年 月
|
記 事
|
安政4年(1857年)5月
|
6日昨夕、近藤勇が来て、欣浄寺(日野市日野本町四丁目)で稽古する。
7日昼前に同寺で稽古する。
8日勇、江戸へ帰る。
|
8月
|
14日勇が来て、剣術稽古する。
15日剣術稽古。午後4時から近藤は柴崎村(立川市)へ行く。
17日勇と柚木堀之村(八王子市)の与之助が来て、剣術稽古する。
|
9月
|
21日勇が来る。
23日勇、吉之助を同伴して相州へ行く。
|
12月
|
7日勇が来て、
11日寺沢(八王子市)へ行く。
|
安政5年(1858年)正月
|
10日勇が来て泊まる。10・11日の両日は稽古する。
12日勇、一ノ宮村(多摩市)へ行く。
28日市ヶ谷森町(新宿区)の近藤周助宅へ立ち寄る。
|
3月
|
24日勇、22日に来て、今日帰宅する。
|
4月
|
8日昨夜、勇が来て、
9日朝に帰宅する。
|
9月
|
10日勇、去る7日に来て泊まり、今日八王子へ行く。
22日昨日勇が来て泊まり、今日立川へ行く。
|
安政6年(1859年)4月
|
2日昨日近藤周助が来て泊まり、今朝出立する。
27日周助が府中六所宮(大国魂神社)へ奉額志願をするため、門人の主だった者から世話人をたてる。
世話人は今日府中の松元屋で寄合をもって相談することになり、彦五郎も出席するよう依頼がある。夕刻に出発、同夜は同宿に泊まり、翌日出府する。
|
6月
|
9日周助が弟子惣次郎(沖田総司)を同道して泊まり、翌10日昼まで稽古し、昼後に八王子宿へ行く。
|
9月
|
26日勇と修行者1人が来て、剣術稽古する。
|
12月
|
13日夜、府中宿の出火へ彦五郎と勇が行く。
|
万延元年(1860年)5月
|
9日去る4日勇先生が来る。今日石田俊蔵を同道して八王子から五日市へ行 く。
14日昨夕、勇と石田俊蔵が五日市村から戻り、今日勇は府中宿へ向け出立する。
|
6月
|
28日勇先生が井上松五郎を同道し、柚木領(八王子市)へ行く。これは額面勧化のためで、彦五郎は相原村(町田市)青木勘次郎へ手紙を書き、勇先生へ渡す。
|
7月
|
6日彦五郎は出府の際、府中宿の近藤奉納額面請負人へ金10両を渡し、受取書を取る。
|
9月
|
晦日府中宿の六所宮へ周助の奉額をするため、門人が参会して太々神楽を奉納する。彦五郎も世話人のため、夕刻から出席し、受付を1人で担 う。帳面2冊と残金56両余は世話人が立ち会って周助へ渡す。2日朝帰宅する。
|
10月
|
15日勇が来る。
25日一昨23日に石田為次郎と勇がきて、昨24日両人とも帰宅する。
|
文久元年(1861年)正月
|
14日勇、門人沖田惣次郎ほか1名、および山南啓助の4名が来て泊まる。
15日・16日両日剣術稽古する。
17日近藤ら八王子宿へ出立する。
28日四ツ谷(市ヶ谷)柳町(新宿区)勇方へ行く。
29日勇方で寄合稽古する。
斎藤弥九郎門人15名などが参加し、彦五郎や石田村(日野市)の者が試合をする。
|
元治元年(1864年)12月
|
24日勇・周斎先生へ立ち寄る。
|
慶応元年(1865年)4月
|
6日今朝染屋から手紙あり、土方歳三が京都から急用で帰府する連絡が入る。4日は川崎宿に泊まり、5日に江戸到着の予定という。
7日近藤方へ行き、歳三と面会する。
8日歳三が彦五郎の宿所金子屋へ来る 。
9日歳三が金子屋へ来る。彦五郎と松五郎は大先生方へ行く。
10日彦五郎・松五郎・定次郎・多吉および歳三が、乗馬にて帰宅する。
17日上平村(八王子市)の東照宮拝礼に、彦五郎・歳三などが行く。剣術修身の者2名の神文状をとる。帰宅途中で栗須村(八王子市)忠左衛門方へ立ち寄り、稽古する。
18日歳三は源之助(彦五郎の長男)を同道して出府、市ヶ谷柳町近藤方へ行く。
|
慶応2年(1866年)4月
|
4日朔日に京都から新選組の大石鍬次郎が供1名を連れて来る。3日に江戸へ帰る。
この帰府は、一橋家に仕える大石の弟が不慮の死を遂げたため、家督相続の相談をするためのもので、去る29日に江戸に着いたという。
歳三から刀1腰を送ってきたので、その代金15両を届けるよう鍬次郎に託した。
|
7月
|
16日彦五郎、京都本願寺の近藤勇へ書状を出す。
|
慶応3年(1867年)9月
|
25日昨日、土方歳三と井上源三郎が江戸に到着し、彦五郎に談判したい件があるので、明日の出府を申し来る。
28日彦五郎、(井上)松五郎・定次郎を同道して出府、市ヶ谷柳町の近藤方へ行き、歳三と源三郎に面会し、同家に泊まる。
|
10月
|
2日柳町近藤方へ行き泊まり、3日帰宅する。
7日歳三・源三郎が乗馬で来る。
12日土方・井上、出府する。
14日歳三から手紙が届く。
18日夕方、牛込廿騎町(新宿区)の勇方へ行き、歳三・源三郎と面会し、同所に泊まる。
21日(満田)川蔵が歳三に新選組加入を懇談したため、京都へ召し連れて入局させる件につき相談する。
歳三・源三郎は今朝江戸を出立する。
神奈川宿泊まりのため、同宿へ川蔵が出頭する。
27日大政奉還となったが、新選組に別条なしとの情報入る。
28日近藤周斎先生、今28日卯の中刻に病死の知らせ来る。
|
霜月
|
朔日近藤周斎先生の仮葬式が卯の上刻に菩提寺の愛宕下金地院寺中二玄庵で執行され、彦五郎も参列する。
葬式入用として金100両は四ツ谷左衛門町に島崎勇三郎の親禅定(近藤周斎の実兄弟?)へ貸し渡す。
|
慶応4年(1868年)正月
|
16日近藤・歳三ら局中が12日と15日に品川宿へ着船すると、本宿村の権助が品川宿から知らせに来る。
19日新選組の旅陣である品川宿の釜屋から大石鍬次郎と満田川蔵が、彦五郎の宿所である和泉屋へ来て、夕刻に帰る。
20日勇が御殿医松本良順様方に滞在しているので、訪問したところ歳三が居合わせて、朝から午前10時頃まで話し込む。
21日夕方、歳三・大石鍬次郎が和泉屋に来る。
22日新選組の品川旅陣釜屋へ行き、歳三に面会する。
23日新選組は今日、品川から鍛冶橋内御役屋敷へ引き移る。
|
2月
|
13日夜、新選組土方の使いが来る。
本宿村(府中市)権助が正月16日から滞在し、新選組への加入を懇願したいので14日に亀吉とともにこれを許す。
16日新選組への加入を許した要蔵と幸助が、夕方立ち帰る。
朝、弥吉へ手紙を持たせ、新選組加入を許す。
|
3月
|
朔日甲府(甲陽)鎮撫隊として大久保剛(近藤勇)・内藤隼人(土方歳三)らが、100名ほどを引き連れて江戸を出立したので、宿所の府中宿を 訪ねたところ、大久保から日野宿の門人30名ほどを甲府までの間応援として徴発するよう依頼される。
2日大久保、彦五郎方で休憩する。彦五郎、日野の門人隊(春日隊)を率い、総勢25名昼刻に出立して与瀬宿(神奈川県相模湖)に泊まる。
3日門人隊は与瀬宿を出立し、上野原宿(山梨県上野原町)で昼飯、猿橋宿(山梨県大月市)に泊まる。
4日猿橋宿を出立し、花咲宿(山梨県大月市)で昼飯のところ、官軍らしき軍勢が明5日頃に甲府町へ進軍するとの情報が入る。
そのため大久保や内藤などの兵隊が先陣を勤め、日野の門人隊は後陣として荷物の警固をしながら笹子嶺を越え、駒飼宿(山梨県大和村)へ着く。
しかし、すでに前日甲府町へは官軍が到着して占拠したため、鎮撫隊は駒飼宿に待機する。
5日甲府の官軍は、1,200名ほどとの情報が入り、それを注進するため正午頃に内藤隼人が早駕籠で帰府する。
荷物や鎧櫃・両掛を警護する日野兵78名(農兵隊を含む)は駒飼宿を出立し、大月宿(山梨県大月市)に泊まる。
6日鳥沢宿(山梨県大月市)まで退却する。
大久保は午後4時頃から駒飼宿から鶴瀬宿(山梨県大和村)へ出張する。
|
【ここで記述が中断】
3月(3月11日)に甲州道中を下って日野宿に入った土佐藩兵などから嫌疑をかけられた彦五郎は、4月23日彦根藩邸の総督府参謀方へ嘆願書を差し出したところ、長州藩の木梨精一郎などに取り次がれ、同月晦日に赦免となる。
|
明治2年(1869年)7月
|
18日箱館で降伏した兵卒、亀太郎というものが来る。
23日藤左衛門が亀太郎を東海道まで見送る。
|