[入門から63年]庭匠平岡次雄 

庭創りに励んでいる 「石組は人には任せられない」

コンセプトはもっぱらおもうが儘に石組を・・・・・

  • 2010-1-28
  • いそいそと現場に向かった 現場はガチガチに霜で凍てついていた 今日も寒そうだな!先ずは縁先に腰を下ろし今日一日の石組進捗の案を練った
  • 今回は30〜50個ほどの石を使って石組本意の庭創り 今日も石と格闘の一日になりそうだ 石と相撲を取って今日が三日目 此の石組の主枠が組み終わる日なのだが なんだか雲行きが怪しくなってきた 天候じゃなくて石組の方の雲行きなんだな!
  •  なかなか思うようには進まないひとつつまずくとそれがたたって後々までも尾を引き 全体の組み直しに至ることはしばしばである「余り困らせるなよ!」と石にぼやいてみた 結果的には今日の仕事が先に延びてしまった 仮に据えた手水鉢にメジロが番(つがい)でやってきて水浴びをして飛んでいった 毎日のようにやって来るので施主がメジロに食べさせようと半分に切ったミカンを木の枝に刺しておいたものをヒヨドリがお先に失敬して横取りしていった ゴミ出しの日を知っているカラスが近くのフェンスで生ゴミの袋が積まれるのを待っている それは鳥の生きるための知恵だなと感心した 一月(いちがつ)も終り 朝霜がたつ日の日中は割にポカポカと暖かい 縁先で弁当をひろげていると足下に蟻が数匹何処に行くともなくあっち行きこっち行きしているので食べ物探しているのかな?と思い鮭の欠片とご飯粒をおいてやった 自分の身体の10倍くらいの鮭の欠片を軽々と後ずさりで引っ張っていった するとそれを嗅ぎ付けた3倍ぐらい大きい蟻が鮭の欠片を咥え小さい蟻毎奪っていった それが自然の掟 厳しい生存競争 弱肉強食なんだ  鳥にしてみれば私の創る庭も自然なのかな?樹木から石に飛び移り二三羽が愉しそうに戯れる様にしばらくの時を奪われた
  • 入門当時

 

入門から10年

入門から10年経てば一区切りで、私も小さい庭作りぐらいさせて貰えるだろうと思っていた、しかし、どっこいそうは問屋が卸さない。

その頃も、うるさい先輩達、二つ年上の兄が居て、当然では有るが、職場では兄は私より2年先輩であった だから優先権を握っている。兄は又、この仕事に適性が有るのか、要領がいいのか、叱られる事も少なく、先輩達に調子を合わせるからか先輩達にも大事にされ、受け入れられていた、親方(親父)の指揮取る庭作りに口出しても、それを参考にされていた。
そんな傘下に居てては、何時自分の番が回って来るかわからない。でも兄のように私も、庭作りの核心に口だししたり、核心に触れて庭作りの実感を味わいたかった。私は言葉使いが悪いのか、口下手なのか、言葉にケンが有るのか、私が口だしすると、「まだお前が口だしするのは早い」とか、「お前の出る幕では無い」とか、私の言い分を聞く段階以前の処で拒絶され、又私自身も、私が加わればその先の成行きが暗黙の内に分かっている様なところが有って、それはいくら気持ちが早っても親方(親父)の指揮に、兄も、私もが加わると仕事が前に進まないだろう。この仕事の適性云々より私はこの庭仕事の中で基本的に好む作業がなかった。日頃の親父の言葉なり性格上この仕事を拒む訳にいかず 何時入門したとはなく親父に「手伝いにこい」と言われて ずるずるとみんなについて仕事している中に時には興味深い仕事もある するとつい口出ししたくなる事もある しかしどうせ私が口だししても怒られるのが落ち 先入観にそんな事が定着していてつい口篭り、内に秘めてしまう繰り返し、私たちの時代、仕事柄(自営業)二代目は長男が継ぐ事は常識であり特に京都は格付けが厳しく次男の私を親父は兄と同等に扱う事はなかった。
[イ]入院
人間つき合いが下手なのか、生まれ付いた位置が悪いのか、性格が悪いのか、そんな事で悩む日々が続き、とうとう神経科に入院することに成ってしまった。
悩みと言えば仕事の事ばかりでなく、青春期 若干ハタチそこそこの私には、自分の生きざまを他人(ひと)と比較して落ち込み、毎日毎日奴隷の様に食って、寝て、働くそんな平凡な繰り返しがストレスとなり神経失調症状で入院という結果となった。
入院は1カ月半そこそこだったが、入院中に脳裏を駆け巡ることは、《生きる》て一体何なのか? が反芻されるだけで、容体には何の変化もみられなかった。
私が入っていた病室は2人部屋で、同室の相手の患者さんの症状が重くて、何時となく心でその人との比較をして、この人の事を思えば私なんか病気の中に入らない位の症状だと、多少の安堵感があった。

私がその暗いトンネルから抜け出すには、森田療法と言う治療を、と言うより森田療法をマスターせねば成らなかった。森田療法とは哲学的、心理学的な療法で、=有るがままに=と言う療法である。【それは入院から3日間は臥辱期間と言って食事、用足し以外はズーと寝てなければいけない。そしてその間は人と一切口を利いてはいけない。4日目から毎日日記をつけ、先生のチエックを受ける。例えば、先生から「有るがままに居て、1日の経過を書きなさい」と言われ、私は、『今日の昼頃、胸が締め付けられるようで、気持ちが落ち込み、淋しい気分に成った、だから有るがままに居る様に努力しました。』と書くと、先生が赤ペンで「努力しなくてよい」とその部分のチエックがある。と言った具合にところどころ印が付いて日記が帰ってくる。その他食後に精神安定剤の支給、個々の症状に応じて軽い作業療法等がある。私にはこの=有るがままに=を会得するには相当時間が掛かった。
 又 この=有るがままに=と言う言葉は後々私の生き方を左右する無くてはならない言葉となった。
入院中に思うことは、やはり更生出来るのかな? もう駄目なのかな?。 かと言って自分の命を経つだけの勇気もなく、日々の生活に疲れ、人生に悲観し、病気の私とそれを見守る私がそこに居て、病気の私の自分は駄目でも、見守っている自分はまだ望みが有るのかな?そんな暗中模索の日々が続いた。そんな暗い心に、かすかな明りが見えたのは、「私はもう終ったのだ」と
思った時だった。そして、もしこの先私に残る人生が有るなら、それはプラスアルファーの人生だから、それはその全てを =本物の庭師= として生きようと心に誓っていた。
(ロ)転職
入院に至る迄には、数々の転職をした。例えば、建築関係のセールスマン、単車のセールスマン、ボーイ、ゴム工場の職工、電気関係会社、その他精神科病院の看護人迄、ジャンルを問わず手当り次第に転々とした。しかし転職の動機は親父に対する反抗だったから、身体の何処かに庭師の血が流れているのか、最悪の時は庭仕事、親父の傘下に戻ればいい、そんな甘え、受け皿が
有ることで、どの仕事も身に付かなかった。
(ハ)更生
入院後半は、気持ちは本物の庭師として生きようと意気込んでも、よれよれの身体は、時々その決意を鈍らせた。今更親父の傘下に? そんな感情的な面が退院の足を引っぱっていた。でも病院でマスターした 有るがままに の精神で行ける処まで行こうと鈍る気持ちに鞭打った。
高い敷居をどの面さげてとも思ったが、時間が事の解決をしてくれたのか、私の退院を親父、兄、先輩達は快く迎えてくれた。私の入院中に、親父達の間で何を話会われたかは定かで無いが、私達のこの仕事(庭仕事)は芸術性のある職種で、庭の構成は通常1人でやるのが当り前、他のものが兎や角口だしすると、構成していた人のイメージが壊れ、まとまりの無い作品になってしまう恐れがある。こんな常識的な事が話し合われたのか、或日『ツグオ!今度の仕事、お前一度やってみるか?』と薮から棒に親父から言われた。
私にしてみればまさかの突然の出来事に、一瞬時間が止まり、目の前が真白になり、動悸が打ち、宙に舞う気持ちだった。かねがね現場を任せて欲しいとは思っていたが、こんなに難なく私が庭作りが出来るとはと、さて念願の庭作りを任せられても、戸惑うばかりで、何をどうすれば良いのか、人の仕事の口出しは簡単だったが、さてとなれば、恐ろしさに振える自分を覚えた。
(ニ)監督の座
「ツグオも入門から10年近く成るのだから、一度お前も庭作りさせてやる。そして皆で決めた事だが、わしも、兄ちゃんも職人さん達も口出しは一切しない。お前の思うように動いてやる!」 あれだけ反抗し、体が、がたがたに成るまでして、掌中に納めたこの立場、なんと居心地の悪いこと、それはそうでしょう、私の下働きが皆、兄とか先輩達だからだ。
その時期には数名の後輩は居たが、私とその人達では仕事に成らない。折角念願達成したのだから、ここで弱音を吐く訳にはいかない。本当に庭師の端くれだが、今こそ=有るがままに=をモットーにやるしかない、と開き直ったのは庭作りにかかって1週間程してからであった。
庭作りの監督は、自らスコップを持って現場で働くと、庭全体に目が配れないから、縁先に腰掛け働く人に指示を送らなければ成らない役目で有るが、私には経験の無い事だけについ、日頃の体制に成ってしまう。そうすると兄や先輩が「監督は縁先から見てなあかんやんか!」と冷やかし半分で、逆に指示される始末である。
針の筵に座らされた心地で、指示を送ってはいるものの、様に成らない自分の指揮ぶりを感じながら、それでも同時に段々その気に成る自分を覚えていた。兄、先輩達が私の意に反した仕事をしているとき、そうでないと思って居ても、何か恐れおおくて、「今している、そこんとこ、そーと違うねんけど」となかなか言えなかった。
それでもそのまま進めば大変だから、思い切って声を掛けてみた。そうすれば先輩の一人が「おー監督さん何か言うちゃはるでー」と言いながらも指示通り手直しを不本意顔だったがしてくれた。終始緊張と不安、自分に問いかけ自分で答え、口だししないと言った兄、先輩達が、私を試すがごとく、何一つ逆らわずに働いてくれた事が嬉しかったが不気味でもあった。
(ホ)作品1
この庭作りは私の婚前のもので、結婚記念作品となり、今もその原型をとどめている。
悪戦苦闘の末、庭は完成したが、その庭に対する施主の言葉が気に成った。施工中親父は座敷から、庭作りの成行きを施主と話をしながら見守っていてはくれたが、私にはアドバイス一つなかった。その間に親父が施主に、変則的な我々の形態を説明して居たのか、施主の不審顔も無かった。
いよいよ私は、まな板の鯉、後にも先にも進退極まる処で、じーと皆の言葉を待っていた。勿論施主の言葉が一番大切だが、親父始め、兄、先輩達の意見が、入試の発表の時の様にドキドキしながら、永い永い時間を待っていた。
『若いのに、よーやらはんなー奇麗になったわ、やっぱりお父さんの、お仕込みのせーや、おおきに!』と奥さんの言葉を頂いたとき、本当は飛び上がる位嬉しい筈なのに、何かまだ心の底に物足りない物が有った。ご主人も会社から帰って来るなり縁側に来て『おー奇麗になたな、若いのになかなかやるなーおおきに、おおきに!』と言って下さったのに、私の気持ちは重かった。それは親父始め、兄、先輩達に帰ってから何を言われるか分からないからだった。作品に自信など有るわけないし、やはり先ず、あの庭が親父の目にどの様に映ったのか?が早く聞きたかた。
夕食のとき親父は『まあ ようやった、初めてにしては上等や』とだけ言ってくれた。その言葉の裏で親方(親父)は施主との会話に苦労していた様に思った
それでも私にしてみれば、先ず第一難関を突破したように思えた。さて兄はどの様に思ってるのかな?兄は親父の代弁をするように、ぼちぼち言い始めた。細かい部分でいろいろ、『あの時お前こうしたやろ!あれはなーこうこうこうやねん、あこはもうちょっと、こうしたらよかってん、あそこは俺やったらこうするなー』と詳細に渡り指摘された。何時もの兄との関係だっら、兄にあれだけ指摘されれば腹が立つのに、何故かこの日に限って兄が凄く偉い人に感じ、兄の意見が身に染みるくらい嬉しかった。2年先輩の経験はもの言う資格が備わるんだなと思うと同時に兄も同じ道を先に通っているんだと納得した
先輩、職人達も各々の立場で各々に、思いや会話が有っただろうが、変ってきたことは、私との接し方だと思う。極端には変らなかったが、日に日に何か以前と違う感じを受けるように成ってきた。私は親方の息子で有ることで、今回の仕事も、先輩達をおいて出来た、それは私にとっては大きいメリットである。しかし親方の息子だけに風当りの強いことも多い。『やはり親方の息子やな』と『親方の息子は徳やな』などの言葉が、その後私の耳に入ってきた。親方は従業員と身内とを区別しない人で私たち兄弟と職人さんとトラブった時は私たち兄弟が叱られた、先輩始め職人さん達と私に差を付けてくれたのは、是が始てであった。私がもし勤める身なら、大勢居る先輩職人達を追い越してまで私に庭作りなどさせては貰えなかっただろうと、その時しみじみ自分が親方の息子であるからこそ大事な仕事を任せてもらえたと喜びに転じていた。
(ヘ)希望
興奮も醒め平常心に戻った時、作庭後いろいろ言ってくれた兄の言葉が、また私の心に重くのし掛かってきた。兄の言った通り決して否の打ちどころの無い完璧な庭を作った訳ではない。上の人から見れば、かなり目だるい作品だったかもしれない、でもその庭に付いては『まあ ようやった、初めてにしては上等や』と言っただけで、親父はそれ以上何も言わなかった。
このとき程親父を大きい人と思い尊敬したことは無かった。しかし親父の言葉の裏には、私に対する意味深いものが秘められていた様にも感じざるを得なかった。
親父は何時も、『一を知って十を悟れ』が口癖の様に言うだけで、何事についても多くは語らなかった。私はやはり、この出来上がった庭に対して事細かく批評なり批判、或は未熟な点の指導を仰ぎたかった。親父の立場になって今の私が思うことは、あの時の親父の指導は完璧で。例えば『今お前に何を言っても、今すぐお前の実力が変化するものでもない』、『学ぶべきものは時間を掛け、汗をかいて自分自身の手でかち取るもの』『言わなければならない事は一杯有るが、それを並べ立てても一時的に理屈を覚えるに過ぎない』『庭を理論付けるには、10年早い、理論先行の庭など作って欲しくない』『仕事は体で覚え、お前自身にしっかり感覚を付けることが大切だ』『今何か覚えたいと思う気持ちが有るなら、その暇に山でも川でも観に行け、わしが教えるより自然が教えてくれる』そんな風な意味があったのではないかと今振り返っている。
そのときは、自分の監督指揮した庭が完成した事で、自分でも出来るのだと自負心が心のぬくもりになり、「よーしやるぞ!」と将来に向けて希望が涌いてきた。

(ト)設計図1
庭作り依頼の時『植木屋さん庭の絵でも描いてきてくれるか』と施主の注文に、決って親父は『絵は私の頭の中に描いてます』と返す有様だった。
その当時庭の設計などしている業者は殆どいなかった。しかし今日までの親父なら、頑として受け入れなかったことだが、今回は何を思ったのか?夕食のとき、めったにしない仕事の話を持ち出した。『今度の仕事なー いっぺん絵を描いてみたらどーやと思うねんけど、お前ら描いてみいひんか』何時成らぬ親父の革命的な発言に、兄も私も何時もと違う夕食の雰囲気に、思わず箸を置いてしまった。「へー何で?」兄弟二人がキツネにつままれた様な顔で、二人の視線は親父に向いた。
『これからの植木やはなー 絵ぐらい描けるようになっとかなあかん』『わしみたいに、庭の絵は頭の中にかいたーる では通らん時代になる』『どーやユキオ(兄の名前)』兄も私も無言のまま親父の次の言葉を待っていた 『今度の仕事、上手に絵を描いた方に任したる!』是は天地逆に成るくらい思いもかけない、凄い出来事だった。挑戦意欲と体中に鳥肌がたつような、未開拓の土地に踏み込むような思いと、体も心も休む体制に入っている夕食時の爆弾発言に、身体の血が逆流するぐらいだった兄は即座に、『俺は、親父と同じやり方で通す』と言い切った
そのとき兄にも異変が起こっていた。兄は絵が苦手だった。やはりこの瞬間に親父の傘下に革命が起こり、私達兄弟の進路が決定付けられたようなものだった。その時私は責任を一人で背負わなければならない重いものを感じていてた。『そしたら、ツグオ お前やってみるか、今度の仕事ちょっと大きいけどやれるか?』私は武者振るいしながら『やる!やる!』と二つ返事で引き受けたものの私にも自信等あるわけはない 私が絵を描く事によってその大きな仕事を任せてもらうえるのだと思えば何を於いても絵を描かなければ成らないと挑戦意欲がめらめらと湧き起こって来た。
(チ)絵心
中学生の時絵の先生から、『ヒラオカ君、専門的に絵の勉強してみないか?』と先生に図工の時間に、描いた絵を誉められた事があった。先生のその言葉は、私に『絵心が有るぞ』と絵心の適性が有ることを、示唆して戴いた様に心に止まっていた。それが庭の設計図に挑戦する気持ちをかき立ててくれたのかも知れない。
(リ)設計図2
さて、挑戦意欲満々で設計台を前にした。ところが気持ちが宙に浮いた様で何も浮かんでこない。二つ返事で引き受けて、今更後には引けないし、動悸がどんどん、頭の中は幕が張ったようになり、ここに来て、本当の大変さを、身体全体で感じ始めた。設計台を前に、それこそ三日三晩、線一本引けず、夜はろくに寝ていないので、だんだん頭が、もうろうと成ってきた。私にとって平常心でも重いこの仕事を、こんな状態で画がけるわけがない。何でもいいから、兎にかく線一本でも点一個でもと、落書のつもりで画き始めたのが三日目の晩だった。私はそのために一番簡単なプレイダーとリバーペン、製図に必要なもの一通り買って貰い、早くそのプレイダーが使いたくて仕方がなかったが、お膳立てがすっかり出来上がった前で何も出来ない無力な自分をつくづく感じさせられた。
親方(親父)無言の中に悟った事『山でも川でも観に行け、わしが教えるより自然が教えてくれる』がこの瞬間に閃き「そうだ、自然だ」と滝の絵を描き始めた。それに尾鰭をつけて、ちょっと遠目で眺めて見ると「なかなかいける」。これを下絵に作庭材料に置き換えればいいのだ。やっとペンは走り始めた。
他から見れば、三日三晩無意味な時間を過ごしたようでも、その間本人の私にとっては、悪戦苦闘の連続だった。時々様子を見に来ていて兄も、構っていいのか、そっとして置くのがいいのか迷っている様で、何か力に成ってやれるものなら、兄のそんな気持ちが伝わってきた。図面の用紙はカレンダーの裏面を使って画がいた。今思えばとても恥ずかしい代物でも、当時はその図面は私のベストな庭の設計図面であった。
(ヌ)打ち合せ
とうとう私の真価が問われる日が来た。座敷に親父と二人案内された。私は下っ端なので、お得意先に仕事で行っても、滅多に縁先にすら座らせて貰った事がなかったのに、座敷に通され、湯呑み茶碗には茶托までついていた。ますます緊張する中で座敷机にカレンダーの裏に画がいたお粗末な図面を広げた。施主は図面を手に取り裏返して、苦笑か、あざ笑いしながら、『カレダーやな』と一声、私は冷汗がでた。改めて図面を見直し、『おー』とうなり『うん、これはなかなかええやないか』『よろしおすか』親父はそこでかんぱつを入れず言った。恐らくそれは親父の、施主に有無を言わさないタイミングのいいプロ発言だった。私はまだ、本当にいいのかなと施主の顔色を伺っていた。
施主は現在、某会社の社長だが、某寺の住職の一人息子でもあり、後にはその寺の住職として治まる人だった。親父と施主は、次ぎのステップとして金額の話に入っていた。『何時かは私も寺に帰る時がくる、その寺もボロ寺でな、どうせ庭は、あんた等の世話にならんなん、そのときは金に糸目は付けないから今回は安くやってや』。
お金の交渉とか商売的な面では、まだまだ私の出る処ではない。内の親父は存在感とそれなりの貫禄が有り、施主であろうと事と次第では、相手を牛耳るだけの威厳を備えていた。側に居て、施主にペコペコもせず、対等に話のリーダーシップをとりながら、とんとんと進んで行った。
(ル)作品2
この庭は、お城が有って、その向こうに滝が見え、海が広がっている。そんな風景をイメージして設計した、池泉式庭園である。
いよいよ紙の上の絵が現物に成る日がやって来た。図面をひく段階で庭を作る楽しみを味わい、その図面が更に現物と成って行くプロセスは、ものを作る者にとって、是ほど楽しい事はない。先ず意欲、緊張、不安、迷い、孤独、優越感等などが同時に身体全体の機能を動かす。
後に成れば、是が「楽しかった」と言う喜びに変るのかも知れないが、その最中は、それ等がいり混じった感情のなかで、唯ひたすらに完成を目指し、感情移入、つまり設計のモチーフで有る風景を、いかに抽象するかに専念していた。
だんだん仕事が進むにつれ、図面に忠実にしよう、と考えていても、どうしても図面と現物とのずれが生じてくる。この悩みは庭作りの場合仕方がないことである。庭の素材には規格がなく、寸法その他で設計の段階に無理が有るからだ。しかし設計は、地割り全体構想には不可欠な分野なのだ。
この庭は、私が責任持たせて貰った2作目の大仕事だけに、熱の入れようは唯ものではなかった。結婚の年、最初の設計図、若干24才にして味わった絶頂感であった。
しかし結婚にしても、仕事面においても、私の場合絶頂感を得るには、そうは短い道のりでは無く、簡単にはやって来なかった。何事に於ても、その一つ一つが熟すまでには遥かに多い時間を要した。この作品は、今の私の目から観れば、全体にも部分にもぎごちなく、空間構成上も洗練されてない浅い経験が剥きだしの庭だが、今の私には出せない情熱が生きづいている気がする。そして数多く作って来た作品のなかでは掛替えのない一作である。
(オ)写真
庭を作れば当然記録の為に写真を撮っておく、自然の流れである。写真というメディアも平凡には通り過ぎなかった。

中休み

 

1992年

苑」を1991〜1992にかけて作庭 この寺は黄檗山万福寺塔頭・瑞光院・住職:岡田亘令 

住職から「ハス池」の依頼があった 丁度その折り瑞光院の襖絵を画いた南画家直原玉青先生がこの作庭に参与した 

住職:岡田亘令・南画家直原玉青先生・庭匠 平岡嗣雄の3人の会談の中で私は二者択一の提案をした それはbusiness(ビジネス)としてか庭匠 平岡嗣雄の作品としてかであった植植栽栽 植栽

     

 2012-10記述

幼少の頃から他人(ひと)と遊ばなかった 庭心

幼少の頃から他人(ひと)と遊ばなかった 
親しい友達は幼児〜小学1年生までに1人 
小学時代で1人 
中学時代で2人 
高校時代は0人 
社会人になって0人といった具合に親しく付き合えた友達は現在に至って4人・・・ 
その内1人は消息不明 他の3人は[癌 クモマッカ 自殺]で亡くなった 
この4人も個性が強く自分の世界を持っている 
ひとは私のことを「孤独な人」と思うでしょうが私自身は自分のやりたいことが一杯あるからその環境を楽しんでいるので孤独感はない 
その自分のエリアで ものを一杯広げて例えば「絵画」「能面彫刻」「カメラ」「パソコン」などをひとに邪魔されることなく楽しんでいる 
其れ等の全てが私独自の手作りでマルチの環境に埋没しているといったところ 
そんな私を 何とでもご批判はください!  
面倒臭いので敢えて基本的には友人はつくらない
私にとって庭創り仕事は自分自身の心を癒す欠くことのできない媒体だ 私は作者側だから庭園鑑賞により癒されるのではなく創るプロセスに心の全てを開き本音で向き合うなかに無心の瞬間がありこれこそが私の友達無二の親友だろうな その中で「石組」に出会えた 「石組」については又後で述べます
所詮「愚直の一念」の生き方しか出来ない不器用な私だが不自由はない 
あるとき 庭のレポートに「一石一木」と言う言葉を使ったことがある その文章を読んだ人が「一木一草」じゃないの?とクレームを付けた  
私はこの類いのアカデミックな彼のクレームに関わる暇さえ惜しんだ 
私は私の創る庭の「一石」「一木」について述べている訳で 一石の持つ意味 一木の価値 それらに付いて詳細に説明している文書に 彼はレポートの意味も理解しないまま聞き慣れない言葉に即反応して「一木一草」と口走のだろう  私には一般的先入観 定番的な言葉や行動を表に出す事は私の理念に反するので許さない 私自身の表現を使ってレポートしたまでだ 
因みに「庭心(にわごころ)」や「一石一木(いっせきいちぼく)」を辞書で引いても出てこない
「庭心」(ニワゴコロ)とは庭創りしているときの心の動きや要素 
1. flash(閃き)
2. 集中力 
3. 無心 
4. 素材とのdialogue(対話)構成の楽しさ 不安 安堵 納得 喜び 葛藤 優越感 叱咤 感動 感激
5. 庭創りのノウハウ
6. 遊び心
7. エロス
8. 手作りの世界(独自の世界観)
9. その他
「庭心」(ニワゴコロ)については語り尽くせない深いもの 私は他人と共有できないもを沢山持っているから独りぼっちの寂しい世界とは縁がない 逆に大勢の中にいるより遙かに心は賑やかで充実していて他人に邪魔されたくない その様な生き様が私のモチベーションかな?
生きた芸術作品それが日本庭園 庭園と向き合っていると自然っていいなア と気持ちの拘束から解き放たれた感じがする 
1. 狭い空間の息苦しい圧迫感から解放され 
2. 庭の方から清々しい優しい言葉を掛けてくる 
3. 組まれた石の空間から垣間見える景色 
4. 柔らかく包み込む樹木(きぎ)
5. backmusicを奏でる滝の落ち水や水琴屈 
6. 鉢飾りの筧 
7. 小鳥の囀り 
8. 雨の音 
9. 風のざわめき
等々が日替わりの顔を魅せてくれる
庭は天候と深く繋がり瞬間々々に天候と比例して違った表情をつくって安らぎを送ってくれる
私の庭創りは「石組」が主体で日本庭園と言えば「石組」
「石組とは」
? 要素
(ア) 自然石アート空間構成
(イ) 自然石3D空間構成 
(ウ) 配置・色・形
(エ) 格付け
? 目的
(ア) symbol(シンボル)
(イ) 伝承(家訓)
(ウ) 抽象・具象・写実・縮小によって美の表現
(エ) 安らぎ・癒やし

 「58年度エッセイから」
石組って何だろう? 初めは石組の意味が分からなかった親父(師匠)はくどくど御託を並べないが 親父(師匠)の組む石組には何ものにも比較出来ない魅力と観る人に訴える何かがあった その石組は生きもののように私に何か語り掛けて来るような風に感じた なので私も何か話さないと悪いような感覚に陥った で思わず「すごい!」と言った 石組に出逢って最初に発した言葉であります その瞬間から石組は私の人生を釘付けにした それ以来石組と私は喜怒哀楽を共にして来た しかし石との関係にも相性があって 初対面で好きになれない石や逆に惚れ込む石など様々に分かれ 好きな石と云ってもいろいろあって人が人と出会うように石との出会いも又然り 石の方も私を好きになってくれないと私の云うことを聞いてくれない 又石同士も相性があり「彼奴と組むのは嫌だ!」など我が儘を云う そんな石達を宥めながら石と私は戯れながら遊び気分で石を組む 調子がついてくると1日にかなり仕事は進むが一寸つまずくと1日に一個も据わらない

石の
顔 前 後ろ 立つ 据わる 屈む 反る おがむ 鼻 耳 首 腹 脚 尻 ぬけ その他 人の五体と同じ色々の呼称で作業する職人達に指示を送りながら石組を進める 
主に石の形を大きく分けると立石 メ石 天場石 それぞれに大小と上下左右無限の向きがある 石は2個から石組が始まる 1個で見る場合は石組とは云うより「景石」と呼ぶ 樹木と組む場合は「捨て石」「添え石」「根締め石」と言う
61年間石と「ニラメッコ」して来たがちょっとも飽きない 色々の顔を見てきたが未だ見ぬ顔を求めて石との「お見合い」を続けている 石の限り無い顔 姿は自然が生んだ芸術品です この素敵な彼等と出会えたのは封建的独裁者の親父の罠(わな)(企み)に填(はま)ったからです
石組に決まった形が有るように一部の庭師は誤解していますが それは露地〔茶庭〕において覚えた役石をあたかも基本の形のように理解しているに過ぎません 枯山水と露地〔茶庭〕は考え方からして全然別ものであることをしっかり理解することが大切であります 石組には形など有りません もしあるとしたらそれは個人個人のオリジナルであります 何処かで観た石組を記憶に残し それを何処かで組んだとしたらその何処かで観た石組は誰かが組んだものだから その石組をした人の形であります だからそれと同じ形に組んだとするとそれはその人のコピーに過ぎません

 

[[2012エッセイより]

石組-1

私にとって「石組」は私の言葉で有り 文章で有り また絵画や彫刻でもある
「石組」は作庭家が意を人に伝えるメディアであります
人間が自分の人生に於いてなにをするのか 何が出来るのか それは神に与えられた箇々の課題であろうが 私の場合は家庭環境つまり親の影響が強く家業が造園業で親の意に逆らえずこの道を歩まざるを得なかった
中学校の卒業を待ちきれず仕事の現場に駆り出され「イロハ」の「イ」の字も教えられないまま いきなり「人の技術を盗め!」「之は盗っても警察には捕まらない!」と親方(父親)や先輩の口癖 人の技術を盗む つまり見習う訳である 
決して教えては貰えません 造園の仕事には仕事の項目を憶えるだけでも大変 一般に「ウエキヤサン」と呼ばれて植木の剪定がキャラのように受け止められているがうちの親方(父親)は違って 殆どの庭に見られる石類 之を組み合せるのが得意です 庭には何個かがグループを作り据わっている之を「石組」と言います
親方は之の石組が得意でした 或る日某邸の庭創りで親父の組んだ「石組」が私に話し掛けてきた 
冒頭に「石組」は私の言葉云々・・・と述べましたが只単に「石組」といっても一般の方には通じないとおもいますので 追々「石組」の説明をすることにして 今はちょっと先に進みます 
話し掛けてきた「石組」自然石に対して私は・・・神秘的な感覚を持ち 造園全般の仕事より自然石そのものに興味が沸き 庭に据えられた石をじっと眺めていると何とも言えない何か・・・例えば「考えさせられる」「想わせられる」「無心になる」「別世界に誘われた」 果てには「何か話しかけて来るような感覚」なのか「語りかけてきている」と思った
石と石の隙間から私を呼び寄せるような「囁き」なのか「呟き」なのか心を奪われる妙な感覚をおぼえた 之は入門最初に出逢った親方(父親)が組んだ石組である
庭園に於いての石組は心に決めた大切な想い出や「戒め」「誓い」「希望」「夢」など事物を託す「シンボル」とする場合 又ストレートに「海岸」「滝」「連峰」「舟」「流れ」風景を摸写する また縮小写実表現とか抽象表現する事に用いられる

背景

 庭の背景は庭創りに於いて最も重要な課題です 庭を生かすも殺すも背景次第であります この部分が整理されて整うことによって すかっとした庭になり石組も冴え冴えと表現できます といっても庭スペースの一番奥の仕切りまでは思い通りに手を掛けることが出来ますが借景については弄(いじ)ることは出来ません 隣接するご近所さんに耐えがたい風景が時たま有ります
そんな場合は庭のイメージを壊さない限りにおいてスペース内で工夫しなければ成りません 後は作庭家の腕次第(技量)で素晴らしい庭になります
鑑賞者の目は妙なもので庭の全てを観ている訳ではありません インパクトの有るものが先に目に飛び込んで来るのでその奥の背景までには行き着かないことがあります だから悪い背景をカバーするには鑑賞者を意識し 鑑賞者の目を引く見せ場を創ることが肝心です それが鑑賞者のその庭の印象として後々までの記憶に残ります

  • 庭の背景(バック)
  • 塀:土塀・ブロック塀・板塀・その他
  • 竹垣:建仁寺垣・桂垣・御簾垣・網代垣・四つ目垣・その他
  • 生け垣:モクセイ・カナメモチ・カイズカイブキ・ウマメガシ・カシ その他多種
  • 借景:山・海・森・半島 その他
  • 石組の背景
  • 塀:土塀・ブロック塀・板塀・その他(オリジナルアートな塀)
  • 竹垣:建仁寺垣・桂垣・光悦寺垣・御簾垣・網代垣・四つ目垣・その他

私の作庭手法
私は16才から造園業を営む父親に強制的に仕事に連れて行かれ 選択権のない人生を送って参りました 今年77才になりまして運命的な人生から脱皮出来ず造園の仕事を続けています この仕事は妙なものでやればやるほど辞めにくいものがありまして 私は二人兄弟の次男坊で必ずしも家業の後継ぎをしなければ成らないわけでもないのに親の強引さを交わす術もなく茲に至りました
「この仕事は妙なもので・・・」と言いますのは兎に角面白い 毎日の仕事が日替わりで現場は次々と変わるし飽きる暇がない その内にだんだん「技」がつき新案も験(ため)したくなり仕事に明け暮れてしまう このようなことを「天職」というのかなア?
そんな時過去をふり返り気が付いたことは無意識のうち自分に付いている「技」と言うかノウハウというのか?気にも留めなかったものが?俗に云えば癖かな?でも癖とは云いたくない!「主観性」(だからといって私は主観主義者では有りません)とでも云っておこう と言うのはそれが自然に作品化されている事に気づいた それはアールつまり「曲線」なんです 過去の作品を並べて」よく観察してみれば どの作品にもアールが含まれていた事を発見したのです
さて?こうなれば其れは天が与え私の特質を知らしめてくれた「持ち味」だと信じ之を基盤として作品構成 庭創りを私の新路として歩むことが「私の真の姿」であったのかもしれない 先ずは曲線を採り入れた外構工事にその糸口を求め意識的な作品創りに取り組み始めた 結果的には其の処女作品1999年に外構工事「薫風庵」が完成 この作品が人気を呼び次々と外構工事の数が増え現時点で8作品(3D曲線外構)も出来ました

    

「技」は盗め!!2012128筆



職人の世界では決して技術は教えてはくれない 其れは教えるのが「邪魔くさい」わけではない 又先輩に教える知識や能力が無いわけではない 之は「教えられない」からです 

本人の持つ下記項目の理由

  1. 習得力(理解・聞き取り能力)
  2. 思考力(先を読む)
  3. 観察力(細かいところに体得の壺がある)
  4. 創造力(創作)
  5. 想像力(発想)
  6. 意 欲(熱意)
  7. 運動神経
  8. 器用不器用
  9. 耐久性(忍耐強さ)
  10. 体感(感こつ:五感 呼吸 timing)



以上の総合したものを兼ね備えた上でも幾ら名人でもこの「10」だけは本人が持つ感性だから「教える術がない」

 

 

 

  滝 組  

構想をたてる

写実的:自然の滝をモチーフにする

抽象的:自然景の興味有る部分

石組空間:環境と空間を考える

段落ち:リズムを考える

庭面積と調和をとる

落ち口の段数決める

最終落ち口の高さを決める

縦長の石が必要

滝落水の操作方法:リモートコントロール

   
 

ツグオcurve

ツグオ曲線とは---------点や直線は曲線の部分である 

点、直線<曲線=ツグオ曲線=流れ

ツグオ曲線は決して円circle(円形, 丸)にはならない

何処からか来て何処かへ行く線lineが庭を通過中に魅せる表情が「ツグオ曲線」である つまり庭において表現していて観る全ての人が快いアールに見えたとき それがツグオ曲線であり 庭の中で始点や終点のない無限大に庭の外に向けて延びている線 因みに海面(水平線)は曲線である

 「ツグオ曲線」は「心の流れ」・・・ 歴史の流れ・・・ 家系々図・・・ 川の流れ・・・ space(宇宙{空間)存在する全てのモノの流れを指し 庭においては制限したり無制限に抽象的 具象的 象徴的 縮小的な表現のもと その 面構えを魅せているもの等を指している

その流れは過去から現在に そして未来にと∞に延々と繋がる「線」で有る しかし決してそれは直線ではない「ツグオ曲線」である 人の心に美 楽 優 夢 望 和等が宿り豊かな心を育んでくれます


庭は生き物だから庭の完成は不可能と言って過言でない
完成は完璧を意味し
10人中10人が素晴らしいと言って貰って
やっと
私の中では完成なのです
一人前の庭師を
目指して入門した私なら
56年間も
この仕事に携わっているのだから
そろそろ ここらで
一作ぐらい
完成だ !

大声で言ってみたい!!

赤松は和風の庭よりむしろ洋風の庭によく調和する特に此の図面はオブジェを設置することで

洋風的なイメージが強く成る

 

   

方丈記(鴨長明)ゆく河
行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて,久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに棟を並べ、甍(いらか)を争える高き賤(いや)しき人の住(すま)まいは世々を経て尽きせぬものなれど,これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は希なり。
或いは去年焼けて,今年作れり.或いは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれに同じ・所も変わらず、人も多かれど、いにしえ見し人は、二三十人が中にわずかにひとりふたりなり。
朝に死に夕に生まるるならいひ,ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬるいづれかたより来りて、いづかたえか去る。
また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主(あるじ)と栖(すみか)と無情を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は露落ちて、花の残れり。
残るといえども、朝日に枯れぬ。
或いは花しぼみて、露なほ消えず。
消えずといえども、夕べを待つ事なし。


滝組 此の滝は3段滝、作庭時は2段滝だったがその後1段加えた。滝組はこの庭を代表する顔であり,滝組を主にこの庭は展開している。蹲踞 布泉形鉢前(私の好みの設計)黄檗瑞光院の門を入った左手に構えている。バックにはてっぽう垣、その垣を見越して奥に本庭が展開している。

八つ橋 八つ橋は迂回路として配置、そして鑑賞者が池の中に位置できるように配慮した。

鉢前 廊下から使える手水鉢(棗形)この鉢前にも水琴屈を仕込んであり、三角袖垣は私のオリジナル、

−庭設計の解説−
この庭は、「真、行、草」の心を持つ、主に石組み(石の数約150石)に依って構成されている。本座敷からの眺めが「真」の姿、第二の座敷からの眺めが「行」の姿、門入った処からの眺めが「草」の姿。

「真」【真の石組】は、これは混じり気のない、ものの核心を捕らえた格調の高いもの。

「行」【行の石組】は、真の様に堅苦しいものではなく、自然調のもの。 

「草」【草の石組】は、遊び心を充分に、流動的なもの。 (真、行、草は、書道、華道、俳階等でこの語はよく使われる) 

そもそもこの庭は、この寺の住職が蓮池を作ろうとの考えから相談、依頼を受け、その談合の中に南画の先生がおられ、三者会合となり話はとんとんと進み2年の歳月を掛けて完成した。寺は禅宗であるから禅宗に因んだ庭は?と考えた結果、庭の中心に座禅石(【意】静座して精神を集中し,無心無言のうちに悟りを求める修行。)を据えるところから始まり、石組を進めていった。

真、行、草の「真」は、お釈迦様の教えを意味し、人に、或時は厳しく、或時は優しく慈悲深く、或時は無心の境地に導かれ、個々に持つ仏心を悟され、この庭を見る人に煩悩を離れた安らぎを与えようとしている。 

真、行、草の「行」は、仏に仕える僧侶達を表現、お釈迦様の厳しい教えを受けた僧侶達は、あらゆるものの心を、この庭を見る人に、優しく伝えようとしている。 

真、行、草の「草」は、人の持つ煩悩を表し、(貧、瞋、癡)(1)貧欲(むさぶること)、(2)瞋恚(にくみいかること)、(3)愚痴(迷いまどうこと)の三毒を意味するが、この庭の場合は、そんなに厳しく考えないで楽しい「欲望の世界」ぐらいの軽い考えでいい。従ってこの庭は、門を潜って奥に行くにつれ、厳しい世界に入っていく仏教界を抽象しているが、しかしそんな意味とか、庭に託した心は作者の自己満足の領域であって、この庭は見る人の、見たまま感じたままでいい、それが個々に与えるこの庭の持つ味かも知れない。作者 平 岡 嗣 雄