『時間流刑』 クリストファー・J・J・チャーノック 由文社海外ノベルズ選書

 時間とは神の意志で定められたものなのか、そんな問いに主人公が挑戦するのがこの小説である。

 作者チャーノックは、85年に「従神の暁」でマッケンジー長編賞、米国科学作家クラブ賞のダブルクラウンに輝くなど、米国はもとより日本でも雄大でヒューマニズム溢れるSF作品の作者として人気を博し、推薦図書リストにも常連になっている。本書はその19本の長編と4冊の短編集のうち、95年出版の長編「時間流刑」の邦訳である。

 チャーノックはこの95年前後からSFというより幻想文学寄りの作品も手がけており、この「時間流刑」は本格SF的な要素とファンタジー的な要素の両方を備えた作品で、従来ファンの間での評判はそれほどでもなかった。しかし、英国の書評誌リビングストンウォッチャーで絶賛され、その後ヤーコブー賞も受賞、また人気ロックバンド・ドルイドのリーダー、ジェームス・レモニーが愛読書として挙げたことで一部でカルト的な人気を博していた話題作である。

 さて、この本では、著者チャーノックの表芸である宇宙SFの顔を見せながら、別のもう一つの方向性が現れている。といっても、近年のファンタジー志向というスタイルのことではない。この本では彼のファンタジー作品群の根底にある、不安な自己認識によって現実が多重世界へと発散してしまう可能性を示し、その原始的はな形態を提示しているのだ。そして現実の枠組みを疑いにかかり、一つの結論を指し示す。

 主人公ディック・フェトルは突如見知らぬ惑星に連れ去られるという、一見スペースオペラと呼ばれるタイプのSF的な展開で物語は始まる。一見そこは地球に似た風景が広がるが、それはあくまで地球人ディックの目で見た世界に過ぎず、火星生物マダウリの目には火星の風景に似た赤い空であり、スーラミア人のデリリの目には連星の空を持つ熱砂地帯である。そこでは火星生物は時にディックの上司になり、スーラミア人は時にディックの妻となって生活をともにすることになる。しかもその理由はディックがこれから犯す時間犯罪の刑罰としてなのだ!

 ディックは自らの罪を疑いつつも、地球へ帰還するために時間を逆行する 脱獄へと出発する。

 主人公の抱える罪の意識は、あらかじめ定められた点でキリスト教の原罪に近いともいえ、長い告解シーンはカトリックに馴染んでないと退屈に感じるかもしれない。しかしその罪を回避すれば過去に逃れられるとすれば、次の世の生まれ変わりを説く教義に通じるとも言える。しかしそれは果たして新しい自分なのか、過去のやり直しに過ぎないのか。これらの悩みを抱えながら、主人公の周囲の現実は、多くの流刑者の現実に飲み込まれていく。

 そもそも、登場する宇宙人たちの意識の作り出す世界が交じり合うこの惑星とは、いったいどんな世界なのか。我々の知る3次元空間の宇宙でないことはたしかである。その空間について、チャーノックは説明をしていない。科学考証には定評のあるチャーノックだが、これも一つの新しい方向付けを示している。そして、ほのめかし程度に記されるのはほとんど神学的世界としか思えず、SFファンの間であまり人気がないのにはそのせいもあるだろう。時間は物理的現象なのか、自己意識によるものなのか、そしてあるいは神の手になるものなのか。それらの問題に対して、明快な答えは用意されていない。主人公はそれらの解釈の間を徘徊し、最後にたどり着く時間脱獄の方法もここでは重要視されない。重要なのは謎の解明ではなく徘徊の過程であり、これは勇者の帰還の物語はなく殉教者の物語でもなく、一人の脱獄犯の回想でしかないのである。

 ただ、従来からの神の解釈に疑問を持ち、それを信ずる自己と格闘し、そして克服していく主人公の姿勢は、去る1999年に我々の前に姿を現した、そして世界を救った一人の予言者の姿にも私の眼にはだぶって映る、そこに私は感動せずにはおれないのである。

(赤尾杉 隆)


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