第一節 真のお母様の誕生と成長期
一 真のお母様の誕生とその背景
韓鶴子女史の誕生
人類の真のお母様・韓鶴子女史は、一九四三年二月十日(陰暦一・六)寅の刻(午前四時三十分)、平安南道安州郡安州邑信義里二六番地において、父君・韓承運(一九〇九〜七八)、母君・洪順愛(一九一四〜八九)大母様との間に誕生された・大母様は、満二十歳になられた年の一九三四年三月五日、天の導きに従って韓承運先生と成婚され、その後一九四二年に至って「男の子を産めば宇宙の大王になり、女の子を産めば宇宙の女王になる」という啓示とともに真のお母様を身ごもられ、翌年出産された。
お母様の先祖はどこですか。平安南道でしょう。平安南道の韓氏ですが、韓氏の先祖はどこにいますか。お母様の実家の第一先祖はどこですか。清州です。ですから、私の息子、娘がお母様の本家に訪ねていくならば、清州の地を訪ねていくようになるのです。
清州は本当に良いと思います。清州は、その名前が「清い」という字に「州」という字でしょう? 清い州です。清い水の中をのぞいてみれば、川ならば川、海ならば海の底まですべて透けて見え、魚がいれば泳いでいるのも見え、黒い砂も白い砂もすべて見えるのです。
女性を誇ることができる家門があるとすれば、文先生の奥様の韓氏以上に誇ることができる家門がどこにありますか。
お母様の名前が良いのです。韓鶴子です! 女性が先生の相対になろうとすれば、学者(ハクチャ)にならなければならないでしょう。(笑い、拍手)韓(ハン)は何のハンかというと、漢学(ハンハク)もハンですが、恨めしい学問の恨です。誰よりも神様に対して最高に勉強した学者にならなければなりません。恨学者(ハンハクチャ)です。女性がそのようになれば、間違いなく神様の相対の位置に来ると思ったのです。そのように姓も良く、名前も良いのです。今は結局、その位置に来たのです。
また、お母様は鶴子ですが、なぜ鶴子ですか。(笑い)鶴女となれば良いのに、どうして鶴子になったのでしょうか。私は、「ははあ! そこに息子の『子』という字をつけたのは、神様の息子と因縁を結んでくださるためだったのだなあ。本来、そのように生まれついたので、統一教会の母の名をもったのだなあ」と思いました。それはすてきでしょう? 「韓」と言えば韓国を代表するこどもでき、宇宙を代表することもできるでしょう。「韓」は、「一(ハン)」であって、一番という意味です。
息子、娘がどのようになると思いますか。皆さんは生産することを嫌い、身ごもれば薬を飲んで流産させてしまうのですが、その息子がこの世界の王になるかもしれないということを誰が知っていますか。天上世界では「こいつ、地上世界に天地のみ旨を立て、万民が褒めたたえることができる生命が生まれてくるというのに、刃物で切ってしまうのか!」と言うのです。それは、千年与えてくださった福をなくし、本然の息子、娘をなくすことと同じです。
もしお母様をそのようにしていれば、どのようになっていたでしょうか。おばあさんがそのようにしていれば、どのようになっていたでしょうか。そのようにしていれば、今日、私たち二人がどのようにして出会うことができたでしょうか。よくぞおばあさんがお母様を生んでくれました。また、先生のお母さんがそのようにしていれば、どのようになったでしょうか。生んでいなければ、本当にこの世は真っ暗闇の天地ではないですか。
天国の王子、王女である素晴らしい息子、娘を生んで、天国まで行くことができるとすれば、どれほど有り難いでしょうか! 本来私たちは、神様の息子、娘です。神様の体を通して神様の息子、娘が出てくるのです。神様が王の中の王であられるならば、神様の息子、娘も、王子の中の王子であり、王女の中の王女です。それゆえに、アダムは、神様、天地大王陛下の長子であり、エバは長女です。
真のお母様のみ言
私は、一九四三年陰暦一月六日午前四時三十分、平安南道安州郡安州邑信義里二六番地で生まれました。今まで故郷の安州の住所を覚えているということは殊勝なことでしょう? 私が生まれる時に外祖父(洪唯一先生)が「今、何時か見ておきなさい」とおっしゃられて、正確な時間が分かるようになったのです。
そして生まれる時、韓氏の父(韓承運先生)は、胎夢(妊娠する徴候となる夢)と言うより夢示(夢の啓示)、幻を見られたということです。とても鬱蒼とした青い松林の中に清らかで美しい日が射し、二羽の鶴が和動する姿が見えたそうです。それで、名前を「鶴子」とつけられたのです。
私の村は、ひどい片田舎ではありませんでした。家の裏には丘があり、小川が流れる、とても穏やかで暖かい感じを与える所でした。ちょうどめんどりがひなを抱くようにです。裏庭では、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことを思い出します。
真のお父様の故郷である定州は、私の故郷の安州と川を一つ挟んだ所にあり、七里の距離です。一九九一年十二月に定州に行った時、ヘリコプターで安州を通り過ぎましたが、アパート団地が建っていて全く変わった姿になっていました。真のお父様の故郷である定州よりも、もう少し市街地へと変わっていたのです。
洪順愛大母様の証
お母様は、一九四三年正月六日早朝四時三十分に誕生されました。ほかの子は生まれるとすぐに「おぎゃー」と言って泣くのですが、お母様は泣かれずに「ラララッ」と歌われました。それで、おばあさんが「この子は大きくなって音楽家になるようだ」と言われました。
最初のわかめ汁を飲み、お母様を抱いて寝入ったのですが、真っ黒な角の生えたサタンが迫ってきて、お母様を殺そうとしました。私は「サタンよ、退け! この娘は私にとってどれほど大切な娘か分からないのに、お前がどうして殺そうとするのか」と言って大声で叫びました。どれほど大きく声を張り上げたでしょうか。それでおばあさんが「やあ、お前はおなかがすいているようだな」と言われました。「そうではなく、角の生えたサタンが来て赤ん坊を殺そうとするので、私が大声を上げました」と言うと、「それは不思議だ」とおっしゃいました。
生まれると同時にサタンが殺そうとするのを見たので、本当に不思議でした。そして「この子は精誠を尽くして育てなければいけない。今後、世俗に染まらないように、清く美しく育てて主に捧げなければならない」と思いました。
一ヵ月ほどすると、夢に新しい主である金聖進おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れると、「順愛よ、その赤ん坊のために心配しただろう? 心配することはない、この子は主の娘であり、お前は乳母と同じだ。乳だけよく飲ませて養育しなさい」とおっしゃいました。その命令を今まで私は心に固く刻んで生きてきました。
お母様は成長される時、普通の子供だちとは違っていました。一歳になる前に歩かれ、言葉まで話されました。一言の言葉でも、とても明瞭に話されました。どれほど利□か分かりませんでした。実家の母も「この子はどう見ても、やはり違う」と言われました。それほど賢く、見劣りするところがありませんでした。
北韓には六歳になる時までいましたが、六年間、夢を見ると、いつもサタンがお母様を殺そうとしてついて回りました。それで私は、丸六年をサタンと闘いました。私は、深い意味は分からず「なぜサタンがこのようにつけ回しながら殺そうとするのか」といつも不思議に思いました。
三十八度線を越えて以南に下ってきて、友人の家にしばらく滞在した時があったのですが、面識のない一人の男性がお母様を見て、「この方は天他聞において神聖なお方です。二つの大きな仕事をもってこられました。しかし、道において成功してこそ大きくなるのであり、そうではなくこの世に出ていかれれば、反対に逆賊になります」と言いました。私はその言葉に非常に驚きました。それで、「あなたはなぜそのようなことを言うのか」と言いました。すると、その人は「既にこの世に生まれる時に、そのように生まれつかれたのだ」と言うのでした。そのように言いながら、「イエス様を信じるか」と聞くので、「そうだ」と答えると、「よく選んだ」ということでした。
その言葉を聞いて、私は何としてでも道で成功させなければならないと決意しました。以南に来て済州島に入っていったこともそうであり、統一教会に入ってきてからは、どのようなことをしても中学校だけは卒業させて「原理」をしっかり武装させ、統一教会の最も立派な働き手にしようと考えました。「お母様になられる」という考えは、夢にも思うことができませんでした。
三代の一人娘の母性(趙元模外祖母−洪順愛大母様−真のお母様)
お母様になる人は、血統的にどのような過程を経なければならないでしょうか。お母様を選ぶにおいては、すべての条件が合わなければなりません。それは簡単ではありません。前後で合わなければならず、左右で合わなければならず、上下で合わなければなりません。お母様の顔がかわいらしいからということで立てたのではありません。条件が合わなければなりません。その第一の条件は、どのような血筋に生まれついたかということです。サタン世界から讒訴され得る血統の因縁をもって生まれたのか、そうでなければそれを乗り越えることができる血統的内縁をもって生まれたのかということが重要です。
それゆえに七代続きの一人息子としてかろうじて続いてきて、その七代続きの一人息子の前に、三人の娘をもったそのような家に天地が訪ねてくるのです。そのような内容をもった三女、次女、長女の三人が一つになり、その父母まで合わせてすべて愛で一つになり、推戴することができる基盤になるようになれば、お母様がそこから選択されるのです。それは天の法度になるのです。
お母様は世界の女性たちの代表です。全人類の女性を代表して一人の女性がつながって、お母様に連結させるのです。ですから、お母様になられる背後においては、三代が連結されなければなりません。本来は一人息子、一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子でしょう?イエス様もひとり子ではありませんか。再臨主も、神様のみ旨から見れば一人息子と同じです。一人息子のみ旨を立てていくからには、長女である一人娘がいなければなりません。それゆえに復帰摂理において、男性と女性が相対的な立場で一つになって連結され、この世のサタン世界を越えて天国に行かなければなりません。
エバがアダムを通して造られたように、お母様は、全く分からないところから出てこなければなりません。親戚が多くてはいけません。三代があとについてきてはいけないのです。普通であってはいけないのです。まさしく今のお母様がそのようなお母様です。お兄さんもいない上に父親もなく、独りです。母子二人しかいません。
み旨のために、幼い時も支援を受けずに独りで生きた一人娘です。七代続きの一人息子の家系だと言ったでしょう。そのような一人息子にしたのは、サタンの血統をごちゃごちゃと残さないためです。それで、このおばあさんも一人娘です。お母様も一人娘です。三代が巻き込まれていくのです。ですから、お母様は三代の受難を受けました。祖母と母親の二人が信仰に狂って歩いたので、おしめにしても満足に当ててもらい、御飯にしても満足に食べさせてもらったでしょうか。
真のお母様のみ言
韓氏の父は、新イエス教の篤実な信仰者でした。李龍道牧師、李浩彬牧師、彼らに従って大母様と一緒に信仰生活をされました。二人が結婚して赤ん坊をもてば、天が大きく用いられる息子が生まれるという啓示を受けたのですが、娘が生まれたのです。その李浩彬牧師は、真のお父様と崔先吉さんの主礼も行い、母方の叔父の主礼も行いました。
外祖父の洪唯一おじいさんは、背が高く美男子でした。だから私が初めて真のお父様にお会いした時も、外祖父と姿がとてもよく似ていて同じ印象だったので、見知らぬ人のような感じもせず、恐ろしくもありませんでした。また、その時代に、嫁にハイヒールを買ってあげるほどのおじいさんだったことが思い出されます。
趙元模おばあさんは小さくてかわいらしい上に、勤勉で活動的でした。勉強はあまりすることができませんでしたが、開化期の新しい教育を受けた女性であり、ミシン商会をしていらっしゃいました。販売したあとに集金する時、故障した物は修理してあげたりもしていました。
私の家門の歴史を見たときに、母方を見れば、趙氏おばあさん、大母様、そして私のすべて一人娘でしたが、お父様は「それはすべて意味がある」とおっしゃいました。大母様も娘一人、また外祖母である趙氏おばあさんも娘一人だったのです。趙氏おばあさんは定州でお生まれになったのですが、その趙氏の家族は、定州の地でとても裕福だったそうです。皆さんが知っている弥勒菩薩の信仰をもっていらっしゃいました。
弥勒菩薩の歴史について話せば、これは伝説ではなく、本当にあった話です。私の家はキリスト教の家庭だったので先祖を崇拝せず、何代かはよく知りませんが、我が国が中国の属国の立場にあった時のことだそうです。中国の使臣が韓国へ来ようとすれば、定州の撻來川を渡らなければならないのですが、その当時、橋がなかったのです。橋を架けるお金が国になかったということでしょう。それで、その橋を架けることができる人を探すために公示文を貼っておいたのです。
その時、おじいさんの趙漢俊氏という方が、私財を投げ打ってその橋を架けたのです。橋は石橋でしたが、橋の下を船が通り抜けることができるほど大きな橋だったそうです。そして、そのおじいさんが石橋を造る際に全財産を使い果たし、銅銭三文が残ったそうです。それで、あすは橋の竣工式に行くということで、その残ったお金でわらじを買っておいてから寝たそうです。ところが、夢の中に白い服を来たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それで、お前の家門に天子を送ろうとしたが、残しておいた銅銭三文が天に引っ掛かったので姫を送ろう」とおっしゃったということです。その夢を見てから外に出てみると、その丘の上に石仏ができていたそうです。
昔、弥勒は男性を象徴し、菩薩は女性を象徴したでしょう? 釈迦牟尼はすべての人々が平安な心で福を祈ることができるようにと、慈悲深い印象で造られていたのですが、その菩薩はそれ以上に慈悲深い姿をしていらっしゃり、おなかがふっくらと出た仏でした。昔、父が言われたのですが、馬に乗っていく途中でも、その菩薩の前では、馬から下りて敬拝をしなければならなかったということです。なぜなら、馬がその前では決まって足を止めたからです。誰であろうと、その前では敬意を表さなければならないのであり、そのようにせずには通り過ぎることができなかったのです。
ところが、私の家門に問題が起こりました。その趙氏のおじいさんが「夢の啓示を受けたとおりに娘が生まれれば、菩薩のような腰がまるまるとした子が生まれるだろう」と言って「その仏のおなかを削り落とそう」と言ったのです。それで、腰の部分を削り落としたところ、血が出てきたそうです。それで人々が悔い改めをして、削り落とした部分にセメントを再び塗ったというのです。父が幼い時にその場所に行って遊ばれた時は、セメントを塗った部分が長い間風に当たって、そこに穴ができ、はちたちがしきりに出たり入ったりしていたそうです。この石仏の話は、定州に住んでいる人は誰もが知っている話です。
このような話を通して一面を知ることができるように、趙氏おばあさんの家の先祖は、神様を知らなくても、民として国の願いに従って生きようとした先祖だったのであり、それゆえに天が記憶することができる祝福された家庭だったのです。それで、私が笑い話で「趙漢俊おじいさんによって趙氏の家門に王子が生まれるところだったのに、その銅銭三文のゆえに、遅ればせながら王女が生まれたのですね」と言ったのです。
父君・韓承運先生(一九〇九〜一九七八)
長男(真のお母様の異母弟)・韓偉一先生の証
私の幼いころ、先父・韓承運先生は、民俗的な祝祭日になるといつも部屋の中で独り静かに瞑想され、祈祷されながら、静かに書道もされ、誰も入ってくることができないようにされました。私たちに「出ていなさい」と言われ、そのようにして終日時間を過ごされました。そして、夕方ぐらいになると、私たち兄弟を呼んで以北にある故郷の住所を教えられ、それを私たちに暗唱させ、また祖父や先祖の方々のお名前を暗唱させながらその日を送った記憶があります。
その当時、先父が私たちに暗唱させられた故郷の住所は、現在知られているものとは少し異なりますが、平安南道安州郡大尼面龍興里九九番地でした。そして、そこに「天恵園農場という所がある」と言われながら、その農場がとても美しく、果樹が大変豊富だという話をしてくださいました。また、祖父と祖母もいらっしゃり、姉が一人いらっしゃるという話もしてくださいました。「統一が成されれば、必ず一度訪ねてみなさい」と言われながら、その住所をもう一度記憶させられました。それで、私は、以北に関する何かの消息が耳に入ったりする時は、いつも漠然と故郷のことを恋しく思いました。そのようにしながら成長したと考えることができます。
高祖父のお名前は、相五であり、曽祖父は正順、祖父は炳健です。戸籍には二九〇九年一月二十日、平安南道安州郡大尼面龍興里九九番地で、村の私塾の先生をされていた祖父・炳健様と、祖母・崔基炳様の長男として、私たちの先父は出生されたと記録されています。その戸籍は以南に越えてきて作ったものであり、一九五八年三月に、その当時先父が居住されていた京畿道烏山で仮戸籍の申告をして作ったものだということを知っています。
解放前の先父の行跡については、私には知るすべがありません。ただ、親戚の人だちから聞いたところでは、青年時代はとても勉強ができたそうです。そして、教育の仕事に志があられて教鞭を執られ、篤実なキリスト教の信仰をされていたということを知っています。また、改革的な気質をもっていらっしゃったので、保守的な家門の中においては良い関係ではなかったということを聞きました。
壮年時代には体格が大きくがっしりしていて、道を歩いている時に、田んぼに大きな岩があって人々がそれをどけることができずにいるのを見て、「自分がどける」と言って入っていって、軽々と外に出したこともあるほど力が強かったという話を聞きました。
先父は、解放されるとすくに以南に渡ってこられました。そこにいれば共産党から被害を被る恐れがあったからです。それで以南に渡られ、すぐにソウルにある橋洞小学校と孝悌小学校で教頭として教鞭を執られ、その後、農村改革に志を立て京畿道満州郡昆池岩里へ行かれたのですが、その時期の一九四八年三月一日に私が出生しました。
六・二五動乱は驪州で遭われ、家族を連れて釜山まで避難され、一・四後退(注:国連軍のソウル放棄)当時、再び釜山まで避難されたのですが、その時、陰城を通る途中で私の弟(韓偉勇)が生まれました。
休戦になるとすぐに、京畿道華城郡(現・龍仁郡)南四面の南四小学校で公職に就かれ、加平郡雪岳面、ほかならない清平修錬苑の入り□にある雪岳面の迷源小学校でも勤務されました。それから鐵原郡(現・抱川郡)官仁面の官仁小学校を経て、島にまで行かれました。甕津郡(現・江華郡)西島面(甫+乙)音島の(甫+乙)音小学校、そして最後に仁川の葛山洞の葛月小学校で勤務されたのちに定年退職されるまで、四十数年をただひたすら農村の子供たちの教育だけに献身されました。
このように田舎だけを転勤して回られた理由は、絶対に能力や人柄が劣っていたからではありません。むしろ優れた才能と人格を備えていらっしゃいました。しかし、その方の剛直な気性のゆえに、腐敗した官僚たちのような位置にいることを断固として拒否され、生涯を貧しく困難な農村で幼い学生のために奉仕し、教育する仕事を天職と思われたのです。そして、行かれる学校ごとに校舎を建てられ、厚生施設を造られるなど、学校の発展のために全力を傾けられるのを見ました。
学校のすべての子供をあたかも自分の子供のように愛され、その当時、貧しさのゆえに身なりの汚い子供たちをみな連れてきて洗われたり、頭も刈ってあげたりもされました。また、その当時は、腫れ物のある子供たちがとてもたくさんいました。そのような子供たちをすべて連れてきて薬を塗ってあげたのですが、その時の姿が、今も絵のように私の記憶にはっきりと残っています。
そして、私が見るのに、先父は篤実なキリスト教の長老として、真なる信仰生活をされていました。学校の官舎の片側にいつも小さな祈祷室を造っておき、毎日、朝晩瞑想をされ、祈祷されました。教会がない所に赴任されると、教会を造られました。そして、教会はあっても牧会者がいない地方に行かれれば、何としてでも牧会者を招聘しようと献身的に努力されました。驪州にいらっしゃる時には、一人の教師が先父の献身的な生き方を見ながら、その根がキリスト教の信仰にあるということを知り、その方は神学校に行って牧師になりました。そのような方もいます。そのように先父は、農村の子供たちを愛され、教育する仕事に専念され、ただひたすらまっすぐな信仰生活をしながら、解放後の貧しく困難だった農村において、さながら灯台のような立派な人生を送られました。
先父は、一九七四年に定年で退任されたのち、城南市板橋洞の自宅で静かに読書と思索をされながら過ごされ、一九七七年、肝硬変で仁川基督病院に入院され、それが悪化して一九七八年三月十八日午前一時ごろ、私の生母と私の兄弟が見守る中で平和な顔をされながら静かに息を引き取られました。
一九九七年に、私が真のお母様にお会いしたのちに手紙を差し上げました。心の中で、私の記憶の中に残っている先父の姿をきちんとお話し申し上げたほうが良いと思ったので、その内容を手紙に書き、会長を通じてアメリカにいらっしゃる真のお父様に送ってさしあげたことがあります。真のお父様がとても喜んでいらっしゃった、という話を聞きました。その内容をここでお話しいたします。
先父は、現在、清平修錬苑がある雪岳面において勤務されたことがあります。それは二九五九年から六二年、三年までだったと思います。今、雪岳面に入っていき、清平修錬苑に入っていく方に曲がっていけば、すぐ清平教会があり、そこからもう少し行けば村の外れになり橋が現れますが、そこの橋を渡る前に、すぐ右側を見れば小学校が見えます。私は先父に従って小学校を約五箇所経ながら卒業したのですが、ほかならない雪岳面にあるその迷源小学校で卒業したのであり、先父はそこで約三、四年公職生活をされました。
その時、校舎があまりにも古くてそれを新しく建て直したのですが、その校舎を建てようとすれば、加平の教育庁まで仕事をしに毎日通わなければなりませんでした。その当時、交通の便がとても悪く、清平駅から富岳面まで一日に二回しかバスがありませんでした。その小さなバスが故障すれば運行せず、また雨が少し降っただけでも運行しなかったのですが、そのような困難な条件の中で、小学校の校舎を新しく建てるために加平の教育庁までいつも通われました。
そして、そこは、なにしろ空気が良い所なので、肺結核の叔父が私たちの家に時々療養しに来られたりもしました。来られると、私と私の弟に「川に行って鯉を買ってきなさい」と言われました。そうすると弟と二人で今の修錬苑に行く方に越えていくのです。修錬苑は右側に行きますが、もっとずっと行けば川が現れ、その川岸に掘っ立て小屋がありました。その小さな掘っ立て小屋には、魚を獲って売ることを生業としている老夫婦が住んでいました。そこに行ってお金を出し、二匹ほどの大きな鯉を買って棒に挟んで家まで担いできて、療養されている叔父に届けたりもしました。
先父は、他界されるまで特別に病院に通われるということがありませんでした。とても健康でしたが、肝硬変で他界されました。常に腰を曲げずに力強く歩かれ、朝は早く起きて家族たちを起こしました。賛美歌を歌いながら布団を畳まれ、掃除もされました。私は、いつも整理され掃除される父親の習慣を見て、それを学び身につけながら育ちました。
生前、先父にお会いした方が食□の中に二人ほどいらっしゃいます。鄭壽源会長が一九六〇年代の中盤に協会本部に勤務されている時、その時何度か行ってお会いしたということです。
その次には、先父のお墓が城南市盆唐の南ソウル公園墓地にあるのですが、一九九八年にお墓参りに行った時、洪順貞会長が話をしてくださいました。昇華される何年か前まで、家は板橋にあったのですが、私たちは職場の関係でみな地方に出ており、私の母親と先父のお二人がそこに住んでいらっしゃる時に、洪会長が板橋に行かれて先父にお会いしたということです。
二 再臨準備、信仰の主流継承
解放直後の韓国キリスト教の神霊役事
この韓国の地を中心としてある天的な摂理があるとすれば、この地において内的使命を果たす運動が始まらなければなりません。その中で、外的な使命は男性たちが責任をもたなければなりませんが、内的使命は女性たちが責任をもたなければなりません。内的使命は女性たちが果たし、外的使命は男性たちが果たさなければならないということです。
堕落の型を見れば、エバがアダムを主管しました。それゆえに、復帰路程においては婦人がアダムを身代わりして内的使命の責任を負い、またアダムはエバの主管を受けたので、男性たちは復帰路程において外的な使命を担当するのです。そのようにして堕落した当時の基準を探し立てていくのです。
それゆえに、この韓国の教団においては神霊的役事が起きなければなりません。韓国のキリスト教の歴史はおよそ八十年になりますが、今から約六十年前から神霊役事が始まりました。そのようにして、解放される年まで続きました。そして、解放直後、全国的に「聖霊降臨四十周年復興会」を一ヵ月あるいは四十日間行ったのです。今(一九六〇年)から五十年ないし六十年以上前から、宗教界を中心としてこのように神霊役事の基盤が築かれてきたのです。そして、それが左右に分かれ、内外に分かれていきながら、神霊役事が展開していったのです。そこで特別に心霊的祈祷をする婦人たちには、イエス様が直接現れて指導されました。
今まで、キリスト教はイエス様と聖霊を中心として役事してきましたが、天の内的な復帰摂理を完結させることができる内的基準に立脚した基盤を広げたのではなく、外的基盤を築くための基盤を広げてきたので、イエス様は、この地上に来られて本来の使命を完成することができる勝利の基盤の上に立つことができませんでした。勝利の基盤の上に立つためには、内的な基準を新たに編成しなければなりません。すなわち、今日のキリスト教がつづってきた外的歴史を必ず受け継がなければならないのです。このような責任を担うためには、相続する順序から見るとき、必ず婦女子たちがこの事柄を中心として相続の役事をなさなければなりません。
このように復帰摂理歴史は、女性たちを中心として摂理の出発をしましたが、女性たちはみ旨がどのようになり、どのように帰結するかということについて知らずにいます。ですから、全体のすべての決定的責任は、女性たちが果たすことはできません。なぜ果たすことができないのでしょうか。それは、女性であるエバが堕落したからです。アダムが責任を果たすことができなかったことによってエバが堕落の結果をもたらしたので、再び来られる主は、アダムが失敗したすべての内容を再び収拾し、新しい中心を決定しなければならない立場で来られるのです。全般的な内外のすべての内容を収拾し、勝利の基準を築くためには、必ず決定的な権限がなければなりません。これは、再び来られる主、すなわち第三次アダム格として来られる主だけが解決できる問題です。
元山と鐵山を中心とした神霊役事
韓国の地は東と西に区別されます。東側には山が多く、西側には平野が多くあります。韓国の東側部分は男性的な姿をしており、西側部分は女性的な姿をしています。神様の摂理も、韓国の地形と同じ形態を取られました。すなわち、東側部分には男性的な特質を、そして西側部分には女性的な特質をもたせられたのです。
北韓の東海岸に元山と呼ばれる都市があります。この都市で一つのキリスト教運動が起きました。西海岸には鐵山と呼ばれる所がありましたが、ここでも一つのキリスト教運動が起きました。東海岸地方の多くの人々がこの運動に従いました。彼らにイエス・キリストが現れ、御自身の過去と、今後追ってくること、そして今後起きることなどを話されました。
男性は東側であり、婦人は西側です。それゆえに、西側である鐵山では婦人たちが神霊役事を行い、東側である元山を中心として、男性たちによる神霊役事が起こりました。黄國柱、李龍道、白南柱などがそこで神霊役事を行いました。その時、このような外的な形態を基盤とした神霊役事の責任を負ってきた方が李龍道牧師です。
男性だけではなく、女性を中心としても出てこなければなりません。男性がそのような立場に立つと同時に、女性たちを中心として、三代の女性たちが天の摂理に備え、それを迎えるための準備をしなければなりません。なぜでしょうか。エバが堕落したからです。ゆえにエバが天の前に先に呼ばれ、女性として今後主がどのように来られるかということを知って、これを三代にわたって準備しなければならない、このような摂理史があるのです。
そのような混乱期において、皆さんが知っているように金聖道から許孝彬を経て三代が出てきたのです。その背後においては、白南柱から李龍道牧師、新イエス教会派など、その相対的な新しい男性的教派が生まれるようになっていたのです。
再臨準備の主流信仰の道
皆さんも知っているように、お母様のお母さんになる大母様は、一生を信仰一筋に生活してこられた方です。その中で、特に私たちが記憶すべきことは、新しい摂理歴史において、再臨主が人として来られるということを宣布して新しい教団をつくる、そのすべての役事に最初から参加したということです。李龍道牧師以前に白南柱を中心とした聖主教がありましたが、この聖主教が李龍道牧師の新イエス教を通してそこで一系統が分かれました。聖主教の金聖道おばあさんが一代目であり、二番目である腹中教の許孝彬の系統を受け継ぎ、おばあさん(大母様)が信仰の主流の伝統を受け継がれたのです。そのようにして、来られる再臨主を迎えるための先発として来られた方でもあります。
そのようにしながらお母様を生んで三代目のエバ的役事をなしたのですが、お母様の時代に来て実を結ぶことができる、そのようなみ旨を暗々裏に知って準備してきたおばあさんだと言うことができます。その間の苦労は言葉では言い表せないものです。周りにいる兄弟や親戚や同志の誰もが避けるこの道を独りで歩み、生食をしながらありとあらゆる歴史を経てきたのです。しかし、最後まで中心の思想を曲げずに歩んでくることによって、お母様が先生と出会うことができる基台を造成したのです。
鄭壽源氏のおばあさんである金聖道を中心とした聖主教から、お母様まで来たのです。三代を通じて来たのです。ここでおもしろいことは何かというと、金型道おばあさんに対して、趙氏などの二人の娘が忠誠を尽くさなければならないということです。縦的なカイン・アベルの基準で、金型道おばあさんがその二人(趙元模氏、洪順愛氏)に侍ったのです。それゆえに、金聖道おばあさんは、誰よりもこの二人を心から尊敬するというのです。すべてのことを任せるのです。そのようにしているうちに、腹中教が出てくると同時に分かれていくのです。
神霊役事の精誠基盤の継承
三代が再臨主を迎えるための準備をしました。既成教会やカトリックからどれほど反対されたでしょうか。李龍道牧師を中心として新イエス教をつくったといって、どれほど迫害されたこと
お母様のお母さんは、主を迎えるために精誠を尽くすことにおいては韓国の代表です。主が人として来られるといって、腹中教から従ってきた者たちなのです。そしてお母様は、すべてのエバ的責任を果たした、そのような韓国の歴史を代表するおばあさんたちから祝福を受けていたのです。
再臨主を迎えることができる団体から、重要な幹部として教育を受けてきました。そのようにして、避難してくる時、新婦の装いをして新郎を迎えるように準備した教主から、お母様はすべての祝福を受けてきました。最近になってそれがすべて成就したのです。先生とは二十三歳の違いがありますが、二十三年苦労したのは、お母様がそのような祝福を受けた基盤を立てるように天が準備されたからです。
お母様のお母さんは、許孝彬に篤実に従っていた人でした。お母様のお母さんは、お母様が四歳の時にその集団に連れていったのですが、許孝彬の母親がお母様を祝福したのです。それは、お母様に使命が継承されるという意味でした。お母様は、もちろんそのことを知りませんでした。先生が一九六〇年にお母様と出会った時、先生はそのような事実を知りました。神様によって準備されてきたすべてのことが一九六〇年に一つになったのです。それで、今、真の父母が現れたのです。
神様は責任を負わせれば、ある一時に必ずその責任を埋めてこられるのですが、人々はそのことを知りません。今まで準備した集団が失敗してきた歴史的内容を、すべて収拾して連結させる作戦を行ってこられたのです。彼らはサタンとの闘いでみな倒れて滅んでいきましたが、それを相続して引き継ぐことができる統一教会が残るようになりました。このように、韓国の歴史において異端者として非難され、追われてきた人々がみな犠牲になったので、彼らが再び復活することができる時代が来なければならないのです。
真のお母様のみ言
二千年前にイエス様がイスラエルの地に誕生されるまで、天は、その民族がイエス様を迎えて天の家庭を築き、一つになった国家を築いて世界へ進んでいくことができるようにするために前もって準備させました。しかし、その時に準備されて責任を担った人物たちは、天の深い意味や事情よりも現実問題に汲々としてイエス様を正しく理解することができず、ついには十字架に送ってしまったのです。
それで、イエス様の復活以後二千年間伝わってきたキリスト教文化を中心として、来られる主を迎えるための新婦としてのあらゆる準備をなすことができるように、天は、無知な人間たちを悟らせながら役事してこられました。天は、韓国を選民の国として選ばれ、韓国のキリスト教が短い歴史しかもっていないにもかかわらず、解放直後を通じて新しい主を迎えるための内的準備を行う団体を立てられました。
そこに、平安北道の鐵山を基点として、エバの使命を蕩減復帰する、金聖進おばあさんが主軸となった聖主教団がありました。また、聖主教団の金聖進おばあさんが死ぬと、そのあとを継いで、聖主教団の平壌教会の責任者であり、腹中教をつくった許孝彬氏夫婦を通して、天は、内的にどのように再臨主を迎えなければならないかということを直接的に教えてくださいました。
衣服を準備するにおいても、イエス様が生まれて三十三年の生涯路程を歩まれる時までの全衣服を、それぞれサイズに合わせて作らせるなどの実質的な準備をさせられました。そして、再臨主の三弟子に誰がなり、また三十六家庭の形態を準備する役事までもありました。
北側では、共産党の勢力が大きくなると同時に、宗教に対する弾圧も激しくなりました。それで、一九四六年八月、許孝彬氏も平壌の大同保安署という監獄に入るようになったのですが、監獄で再臨主に出会うという啓示がありました。その時、真のお父様も、平壌で伝道している中で捕まり、同じ監獄に入られるようになったのです。
その監獄で、許孝彬氏の一番弟子である黄元信氏を通してお父様がこの事実を聞かれ、許孝彬氏に手紙を送られたのですが、途中で看守に見つかり、お父様は激しい拷問を受けて歯まで折れる受難を経られたのです。
その時が、私が以南に下ってくる少し前だったのですが、許孝彬氏の母親が啓示を受けて私を呼ばれたのです。六歳のころでした。許孝彬集団は、聖主教に続いて再臨主のための新婦の使命を果たす団体だったのですが、その名目のもとで私に祝祷をしてくれたのです。「この次に大きな使命を果たされる方だ」という祈祷を受けました。白いチマチョゴリを着た若いおばあさんが私一人を呼んで、「天の啓示があった」と言いながら祝福してくれたことをはっきりと覚えています。
私が六歳にもならなかった時に「このお方こそ天の新婦になられるだろう」と予言したのです。彼女はその時、六歳にもなっていなかった幼い少女が天の新婦になる運命に生まれついたという啓示を頻繁に受けていました。
三 真のお母様の学生時代と信仰
南韓での生活
真のお母様のみ言
腹中教に出入りしているころ、母方の叔父・洪順貞氏が日本の留学から帰ってこられ、南側に渡って軍隊に入隊しました。叔父は知識人であると同時に、とてもおしゃれな方でした。一時は共産主義に心酔したりもしました。叔父が軍隊にいる時、外祖母が叔父にあまりに会いたいということで、外祖母と大母様と私の三人で「叔父に少しだけ会ってくる」と言って南下したのですが、その時から、そのまますっと以南にとどまるようになりました。南下してきた当初はソウルの孝昌洞にいました。それで、孝昌小学校に入学もしました。
叔父は再び北側に上がっていこうとしましたが、状況が思わしくなく、上がっていくことができませんでした。叔父に多くの話を聞いてみてください。
趙氏おばあさんは、私といつも一緒にいらっしゃったのですが、そのおばあさんと通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、人々はあま0出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩いて回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、たくさんの愛を受けました。南韓に下ってくる過程においても、女子供であり、幼い子供である私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。
かわいくきちんとしていて、このように行く所ごとに羨望の対象となり、周囲の多くの人々から愛を受けながら育ったのですが、もし私が早めに婚姻していなければこの世に奪われる余地もたくさんあったので、幼くして聖婚させ、あらかじめ天が私を抱かれたのではないかという考えをしてみたりもします。
いずれにせよ、そうこうしているうちに私が八歳の時、六・二五動乱が勃発しました。戦争でソウルから避難するようになったのですが、その時、叔父が大きな助けをしてくれました。大母様は、ただひたすら主に出会うことだけを思いながら絶えず精誠を尽くして過ごしていらっしゃったのですが、叔父が軍隊にいて、漢江の橋が爆破されるという情報を入手したのです。それで、ある日、小型トラックを運転してきて、外祖母と大母様と私を乗せて南側に避難したのです。
漢江の橋を渡る時、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがまま、橋を渡るや否や降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋がホーンと爆発したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの人々と軍人たちが川の中に落ちて死にましたが、幸運にも私たち一行は叔父の助けで命を取り留めることができました。
私の年齢ぐらいの韓国人は、大部分戦争と厳しい受難時代を経ていますが、私においては、すべてのことに絶えず天が保護する中で守ってくれ、無事に過ごしてくることができました。六・二五動乱も、大きな事故もなく無事に送ることができました。
避難中に私が風邪にかかった時は、大母様が飴をふくませてせきを止めさせ、けがをした時は、サボテンに御飯を擦りつぶして傷に塗り、膿を出させて傷を治してくださったことが思い出されます。
入教前、大母様は、主を探し出す日までを目標として絶えず伝道されました。祖母と私の面倒を見ながら避難生活をされていた時、大邱で聖主教の食□であった鄭錫天長老家族と出会い、そこで何年間か生食をしながら生活しました。そのようにしたのち、鄭錫天長老の弟である鄭ピョンファ氏を訪ねて済州島に行き、何ヵ月間かそこで生食をしながら過ごしました。
その後、春川へ上がってきたのですが、大邱にいらっしゃった鄭錫天長老から「不思議な先生」が来られたという知らせを受けました。大母様は、「不思議な方ならば、おそらく私たちが探し回っているそのお方かもしれない」と言われながら、大邱に行かれたのですが、会うことができず、再びソウルに上がってこられ、青坡洞にいらっしゃったお父様の、そのお宅をお伺いするようになったのです。
お父様にお会いしたのち、大母様は春川で牧会をされました。私はその春川の鳳儀小学校を卒業しました。卒業するころ、按手事件が起きて、大母様が監獄に行かれるようになったのですが、その時が中学校の入学試験を受けなければならない期間でした。しかし、大母様がいらっしゃらす試験を放棄していたのですが、ソウルにいた叔父がちょうどその知らせを聞き、春川に来て私をソウルに連れていって入学試験を受けさせたのです。既に前期は終わり、後期が残っていて、聖貞中学校(現・善正中・高等学校)の試験を受けて合格しました。聖貞中学校に入学すると同時に、叔父が住んでいらっしゃる新堂洞へ引っ越してくるようになりました。
洪順貞先生の証
姉が投獄された時、私は春川で陸軍中佐として、小さな部隊の部隊長をしていました。投獄された翌日、速報が私のところに飛んできて大変驚きました。あれほど信仰生活だけを忠実に行っていた善良な姉が、刑務所に入るということは想像ができない話なので理解ができませんでした。それで、担当判事を訪ねていきました。
経緯を調べてみたところ、精神病患者を治療してあげようということで最初から祈祷を捧げ、どうこうするうちに、その病人の熱があまりにひどくなったからなのかは知りませんが、そのまま死んでしまいました。それで投獄されたのです。その判事の話では、宗教の力で患者を治療してあげようという信仰で祈祷し、その途中で不本意ながら過失致死になったということは自分も理解するが、ここに住んでいるその家族たちの恨みゆえに、今すぐには姉を釈放することができないということでした。「善良な人だということは自分も理解しており、純然たる宗教問題だということが分かっているので、このような状況を報告書によくまとめてソウル高等裁判所に送致するつもりなので、もう少し我慢していなさい。それをもってソウルに行って報告すればすぐに釈放されると思うから、信じて安心していなさい」ということでした。
それを聞いて初めて心が落ち着き、姉に面会してそのとおりのお話を申し上げました。普通の人であればとても歓迎しながら「ありがとう」と言うところですが、それとは正反対に「お前は分からないのでそうなのだ。そうではない。今、私がここにいるのは神様のみ旨によることなのに、お前が勝手に判事に話をして人為的に釈放させれば、神様のみ旨に反することになる。それではいけない。帰りなさい」と言われ、姉は再び監房に入っていきました。
その時、鶴子お母様は、春川で小学校を卒業して女学校に進学しなければならない時だったのですが、姉が精神病患者を治療することに熱を上げていたので、女学校に進学させる時期をほとんど逃していました。それで、大変なことになったということで、軍隊のジープに乗せて春川からソウルに走っていきました。その時、折良く学生募集をしていなかった学校が一箇所残っていました。今の西大門の方にあったのですが、そこに直接お連れして、その場で願書を書き、翌日だったか面接を受けて、そこに入学することができました。それで、その学校に対しては本当に感謝の思いをもちました。
その当時、私の家はソウルにあり、もちろん春川で続けて勤務していましたが、その後、陸軍本部の医務補給課長として転任すると同時にソウルに出てくることになり、お母様をお世話して一緒に過ごしました。その後、またいくらもたたずに釜山医務基地の補給倉長として転出し、釜山に下っていったので、一緒にいた期間は大変短いものでした。
しかし、その当時幼かったお母様に対して残っている印象は、第一に、幼い年齢のねりには男性以上に言葉数が少なく、とても落ち着いているということでした。そして、また一つは、頭が驚くほど良かったということです。並外れていました。そのことが、今も印象にはっきりと残っています。
そして、看護専門学校に入学したのですが、そこに対して私はとても悩みました。なぜなら、南韓に私の直系の親戚が全くいないからです。そのお母様が女学校を卒業して再びどこかの学校に進学しようとすれば、親戚に任せなければならないのですが、それができないのです。それで、私の先輩の方々と相談した結果、カトリック教会が直接経営している看護専門学校があり、規律も厳しく、まじめなところである上に、修道女たちが寄宿舎の舎監なので安心して任せることができるということで、その学校の寄宿舎にお母様を任せ、私は釜山に行きました。
一片丹心、絶対純潔の生活
洪氏おばあさんも、三代の中に組み込まれて自分の意識で行動したのではないのです。自分が考えて行動しているのではありません。天がそのようにさせたのです。ですから、持って生まれた何かがあるのでしょう。それゆえに、世の中からどれほど多く迫害されたか分かりません。
ただひたすらに天のためには何でもすることができるという背景があります。年齢がどうであろうと、何がどうであろうと問題でないのです。洪氏おばあさんのような人は、信仰0‐道のために男性であろうと女性であろうとすべてほうり投げてふろしき包みをまとめ、主に出会うために歴史的な受難の道を歩んできた人です。ですから、お母様もそのような訓練をした歴史があるのです。それは最も簡単なことでしょうか。み旨のために行く夫の道であり、熱烈な精誠を尽くす夫の道であるならば、より熱烈な精誠を尽くすことを願う心をもった家門が必要です。それで、先生はお母様を選んだのです。
人間世界の情を知らず、天情の道理を受け継がせるために、一片丹心、身骨が溶け出すことも意に介することなく、一片丹心に神様の前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったのです。それを悪魔はできないようにするのです。お母様の容貌は良くないですか。お母様の顔は美しいのです。娘のころ、容貌は悪くなかったはずです。ですから、誘惑がなかったでしょうか、あったでしょうか。ありとあらゆる誘惑があったはずです。そのようなお母様に接するようにさせてはいけないので、天が聖別生活をさせました。皆さんはそれが分かりますか。
学生時代、お母様は、嫁に行かないで修道院に入り、果樹園を追って独りで生きようと思っていたのですが、「十八歳でもう嫁に行ってしまった」と言っていました。それは私が作った話ではありません。私がお母様から聞いたのです。アメリカでは十七歳になると成人とみなしますが、韓国ではそうではありません。ですから、お母様自身、愛というものが何なのかを知らなかったのです。異性に対する何の考えももたなかった人でした。
真のお母様のみ言
復帰摂理路程において、女性の役割はとても重要です。特に母の使命を準備することに対して、天は、人間が知らない中で、サタンの讒訴を受けない限度内において大変な苦労の路程を導いてこられました。
趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で生涯一貫した生活を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の中で型にはまった信仰をすることなく、二十四時間をすべて天の前に奉仕し、主を迎えるための準備に限りない精誠を尽くされました。そのような信仰生活で、大母様はほとんど家にいらっしゃらなかったので、私は、幼い時には主におばあさんと多くを過ごしました。それで、その趙氏おばあさんを通して自然に、当たり前に信仰を受け入れるようになったのです。
外祖母は、私に対する天の何かのみ旨を知っていらっしゃったのか、私が世の中に染まらす、とにかく純粋に育って天の前に用いられることができる貴い娘として成長するように多くの精誠を注がれました。外祖母は、絶えず私に「お前のお父さんは、天のお父様だ」と言われました。その記憶しか思い出しません。「天のお父様がお前のお父さんだ」と言われていました。
それで、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様を思うと常に心温まる感じをもったのであり、外的に見れば人々がすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私を包んでくれているような温かい感じがして、常にゆとりのある心で過ごしました。大母様やおばあさんにも、肉身の父親に対してや、またお二人がどうしてこのように暮らされるのかなどといった質問は全くしませんでした。ただそのままその生活に満足しながら暮らしていました。肉身の父母に対する恨みや反発感といったものは、私の人生には全くありませんでした。
二千年前のイスラエルの国においても、主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放前の韓国においても、再臨主を迎えるために準備した団体が数多くあり、復帰摂理歴史を内面的に歩んできた団体も数多くあったのですが、おばあさんと大母様は、そのような団体を探して歩きながら世の中と一切妥協することなく、ただひたすらみ旨だけのために、ただひたすら主おT人に出会うその日だけのために生きてこられました。結局、そのような信仰が私をこの位置まで導いたようです。
絶えず深い信仰生活をされました。絶えず分別され、清潔な生活、清い生活をされました。私は、生活の大部分を大母様から学びましたが、趙氏おばあさんもそうであられました。
趙氏おばあさんは、真のお父様と私が聖婚したのちに亡くなられましたが、霊界に行かれても、仏教系の霊通する信女(在俗、女子の仏教信者)である尹清浄心氏に現れて、「時になったので昔の君主が王位に就く時に着る服を作りなさい」と言ったことがあります。結局、尹清浄心氏はこれを果たすことができずに逝きました。また、おばあさんは、真のお父様を「王の王だ」と言われ、時局が変わるたびに、その位置がお父様の位置であると証されたりもしました。
素晴らしい性稟と資質
お母様は、本来おとなしい方です。今、四方にすべて目を注ぐことができるのは、私に会ってそのように訓練されたからです。事実、おとなしい女性です。青坡洞に行ったり来たりする時も、一つの道だけを行くのです。いつもきちんとその道を行くのです。(笑い)私が注意して見ていました。一度来る時もそうであり、二度来る時に見回してみてもその道をきちっと行くのです。次に来る時もまたその道を来るのです。(笑い)きちんとした道を通うので、「ははあ!」と思いました。
また、お母様を見るとき、女性として非常に端正だというのです。きちんとしています。お母様がしとやかにしている時は誰にも劣らない、尊敬することができる内的な性稟をもっています。また、伝統的に「ため」に生きる愛をもった代表的な女性を探してみると、お母様がすべての面において一致するので選んだのです。文総裁の目は偽物ではありません。
顔が美人だからといって素晴らしいのではありません。心が美しいので、顔が美しいのです。心が美しいので、声も美しく、姿も優雅なのです。壇上でも、とても自然です。壇上で初めて歌を歌った時はいつかというと、十六歳の時です。高校二年生の時です。さっと歌うと、とても有名になりました。先生がいようと誰がいようと、壇上に上がっていけばチャンピオンのように堂々としていたのです。
見掛けはおとなしく見えますが、度胸があるのです。見ればすぐに分かります。手を見れば分かるのです。お母様の顔は優しそうに見えますが、手を見れば違います。分厚く、腹が据わっています。壇上に立っても少しも動揺しません。それゆえに先生は、お母様として迎えたのです。「今はなんだかんだ言うが、見ていなさい」と思ったのです。
真のお母様のみ言
当時、私は性格がおとなしいほうであり、平穏で静かな雰囲気の中で読書や音楽を好む性格の人として学校の中でも知られていました。また、とても知的なイメージの女性としても知られていました。極度に感情的でもなく、極度に激することもなく、常に理性的であり、初めて会う人にはむしろ少し冷たい印象まで与えたはずです。
私のその当時の生活は、ほとんど修道女のような生活でした。男性と一緒に活動することは一切避けていて、さながら温室の中に咲く一輪の花のように、外の環境から完全に自分自身を隔離していました。今になってこそ、それがいつか主にお会いして、主の新婦になるための人として聖別するための天の準備だったということを知りましたが’当時としては何も分からなかったでしょう。
本来、私の性格も外向的ではなく、常に消極的であり、世の中から離れて自分自身の世界を楽しむほうでした。それで、男性たちに対してはほとんど完全に無視するかのように行動したのであり、周囲にいる青年や男性たちを私のほうから先に見つめるということもありませんでした。男性を見るだけでも何か気恥ずかしく、純粋性を失ったように感じたからです。
学校に通う時、私は出歩くことを好ます、運動を避けながら静かに読書を楽しみました。そして、どの学校に行っても先生から愛され、保護されました。比較的まじめなほうだったからなのか、先生たちがよく面倒を見てくれました。また、先生方は「君は最近の子供のようではない」と言いながら「少し外に出て歩いてみなさい」とそのようにも言われましたが、それは、悩みが多いなどの理由によるのではなく、ただおとなしく座って静かにしていることが好きなのでそのようにしていたのです。
思春期などの成長期においても、私は生きることに対する悩みをもつことかありませんでした。おばあさんや大母様が常に天に侍って生きる信仰を植えつけてくださったからです。
時々「テス」のような小説を多く読み、のちのち気に入った友人と一緒に田園生活をしながら暮らしたいという考えをもったりもしました。友人たちの間で「あなたは澄まし屋だけど、お嫁には先に行くでしょう」という言葉を聞いたりもしました。
聖婚したのちは、過去の学生時代に対して考えることがなかったので、特別に思い出すものがありません。考える暇もなかったでしょう。最近になって時折訪ねてくる友人たちがいて、その時の記憶が少しよみがえったりもします。
最近、女性連合の大会の時に私を訪ねてきた友人がいるのですが、中学校の同期で呉クヮンヂャという友人です。同じ町内に住み、一緒に学校に通ったのですが、その父親が私を大変愛してくださいました。また、高校の一年先輩であるヘレン・キム(Helen
Kim)という人がいるのですが、その母親が私を見て「きちんとしていてかわいい」と言って多くの関心をもってくださいました。ヘレン・キムは、今もカナダに住みながら何かの折には私に手紙を送ってくれ、また会ったりもしました。大会のたびに参席していると聞いています。
善正学校を引き継ぎする時、その学校に行ってみると、その当時の国語の先生がそのままいらっしゃいました。その国語の先生の顔が思い出されました。また、作曲家の李フンニョル先生の弟子である数学の先生が私を大変愛してくださいました。
六〇年代までは、衣服で自分自身を包み隠すようにほとんど目立たない生活をしました。天が私を世の中と妥協しない生活へと導かれるので、簡素な生活環境で暮らしました。神様は、私がサタン世界の空気をかぐことも嫌われるほど徹底的に保護してくださり、そのような環境の中で、私は、私自身の考えをすべてなくし、天が導かれる生活だけをしました。
そして、常に日記を書きましたが、不思議なのは、何気なく書きつづることが「私たちの願いは統一などの、大抵このような文句でした。後日、お父様のみ言を聞いてから、そのようなことが意味をもって記憶されたりもしました。
昔、私が学生の時、おそらく中学校の時だったか、運営委員長をした記憶があるのですが、その時、全校生がいる場所で壇上に上がり決定された事項を話さなければならないことがありました。それで、その話をして下りてくると、その時に国語の韓ヂョンエ先生──今も勤務している──や、何人かの先生が「いやあ! 鶴子は大したものだ」と言ったそうです。いつも周囲の人々には、静かでおとなしい学生という印象を与え、すぐに親しくなることも難しいという印象を多く与えていたので、そのように言われたのでしょう。私はただ説明しただけなのに……。それが、私が多くの人々の前で話をしてみた最初の経験でした。それ以後は、私の運命がこのように変わったので、全く話をせずに暮らす生活をしました。