追録 新選組 区切りライン

新選組と多摩地域のかかわり

  明治維新のことを多摩地域の古老は「瓦解」と言っており、これはよい時代が壊されたという意味です。
  開国によって諸外国へ金品が流失し、国内の物価が高騰して生活の困窮を招きましたが、江戸時代の日野周辺は幕府の直轄地や旗本領であったので年貢や労役が比較的穏やかでした。
 このため、幕末の動乱の時代でも多摩地区の住民は幕府方に心情が傾いていました。
 そういった土壌であるこの多摩地域から、新選組局長・近藤勇や副長・土方歳三らが輩出されたのです。

八王子千人隊

  幕末の八王子千人同心は、八王子千人町の拝領屋敷に住む95名以外は、武蔵国及び相模国の6郡46ケ村に分散していました。
  千人同心は、八王子周辺に置かれた幕府直轄の郷士集団であり、起源は甲斐武田氏の小人頭とその同心である。はじめは甲斐国境の警備の役であったが、後には日光火の番が主な任務となり、普段は農業に従事していたそうです。
  組織は10人の千人頭の下に、10人(寛政以後は、9人)単位で100組から構成されていました。
  当初は老中の直属であったが、享保以降は槍奉行の支配下となり。
  千人同心は役目についている時は武士の身分として扱われたが、そのほかは百姓の身分であった
   時代が経つにつれ、窮乏から同心株が頻繁に売買されるようになり、千人同心は広範囲にわたり分布するようになりました。

鉄則『局中法度』

  近藤と土方には真の武士たらんとする心があり、隊の末端に至るまで武士道を貫かせるために、近藤は厳正な規律望んだ。
その表れが『局中法度』である。

一 士道にそむくこと
二 局を脱すること
三 かってに金策すること
四 かってに訴訟をとりあつかうこと

この四個条にそむくときは切腹申しつくること
この宣言は同志の面前で申し渡す

甲州道中と日野宿

日野宿の繁栄

  甲州道中の日野宿は、日本橋(中央区)から内藤新宿(新宿)を経て府中宿(府中市)の次の宿場で、次に八王子宿(八王子市)に至った。
  日本橋からは10里(約39km)隔たり、隣の府中宿とは2里(約8km)、八王子宿とは1里27町余(約7km)の距離であった。また、脇往還であった岩槻道の小川新田(小平市)とは2里隔てていた。
  本来は日野本郷と呼ばれ、幕府代官の直轄支配を受けた大村であったが、慶長10年(1605年)宿場に取り立てられたとされ、宿場は道中奉行の支配を受けた。
  宿場の町並みは街道両側に沿った東西9町(約1km)余で、宿内は東から西にかけて下宿・中宿・上宿に分かれ、時に日野町と称されることもあった。
  中宿には、日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯して世襲した2軒の佐藤家の屋敷があった。
  西側の佐藤隼人家(七郎左衛門とも襲名、上佐藤と通称)が本陣(大名や幕府役人用の旅館)を、東側の佐藤彦右衛門家(下佐藤と通称)が脇本陣(本陣に準じた旅館)を努めた。
  『甲州道中宿村大概帳』に拠れば、本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪とあり、甲州道中で本陣・脇本陣そろって建坪が100坪を超える例は日野宿のほか犬目宿(山梨県上野原町)しかなく、並び立つ大きな陣屋は旅行者の注目の的であったといわれる。
  本陣の向かい側には、荷物の継ぎ立てを行う間口3間半(約6.3m)の問屋場があり、街道の中央には高札場が築かれていた。
  問屋の勤めは、毎月1日から15日は下佐藤家が、16日から晦日は上佐藤家が分担する慣行であった。
  問屋の補佐には年寄と呼ばれた40名があたり、2名ずつ昼夜交替で問屋場に詰め、その配下で毎日の記録をとる帳付、人馬の割り振りをする馬指、使い走りの定使などを指揮して実務をこなしていた。
  また日野宿では多摩川日野渡船場の管理・運営も行っていた。
  日野宿の継ぎ立て人馬は人足25名、馬25頭とされ、これをもって幕府公用の伝馬役を基本的には無償で担うものとされたが、住人にとってその負担は大きなものであったという。
その替わりに地子免許の土地(免租地)こそなかったが、普通幕府領に課された高掛三役(付加税)のうち御伝馬宿入用(宿助成金)を除く、六尺給米(江戸城雑用人の給与米)と御蔵米入用(幕府御蔵米の維持費)が免除されていた。
また、大通行の際には助郷役といって、日野宿に人馬を供給する役割を担った近隣の村々が37箇村(うち定助郷6・大助郷31)あった。
  年間の継ぎ立て人馬は、文化13年(1816年)8,182名・3,180頭、同14年7,866名・3,284頭、文政元年(1818年)9,525名・3,384頭、同3年1万473名、4,041頭という記録がわずかに残っている。
  参勤交代で通過する大名は、高島藩諏訪氏、高遠藩内藤氏、飯田藩脇坂氏(のち堀氏)の3藩に限られ、東海道や中仙道と比較すれば、その交通量は多くなかった。
  一般的に日野宿には、飯盛り女などの風俗営業がなかったため休憩用の宿場とみなされ、殆どの旅行者は八王子か府中の両宿で宿泊したといわれる。
しかし、それでも甲府勤番・八王子千人同心・甲府定飛脚の往来は頻繁にあり、また元文3年(1738年)以前には御茶壷通行があった。
  将軍代替わりの巡見使や勘定所役人・代官などの幕府役人、更には諸商人、富士・身延などへの寺社参詣人、江戸出訴人など一般旅行者が宿泊した例は枚挙にいとまがない。
  天保10年(1839年)4月の「諸渡世向議定連名帳」によれば、質屋7軒、反物・荒物・瀬戸物類・米穀屋4軒、荒物・瀬戸物屋4軒、古着屋5軒、居酒屋16軒、食物屋20軒、薬種屋1軒、菓子卸1軒、小間物屋3軒、古鉄・紙屑買4軒、酒屋2軒、下駄類1軒、髪結2軒、旅籠屋18軒と見え、日野宿の町場としての繁栄を一定度窺うことができる。

日野宿を訪れた著名文化人、大田蜀山人

  狂歌師・戯作者として著名な蜀山人の日野来泊は、彦右衛門蕎麦とともに、今に広く語り継がれる歴史事実である。
  蜀山人とは、南畝・四方赤良・寝惚先生などとともに、江戸幕府に仕えた御家人大田直次郎、名乗は覃(1749〜1823年)の雅号であった。
  狂歌とは五七五七七の韻をふんだ和歌のパロディーであり、寛政改革の文武奨励を皮肉った「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶんといふて夜もねられず」という有名な1首は、当時の市中でもっぱら蜀山人の作だと噂され、それが彼の出世の妨げになったともいわれた。
  事実、直次郎の学問・文才は相当なものとして知られ、寛政6年(1794年)幕府の第1回学問試(学術試験)では首席で及第し、一説にはそれが功を奏して同8年御徒から支配勘定へと異例の抜擢をされたという。時に48歳のことであった。
その後、大阪の銅座詰、長崎奉行所詰を経て、江戸の勘定所詰に帰任している。
  このように長年勘定所に勤め、支配勘定という旗本昇格直前の地位にあったものの、ついにそれ以上の出世は叶わなかった。
  さて、江戸詰となった直次郎が玉川(多摩川)通普請掛り勘定方の任にあった文化6年(1809年)、公務出張である玉川巡見旅行の途中で、日野宿には少なくとも3度宿泊していることが、直次郎の著書『調布日記』から確認できる。時に61歳のことであった。
  最初は、正月2日に日野本郷の堤を視察し、午後4時頃に日野村の玉屋栄蔵のもとへ投宿し、翌日に栗須村(八王子市)へ出立している。
宿所の右方に天王社(八坂神社)があって、社の彫物に興味を惹かれたことが記されている。
  二度目は、2月17日に高幡村(日野市)の金剛寺に参詣した後、下田村(日野市)から日野本郷に向かい、名主の佐藤彦右衛門(俊輿)方に投宿した。
彦右衛門方とは下佐藤家のことで、まさしく脇本陣への宿泊であった。
  滞在は雨のため2泊に及び、19日に出立している。その間に彦右衛門から小田原北条氏の禁制、長谷部雲谷の馬の画、宝永2年(1705年)に大昌寺が下賜された女房奉書などを見せられ、とくに古文書をめぐっては意気投合した様子が詳しく記されている。
  三度目は、3月27日に柴崎村(立川市)などを経て彦右衛門方へ投宿し、翌28日に出立している。

蜀山人が絶賛した日野の蕎麦

  日野を3度訪れた蜀山人は、その3度目の滞在中に蕎麦との運命的な出会いをしている。
その内容については、『玉川砂利』に収録される「蕎麦の記」に詳しい。
  この文章は、出立前の慌しい3月28日の朝、日野本郷の名主佐藤彦右衛門に急いで認めて与えたと注記がなされる。
それほど直次郎を魅了したのは日野の蕎麦であった。
  その文章がしたためられた原文書(佐藤彦五郎子孫所蔵)には、「ことし(今年)日野の本郷に来たりて、はじめて蕎麦の妙を知れり、しなの(信濃)なる粉を引抜の、玉川の手つくり手打よく、蕎麦の滝のいと長く、李白か髪の三千丈も、これにハすきしと覚ゆ、これなん小山田の関取ならぬと、日野々日の下開山といふへし」と記され、次のような狂歌が作られた。

   そはのこの  から・天竺はいさしらす

            これ日のもとの日野の本郷

                  蜀山人 たちかゝりて いそかはしく書

  このように、直次郎は日野の蕎麦を賞味して、はじめて蕎麦の醍醐味を実感できたと感激している。
  その蕎麦は、信濃産(良質)の蕎麦粉を厳選し、玉川の水(玉のような美水)を加えて手打ちしたもので、蕎麦の滝の糸(銘柄)のような細長さは、李白の髪(白髪のカツラ)も及ばなかったらしい。
まさに小山田関(どっしりとした体格)を連想させる大男の彦右衛門は関取(用水の堰守)ではないが、日野の陽光に育まれた(日本一の)蕎麦の横綱下開山(創始者)というべきだと評している。
  狂歌では、蕎麦粉は唐(中国)や天竺(インド)のことは知らないが(蕎麦の縁語を使って、どうでもよい殻や茎ではなく、実こそが肝心であると茶化している)、やはり日本では日野本郷のものが最高であると詠んでいる。
  掛詞で解釈すれば、わが子の成長(体重・身長)を贔屓目にみて自慢する親バカのような惚れ込みように、直次郎自身が苦笑している自分の姿を重ねている。

  その他の狂歌には、次の1首も彦右衛門家にゆかりのあるものとして知られる。

    いかにして粉をひこ右衛門ふるいては

            日野の手打ちもこまかなるそば

  彦右衛門はどのようにして粉を挽き、ふるい分けているのだろうか、日野の手打ちは本当に細い蕎麦である、という意味であろう。

丹精込めて細やかに、自ら蕎麦を打ってくれた彦右衛門への感謝の気持ちと、その秘伝ともいうべき製造法への強い関心が句に注がれている。

明治天皇を笑わせた蜀山人

  日野宿本陣の上段の間の襖には大田蜀山人の書画が表具されていた。
その1枚に書かれていたのがタケノコの絵と狂歌である。

    たけのこの  そのたけのこのたけの子の

             子のゝゝ末もしけるめてたさ

  来訪は竹の子の出る季節であり、直次郎が目出度い竹の子の成長に例えて、彦右衛門家の子孫繁栄・家運長久を祈念したものであろう。
句の随所で取り入れられた擬態語「のこのこ」という軽妙な語感には、誰もが思わず吹き出しそうになる。
  事実、明治14年(1881年)の行幸の際、明治天皇が前年についで佐藤家で再度の休憩をとられたが、襖に書かれていたこの狂歌をご覧になって、声高らかにお笑いになったという。

日野宿本陣

日野宿本陣

  甲州道中の日野宿の中程には本陣、脇本陣が軒を連ねていた。
  2軒は日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯し、西側が本陣の佐藤隼人家(通称上佐藤)、東側が脇本陣の佐藤彦右衛門家(通称下佐藤)であった。
この建物は脇本陣の下佐藤家住宅である。
  両家間は現在塀が設けられ、敷地を区分しているが、当時は仕切りはなく、自由に行き来ができ、街道沿いに両家の長屋門が並んで建っていたといわれる。
  嘉永2年(1849年)正月18日、本陣や問屋場のあった宿の中心、中宿北側から出火した火災は北風に煽られて本陣、脇本陣をはじめ十余軒を焼く大火となった。
  本建物は大火の時の佐藤家当主彦五郎俊正が十分な準備期間をおいて普請したものであり、口伝によると10年にも及ぶ歳月を費やして竣工したと言われている。
文久3年(1863年)4月15日に上棟し、元治元年(1864年)11月にはほぼ完成したようで、同月23日に本宅への家移りの祝儀を行い、同年12月28日に家内一同が実際に家移りしている。
  現在の建物は左土間、多間取りの主屋で、上屋桁行、梁間は11間4尺×5間で、北面中央に2間×1.5間の入母屋屋根の式台、北面、東面、西面に3尺の下屋、南面に4尺の下屋が付く。創建当初は更に南に12.5畳の上段の間と10畳の御前の間の二間があった。
その二間は明治26年(1893年)の大火により主屋が消失した佐藤彦五郎四男彦吉の養子先の有山家へ曳屋され、現在に至っている。
その際に当初の間取りを若干変更して現在の間取りとなった。
  屋根は切妻瓦葺で、本陣としての格式を」漂わせている。
土間と床上は約2.5尺(約76cm)あり、床は一般民家と比べると高い位置にある。
  当家を訪れた大名等の身分の高い人々は、式台から上がって玄関の間、廊下と進み。右へ折れ、中廊下へ出て南へ向かい、下の間、中の間、御前の間を経て、最上段の上段の間へ行き、休息、宿泊したと思われる。
玄関の間、廊下は、広間境、控えの間境及び廊下正面を板戸とし、廻りの部屋との区分を明確に持たせている。
手前の中の間、下の間は控えの間で、更に北の控えの間6畳2間は供の者が控えていたと推測される。
  北中廊下の西の突き当たり、控えの間2間の西は、供の者が使用する雪隠が付く。上段の間の裏は、身分の高い人が使用する風呂及び雪隠が付いていたと推測される。
  佐藤彦五郎は火事の翌年嘉永3年(1850年)に天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)の門に入り、熱心に剣術の稽古をし、屋敷東側に佐藤道場を開いたという。
家移りの後、長屋門を改修して「稽古場」(道場)を付設し、慶応2年(1866年)11月朔日、稽古始めを行っている。
  その長屋門は大正15年(1926年)の大火で被害にあったが、門通路部分の親柱、大扉、潜り戸が辛うじて火災の被害から逃れ、現在もその門通路部分のみが移築され、街道沿いに冠木門として残されている。
  日野宿本陣は、棟札により建築年代、建築時の当主、大工棟梁等が明らかであり、数度の増改築等を経ているが、改修の記録や資料が残されていること、上段の間と御前の間の部分が現存することから、創建時の本陣の形に復元することが可能である。
瓦葺の建ちの高い入母屋玄関をもち、本陣建築として意匠的に優れているのみならず、小屋組は、和小屋組で、京呂組を多用しており、土台を側廻り等に廻すなど江戸時代末期の建築構法を知る上で重要である。
  甲州道中日野宿の問屋、本陣、日野本郷の名主の風格を備えた遺構として、日野宿、甲州道中の歴史を知る上で重要であり、都内唯一の本陣建物として歴史的価値が高い建物である。

甲州道中に遺る「本陣」

  甲州道中45宿の内、現在遺っている「本陣」は日野宿のほか、小原宿本陣(神奈川県相模湖町:神奈川県指定重要文化財)、下花咲宿本陣(山梨県大月市:国指定重要文化財)の三箇所のみである。
  日野宿本陣・旧佐藤家住宅は文久3年(1863年)4月上棟、元治元年(1864年)12月より使われている。
木造平屋建、切妻造瓦葺屋根、式台附の建物で、当初の建坪は約100坪である。
  小原宿本陣・旧清水家住宅は18世紀後半乃至19世紀前半頃に建てられたものといわれ、木造平屋建、兜造茅葺屋根(現在トタンで覆う),式台附の建物で、建坪は約81坪である。
  下花咲宿本陣・星野家住宅は天保末頃(1840年)に建てられた木造2階建、切妻造板葺屋根(現在は銅板葺)、式室附の建物で、建坪は約114坪である。
  このように屋根の葺き方が三者三様特徴を持った建物であるが、上段の間の造りや間取りを見てもそれぞれ異なっており、画一的な造り方をしている東海道の本陣建築のありようと大きな差が見られる。

佐藤彦五郎と新選組

  幕末・維新期という激動の時代に、多摩地域は新選組の中心人物を多く輩出させた。
  近藤勇は上石原村(調布市)、土方歳三は石田村(日野市)の出身であった。
かれら天然理心流の剣士たちほど有名ではないが、新選組に大きな影響力を与え続けた人物として、佐藤彦五郎の存在を忘れてはならない。
  彦五郎は日野宿の名主兼問屋を努め、脇本陣を経営していたが、新選組の誕生から解体に至るまで、一貫して外部にあって応援していた。
  彦五郎は下佐藤家の当主であり、文政10年(1827年)に生まれた。
  幼名は庫太、通称は彦五郎、明治元年(1868年)からは彦右衛門を襲名した。名乗は俊正。家伝に拠れば国分寺村(国分寺市)の宝霊庵可学に俳諧を師事し、春日庵盛車と号した。
  天保8年(1837年)正月に11歳にして名主見習役に就任したという。
  彦五郎は多摩地域の繁栄の半面で進行する治安の悪化を憂慮し、生家が小山村(町田市)にあり、多摩地域での門人獲得に熱心であった天然理心流の近藤周助邦武の門へ入った。
これは日野宿に居住した八王子千人同心の井上松五郎が、すでに近藤周助の門人であったことが、大きく預かっていたらしい。
  これによって、近藤勇とは弟弟子の関係になり、同7年2月に中極位、ついで免許の奥義を許されたほどの上達ぶりであった。
それ以来、近藤周助やその養子となった近藤勇に対しては、宿泊をはじめとするさまざまの便宜を図った。
  近藤勇から文久3年(1863年)浪士組への参加や、続く新選組の結成などについて相談を受けたと言われるが、彦五郎はその都度深い理解を示し、精神的・財政的支援を惜しまなかった。
  妻のぶは、石田村の土方隼人義諄の四女で、土方歳三はその弟であったから、彦五郎にとっては義弟(彦五郎の母も土方家の出身であったから従兄弟でもあった)の間柄である。
その関係から彦五郎と歳三との交流も親密なものがあり、まさに近藤と土方を支える扇の要に位置づいていた。
  他方、「佐藤道場」を開き、門人の稽古に解放した。
その後長屋門に、「稽古場」(道場)を付設し、慶応2年(1866年)11月朔日、この日の稽古始めには、宿方や近村から10名ほどの出席者があり、終日稽古に励み、昼にも夕にも酒で饗応したという。
  当時の道場は、立川(立川市)では丸屋の物置、程久保村(日野市)は小宮競次郎の屋敷続き、栗須村(八王子市)は井上忠左衛門宅などにあったが、彦五郎の道場は本格的なものであった。
  京都で活躍する近藤の留守中には近隣村での出稽古に赴き、自ら剣術指南をかって出て、近藤から託された神文状に誓約させることで門人の増加や流派の発展に貢献していた。
  この間、彦五郎は公私にわたる日記を認めていて、安政4年(1857年)から明治2年(1869年)の一部が最近になって伝存することが確認された。

  以下年表として主要な新選組関係の記述を現代文で記述する。

これによって、新選組結成以前から彦五郎と親交した近藤勇・土方歳三そして沖田総司などの活動が具体的に窺え、なかにはこの日記にしか記録されていない新事実も明らかになった。

日野宿本陣文書・佐藤彦五郎日記にみられる主な新選組関係記事

   年    月        記       事       

安政4年(1857年)5月

6日昨夕、近藤勇が来て、欣浄寺(日野市日野本町四丁目)で稽古する。
7日昼前に同寺で稽古する。
8日勇、江戸へ帰る。

              8月

14日勇が来て、剣術稽古する。
15日剣術稽古。午後4時から近藤は柴崎村(立川市)へ行く。
17日勇と柚木堀之村(八王子市)の与之助が来て、剣術稽古する。

              9月

21日勇が来る。
23日勇、吉之助を同伴して相州へ行く。

             12月

7日勇が来て、
11日寺沢(八王子市)へ行く。

安政5年(1858年)正月

10日勇が来て泊まる。10・11日の両日は稽古する。
12日勇、一ノ宮村(多摩市)へ行く。
28日市ヶ谷森町(新宿区)の近藤周助宅へ立ち寄る。

              3月

24日勇、22日に来て、今日帰宅する。

              4月

8日昨夜、勇が来て、
9日朝に帰宅する。

              9月

10日勇、去る7日に来て泊まり、今日八王子へ行く。
22日昨日勇が来て泊まり、今日立川へ行く。

安政6年(1859年)4月

2日昨日近藤周助が来て泊まり、今朝出立する。
27日周助が府中六所宮(大国魂神社)へ奉額志願をするため、門人の主だった者から世話人をたてる。
世話人は今日府中の松元屋で寄合をもって相談することになり、彦五郎も出席するよう依頼がある。夕刻に出発、同夜は同宿に泊まり、翌日出府する。

              6月

9日周助が弟子惣次郎(沖田総司)を同道して泊まり、翌10日昼まで稽古し、昼後に八王子宿へ行く。

              9月

26日勇と修行者1人が来て、剣術稽古する。

             12月

13日夜、府中宿の出火へ彦五郎と勇が行く。

万延元年(1860年)5月

9日去る4日勇先生が来る。今日石田俊蔵を同道して八王子から五日市へ行 く。
14日昨夕、勇と石田俊蔵が五日市村から戻り、今日勇は府中宿へ向け出立する。

               6月

28日勇先生が井上松五郎を同道し、柚木領(八王子市)へ行く。これは額面勧化のためで、彦五郎は相原村(町田市)青木勘次郎へ手紙を書き、勇先生へ渡す。

               7月

6日彦五郎は出府の際、府中宿の近藤奉納額面請負人へ金10両を渡し、受取書を取る。

               9月  

晦日府中宿の六所宮へ周助の奉額をするため、門人が参会して太々神楽を奉納する。彦五郎も世話人のため、夕刻から出席し、受付を1人で担 う。帳面2冊と残金56両余は世話人が立ち会って周助へ渡す。2日朝帰宅する。

              10月

15日勇が来る。
25日一昨23日に石田為次郎と勇がきて、昨24日両人とも帰宅する。

文久元年(1861年)正月

14日勇、門人沖田惣次郎ほか1名、および山南啓助の4名が来て泊まる。
15日・16日両日剣術稽古する。
17日近藤ら八王子宿へ出立する。
28日四ツ谷(市ヶ谷)柳町(新宿区)勇方へ行く。
29日勇方で寄合稽古する。
斎藤弥九郎門人15名などが参加し、彦五郎や石田村(日野市)の者が試合をする。

元治元年(1864年)12月

24日勇・周斎先生へ立ち寄る。

慶応元年(1865年)4月

6日今朝染屋から手紙あり、土方歳三が京都から急用で帰府する連絡が入る。4日は川崎宿に泊まり、5日に江戸到着の予定という。
7日近藤方へ行き、歳三と面会する。
8日歳三が彦五郎の宿所金子屋へ来る   。
9日歳三が金子屋へ来る。彦五郎と松五郎は大先生方へ行く。
10日彦五郎・松五郎・定次郎・多吉および歳三が、乗馬にて帰宅する。
17日上平村(八王子市)の東照宮拝礼に、彦五郎・歳三などが行く。剣術修身の者2名の神文状をとる。帰宅途中で栗須村(八王子市)忠左衛門方へ立ち寄り、稽古する。
18日歳三は源之助(彦五郎の長男)を同道して出府、市ヶ谷柳町近藤方へ行く。

慶応2年(1866年)4月

4日朔日に京都から新選組の大石鍬次郎が供1名を連れて来る。3日に江戸へ帰る。
この帰府は、一橋家に仕える大石の弟が不慮の死を遂げたため、家督相続の相談をするためのもので、去る29日に江戸に着いたという。
歳三から刀1腰を送ってきたので、その代金15両を届けるよう鍬次郎に託した。

              7月

16日彦五郎、京都本願寺の近藤勇へ書状を出す。

慶応3年(1867年)9月

25日昨日、土方歳三と井上源三郎が江戸に到着し、彦五郎に談判したい件があるので、明日の出府を申し来る。
28日彦五郎、(井上)松五郎・定次郎を同道して出府、市ヶ谷柳町の近藤方へ行き、歳三と源三郎に面会し、同家に泊まる。

             10月

2日柳町近藤方へ行き泊まり、3日帰宅する。
7日歳三・源三郎が乗馬で来る。
12日土方・井上、出府する。
14日歳三から手紙が届く。
18日夕方、牛込廿騎町(新宿区)の勇方へ行き、歳三・源三郎と面会し、同所に泊まる。
21日(満田)川蔵が歳三に新選組加入を懇談したため、京都へ召し連れて入局させる件につき相談する。
歳三・源三郎は今朝江戸を出立する。
神奈川宿泊まりのため、同宿へ川蔵が出頭する。
27日大政奉還となったが、新選組に別条なしとの情報入る。
28日近藤周斎先生、今28日卯の中刻に病死の知らせ来る。

              霜月

朔日近藤周斎先生の仮葬式が卯の上刻に菩提寺の愛宕下金地院寺中二玄庵で執行され、彦五郎も参列する。
葬式入用として金100両は四ツ谷左衛門町に島崎勇三郎の親禅定(近藤周斎の実兄弟?)へ貸し渡す。

慶応4年(1868年)正月

16日近藤・歳三ら局中が12日と15日に品川宿へ着船すると、本宿村の権助が品川宿から知らせに来る。
19日新選組の旅陣である品川宿の釜屋から大石鍬次郎と満田川蔵が、彦五郎の宿所である和泉屋へ来て、夕刻に帰る。
20日勇が御殿医松本良順様方に滞在しているので、訪問したところ歳三が居合わせて、朝から午前10時頃まで話し込む。
21日夕方、歳三・大石鍬次郎が和泉屋に来る。
22日新選組の品川旅陣釜屋へ行き、歳三に面会する。
23日新選組は今日、品川から鍛冶橋内御役屋敷へ引き移る。

              2月

13日夜、新選組土方の使いが来る。
本宿村(府中市)権助が正月16日から滞在し、新選組への加入を懇願したいので14日に亀吉とともにこれを許す。
16日新選組への加入を許した要蔵と幸助が、夕方立ち帰る。
朝、弥吉へ手紙を持たせ、新選組加入を許す。  

              3月

朔日甲府(甲陽)鎮撫隊として大久保剛(近藤勇)・内藤隼人(土方歳三)らが、100名ほどを引き連れて江戸を出立したので、宿所の府中宿を 訪ねたところ、大久保から日野宿の門人30名ほどを甲府までの間応援として徴発するよう依頼される。
2日大久保、彦五郎方で休憩する。彦五郎、日野の門人隊(春日隊)を率い、総勢25名昼刻に出立して与瀬宿(神奈川県相模湖)に泊まる。
3日門人隊は与瀬宿を出立し、上野原宿(山梨県上野原町)で昼飯、猿橋宿(山梨県大月市)に泊まる。
4日猿橋宿を出立し、花咲宿(山梨県大月市)で昼飯のところ、官軍らしき軍勢が明5日頃に甲府町へ進軍するとの情報が入る。
そのため大久保や内藤などの兵隊が先陣を勤め、日野の門人隊は後陣として荷物の警固をしながら笹子嶺を越え、駒飼宿(山梨県大和村)へ着く。
しかし、すでに前日甲府町へは官軍が到着して占拠したため、鎮撫隊は駒飼宿に待機する。
5日甲府の官軍は、1,200名ほどとの情報が入り、それを注進するため正午頃に内藤隼人が早駕籠で帰府する。
荷物や鎧櫃・両掛を警護する日野兵78名(農兵隊を含む)は駒飼宿を出立し、大月宿(山梨県大月市)に泊まる。
6日鳥沢宿(山梨県大月市)まで退却する。
大久保は午後4時頃から駒飼宿から鶴瀬宿(山梨県大和村)へ出張する。

   【ここで記述が中断】
3月(3月11日)に甲州道中を下って日野宿に入った土佐藩兵などから嫌疑をかけられた彦五郎は、4月23日彦根藩邸の総督府参謀方へ嘆願書を差し出したところ、長州藩の木梨精一郎などに取り次がれ、同月晦日に赦免となる。

明治2年(1869年)7月

18日箱館で降伏した兵卒、亀太郎というものが来る。
23日藤左衛門が亀太郎を東海道まで見送る。

戻る 前へ 次へ

ライン