しかし、なぜ小石が十九階のでっぱりにまであがってきたのか? これはいまだ、答えの糸口さえつかめない問題だった。 |
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皆さんは、「ひなまつり」という言葉の意味をご存知だろうか?「ひな」+「まつり」と分解できるということはすぐわかるとして、「ひな」とは何か?
「ひな」とはひな人形のことだろうという方もいるかもしれない。「ひな人形を祭るからひなまつり」だというわけだ。では、ひな人形の「ひな」とはどのような意味か?
「ひなまつり」の原形はご存知の通り、5節句の一つ、桃の節句である。
1月1日、元日が寒さの最も厳しい(現在の)1月末から2月にかけて、古い歳の死を奉り、新しい年の誕生を願う儀式であるように、また、5月5日、端午の節句が梅雨の開始の時期に、充分な雨の到来と豊作を祈る儀式であるように、桃の節句は春分に、「冬」が終わり「夏」がやってきた事を祝う儀式であった。民間の儀式としては3世紀には成立していたらしい。これが宮中の儀式に取り入れられ、都で、太陽の象徴たる大王が、民衆の前に姿を現し宴をするという形で定着した。民衆は太陽=王とともに、その復活を祝うのである。
大和朝廷の支配域が広がるにつれて、地方にもこの風習は伝播していった。しかし、都の外では大王と共に宴をする事はできない。そこで、大王の依代としてわらの人形を作って飾り、その前で夏の到来を祝ったのである。この儀式は都人からは「鄙祭り」と呼ばれ、大王自身が参加する「都祭り」より下のものとされた。
この地位が逆転しはじめるのは、10世紀頃からである。この頃から「都祭り」に天皇自身が参加することもなくなり「鄙祭り」に対する優位を失った。それでも、しばらくは同等の祭りとして並立していたのだが、13〜14世紀にかけて「鄙祭り」の人形がわら製から布などによる精巧なものになってくると、しだいに都市部にも入りはじめ「都祭り」は完全に「鄙祭り」に取って代わられる事になる。それに伴い祭りの名も「鄙」から「雛」とかわり、田舎に独特の祭りであったという痕跡は消えていった。
「雛祭り」とは実は「鄙祭り」である。日常生活には何の役にも立たない知識だが、覚えておくといい事があるかもしれない。 < ないって。
参考・「王と祭り」(中央公論社)「まんが・なんでもはじまり事典」(学研)
日本では、バレンタイン・デーは「女性が男性にチョコレートを配る日」として、完全に定着している。これが、初期キリスト教の聖人、聖バレンティノにちなんだ日で、欧米では恋人に花などを贈る日とされていることなどもごぞんじの方は多いだろう。では、なぜ日本ではチョコレートを贈る日になったかはごぞんじだろうか。一般には、神戸の菓子屋の「バレンタイン・デーにはチョコレートを」のキャンペーンが全国に広まったものとされている。しかし、実はこの前の段階がある。
ゆうきまさみ「究極超人あーる」の中のこんな一節、
この行事はそもそも昭和21年の今日、進駐軍のバレンタイン少佐が子供たちにチョコレートを配ったという故事に由来しているのだ。意外と知られてないが、これは事実なのだ。
昭和20年冬、終戦直後の神戸にやってきた進駐軍士官の中に、彼、ヴァレンタイン・D・クラーク少佐はいた。クラーク少佐は1920年2月14日、ボストンに生まれた。誕生日の聖人、聖ヴァレンティノにちなみヴァレンタインと名づけられたクラークは、その名の通り慈愛に満ちあふれた青年に成長、陸軍に入隊した後もその性質は変わらず、太平洋戦線で戦ったにもかかわらず、日本人に対して常に敬意と愛情を持って接した。そんな彼の性格がもっとも表れているのが、このバレンタイン・デーのエピソードである。
敗戦後の混乱の中で飢えに苦しむ人々、特に子供たちの悲惨さを見かねた彼は、日本にいた3年間毎年、自分の誕生日である2月14日に、子供たちへのプレゼントとして5000枚のチョコレートを配ってまわった。かっての敵である自分たちに対しても愛をもって接する彼の姿にうたれた人々は、クラーク少佐を記念して、2月14日にチョコレートを贈り合う
ようになったのである。
その後、この習慣がチョコレート業界の戦略から全国的に広まり、いつしか女性が男性に贈るものとして固定化し、やがて義理チョコなどの儀式が生まれてくるに及んで、ヴァレンタインの精神も完全に形骸化してしまったわけである。クラーク少佐も草葉の陰でさぞや 嘆いているだろう。どうだろう、みなさんも一度クラーク少佐の真の愛情あふれる心に思いをはせ、習慣化した義理チョコなどではなく、世界の恵まれない子供たちにチョコを贈ってみては。
参考・「現代用語の基礎知識」(自由国民社)「究極超人あーる」(小学館)