ヴァチカン市国,システィーナ礼拝堂の天井と壁面に描かれた,フレスコ画の大作。ヴァチカン市国正面のサン・ピエトロ大聖堂からではなく,側面のヴァチカン博物館入り口から入場し,見学コースにしたがい進むと礼拝堂にたどり着くことができる。
「創世記」は1512年完成。 画像資料
「最後の審判」は1541年完成。 画像資料
彫刻家ミケランジェロが絵を描くとどうなるのか,当時の人々も興味津々だったに違いない。なんたって,ミケランジェロが天井画「創世記」に着手した1508年,すでに礼拝堂の側面壁にはボッティチェリやペルジーノ達先人の壁画が描かれてあったのだから。しかも若い頃の師匠ギルダンライオの壁画もあったりして。そのお歴々の作品の真上の天井いっぱいに,4年かけて崇高な絵を描いたわけだ。
注文したのは,法王ユリウス2世。怒りっぽく野心家の法王は,やる気をなくしたりする(もともと制作したくなかった)ミケランジェロに対し,説得し,喧嘩し,日々制作状況をチェックしていたという。ミケランジェロも負けじと,助手をみんなクビにしたり,怒って数週間描かなかったりと,エピソードは多い。
しかしミケランジェロの創造力・構成力と技術・根気はとんでもなかった。天井画を描くためにはビルの工事のように足場を組む必要があるが,彼はその足場の上で体を反って天井を向き,顔や体に落ちてくる絵の具をものともせず長時間制作していたのだ。「創世記」が完成したとき,彼は37歳だったが,老人に見えたという。
「創世記」(または「天地創造」意味は同じだ)は名の通り,神がこの世をつくり,その後アダムとイブの創造,彼らの楽園追放,ノアの箱船と大洪水といった(聖書上の)出来事を描いたものである。一つ一つ見ても感動できるが,礼拝堂の天井を見上げ,首が痛くなりながら全体の調和を感じていると,ルネサンスとは何なのかがわかってくる気がする。神という超自然の存在を感じつつ,現世を前向きに生きようという気持ちになったりして。
ところが・・ミケランジェロは後年,同じ礼拝堂の壁面いっぱいに祭壇画「最後の審判」を描いたのだ。60歳を過ぎても衰えぬ制作意欲。というか実際は制作したくなかったらしいが,今度は法王クレメンス7世の命で制作することになった。ミケランジェロの壮大な構想のために,窓は塗り込められ,先輩の描いた壁画の上(一部だが)に作品が描かれた。そのため,日光の入り方も計算して描かれた先人達の絵は,ミケランジェロ作品の引き立て役になってしまった。
「最後の審判」は聖書にある内容を描いたもの。最後の審判が下される日,生きている者も死んだ者も閻魔大王ならぬ神様の前につれてこられ,アウトかセーフかを審判されるのだ。アウトならもちろん地獄。絵を見れば一目瞭然だが,地獄行きの人々が描かれている。
圧倒的なこの絵の功罪は,イタリアルネサンス以降に描かれたという点だと思う。この絵が描かれた頃,イタリア,特にローマはローマ劫掠(ごうりゃく)と宗教改革により,ルネサンス精神は失われ,ヨーロッパ列強の支配が強まりつつあった。不安な時代背景から,調和と安定がキーポイントのルネサンスから,後のバロック美術へ移る途中のこの時期の芸術をマニエリスムと呼ぶが,「最後の審判」はその先駆けであったのだ。不安定なポーズとテーマ,世の中を反映していたのかもしれないこの絵は,見る人を圧倒させるとてつもない強さがあるが,ほかの壁画やミケランジェロ自身の作品である天井画を食ってしまっているように思うのだ。
だから個人的には,システィーナ礼拝堂の作品達は部分ごとに見た方がよいと思うのだけれど。あの”部屋”に入ると,どうも後ろを振り返って「最後の審判」ばかり見ちゃうのだ。(礼拝堂の入り口壁面に絵があるから)
やばい,この二つの絵について問い合わせがあったので書いたけれど,やっぱり独断的な批判になってしまった・・。ところで「最後の審判」での人物は,本当はかなりの数が裸。ルネサンスの真髄を認めない時代を反映して,後に法王ピオ4世の命によって腰布が描き加えられてしまった。きゅうくつな時代になってしまったのであった・・。
いろんな法王がいたんだなあ。
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