「もし、犬の目にはどの犬も人間に見え、どの人間も犬に見えるとしたら?
もし、犬がぼくを見て、ぼくを犬だと思い、自分を人間だと思うとしたら?」
その後に、一度こんな破壊的な考えがうかんだこともある− 「そして、もしその犬が正しいとしたら?」 |
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謎めいた言葉に誘われるまま覗き込んだドクター・フィリップ・アウターブリッジのファイル。これはフィクションだからという言葉に安心して読みはじめた物語は、発表された60年代初頭にはかなり衝撃的だったであろう代物だ。
軍の精神科医の元に送られた一人の兵士、一見正常にみえる彼の心の奥に秘められた狂気の正体とは何か。精神科医は、彼に物語を書かせることでない面を探ろうと試みる。そこに描かれた自伝的物語には、虐待を繰り返される少年の姿があった。少年の心は、暴力と孤独の前に深く静かに病んでいく…。
兵士/少年の狂気の正体は、病んだ現代の目には平凡なものと映るが、見るべきはそんなところではない。物語の底に流れる狂おしいまでの孤独だ。
スタージョンの主人公たちは孤独だ。「めぐりあい」のぼく、『夢みる宝石』のホーティ、「孤独の円盤」の女。誰もが、自分には何の責任も無い、圧倒的な孤独の中で生きている。その彼らと比較してすら、『きみの血を』の兵士の孤独は一段と深い。そして、その孤独は、狂気は、美しい。
主人公の狂気とはなどというミステリの要素は些末なこと。
味わうべきはスタージョンの美しき孤独、そして静かなる狂気だ。
まあ、でた以上は文句は言うまい。主人公たちは作者も飽きたのか、どうでもいいという雰囲気が濃厚に漂っているが、ジョージ<無謀王>ヴァルマーの青年期を描いた「大ハード。」は『ファントム・レディ』などの作者得意のコメディタッチを加えたライト・ハードボイルドに仕上がっており、会話の魔術師・火浦功が健在であることをうかがわせてくれた。
もう、いまさら彼に多くを期待する気はない。今回のように突然驚かせてくれればそれで良い。今回の文章レベルさえ保っていてくれるのなら。
おっと、まだ中身にふれていなかった。これは最後のSF少年マンガの書き手ともいわれる(いわれてないって)長谷川裕一が、96年のDAINA☆CON、97年のあきこんで行った「東映スーパー戦隊のSF考証」に関する講演をベースにまとめたものである。基本的には、敵側の設定をもとに味方ロボットの設計の理由付けをすることで地球側の防衛体制を明らかにするという形になっている。「バトルフィーバーロボの電光剣は刀鍛冶・電光が鍛えた全長30メートルの本物の日本刀だ」などという、やや安易なくすぐりもあるが、商業主義まる見えな、2号、3号ロボの存在や、金型の使いまわしが原因であろうデザインの類似をあくまで論理で説明する姿は、作品と、なにより架空論理に対する愛情が伺えてたいへん微笑ましい。圧巻は大星団ゴズマの来襲をキーワードに初期戦隊(具体的にはチェンジマンまで)のすべてのロボットが非常に論理的に説明されるあたりで、ここらへんには僕のSF魂を大変刺激させられた。後半の、ファンタジー戦隊以降はやや諦めが目立つ点も否めないが、ライブマンまでの世界を「S.U.P.(Scientific Universal Protection)」に支援された人々「SUPer戦隊」の活躍として総括するあたりには非のうちどころが無い。戦隊物を一度でも愛したことがある人ならこの面白さはきっとわかっていただけると思う。