京都庭常homepage


他人(ひと)に支配されない
他人(ひと)に拘束されない
他人(ひと)に私の軌道を侵されない
他人(ひと)と妥協できない
他人(ひと)と協調出来ない
玉青苑
自分は他人(ひと)と全てが違うのだと 支配 拘束 妥協 協調など無意識のうちに避けている

これらが自然にできる人を私はエライと思う 社会で生きていくための少なからずルールかも知れないし知らず知らずのうちに生活の知恵として培われたことでしょうが 大概の人が同じであり私には出来ない事だ

私はこれも無意識のうちに独自の世界   環境を築こうとしている庭職人です

幼少の頃から他人と遊ばなかった 幼児〜1年生までで1人 小学時代で1人 中学時代で2人 高校時代で無し 社会人になって無しといった具合に親しく付き合えた友達は現在に至って4人 その内1人は消息が途絶えた ほか3人は[癌 クモマッカ 自殺}で亡くなった
この4人も他人(ひと)を当てにしない人達で個性が強く自分の世界を持っていた
他人(ひと)は私のことを「孤独な人」と思うでしょうが 私自身は自分のやりたいことが一杯あるからその環境を楽しんでいるので孤独感はない その自分のエリアに ものを散(ちら)けて例えば「絵」「彫刻」「カメラ」「パソコン」などを他人(ひと)に邪魔されることなく楽しんでいる 
其れ等の全てが私独自の手作り つまり過去にないものにしたいと思いマルチの環境に埋没している近況だ
だから定番的な感情 評価 批判はどうぞお好きに!
私にとって庭創りと言う仕事はとても心を癒される不可欠な存在で 私の場合は創る側だから鑑賞して癒されるのではなく創るプロセスに心の全てを開き本音で関われる無心の瞬間それこそが私の無二の親友と言えるのだ 所詮「愚直一念」の生き方しか出来ない不器用な人生であるが不自由はしてない
庭に関するレポートに「一石一木」と言う言葉を使った ある人は私の文章に対し「一木一草」じゃないの?とクレームを付けた  私はこの類いのアカデミックな彼のクレームに関わる暇さえ惜しんだ 

私は私の創る庭の「一石一木」について述べている訳で 一石の持つ意味 一木の価値 それらに付いて詳細に説明している文書に 彼はレポートの意味も理解しないまま聞き慣れない言葉に即反応して「一木一草」と口走った
私にはそのような一般的先入観 定番的な言葉や行動を表に出す事は素直に出来ないが私の中ではその分心の内では分解整理がちゃんと出来ていて敢えて避けて 私自身の表現を使っている 従って「庭心」や「一石一木」を辞書で引いても出てこない

「庭心」とは庭創りしているときの心の動き flash(閃き)集中力 無心 素材とのdialogue(対話)構成の楽しさなど全て自分が切り拓いていく手作りの世界である 「庭心」については語り尽くせない深いもの 私特有の遊び エロス 趣向の他人と共有できないものがあるから独りぼっちの寂しい世界と見られるが 私は逆に大勢の中にいるより充実する

他人(ひと)から見れば場当たり的な庭創り 場当たり的な生き方と非難を浴びるだろうが それが隠しもしない私の現在の姿だろう が私の感性 感情 閃きプラス ノウハウが即庭創りに繋がっていて現在に至っている

生きた芸術作品それが日本庭園 庭園と向き合っていると自然っていいなアと気持ちの拘束から解き放たれた感じがする 狭い空間の息苦しい圧迫感から解放される そして庭の方から清々しい優しい言葉を掛けてくれるような雰囲気さえ与えてくれる 組まれた石の空間から覗く表情 柔らかく包み込む樹木(きぎ)backmusicを奏でる滝の落ち水 水琴屈 蹲踞の筧 小鳥の囀り 雨の音 風のざわめき等々が日替わりの顔を魅せてくれる

「庭心」は天候と深く繋がり瞬間々々に天候と比例して違った表情をつくる 手を