶は花嬌の三回忌に、「目覚しの牡丹芍薬でありしよな」
「何をいふはりあいもなし芥子の花」と詠み、その死を悼むほどでした。
百ヶ日忌には「草花やいふもかたるも秋の風」「蕣(あさがお)の花もきのふきのふ哉」と詠草しています。
織本花嬌の俳句は女性らしい、優しい視点で表現されていて私は好きです。
「朝空や柳の河岸の炭俵」などは、昔の湊川の風景さながらだそうです。
炭を焼いて、俵に詰め、川から横浜など神奈川まで船で運んでいたのです。
船が着く街がそうであるように、湊も楼閣があり、色街とまではいかなくても、
川岸に柳の揺れる、風情のある湊町だったようです。
柳の揺れる川と橋の情緒を求め、石原裕次郎が映画の撮影に訪れたことがあります。
この歌も織本花嬌の弟が金谷の華蔵院の住職であったことから、
そちらを訪ねた折に湊の風景を見ながら詠まれたものかもしれませんね。
炭俵も今は見かけなくなりました。昔は夜なべ仕事でつくったものだそうです。
ワラで作ったものと、カヤで作ったものの二種類ありました。
木炭がこぼれないように、椿や桜の小枝でふたをし、その上をワラ縄で束ねました。
不要になった炭俵は焼いてワラ灰を作りました。昔の暮らしは無駄がありませんでしたね。
見習わなければいけないと思います。
織本花嬌の墓へは、JR内房線青堀駅からバス富津公園行き「大乗寺前」下車徒歩1分
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