第二章 み言とは
第一節 み言の絶対価値
神様のみ言は、真理(思想)の根本であり、したがって絶対真理なのです。また、統一的な真理です。人間の堕落により、神様を失ってしまうことによって絶対価値と絶対真理を喪失したのであり、統一価値と統一真理を失いました。
絶対価値と絶対真理から絶対価値観が立てられるのです。「観」とは、観点であり、見解であり、理論です。したがって、今日の世界的混乱を収拾する方案は、絶対的価値観を確立することだと言わざるを得ません。(一二二―二九九、一九八二・一一・二五)
真理は唯一のものですが、それは自然と人間世界を支配する一つの原理でもあります。この原理は、宇宙万象の根源です。人間にとっても、この原理は、霊性と肉性の調和を通した人格を完成し、真、善、美を実現するように導く真の愛の絶対価値なのです。(一七〇―二六七、一九八七・一一・二七)
真理は、どのような力よりも強力な武器です。また、真理という武器は、永遠の力をもっています。核兵器とは比較になりません。どのような所に行っても定着することができるのです。どのようなものでもコントロールできます。また、この武器をもっていれば、サタンは讒訴できません。(二四八―三七、一九九三・五・三〇)
神様の真理とは、世俗的な真理ではなく、神様の愛のみ言をいいます。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して啓示として地上に伝えられます。神様の真理は絶対真理です。絶対真理は万能キーのようなもので、この真理を適用すれば、いかなる難問題も解けるようになります。(一三五―三四七、一九八五・一二・一六)
先生のみ言は、先生が語っているものではありません。先生が語っているのではなく、天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつどこで聞いても、心が動き始めます。それが違うのです。先生一人ではありません。縦横を合わせたその場で語ろうとしたので、心も体も共鳴体になるのです。
振動が起こります。心と体が一つになるので、体が振動すれば心が振動し、心が感動すれば体に一大革命的な変化が起こるのです。そのような力があります。それは、文総裁のみ言ではなく神様のみ言だからです。(二八九―二九五、一九九八・二・一)
霊界は、いつも毎日のように新しい神様のみ言を中心として、霊界の果てまで一体化し、そこに従って前進することによって発展するようになっています。このみ言を一度聞けば、一度聞いただけ発展し、十回聞けば、十回聞いただけ発展し、百回、千回、聞けば聞くほど、それだけ発展するのです。なぜならば、それが先生のみ言ではなく、神様のみ言だからです。悪の世の中を浄化するためのみ言を語るときに、先生が代表してこのみ言を知って橋渡しをしたのです。(二九六―二一七、一九九八・一一・一〇)
統一教会の真理は、統一教会の歴史の中で、闘いの路程によって明らかになった真理ではありません。これは、創世以前から、真の父母との絆を中心として、真の家庭、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界を創建しようとされた神様の創造理想の中にあった真理です。また、神様の復帰摂理の理想までも内包した歴史的な絆をもっている真理なのです。(三〇―三一八、一九七〇・四・六)
神様が人間を造るにおいて、漠然と造られたのではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様御自身の信念が介在しています。その信念は、具体的でなければなりません。具体的な内容の上に立った信念でなければならないのです。それでは、その具体的な内容とは何でしょうか。それが原理です。原理原則です。これこれこのような原則に従って、このような結果が出てこなければならないというのが原理です。
ですから、神様御自身も信じる立場で、原理的な内容を通じて造られました。その信念と原理が一致し、そこに再び実体が一致する瞬間が、創造の瞬間です。ここで、その信仰とともに、その原理に通じ得る実体を造るためのものがみ言なのです。(六八―一三四、一九七三・七・二九)
み言は、漠然としたものではありません。原理による、原則を通じたものです。人の目はこのようになり、鼻はこのようになるという原理原則、設計図がみ言です。ですから、その設計図に一致できる人にならなければなりません。(六八―一三六、一九七三・七・二九)
真の父母様は一組だけです。この一時だけです。過去にも存在せず、未来にも存在しません。真の父母様が肉身をもって実体として存在されるのはこの時だけです。永遠の中で、たった一度です。
ですから、真の父母様が天の秘密をはっきりと教えてあげるのです。これは隠された真理です。既に先生がそのような概念を完成させておきました。そのような秘密の概念を教えてあげるまでは、サタンがあらゆるものを占領してきましたが、先生が教えておいたので、これからはすべてが明らかになります。今やサタンは、先頭に出ることができません。これは神様も認めます。従いさえすれば、完成するのに問題はありません。そのような教えなのです。(二四六―八四、一九九三・三・二三)
真の父のみ言は、千年の間繰り返し聞いても、魚が水を飲むように、常に味わいがあるのです。同じみ言でも、悲しいときに聞けば慰労となり、うれしいときに聞けば祝賀となります。私たちの心の状態、生活感情の違いによって、それに該当する素晴らしい対象の価値として作用するのです。(一〇―一四〇、一九六〇・九・一八)
真の父母様のみ言を聞けば、そのみ言がどれほど良いか分かりません。自分の心がどれほど汚れているでしょうか。み言を聞けば、サタン世界から転換されるので、心に歓喜が起きるのです。ですから、これを自然に歓迎するのであり、これを聞けばうれしいと感じるのです。それは、春が訪れるのと同じです。復活の春が訪れることによって、新しい命が芽生えるのです。(二九一―二三七、一九九八・三・一五)
先生のみ言を皆さんがちょっと聞いても、すぐには理解できないでしょう。しかし、本で読めば間違いなく理解できるのです。
先生は、このように広大な世界を総括して分別し、比較し、対照して配列していく頭をもっているので、この世界のすべての知識世界を収拾し、原理という伝統的な基準を中心として、理論的な体系を完璧にしたのです。これは並大抵のことではありません。数千、数万人の学者たちが集まってもできないことを、一人の人がやってしまったということは、その価値を認めざるを得ないのです。統一教会は、そのような驚くべき武器をもっています。(二二八―一四八、一九九二・三・二七)
神様がこの天地万物の中にいる私たち人間を訪ねてこられるとすれば、何をもって訪ねてこられるのでしょうか。神様が語られた、そのみ言の法度をもって訪ねてこられるのです。それは、この地のどのような個人の思想よりも、どのような言葉よりも偉大であり、全人類が願う神様のみ言なのです。ですから、皆さんは、創造当時に立てたそのみ言を、皆さんの生涯を支配し得るみ言として、さらには生涯を救い得るみ言として復帰すべき運命が横たわっているのです。(三―二六一、一九五八・一・一二)
神様が第一イスラエルの失敗を黙って見逃され、第二イスラエルのキリスト教徒たちを立てて新しい運動を提示される、その中心的み旨とは何でしょうか。それは、イエス様が成そうとされた、み言の聖殿を探し立てることです。
ですから、今から皆さんは、神様が皆さんに伝えるみ言に対して、「永遠の法度として下さったみ言である」と認識し、「これが私の命のみ言です」と言いながら、そのみ言を受け入れるだけでなく、「人間始祖を創造された当時のみ言だ」と感じることができる一時をもたなければなりません。
もし皆さんが、そのようなみ言をもたず、神様のそのみ言を皮膚で実感する体験の一時をもつことができなければ、皆さんは神様の息子になることはできないのです。(三―二六三、一九五八・一・一二)
蕩減復帰をするにおいて、自分という観念をもてば、蕩減の道はありません。イエス様も十字架の道を行くとき、神様に向かって自己主張する心を抱いていませんでした。自分の怨讐にまで自分の意見や主張をもたなかったのです。ですから、神様の息子になることができたのです。そのような伝統的な精神を、今、キリスト教徒たちは誰も知りません。先生が語る内容に対して、「そうではない」と言う何の根拠もないのです。結局、先生のみ言に従えば、天国に行くのです。(二二九―二三四、一九九二・四・一二)
第二節 み言に対する私たちの姿勢
アダムとエバは、自分たちを創造して、「取って食べるな」と言われた神様のみ言を、心の奥深くに大切に保管し、そのみ言と自分たちは切っても切れない一つの結合体だと思いながら、変わらない決心をもち、すべての万物を主管すべき責任が自分たちにあることを実感していたならば、堕落していなかったでしょう。(四―三二、一九五八・二・二三)
アダムとエバは、自分たちをして万物を主管するようにされた神様の創造の目的が、どこにあるのかを知りませんでした。「このようにしなさい」と言われたみ言を守ったあとに訪れるもの、すなわちみ言の峠を越えたあとに訪れるものを慕う心がなかったというのです。自分たちの命に対する認識と生活感情を失わずに、「取って食べるな」と言われたみ言を守ったあとには何が訪れるのか、それに対する欽慕の心情が彼らの生活を支配し、引っ張っていくことができていたならば、アダムとエバが善悪の果を取って食べることはなかったでしょう。
その瞬間に、アダムとエバがもう一度目を覚まして、「取って食べるな」と言われた神様のみ言を再認識し、「万物を主管しなさい」と祝福され、そのあとに自分たちに与えようとされた何かが天使長の誘惑よりも大きいということを感じていたならば、堕落していなかったのです。これが人類のあらゆる曲折の根源となったので、今日の私たちは、自分を取り戻す運動をしなければならず、自分に任せられた責任を探し出すために努力しなければならず、そのあとに私に何が与えられるのかを考えなければならないのです。(五―二六五、一九五九・二・一五)
神様は、長い歴史時代を通して、責任分担を知らない人間たちが「責任分担を果たした」と言い得るようにするための政策を繰り広げてこられたのです。ですから、絶対服従しなければなりません。責任分担を完成することができなかったのは、神様のみ言に絶対服従できなかったからです。
したがって、第一の条件とは何でしょうか。責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言に絶対服従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。(一三九―二五五、一九八六・一・三一)
み言で造った人間が、み言を失ってしまったので、み言で再創造しなければならないのです。それは、神様の愛のみ言、神様の生命のみ言、神様の血筋のみ言です! これが再創造の三大要素なのです。(一九八―三〇、一九九〇・一・二〇)
原理は何よりも貴いものです。皆さんは、このような原理を、御飯を食べることよりも、服を着ることよりも、寝ることよりも貴く思ってみましたか。絶対視して、何よりも貴いものとして信奉すべきでしたが、そのように生きることができなかったのです。ですから、皆さんは悔い改めなければなりません。(二一〇―一八一、一九九〇・一二・一九)
毎日のように霊的な呼吸をしなければなりません。御飯を食べるのと同じように、み言に接していなければならないのです。御飯を食べるより、もっと重要視しなければなりません。み言を重要視するのです。それこそ、皆さんが天国に行ける道です。(二二六―二八四、一九九二・二・九)
誰でも毎日、朝昼晩の御飯を食べなければなりません。しかし、それよりも貴いものは、霊的糧であるみ言です。御飯を食べることよりもみ言を貴く感じながら、どれほど自分の霊的体を育てたかが問題です。(二八一―二三六、一九九七・二・一四)
皆さんは、み言を頭で理解すると同時に胸で理解しなければならず、胸で理解すると同時に体で理解しなければならず、また体で理解すると同時に心で理解しなければならないのです。(三―九八、一九五七・一〇・四)
神様のみ言はみ言、自分たちは自分たち、これではいけません。私たちは、神様のみ言の実体にならなければならないのです。神様の内的心情が、私たちの内的心情にならなければなりません。すなわち、本心の実体にならなければならないのです。(三―三二九、一九五八・二・二)
真理は、実体化されなければなりません。真理は、生きている人間の中で存続して完成されなければならないのです。そうでなければ、真理はサタンに奪われて、誤って利用されることがあります。ですから、先生は、すべての条件が造成され、真理がある線まで実体的に具現されるまでは、新しい真理を明らかにしませんでした。(九一―一〇一、一九七七・二・三)
神様は、神様の代わりに万物を主管する主人としてアダムとエバを造られました。そして、無限の喜びの心情で彼らのために祝福されたのです。つまり、彼らに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」(創世記一・二八)と言われました。このような祝福のみ言を私たち人間に下さったということは、創造の目的が喜びにあったということです。その目的を成し遂げるために、私たちを祝福されたというのです。(五―九〇、一九五九・一・三)
喜びというものは、神様の心情から出発するのです。そして、その目的がどこで成されるのかというと、人間から成されていくのです。見えない神様の心情が、見える人間の心情で顕現します。そして、そのような心情を備えた人間が横的に広がっていき、一つの家庭を成すようになれば、その家庭が世界的に広がっていって世界の中心になるのです。そのような家庭を成しなさいという心で、神様はアダムとエバに「生めよ、ふえよ」と祝福されたのです。
天宙主義は、繁殖して万物を主管するその基盤の上で成立します。ですから今後、皆さんは、その内容を中心として生きていかなければなりません。(二七―二八、一九六九・一一・一五)
神様のみ言は、そのみ言が下される先々で善の実績が現れ、復活の役事、再創造の役事を起こさせるものです。ですから、私たちは、悪を清算し、復活の役事を起こし、再創造の権能を行使することができるみ言をもった人にならなければなりません。このようなみ言をもった人たちが集まって暮らす所、そこが天国です。(三―三四、一九五七・九・一五)
イエス様はサタンに、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ四・四)と言いました。事実そうです。先生は、今まで労働しながら生きてきたのですか。お金で生きてきたのですか。そのどちらでもありません。神様のみ言をもって生きてきたのです。それでも滅びませんでした。(四七―一九七、一九七一・八・二八)
最初は、み言をもって信じる時代であり、その次は、み言をもって実践する時代であり、その次にはみ言を中心として生活する時代です。生活時代に入っていくのです。天国にしようとすれば、これがすべて一致しなければなりません。信仰の時代、実践の時代、生活の時代、このように発展するのです。(七四―三一九、一九七五・一・一)
霊界は、み言を中心として生活する所です。毎日の生活のすべてがみ言によって動く所が霊界なので、地上でそのような訓練をしなければなりません。み言が嫌いな人は、御飯を食べてはいけないというのです。この世の御飯よりもおいしく食べなければならないのが霊的な糧です。霊的に永遠な糧である以上、永遠に続く味を私たちの制限された地上生活から訓練されなければなりません。(二九六―二一七、一九九八・一一・一〇)
第三節 み言の伝統
神様は、み言ですべてのものを創造されました。ですから、み言、すなわち真理が完全でなければ、その実体も完全にはなれないのです。真理が不完全であれば、実体も不完全とならざるを得ません。信仰生活も、完全な位置に立脚しなければ、完全な信仰生活をすることはできないのです。したがって、神様と天地が願う完全な真理が出てこなければなりません。(一六―二五二、一九六六・六・一九)
聖書を見れば、神様はみ言で被造万物を創造されたとなっています。しかし、考える段階から、み言で創造する段階へ行くというのは飛躍と言わざるを得ません。なぜかというと、考えというものは様々な内容があり得るのですが、その考えが体系化され、一つの目的を指向するようになったものをみ言の形態で現れるようにしようとすれば、そこに新しい何かが加えられなければ、それ以上に発展することができないからです。
ですから、今日の私たち人間のことを考えてみれば、神様が天地創造の理念を中心として、人一人を創造するために、無限に努力されたということができるのです。どのような過程を通して、どのような形に造るのかということを考えられたのです。
人間も、やはりみ言で創造されました。「理想のとおりに人間はこのような形態で造ろう」と決心され、「目はこうで、鼻はこうで、手はこうで、足はこうで……」と考えて造られたのが人間です。人間を造られる前に、人間の形はこうだと説明できる体系を模索したのち、その基盤の上に実体的な万物と連結させて人間を創造されたのです。(二九―三一四、一九七〇・三・一三)
神様がみ言で被造万物を創造されたので、皆さんは、そのみ言の内容を自分に再現させ、自分自身の中で、すべての実体世界と関係を結ぶことができるみ言の形態と体系を自ら探し出さなければならないのです。
それでは、み言の体系を探し出すところで終わるのでしょうか。そうではありません。もう一段階入っていって、み言が出発した時の神様の考え、すなわち神様の観念圏にまで尋ね入っていかなければならないのです。(二九―三一六、一九七〇・三・一三)
創造の役事をするということは、力の投入を意味するのです。創造とは、力を消耗させることです。投入されたといいますが、どれほど投入されたのでしょうか。人々は聖書を見て、神様がみ言で「このようになれ!」と言って簡単に創造したかのように考えています。しかし、そうではありません。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入したというのです。(六九―八一、一九七三・一〇・二〇)
本来、神様の創造というものは何でしょうか。今日のキリスト教徒たちは、「神様は全知全能であられるので、み言でつくられた」と言うのですが、そのように何か妖術を使うようにしてつくられたと思いますか。そうではありません。
あらゆる精誠を尽くして自分の一身をすべて投入する、このようにせざるを得なかったのです。ですから愛するというのです。精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものを愛することができますか。私の骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、私の思想の中の思想であり、私の全体の中の全体を投入したので、希望の対象とすることができるのです。(七八―一一一、一九七五・五・六)
創世記のみ言の中に、神様が人を造って祝福してくださったという内容があります。しかし、その祝福は、成された祝福ではなく、約束の祝福だったのです。ですから、アダムとエバは、大いなる希望を抱いて万物を主管できるその日を、心で欽慕する立場にいました。
そのような立場にいたアダムとエバに、神様は、善悪を知る木になる実を取って食べるなと言われ、「食べると、きっと死ぬであろう」(創世記二・一七)と語られました。ですから、アダムとエバは、神様が祝福された希望を心に抱いて生きなければなりませんでした。「取って食べるな」というみ言を信じて従うときに、初めてアダムとエバは神様のみ旨を成し遂げることができる一男一女として、一つの家庭を出発することができたのです。これが原則となっていました。
ですから、私たち人間は、必ず希望をもった人にならなければなりません。その次に、私たちが希望をもって永遠の関係を結び、因縁を結ぼうとすれば、信仰の過程を通らなければなりません。したがって、この希望が成し遂げられ、信仰が成し遂げられる日に、初めて私たちは神様の愛を受けることができるのです。これが原則です。
ところが、私たち人間は、堕落によって希望を失ってしまい、信仰を失ってしまいました。希望と信仰を失うことによって、神様を中心とする愛を失ってしまったのです。これを復帰するためのものが、今までの六千年の復帰摂理歴史であることを私たちは知らなければなりません。
今から私たちは、アダムの代わりに、あるいはエバの代わりに、神様が被造万物に許諾してくださった祝福を希望とし、その希望を私のものとするために、神様が「やりなさい」と言われたことと、「やってはいけない」と言われたことを分別し、実践しなければなりません。神様を中心とする希望と信仰をもち、さらには実践生活において勝利するとき、初めて私たちは、神様の愛を受けられる個人復帰の基準を立てることができるのです。(五―一〇八、一九五九・一・四)
先生は、み言を立てるために、霊界のすべてのものを中心としてサタンと決闘し、肉界のすべての迫害が前後、左右から押し寄せてくる場でサタンと決闘したのです。最高の一線で、個人的にそのようにして、家庭的にもそのようにしたのであり、氏族と民族と国家的にもそのようにしました。
先生もみ言を立てるためにそのような道を歩んできたのであり、そのような立場でみ言の伝統を立ててきたという事実を、皆さんは知らなければなりません。(二一―三三四、一九六九・一・一)
今から数を拡大し、強固な基盤を確立するためには、伝統を立てなければなりません。皆さんがみ言と人格と心情を中心として神様と一体となり、中心存在と一体となり、家庭とそれ以外のすべてのものが、神様が認定できる基盤の上に立たなければならないのです。そうして、皆さんが伝統的実体として現れなければなりません。皆さんが実体をもった立場で、み言の伝統、人格の伝統、心情の伝統を立てて、先生の代身となってくれればよいのです。(二一―三三七、一九六九・一・一)
後代にきれいな伝統を残そうというのです。それで、一番目に心情が問題であり、二番目に原理が問題であり、三番目に伝統が問題です。神様も、この三つを願われるのです。
神様は、なぜこの世界を造られたのでしょうか。愛のためです。その次に、どのようにこの世界を造られたのでしょうか。原理を通してです。ですから、愛と原理です。愛と原理と一つになったそのような人を中心として、それをそっくりそのまま伝統として残そうというのが創造の偉業なのです。(九三―一六三、一九七七・五・二二)
皆さんは、み言に対する伝統を立てなければなりません。韓国の食口も、日本の食口も、アメリカの食口も、み言を体得するにおいて、すべて統一された伝統を立てなければなりません。すなわち、原理に立脚した考え方と生活態度をもち、み言を中心として一体となった伝統を立てなければならないのです。
今までは、各自がそれぞれの伝統を立ててきましたが、今からは、韓国と日本、そして全世界にまで、統一された伝統を立てなければなりません。外国を巡回するときも、この点を重点的に強調しました。み言に対する伝統を、世界的に立てなければならないのです。
人が神様のみ言と一致した位置に立てなかったことが堕落です。「取って食べるな」というみ言を絶対視して、伝統を立てなければなりませんでした。しかし、そのようにすることができずに堕落したので、復帰の路程を歩んでいく人たちは、最後に現れる一つの真理のみ言と一つになる伝統を立てなければならないのです。
天にはそのような伝統が立てられているのですが、地上に生きている人たちには、それが伝統になっていません。もしこの伝統が立てられなければ、統一教会も、今までの既成教会のように数多くの教派に分裂する可能性があるのです。すなわち、み言を中心として一体となる伝統をどのように立てるか、ということが絶対的な問題として展開するというのです。(二一―三二六、 一九六九・一・一)
み言はみ言、私たちは私たちで離れていてはいけません。み言を中心として自分を育てていける人にならなければなりません。すなわち、神様のみ言と一つにならなければならないのです。
なぜなら、皆さんが知っていたものは、サタンと関係している言葉であり、皆さんが追究し考えていた思想体系では、サタンと関係のある立場を抜け出すことができないからです。サタン世界のすべての構成要素は、どのようなものであれ人間を中心として現れたものなので、堕落圏内を抜け出すことができないものなのです。ですから、新しいみ言をもって、すべてのものを革新しなければなりません。
今までの在来の言葉に、そのまま和合して一緒に行くことができるでしょうか。絶対にできません。在来の言葉とは完全に決別し、清算しなければなりません。今までサタン世界でもっていたサタン的な観念と信仰および習慣までも、すべて一掃しなければなりません。そうして、絶対的な基準のみ言を中心として伝統を立てなければならないのです。
そして、み言を立てるときの先生の心の基準に、皆さんも接しなければなりません。皆さんがみ言を学んだとしても、それは、み言そのものを信じるためだけのものであって、完全ではありません。そのみ言の背後に伝統的な基準が隠れているので、その基準を体得しなければなりません。ですから、より一層み言に対する伝統を立てていかなければならないのです。(二一―三二七、一九六九・一・一)
伝統を尊重視しなければなりません。伝統です。あなた方が持っていたペンは何でもありませんが、先生が持っていたペンは、今後、億千万金出しても手に入れることができなくなります。先生の時代につくったものを貴く思うことができなければなりません。皆さんは、時代の変遷によって変わるのですか。それが天の原則ですか。そうではありません。これからは、先生のみ言はどうだっただろうかと、このみ言を中心としてすべてを解決するのです。
ですから、先生のみ言が重要なのです。先生が語ることは、いい加減に語っているのではありません。四十年という経験のもとに語ったものなので、行ったり来たりしません。(二六一―二六六、一九九四・六・二〇)
復帰の道は、簡単ではありません。復帰の道は、探し尋ねていく道です。探し尋ねて原理を立てたので、原理の道は、踏んでいくのです。原理の道は、自分勝手にすることができません。復帰の道は、真の父母が探し尋ねました。そして、原理原則を立てておいたので、その原理に従っていかなければなりません。
真の父母が歩んだとおりに歩んで、その伝統を自分の家庭に立て、勝利的内容を備えたすべてのものを伝授された相続者となることによって、その家庭もサタン世界から抜け出すことができるのです。これは理論的です。(二八一―八六、一九九七・一・二)
第四節 『原理講論』に関するみ言
統一教会の伝統は、どこにあるのでしょうか。原理だということを知らなければなりません。それは、ただの本ではありません。その原理の裏側には心情があるのです。心情が伝統の基盤です。
さあ、伝統とは何かというと、原理のみ言です。原理のみ言を知ることによって、今後、哲学や思想界において王座の位置に上がっていくことができ、覇権を握ることができるのです。原理のみ言を知らなければなりません。これに対する専門的な知識がなければ、これから世界で出世することはできません。先生が苦労し、神様が苦労されたのは誰を救うためなのですか。皆さんの救いのためなのです。(二二四―三三六、一九九一・一二・二九)
復帰原理にある信仰基台を立てる人とはどのような人かというと、神様のみ言を絶対的に信じる人であり、原理のみ言を絶対的に信じる人なのです。そのみ言は、個性完成のみ言となることができ、家庭完成のみ言となることができ、国家完成のみ言となることができ、世界完成のみ言となることができ、天宙を解放するみ言となることができ、神様の愛をもたらすみ言となることができるのです。
ですから、皆さんは、原理のみ言を絶対的に信じなければなりません。その次には、信じるだけではなく、実体を復帰しなければならないのです。その実体は誰がもっているのですか。サタンがもっています。それでは、サタンがもっているこの実体を復帰しようとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。最前線に行き、サタンを屈服させて取り戻してこなければなりません。(六一―一九五、一九七二・八・三〇)
神様の創造理想を中心として、その理想を実現できるみ言があります。そのみ言とは何でしょうか。真理です。原理のみ言は、堕落した世界において絶対的な天法です。それを知らなければなりません。それでは、法とは何でしょうか。法は判断の基準です。実体がみ言どおりになったのか、人として一人前になったのかをみ言で判断するのです。皆さんがそのとおりになれば、その法がある国では、どこでも支障なく通過します。(一〇三―二三四、一九七九・三・一)
韓国語の先生の説教集をすべて買いましたか。読むことができなくても、部屋に宝物として保管しなければなりません。その本が何版なのかによって、今後、その家門の誇りになるかどうかが決定するのです。私たちの先祖が遺物として残してくれた、このような父母様の本国の『御言選集』が何版なのか、『原理講論』が何版なのか、これが初版ならば、その国で皆がそれを見物しにくるのです。(二六九―三一七、一九九五・五・一)
『原理講論』は、劉協会長が書いたのではありません。一ページ一ページすべて鑑定を受けたのです。私が許諾しなければ、それに手を出すことはできません。
もし間違って書かれていたとしても、軽視すれば引っ掛かります。何のためにそのように書いたのかを知らなければなりません。経典は、絶対視しなければならないのです。「明らかに間違っているようなのに、なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。それは全体を見たとき、そのように書くようになっているからです。そのように書くべきほかの事情があり、飛躍せざるを得ない内容があったということを知らなければなりません。そのように考えなければならないのです。それを理解できずに、自分が分からないことは「間違っている」と考えています。しかし、原理は千年たっても変わりません。(二六六―二六八、一九九五・一・一)(三三―一〇一、一九七〇・八・九)
『原理講論』にある「二性性相」を、ただ何の考えもなく宣布したものだと思っていますが、この宇宙の根本を隅々まで調べ、すべて整理して語った言葉であることを知らなければなりません。(一二五―八〇、一九七三・三・一三)
男性の愛と生命の起源は、どこでしょうか。神様です。二性性相の中和的主体であると同時に、愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。入れなかったのは、その時になっていなかったからです。その言葉を入れれば、「文総裁は悪魔の素質が多いので、だますために愛という甘い言葉を入れた」と言うので、そのようなことを考えて抜いたのです。最後には、「真の愛の起源が神様である」という言葉を入れなければなりません。『原理講論』を修正できる主人公は、私しかいないのです。(二二四―二二八、一九九一・一一・二四)
原理のみ言を中心として精誠を尽くす人たちは、毎日のように読んで、読んで、読むのです。朝に読んで、昼に読んで、夜に読みながらも嫌にならないというのが精誠です。同じことを千回、万回繰り返すのです。繰り返すときに、最初の四十年前に尽くした精誠がだんだんとさめていってはいけません。そして、皆さんが『原理講論』を千回読めば千回読んだ分、本の皮が変わっていなければなりません。皆さん、『原理講論』を何回読みましたか。(二三四―二八五、一九九二・八・二七)
『原理講論』の本を何回読みましたか。五十回以上読んだ人はいますか。十回ですか。それは読んだうちに入りません。その数が増えれば増えるほど、心霊状態が高まるのです。周りで誰かの話を聞いても、本があるので、本を中心としてすべて解決できるのです。原理のみ言を書くときに、先生が、神様と先生の代身としてみ言を書くようにさせたのです。ミスター劉(劉孝元先生)が書いたのですが、すべて先生の管理のもとで書いたので、天と連結しているということを知らなければなりません。普通の文章とは違うのです。(二六五―二二三、一九九四・一一・二三)
原理の本を見れば、そこには神様の六千年の心情があるのです。先生が一生の間に血を流しながら闘争した、その歴史がそこにあるのです。皆さんの知らない内容がいくらでもあるというのです。そのような原理の本を一ページ一ページ読むたびに、夜を徹して祈祷しながら、ここに神様の心情を見いだすことができるはしごがあるのではないかと考えて、覚えてみましたか。線を引きながら、この一言の背後にどのような歴史があるだろうかと考えてみましたか。毎日のように原理の本を読んでいますか。(六八―九九、一九七三・七・二三)
皆さんが『原理講論』を読むときは、たくさんの量を読むことよりも、少なく読むとしても必ず感動を受けるということが重要です。「そうなるまでは本を放さない」という習慣が必要です。訓練するときに、何の考えもなく受ければ、それが私たちの行く道と何の関係があるでしょうか。何の考えもなく訓練を受ければ、受けても受けなくても同じです。
原理のみ言は、私の生死の問題を決定し、勝敗を決定する剣と同じです。したがって、『原理講論』を読むときは、必ず感動を受けて、その実体になろうと決心する習慣が必要だというのです。そして、それが分かれば実践しなければなりません。(二九―二八一、一九七〇・三・一一)
み言と伝道です。皆さんは原理が分かっていません。み言を武装すると同時に伝道しなければならないのです。み言を武装すると同時に、伝道の必要性をいつも強調しなければなりません。心情の体恤というものは、自分一人ではできません。伝道しなければならないのです。何をもって、どのように伝道するのでしょうか。『原理講論』の本をすべて覚えてしまうほど朗読するのです。 (九六―三一七、一九七八・二・一三)
一日に十八時間以上、原理講義をしました。結局、食口の増加率は原理講義の回数に比例するのです。ほかのものではありません。今までの科学的なデータを世界的に調べてみると、そうなのです。盲目的に伝道してはいけません。
方法がすべて組まれています。二日修練会、三日修練会、七日修練会、二十一日修練会、四十日修練会、四十日修練までしなければなりません。食口にしようとすれば、そのようにしなければならないのです。(一七二―四五、一九八八・一・七)