博士のキカガクテキアイジョウ ( Geometric imaginary power of the doctor )



 「プラネテス」読んだよ。あれはよかった。
 何がよかったか野暮を承知で書くと、宮沢賢治の詩が引用されていたのがよか
った。「サキノハカといふ黒い花といっしょに」。
 詩というジャンルを僕はなんとか理解したいとは思っている。思ってはいるの
だけど、僕は詩心がないらしくてどうにもうまく読めない。
 で、「プラネテス」を読み、「おお宮沢賢治をそう読むか」と感動し、やはり
詩にとってSFは欠かせない存在だ、と確認できてよかったわけです。

 僕のSF観はとても単純で、
 SFのSの方向に極限をとると数学的証明がある。
 SFのFの方向に極限をとると詩がある。
 その間にあるのがSF。
 証明は命題間の距離を限りなく0に縮めたものであり、詩は命題間の距離を無
限大に飛ばしたものだと単純に僕は思ってます。
 だからありとあらゆる命題の羅列は僕にとってはSFなわけで・・・
 例えば今日の朝日新聞の一面記事、これはSFか?
 定義より明らかにイエス。
 え? 話にならんって? お前のSF観とやらをここで振り回すのは勝手だが、
俺の考えているSFとお前の言うSFとでは違いすぎる。サヨウナラ。
 わかった、わかりました。歩み寄りましょう。
 はじめの一歩として「あらゆる命題の羅列はSFである」という命題で戦線を
張るのはあきらめて「朝日新聞の一面記事はSFである」という命題まで退却す
ることにします。
 朝日新聞の一面記事? そんなのSFじゃねーよって?
 じゃあ、例えば、トラファマドール星に住むトラファマドール人の第三性専用
の化粧品の販売員のための取り扱い説明書、なんてのは君の言うSFとして成立
しないのか? 
 朝日新聞の一面には銀河のはしっこに住む、宇宙的に見て大変に珍しいニホン
人の生態の一部を明らかにする秘密が隠されています。ハイ、SF決定。
 ってのはダメですか? しょうがないなあ、とりあえず説得はあきらめます。
 こういったことには「プラネテス」のように何かSFか、さもなければメタな
SFが必要なのかもしれない、という気はするね。具体的にどうするかは見当も
つかないけど。

 ところで「バナッハ・タルスキの逆理」は読んだ?
 いや、無理に薦めるような話でもないんだけどね。ネタバレすると「いつもよ
り多くバラしてください。ほら、体積二倍になりました。」という話。
 セールスポイントは話全部が数学的証明で書かれているってこと。これと古人
の経験則「物言わぬは腹ふくるるわざなり」(バラサナイトタイセキゾウダイ)
と併せると、何をやっても体積が増えるという結論が導かれることになります。
こうして宇宙は広がってゆくわけですね。
 そんな具合で古典論から量子論に移行する時のように、命題の間の距離を日常
レベルから0付近に持っていくと、わかりづらい現象が起こるものらしい。
 さてここで問題。
 宮沢賢治の詩と、朝日新聞の一面記事と、バナッハ・タルスキの逆理。
 これらの共通点は何か?

 (少し改行いれておきます。)















 「これらはSFである。」と答えてくれれば嬉しいけど、大丈夫、この程度の
話で説得できるとは思っちゃあいません。僕が用意した答えは
 「これらは命題間の距離の分布が均質である。」です。
 幅の大小はあるものの、一つの命題からほぼ一定の距離だけ移動すると、次の
命題にたどりつけるようになっている。こうして距離を保つことによって、数学
的な広がりや、日常的な広がりや、詩的な広がりが、それぞれ演出されているわ
けです。
 
 アインシュタインは言いました。時間的な広がりと、空間的な広がりは独立し
て存在するのではなく、光速という不変量を介して、これらはつながっているの
だと。そして彼はこの命題を、物理的な広がりの中で証明してみせてくれました。
 僕は同じことをSFに期待してます。つまり、互いにそっぽを向いているよう
に見える広がりを、なんとかうまいことを言って和解させるという・・・
 例えばこうです。
 一昔前だと空を飛ぶのにも神仏の助けがいりました。
「この世のどこにでもない所に神様がいて、非常識な力を持っており、どういう
わけか地上の誰かに好意を持っていて、おかげでその人は支えもなく宙に浮いて
いられる。」
 こういう命題の羅列は僕にとっては詩の領域に属します。
 今なら空を飛ぶにしてもこういう言い方もできるんじゃないかと。
「ヘリウムという空気よりも軽いガスがあり、これを大きな袋に詰める。すると
この袋は空気より上に行こうとするので、これを捕まえた人は支えもなく宙に浮
いていられる。」
 ところが、ヘリウムはなぜ空気よりも軽いのか? なぜ浮力が生じるのか? 
そもそもヘリウムというものがなんで存在するのか? こう問い詰めて行くと、
結局はゴッド・パワーを持ち出すか、わからん、と答えるしかない。空を飛ぶの
に「神仏の助け」がいるのは今もかわりない。だからといってこういう言い換え
が無意味かというともちろん違う。
 なぜなら、こうすることでヘリウムを知らない人でも、日常的感覚を使いまわ
すだけで「神があり。人が飛ぶ。」という詩に属する命題のあつまりに近づくこ
とができるから。
 そしてこの言い換えが何をやっているかといえば、「神がある。」と「人が飛
ぶ。」という命題の間に、「ヘリウムがある。」をはじめとする諸命題を入れて
補間し、点描画の点を増やしていく時のように、命題間の距離を短く取り直して
いるわけです。
 今の場合、補間するのに「科学の力」を使ってみせました。が、別のもので補
えるならそれでも構わない、と僕は思っています。そして補間があるなら、省略
もある。ぐるっと回してみるとか、ぐしゃっとつぶしてみるとか、何をしてもい
いんですが、まあとにかく、異なる広がりをうまく和解させてみせてくれ、とい
うのが一読者としての僕の願いです。
 そしてそれには命題間の距離を取り直し、広がりを変形してみるのがこれまで
もSFにおいて有効な方法だったし、これからも有効な方法でありつづけるだろ
う、というのが僕の考えです。

 変形、という言葉が出てきたせいで自動的に出来てしまう小話を一つ。

 太鼓の皮を変形させると音が出るように、命題の広がりを変形すると目に見え
ない波動が放出される。その波動は特殊な分波器でスペクトル分解できる。
 その結果、ある帯域は人体に極めて有害で、これを含んだ波動を浴びると脳細
胞が死滅してしまうことが判明した。すでに強度を計る単位も認定されており、
1BのSFは1命題あたり1万個の脳細胞を破壊する。
 とあるSFアナリストはこの帯域にピークを持つSFに異常ともいえる関心を
示し、その膨大なコレクションの中には数億Bに達するものもあるという・・・

 あー、このへんでやめときます。いちおうツッコミどころを書いておくと億B
レベルの強度を持つSFは、最初の命題を読み終えた瞬間、全脳細胞が死滅して
先が読めなくなります。ネバーエンディング。
 
 さて、今回の特集ですが、
 アンソロジーとは(←ここで5秒位タメを作ってください。)

アンソロジーとは予め定められた熱死を前にした墓堀り人夫らによるカウンター
テロであり女王ディドーより下賜された一本の皮ひもである。またアンソロジー
とは切り刻まれたスペクトラムへの信仰告白の場でありスタージョンという名の
9割打者へ投げつけられた3000マイルのビーンボールである。嗚呼、当方ま
さに電磁波動の準備あり。君知るや濡れたアイスバーンを素足で駆ける魂の周波
数帯を。屍の山で背を焼かれ血の河で泥舟と共に沈んだ古狸は外野席を舞うフラ
ンチェスカと手を振り合うのであります。
 ってことで、発刊の運びよろしくお願いします。>関係者各位様
 あ、もちろん電波だけでなく、ささやかながら経済的支援の方も準備できてま
すんでご安心をば。
 えー、それだけではなんなので、最後にアンソロジーをネタにしたSFを一本
紹介して締めにしたいと思います。R.シャロウェール、邦題は「大きな木の上
で」。




 言葉を選んでこれを積み上げれば命題となり、命題を選んでこれを積み上げれ
ばSFとなり、SFを選んでこれを積み上げればアンソロジーとなる。
 そして、アンソロジーを選んでこれを積み上げれば−、というようにメタ化を
際限なく繰り返したモノがある。それはどういったモノかといえば、まずメタ化
の操作によって多対一の関係ができるから、一種の木構造になっている。
 言葉がその先端を覆っているのはいいとして根っこの方はどうなっているか。
 かつて詩人が予言したように、そこはただ一冊の本で終わっているのかもしれ
ないし、本当の木の根のように再び枝分かれしているのかもしれないし、ヤドリ
ギのように何かに絡まって何かを吸い出しているのかもしれない。それは誰にも
わからない。木の枝に棲む「」にもわからない。
 「」のいるあたりは光を枝葉に遮られ常に薄暗い。新しく芽が吹くこともなく、
新たに枝が伸びることもない。「」は言葉を持たない。「」にとって言葉とは、
我々にとって星々のようなものだ。はるか遠くで風に吹かれた言葉がざわめき、
微かに光のゆらぎが生じ、そのゆらぎを感じとることで、かろうじてその存在を
識ることができる。他に動くものといえば枝に降り積もる雪だけ。
 雪はゆっくりと降ってくる。マリンスノーよりも緩慢で、じっと見ていなけれ
ば止まっているようにも見える。枝に積もった雪は時間をかけて様々な形の結晶
となる。「」はその結晶を舐めて生きている。
 「」は腹を減らしていた。目に付く結晶は舐めつくしてしまった。雪を吸い込
んでも腹の足しにならない。これまでになめた結晶のことを思い出しながら、じ
っと待つ。長い空腹の時がたち、「」の意識は薄れ、自身に降り積もった雪も忘
れ、木と同化しはじめる。その時、「」の枝に何かが落ちてくる。
 雪よりもはるかに存在感のあるそれは、「」がこれまで見たことのないものだ
った。「」は衝動的にそれに向かって這い進む。結局「」はそれの正体を知るこ
となく終わる。というのは「」が枝の先に行くにつれ、「」の重みで枝はたわみ
始めたからだ。それが落ちた場所は枝が「」を支える限界を超えているように見
えた。逡巡しているうちにその場から動くことができなくなり、力尽き、「」は
木と一体となる。

 「」はそのまま進んでいればどれほどよかったか、と語り手は言う。
 そして「」によって枝は折られるべきだったのだ、と。
 「」の行く先には、幾億ものアンソロジーがありSFがあり、無限に等しい命
題や言葉があっただろう。それらは「」と共に宙に舞い、「」と共に落ちていっ
たことだろう。そして失われたアンソロジー、選ばれなかったSF、捨てられた
命題、忘れられた言葉とそれらは渾然となり、やがて雪となって他の「」の糧と
なる。こうして一群の枝葉が取り払わられ、木の根に至る光がわずかとはいえ確
かに増すのだ。だから
 
 ここで私は本を閉じ、木から遠くへ放り出した。
 しかしほどなく言葉に絡みとられ、落下は妨げられた。