父は油田のリースと採掘権のブローカーであるHugh David Lafferty、母は学校教師Julia Mary Burke。誕生予定日が聖ラファエルの日であったためRaphaelと名づけられたが、それから14日後に生まれた。(SFマガジン92年4月のラファティ特集における特集解説(浅倉久志)では母が息子に美術の道を歩ませたくてイタリアの大画家の名前をつけたとある。)
4歳のときにオクラホマ州Perryに、後に同州Tulsaに移る。
1933年、Tulsa大学に入学、1年でやめる。(上記解説によれば夜間部で数学とドイツ語を2年間学んだとある。)
その後、TulsaのClark Electrical Supply Co.で仕入れ、入札担当として働きはじめる。また、おそらく新聞社でも働く。
1942年陸軍入隊高射砲部隊に所属し、主に南太平洋戦線に勤務する。1946年退役。最終階級は軍曹(上記解説によれば三等曹長)である。
執筆をはじめたのは大変遅く、45歳を過ぎてからである。
最初に売れた作品は1959年、New Mexico Quaterly Reviewの"The Wagons"とされるが詳細は不明。一般にはデビュー作は1960年「氷河来たる」"Days of the Glacier"とされる。
処女長編は1968年Aceブックスから出版された『トマス・モアの大冒険』"Past Master"。71年からは作家専業となった。1972年には「素顔のユリーマ」"Eurema's Dam"で、ヒューゴー賞を受賞している。
1984年の誕生日に自らへの誕生日プレゼントとして休筆した。それまでに21篇の長編と250編以上の短編を発表している。
1990年には世界ファンタジイ生涯功労者賞を受賞した。1994年心臓発作に襲われたが持ち直し、21世紀まで健在であった。
SFマガジンの499号では、500号達成の祝いの言葉を寄せ、「このおやじまだ生きていたのか。」と、日本のファンを驚かせた。
晩年をオクラホマ州Broken ArrowのFranciscan Villa Health Care Centerで過ごした後、2002年3月18日87歳で世を去った。
ラファティの作風をひとことでいいあらわせばほら話ということになろうか。無責任に奇想を楽しみ、ほらの大きさを競い合う、いわゆる"F"派の芸のひとつの到達点といえるかもしれない。
確かに、彼の作品には「品」は無いかもしれない。まとまりはなく、時には完結すらしてないかもしれない。
しかし、そんな大げさで退屈な「第一形態」の徳がなんになるというのだろう。ここには、奇想が、豪放さが、野生が、そしてなにより魔法があふれているのだ。
アイルランドの血とインディアンの土地とカトリックの歴史に育まれ、なおもそのすべてを超越する、それこそ、われらがレイフェル・アロイシャス・ラファティである。