AIR Short Story
翼人伝・邪説
第3話 〜祈願〜(後)
それからどれくらいが経ったのだろうか。
ずっと柳也の腕の中で泣いていた。
あまりにも短かった母上との再会。そして、語りたいことも、これから一緒にしたいことも
たくさん残っていたのに、何も出来ないまま、母上は逝ってしまった。
これから、同じ時間を過ごしていこうと思ったばかりだったのに。
柳也と裏葉と、共に暮らせるようになると思ったのに・・・・・
母上の記憶に残っていた、人間達との幸せな暮らし。
それを、母上と共に、これから始めようとしたばかりだったのに。
許された再会の時間は、あまりに短かった。
(母上・・・)
「まだ、終わってないぞ」
柳也が、余を包んでいる腕に力を入れてから、小さく呟いた。
それは、余や裏葉にというよりは、まるで自分に言い聞かせるかのように小さな声だった。
小さいけれど、そのつぶやきはこの耳にもはっきりと聞こえた。
見上げるとそこには、厳しい表情をした柳也がいた。
あの嵐の夜、自分を囮にして追手を引きつけようと独り走り出した時の様に。
その時の表情そのままに、こちらを見つめている。
横を見ると、裏葉も厳しい表情で柳也の言葉に頷いていた。
そして、自分も頷く。
全てを受け継いだ今なら、もしかしたら何か自分にもできるかもしれない。
柳也を、そして裏葉を、この地から、追手から逃れさせることができるかもしれない。
その為にも、一刻も早くこの場所を動かなければならない。
(母上・・・あなたと逢うことが出来て、ほんとうに嬉しかった。
母上は、務めを立派に果たしました。次は・・・自分の番です)
そう心の中で呟き、横たえられた母上を最後にこの眼に、心にその姿を刻みつけようと見つめる。
暖かな微笑みを、自分の後に続く務めを負う者にも、自分が与えられるように。
それから、どれほど山の中を駆け回っただろうか。
追っ手の声が聞こえれば反対の方角に、そして、遠くで刀のぶつかる音がすれば、その反対へと。
ただ、柳也の背中に次第に赤い滲みが拡がるにつれて、その足も次第に鈍くなっていった。
あの時の傷が浅くないことは、今ならはっきりと理解できる。
もし、このまま走り続ければ、やがて柳也も母上の許へと招かれてしまうだろう。
おそらくは激しい痛みと疲労が全身を襲っている筈なのに、歯を食いしばって一歩一歩強く踏み出す
柳也の背中を見るのが・・・何よりも辛かった。
(自分が”不殺の誓い”などを強いてしまった為に、柳也は・・・・・)
次第に、同じ方向に走る時間が短くなってきていた。
それにつれて、自分にも人間の気配が濃く感じられるようになってきた。
柳也も裏葉も口には出さないが、おそらくもう全員無事にこの山を、死地を逃れられない事は
悟っているだろう。
ただ、それを余の前では決して言わないあたりが、そして、それでも何か方法は無いかと思考を
巡らしている事が、この二人の強さを表していると思った。
(この二人でなら、もしかしたら・・・)
自分でも走りながら、どうすれば良いか考えていた。
どうすれば、ここから逃れられるか。
そして、自分はどうすればいいか。
受け継いだ記憶を、術を持ってしても、3人でここから逃れることは出来そうになかった。
(しかし・・・)
そう、3人でなければ。
すでに、走り回っているときには閃いていた。
おそらく、今置かれたこの状況で唯一、2人は生きてこの地から抜け出すことの出来る方法が。
ただ、それは、自分にしかできない方法だった。
しかも、柳也は、そして裏葉は、この提案には絶対に首を縦に振らないことも判っていた。
(柳也・・・)
嵐の夜、自分の衣をまとって独り追っ手を引きつけようと、闇の中に消えていった柳也の姿が蘇る。
社殿で、誰もまともに接してくれない中、独り裏葉だけが親身に側に仕えてくれた。
叱られたり、ほめられたり、からかわれたりと色々だったが、それでも、常に側にいてくれた裏葉。
この2人には、これからは普通の人間としての生活を、幸せを掴んで欲しい・・・
(それが、今までの受けた暖かさ、楽しさ、幸せとかいったもの全てに対する、自分が出来る
ただ一つの恩返しかもしれない)
柳也と裏葉には、今思えば子供として見られていたような気もするが、けれども、これからは、本当の
2人の子供をもうけることも出来るだろう。
(果たして、この2人の子供など、どんな様に育つのかは判らないが・・・)
そう考えると、すこし可笑しかった。
「ふたりとも、願いはあるか?」
「願い、か? そうだなあ・・・」
柳也に訪ねたが、思案しているだけではっきりした答えは返ってこなかった。
「わたくしにはございます。
・・・神奈さまと柳也さまと、いつまでも暮らしとうございます」
裏葉は光景を心に描いているのか、夢を見るような表情で微笑む。
「それもいいかもしれないな」
その裏葉を見て、柳也も嬉しそうな表情を見せた。
絶え間なく激しい痛みと闘っているはずなのに、柳也もひどく楽しそうな表情になっていた。
それから少しの間、これからの暮らしについて話した。
柳也と、裏葉と一緒の3人での生活の日々。
母上の記憶の中にあった、父上との生活の光景。
ささやかながらも、笑顔で相手と話し合える日々。
人間もわれらの一族も、一番求めていて、大切な物は、本当は同じだったんだ。
愛する相手と、ずっと、いつまでも同じ時を過ごしたい・・・
もう、周囲に多くの殺気を伴う気配が満ちていた。
次は、もう、走り続ける場所など無いほどに。
察しの良い柳也も裏葉も、当然ながら判っているに違いない。
そして、自分の命を盾として、最後の最後まで余をこの地から逃そうとするだろう。
たとえそれが、絶望的なまでに困難な事だとしても、この2人は最後の瞬間まで諦めることは無い。
最後まで仕えてきてくれた、かけがえのないこの2人。
最後に。
主としてではなく同じ立場で、種族こそ違うかもしれないが、同じ大切でかけがえのない時を過ごした
相手として。
本当に「好きな」相手に・・・
少し緊張しながらも柳也に近づき、そして背を伸ばして、唇が触れる直前に目を閉じる。
裏葉から、そして母上の記憶からも教えられた通りに。
そっと、柳也の腕に手を添え、つま先立ちになって・・・
(暖かい・・・)
わずかに感じることのできた、柳也の温かさ。
この暖かさを、決して忘れないだろう。
たとえ、この短い命が消えようとしても、あるいは記憶を失ったとしても、この気持ちだけは忘れまい。
そして、最後には主として2人に命じる。
「余の最後の命である。
末永く、幸せに、暮らすのだぞ」
もうここから先は、2人には人間としての、当たり前の生活を送って欲しかった。
どこかで、2人が幸せに暮らす日々を想像しながら。
そのまま2人から離れ、衣を地に落とし、翼を伸ばす。
白く光る、人間では無いことの証である翼。
憎むことが多かったが、今はこの翼が役に立つことを思うと少し嬉しくもあった。
そのまま、静かに足を大地から離す。
見上げる裏葉が、柳也がどんどん小さくなっていく。
その2人の眼が、何を語っているのかもはや見ることはできないくらいに。
そしてしだいに、光が自分の周りを取り囲み、その小さい姿もかき消されていった。
(あの2人は・・・きっとうまくやってくれたのかな?)
そう思いながら、私の意識が薄れていった。
最後に一言、あの2人に言葉を残して。
「さようなら」
第3話 終わり
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