メンバーのつくえ

17歳、だから犯罪?

 ここのところ、17歳の少年が立て続けに凶悪事件を起こして話題になりましたが、 それについてちょっと思うことをつらつらと。

 @「体験」と「経験」

 まずは愛知県豊川市で起こった事件。「人を殺す経験をしたかった」との供述はなかなかの言い訳です。 過激なことを言わせてもらえば、「そんな経験がしたいなら、自分が死ぬ経験もしてみたらどうだ」 となってしまうのですが。
 ここで考えてもらいたいのは、不運にも殺されてしまった被害者は、 少年の経験のために生きてきたのではない、ということだ。 少年の独り善がりな「経験」への衝動は何だったのか。
 基本的にこの少年は経験不足である。「殺人」という行為がどういうものかを、 内面で考えることができなかったのである。おそらくそれ以前に、人が目前で死ぬところも、 見たことはないのであろう。
 経験とは「体験が内面化して昇華しうる場合」をさす。体験を通じて、 物事をきちんととらえ、そして善なる方向へ自らを導くことができて、 はじめてその「体験」が「経験」となるのである。
 この少年は自らを善なる方向へ導くことができなかったのである。人の命を奪うことは 当然善なる方向ではない。その理由は「刑法で定められているから」ではない。 なぜならそこから行き着くところは、なぜ刑法で定めているのか、殺人は悪だからだ、 という「堂々巡り」だからである。 表面上のことで物事をとらえようとするのは、経験不足の他のなにものでもない。 その辺の混乱も衝動の原因にあったのではないだろうか。
 経験は積み重ねるものである。しかし、ある体験において前提の経験がないということは、 無意味な「背伸び」をしていることである。
 今の子どもは経験不足といわれるが、その主たるところは、家での手伝い・小さな子の面倒を見る・ 自然の中で遊びふれあうといった「生活体験」である。 それがないまま、マスメディアなどの大量の「疑似体験」、大人の企てによる数ある「体験学校」 など、非連続かつ処理しきれないほどの体験ばかりが存在し、 結果として経験として内面化されることがない。
 この少年はひょっとすると、「経験」とはなにか、分かっていなかったのではないか。 それゆえ根本的にねじれた、しかも突飛な「経験」への衝動が生まれたのではないだろうか。

A少年法と少年
 次に起きたのが西鉄高速バス乗っ取り事件でした。1名の死者を出す惨事となってしまったこの事件、 詳細がテレビで中継され、息をのんで行く末を見守っていた人も多かったと思います。 事件発生から16時間後の早朝、機動隊の突入で解決を見ました。 もっと早く解決できたのでは?と、無責任なことを言っていた評論家もいましたが、 犯人が少年であること、すでに死者を出していたことなどから、慎重に慎重を重ねなければ もっと被害者を出していたでしょう。
 この少年、昨年京都で起きた小学2年生殺傷事件や先に触れた愛知県の事件に共感し、 「オレもやってやる」という感じで犯行に及んだとのこと。 少年は事件の前日、あるホームページの掲示板に、これらの事件を少年法と関連させて 褒め称える書き込みをした。するとその掲示板上で論戦が繰り広げられたという。
 少年は「少年法はわれわれ少年を保護するものである」趣旨で書き込んだ。 すると反論「少年法に甘えているだけだ」。
 「少年法に甘えているだけだ」というのは、絶妙な言い方である。 彼は少年であることを誇りに思っているのか。いつまでも少年でいたいというのは、 いわゆる「ピーターパン・シンドローム」である。しかし、間違いなく歳はとる。 少年の心には、なにか強迫観念があったようにも思える。
 「少年法への甘え」は、法解釈の問題に突き当たる。
 そもそも少年法が問題にされるようになったのは、97年の神戸小学生殺傷事件である。 この時は、少年が少年法によって刑法犯として処罰されなかったこと、 さらに、フォーカス・新潮といった雑誌での写真掲載が、少年法に抵触したことから問題が大きくなった。 果たしてこれだけ社会を震撼させた事件を起こした少年をそこまで保護する必要があるのか、と。
 そんな中、少年法の欠陥ばかりを取り上げてしまった「少年法改正論」は、 少年法に対する誤解を大きくしてしまったように見える。
 今回、この乗っ取り少年は「少年法」の存在を知っていた。 そして、少年法は「少年犯罪をも保護するもの」というあやまった認識をしていた。 少年法は、少年の犯罪を保護するものではない、ということは、誰もが知っている。 犯罪少年の更生を願って、というのが趣旨のはずである。 プライバシーは保護されなければならないのは当然である。 確かに現行法では犯罪に対する罪の重さを理解させるには物足りない。 しかし、大体において犯罪を助長する法律なんてあるはずがないのだ。
 少年による重大事件が後を絶たないが、すべてが少年法の誤解からではない。 少年法というものをたとえ誤解していても知っているほうがむしろ特異な例で、 それを逆手に利用しようというのは、充分「大人」的な狡猾さを持ち合わせているということになる。
 彼はすでに「少年」には戻れない「大人」であったと考えるべきだろう。

B自己表現
 更に発生したのが、JR根岸線で起こった傷害事件である。この少年は、事前にマスメディアに対し、 予告状を出していたり、「目立たなければ意味がなかった」と供述するなど、 犯罪で自分をアピールしたいと考えていたようである。
 「自己表現」という欲求は誰しも持っているものである。 その表現方法は人によって様々である。街を闊歩する女子高生のように、 奇抜なファッションによって他人とは違う自分(実際そうとはいえないのだが)をアピールしたり、 暴走族のように、けたたましい音を立てたり蛇行することで、 自分の存在を大きく見せたりする。 これは特異な例かも知れないが、結局はそれが正の方向に出るか、 負の方向に出るか、ということなのだ。
 欲求の根底にあるのは、フラストレーション(葛藤)である。
 「自己表現」への欲求は、自分が他人と違うと認めてもらいたいというものである。 平等主義から個人尊重主義への過渡期である現在の日本の教育においては、 その両方が子どもに伝えられる。 しかし、一見相反する要求が同時にされるため、混乱も生じてくる。 そこで生じるのが、「個性」に対する幻想である。
 女子高生が奇抜なファッションで闊歩する姿は、一見「個性」的に見える。 しかし、一人一人は微妙に違っても、「みんな同じような格好」と見られるのがオチである。 「個性」を気取ってみても、期待するような評価を下されない「現実」がある。 「個性」が分からなくなり、結局、横並びの行動しかとれていないのである。 いってみれば、「個性という幻想の海におぼれている」という感じなのだ。
 教育で求められている「個性」は、内面の個性、つまりアイデンティティのことである。 外見的に「目立つ」ことが必ずしも「個性」ではない。 そもそも「アイデンティティ」を重視する考え方は戦後アメリカから流れてきた。 しかし、日本にはそれに該当する適当な言葉が存在しなかった。 一般的に「自己同一性」と訳されるが、それも造語である。 結局多くの場合、意訳である「個性」ととらえられているのである。
 そして、「個性」への幻想が、今の日本にははびこっている。
 「個性」に対する幻想、しかしそれに基づいて演じた「自分」というものを認められない「現実」。 こういった葛藤は、多くの少年少女が感じていることなのではないか。 「個性」の正しい理解が必要であろう。

C正常と異常
 @〜Bで一貫させたかったのは、「17歳」が特異な年齢ではない、ということだ。 確かにこの3つの事件と、神戸の事件の少年は、1983年近辺の生まれであるという、 奇妙な一致を見せている。根岸線の事件では「17歳」を強調した節もあった。 しかし、1983年が特別な年だったのか、というと、そうではないはずだ。
 むしろ、この世紀末の中育ってきた、ということが関わってくるのではないか。
 社会が変革し、子どもも変わった。「経験」を積めない子、 表に現れる態度は「大人」ぶっているが内面は幼いままの子、 「個性」尊重時代でそれをはき違えた子……。 いろいろな子どもがいる。今の大人が子どもの頃とは明らかに違う。
 しかし、社会を震撼させた事件の後必ず起こる「原因探し」では、 何が「異常」であるかばかりをとらえようとしている気がしてならない。
 愛知の事件の少年は、ホラー小説が好きだった、と報道がされた。
 報道には8つの要件があるという。「新奇性」「人間性」「普遍性」「社会性」「影響性」 「記録性」「国際性」「地域性」、である。これによって報道内容に優劣を付けるのである。 このうち「新奇性」は、最近のワイドショー化したニュース番組などの中で 根幹となっているものである。
 その中での「ホラー小説が好きだった」報道は、どんな意図だったのか。 確かに「ホラー」という部分、異常性をかき立てるものである。 しかし、人気を博した『リング』や『らせん』を読んでいた人はみな「異常」なのか。
 何かが「異常」なのでなく、今の世の中自体「正常」が何か、分からないのである。


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