神様王権即位式のみ言
二〇〇一年一月十三日 天宙清平修錬苑
宗教による人類救援摂理
きょうは、「神様王権即位式」の日です。神様王権即位式は、真の父母様だけでできますか。天と地にいるすべての人たちが国をもち、祝福を受けて一族となり、血筋が一つとなった単一民族を成した基盤の上で初めて、このような式をすることができるのです。
神様王権即位式のために、今まで数多くの宗教圏の中でキリスト教を中心として、ユダヤ教の第一イスラエルからキリスト教の第二イスラエルを経て第三イスラエル圏である韓国に至るまで、旧約時代、新約時代、成約時代として越えてきました。
「成約」という言葉は、すべてが祝福を受ける時代だということです。神様が造られた被造万物は、人類始祖の堕落によって祝福圏に立つことができませんでした。しかし、神様は、救援摂理の道を通してキリスト教を中心とした数多くの宗教を立てて万民を教育することによって、段階的に引き上げながら成約時代を迎えるようにされたのです。
しかし、主流思想ではない系列に属する宗教は、その全貌を知ることはできません。ユダヤ教とキリスト教を中心として、神様を人類の父として侍ることができる道を築いてきたのです。そして、イエス様がいらっしゃることによって初めて「ひとり子」という名前をもつようになりました。神様が失ってしまったこの歴史時代、アダムとエバが失敗した歴史時代において、神様の愛を受けることができる血統的内容を中心としたひとり子が、初めて地球星に生まれました。神様の長男が生まれたというのです。
しかし、ひとり子は生まれたのですが、ひとり娘がいません。神様は、四千年間の救援歴史を通してアダムを再び創造されたのと同じです。神様は、アダムをまねてエバを造られました。アダムの相対となることができるように、アダムを造られた原則、青写真を基礎として、それをまねて造られました。
聖書を見ると、男性のあばら骨を取って女性を造ったと記録されています。それはどういうことですか。骨子をまねて造ったということです。ですから、アダムは、地上で失ってしまったものを取り戻すことができるひとり子です。しかし神様は、直系の愛の血筋を通してアダムを取り戻しましたが、エバは取り戻すことができませんでした。エバを取り戻そうとすれば、堕落以降の今までの歴史性を再び家庭から復活させて接ぎ木し、国をつくらなければなりません。
それを準備しておいたものが、ヤコブから始まったイスラエル民族であり、十二支派でした。選民思想を中心としてヤコブの十二人の息子、娘が着地し、世界に勝利の版図を拡大させてきたのが、イエス様が来られる時までの二千年間におけるイスラエルの国とユダヤ教です。
イスラエルの国は外的なカイン型であり、ユダヤ教は内的なアベル型でした。そのカインとアベルの基盤の上で、霊的・肉的に父母の責任を果たすことによってカインとアベルを収拾することができる母を選択して待たなければなりません。母を選択した基盤の上でイエス様を迎えていたならば、霊肉が一体となった真なる父母を迎え、霊肉が一体となったイスラエルの国とユダヤ教がカインとアベルの立場で一つになっていたはずです。
そして、その一つになって祝福された家庭を中心として氏族を編成し、民族、国家まで編成したものに対しては、誰もこれを否定することはできません。いくらローマが世界を支配していたとしても、それを凌駕することはできません。外的なものは肉と同じであり、内的なものは骨と同じなので、肉は骨にはかなわないということです。もし、そのような立場に立っていたならば、イスラエルの国を中心として万国を統一し、神様の解放も二千年前にすべて成し遂げることができたはずです。
しかし、イエス様がエバを復帰して家庭を成すことができなかったので、イスラエル民族、選民圏国家の基準まで成すことができるように準備されたものがすべて崩れてしまいました。すべてが崩れてしまったのです。イスラエルが準備した基盤がすべて死んだもののようになったので、イスラエルの国はなくなり、七世紀に入って中東からイスラーム(=イスラム教)が出てきたのです。イスラエル民族は、エジプトから帰ってきて祝福された民族になったにもかかわらず、その中心民族の中からイスラームが出てきたのです。反対する立場でムスリム(=イスラム教徒)が現れ、怨讐になりました。
アブラハムの息子であるイシマエルとイサクは兄弟ですが、互いに怨讐となって闘う歴史が展開したのです。エルサレムを中心として、十字軍とムスリムが闘い、イスラエルを奪われてしまったのです。ですから、奪われたイスラエルを再び取り戻さなければなりません。しかし、闘って奪い取ってはなりません。
イエス様の時代に国家基準のカインとアベル、右翼と左翼の立場で平和の基準をつくっていたならば、カインとアベルの闘争歴史は、霊界でも地上でもすべて解決されたことでしょう。しかし、国家形態の基準を準備したイスラエルが亡国の種となることによって、「再臨」という名詞が登場するようになりました。
第二イスラエル圏を中心として、ローマ圏を支配することができ、乗り越えることができる世界版図圏がキリスト教です。イエス様の体を失ってしまったので、霊界を代表するキリスト教を中心とした連合国が、第二次大戦を通して枢軸国と戦って勝つことによって、キリスト教文化圏が世界を統一するようになりました。
キリスト教が世界を統一することによって、霊肉が一つになることができる時代となり、怨讐の世界を完全に占領したので、連合国と枢軸国が天の側の世界に帰属することができました。この基盤を中心として、旧教と新教が一つになった立場に立って、キリスト教文化圏を代表して来られる再臨主を迎えていたならば、その時から統一天下の運勢を受け、一九四五年から三年半ないし七年、一九五二年には、統一天下を成し、その時に神様の王権即位式が終わっていたことでしょう。
しかし、キリスト教は統一教会を受け入れることができませんでした。今でも彼らは、妨害して追い出そうとしています。それはなぜでしょうか。ユダヤ教がキリスト教に対して、最後まで反対しながら妨害し、滅びざるを得ない立場に立つようになったのと同じです。今、キリスト教が統一教会に反対しながら全く同じ道を行っています。宗教圏はみな同じです。キリスト教が神様のみ旨を果たせないように、仏教と儒教、イスラームなども同様に困難な道を行っています。
その結果、家庭から社会、国家、世界など、どこもみな地獄のようになってしまいました。神様が願われた愛の理想圏は、地球星で見いだすことができないという結果になりました。アメリカのような大国にも、神様が訪ねていける心と体が一つになった真なる息子と娘、神様が願われる堕落していない本然の基準で夫婦の心と体が一つとなった家庭はありません。父母と息子、娘が争わない家庭がありません。個人主義化してしまったこの世の中は、すべて分かれるのです。
回り道をした歳月
神様は、人間を相対理想を中心として造りました。すべてがペア・システムから成っています。鉱物世界もペア・システムであり、植物世界もペア・システムであり、それから動物世界もペア・システムなのです。天と地もペアとして一つになるべきなのにもかかわらず、分かれたのです。すべてが分かれて反対になりました。反対になってしまったというのです。それをどのようにしてひっくり返して合わせるのでしょうか。それは、誰がしなければならないでしょうか。蘇生、長成、完成! 蘇生的アダム家庭において失敗し、長成的メシヤも国家的基準において失敗したがゆえに、その国家的失敗の内容を逃れることができないので、世界、ローマの限界線を越えなければなりません。世界圏まで越えなければならないというのです。
イエス様が国家を越えて訪ねていくべき峠が世界的舞台であったので、世界の舞台に向かって越えていかなければならない時が必ず地上に来ます。再臨主は、イエス様の理想を越えなければならないので、国家的基準ではなく世界的基盤の上でキリスト教文化圏を相続し、そこから出発しなければなりません。
しかし、相続されるべき立場のキリスト教、すなわち旧教と新教自体が争っているので、統一しようとは考えることもできずにいます。結局、キリスト教を統一することができる時まで、必ず争いを続けるはずであり、その争いを続ければ続けるほど宗教圏も滅びるしかありません。最後の日には、道もなく、手も出すことができないので、仕方なく主人であるメシヤを求めるようになるのです。
今、天も失ってしまい、宗教と世界、国、社会、家庭はもちろん、すべてのものを失ってしまったので、すべてを否定する時代に入るようになります。「おじいさんとは誰か、父母とは誰か、夫婦とは誰か、子女とは何だ」と、すべてを否定する時代になりました。「どこに天があり、どこに神様がいて、どこに宗教があるのか」、「どこに社会があるのか」、「どうして家庭が必要なのか」と言って、すべてを否定するのです。
この世はペア・システムでつくられました。動物は子供を産むためにペア・システムが必要ですが、人間はそれにも及びません。享楽的な基準のペア・システムは一時的なものであって、永遠という概念はありません。男性も女性も、愛の神様の理想的基準とは完全に掛け離れた、堕落した天使長の個別的な立場にみな落ちていきました。
ですから、愛の道をそのまま通り抜けていくことはできません。人間の本性的な愛の道は、神様と一体となることができる道なので、人間の修養や決心だけでは最後まで情欲を克服することはできません。
それゆえに、悟りの道を行く人がいるとすれば、サタンが霊的に妨害します。美男子が修道を行って天性に近づいていける立場に立てば、美女がやって来て、抱き抱えて試験をします。ですから、「私を抱いてください、ぎゅっと抱いてください!」と言うときに、抱けばそれでおしまいなのです。男性であれば美女が現れ、女性が修道を行えば、男性が「抱いてください」と言い寄ります。しかし、男性は天使長の立場なので、「抱いてください」とも言いません。ですから、女性は、そこで目を開けただけでも終わりなのです。
愛を中心として展開するこのような霊的、肉的な生死判決の闘いは、修道を通して霊的に体験をしなければ分かりません。これが克服し難い問題であり、サタンの(活動)舞台の中の(活動)舞台になっています。神様は、この(活動)舞台を奪って理想の位置に戻さなければならないことを知っているので、千辛万苦、それを元に戻そうと、万万世繰り返してこられましたが、それでもこの問題は継続してきたので、宗教のみ旨を立てようとする神様は、今まで力なく失望に失望を繰り返してこられたのです。
それは上がっていく道ではありません。個人から家庭、氏族、民族、国家まで行って下りていくときには、国家の基準から氏族の基準に、氏族の基準から家庭の基準に落ちていきます。このようにしてどん底まで落ちていき、そこで失敗すれば他の所に回っていくのです。ですから、数千年の歴史がかかりました。逆回りです。
旧約時代の二千年を見れば、これが霊形体ならば、霊形体圏に至るまでは次に上がっていく方法がありません。誰かがそこに穴を開けて、生命体圏まで上がっていかなければなりません。そうでなければ、二千年という限界線が再び訪れるまで、蘇生、長成、完成の三段階に分けて復帰歴史の基準が満ちる時までは、回り道をし、すべり、再び巡ってくるのです。東洋で始まったものが西洋で始まり、天で始まれば地で始まって、それが一つにならなければつぶれてしまいます。
そのような転換の時期に、東洋と西洋でそれぞれ文化背景が異なるので、メシヤの代理的責任をもって世界人類を東西、四方で収拾してきた宗教形態が、正に仏教や儒教やイスラームやキリスト教です。
それでは、再臨主とは誰なのかというと真の父母です。真の父母は何をもってくるのでしょうか。真の愛と真の血統をもってきます。偽りの父母とは何でしょうか。偽りの愛と偽りの血統をもたらしたものです。
堕落していない本然の世界においては、神様を中心として家庭を成さなければなりません。真の息子、娘の家庭を成そうとすれば、血統が連結されなければなりません。真の父母の子女になろうとすれば、真の父母と血統が連結されなければなりません。「父母と子女」という言葉、「父または子女」という言葉は、血統が連結されなければ絶対にあり得ません。それは、神様も分けることができません。堕落したサタンも分けることができません。それによって、蕩減復帰がなされるのです。
真の神様の血統、本然の基準に接ぎ木して、偽りのオリーブの木の畑だとしても、真のオリーブの木の血統に、愛を中心として、一心、一体、一念となって、生死の境を行き来しなければなりません。
個人的な生死の境、家庭的な生死の境、国家、世界の生死の境、いかなる犠牲があるとしても越えていこうという、そのような心情をもった人は、サタンが関与することができません。国家基準以上に越えていけば、既に完成圏、直接主管圏内に入るので、サタンとは関係を結ぶことはできません。
イエス様も、もし結婚していたならば死にませんでした。殺すことはできません。結婚していれば、相対理想の直接主管圏に連結することができるのです。原理でいえば、責任分担を完成した基準になるので直接主管圏内に入ります。直接主管圏では、神様の血統と連結されているので、サタンには断ち切るすべがありません。そこに向かう過程で堕落することによって、心情一致し得る位置に行くことができなかったために問題になったのであって、アダムとエバが夫婦となって愛し合ってさえいれば、永遠に堕落することはできないのです。サタンが引き離すことはできません。
しかし、この過程で実が実りませんでした。実が実っていなければ、いくら実を土に埋めても芽は出てきません。ですから、永遠の生命ではなく死んだ生命になったので、それを処理する所が地獄なのです。神様とは関係がないというのです。
父子関係というものは、父母の血統が連結されなければなりません。その血統は、そのままでは連結されません。一人では血統が連結されません。男性一人だけの血ではできません。男性と女性の血統が一つにならなければなりません。宇宙の根本道理は、性相と形状の血統が一つになったその位置で、つまりお互いが喜ぶ立場において、性相である心が喜べば形状である体も共に喜ぶことができる位置で人間を創造したというのです。
そのように、その見えない形態が見える実体を迎えれば爆発が起こるのです。水は水でも、温めれば水蒸気になって完全に見えなくなります。同じように、とても熱い位置にいる神様が冷たい見える実体とぶつかれば爆発するのです。
神様は、自体的性相と形状の愛を中心として平たい水溶性を帯びた球形で存在します。しかし、それは、内的運動が外的に現れないので刺激を感じることができません。
ところが、この実体に刺激的な対象が生まれることによって、熱いものが冷たいものとぶつかるので爆発するのです。内的に心と体が血統を通して愛で和合し、生命で和合すれば、その瞬間には相異なる喜びを感じますが、実体で感じることができないのです。これが相対的実体によって、爆発することのできる刺激を感じてこそ、天地が一つになるのです。
爆発すれば運動が起こります。愛というものを軸として運動が展開するので、永遠に愛そうという心さえあれば、永遠に回転することができるのです。ですから、中心に神様をお迎えして暮らすことができる家庭となり、永遠に運動することができる原動力によってその家庭で種から芽が出るのです。
芽が本然の実に、神様と同じ実の位置に戻ろうとするので、幹が東西、四方に大きく育って完成し、大きく広がった枝ごとに実を実らせることができる、そのような環境形態ができるのです。
アダム家庭を中心とした実体の大きな木のように、それを中心として、アダムとエバとして創造した実体的対象を繁殖させて東西、四方、世界に満ちあふれさせ、天の国の民を繁殖することができる数多くの分工場を拡張するのです。そうすることによって天の民をいっぱいにし、霊界にいらっしゃる神様と地上の実体の父母が共に暮らしながら、協力してそれを生産するのです。そして、それらが一体となって霊界で永遠に暮らすことができるようになり、天上世界の国と民と地を中心として地上・天上理想を完成するというのです。
今までキリスト教は、カインとアベルが一つになって霊界、すなわち霊的基準で基台をつかんできました。キリスト教は、霊界を収拾したのであって、地上世界を収拾することはできませんでした。地上世界を収拾しようとするので、闘わなければなりません。
国家を越え、民族を越えて単一民族を形成するために、連合国と枢軸国が互いに怨讐となって戦った第二次大戦において、連合国が勝利したのちに、初めてそれを消化するようになりました。カインとアベルが消化され得る時が来たというのです。この基準で、第二次大戦以後にアメリカをはじめとするイギリスとフランスが受け入れていたならば、統一教会は一躍、三年以内に峠を越えていたはずであり、七年以内にすべて終わっていたはずです。
このようになっていたならば、今日、私たちがいう地上・天上天国が、統一的な民族形態の基盤の上で成されるのです。分離されていた霊・肉界が一つになるのです。
イエス様の体が霊と肉に分かれました。再臨時代までの二千年間、苦労しながら蕩減して備えられた勝利の覇権を引き継ぐことができるこのような基準と、霊界の父母の位置に行ったイエス様が二千年間霊界を収拾して勝利したものとを一つにしなければなりません。それは、イエス様ではできません。イエス様は結婚できなかったからです。イエス様が結婚させることはできません。神様も祝福することはできません。
祝福を通して血統を転換し得るお方が真の父母です。偽りの父母が現れることによって、神様とサタンが闘うような状況が生じてしまったのですが、その闘いを終わらせるためには、真の父母が中間に立って、「あなたはこのような理由で闘うのでしょう。神様はこのような理由で闘うのでしょう。それでは、私がそのような状況を変えてあげます!」と言うのです。それで「変えてもいい」と言えば、終わるのです。
ですから、神様とサタンまでも和解させ、ユダヤ教と来られる主、それから周囲に存在する宗教と和解させるのです。イエス様が来て、家庭を中心として国家の和合が成され、主権さえもつようになれば、その時にすべてが終わります。
しかし、それが終わらなかったので、世界舞台において、第二次大戦以後に世界国家であるアメリカ―――アメリカは、世界の第二次的なイスラエル圏―――が、第三次地上・天上の主権、覇権の主人として来られる主人に出会い、地上統一、天上統一の基盤を造成していたならば、第三イスラエルの天国出発と同時に、第三解放圏である地上・天上天国の解放へと連結されたことでしょう。
それが四十年間回り道をして今日まで、五十六年の歳月が過ぎ去りました。そうして、きょうこの神様王権即位式をすることができたということは夢のような話です。
即位式は誰が行うのか
神様の即位式を誰がしてあげますか。初めに誰が即位式を台無しにしたのですか。サタンとアダムが台無しにしたのです。アダムとエバが真の父母になれなかったことによって、サタンが入り込み、この地上に真の父母の血統的基準を立てることができませんでした。堕落することによってサタンの血統が残ったので、これをすべて否定してひっくり返すことは、神様にもできず、サタンにもできません。今までサタンが自分でつくってきた国を、自分で壊してしまうのは難しいのです。誰でも、自分がつくったものを改造することになれば嫌がります。サタンも同じです。
それを神様がひっくり返すことはできません。神様がひっくり返すことができるのならば、エデンの園でアダム家庭を失うことはなかったでしょう。いずれにしても、理論的にも神様が手を出せないということは間違いないので、神様が手を出せないことに手を出せる人物が誰かというと、完成したアダムです。本然の愛の家庭をもてるそのような家庭は、アダム家庭以外にはありません。
その家庭とは何でしょうか。今日、祝福家庭の皆さんは、「祝福中心家庭誰々の名によって祈祷します」と言います。「誰々の名」とは、世界を代表しているので「誰々の名」と言うのであって、その時には、「アダムの名によって祈祷します」と言うのです。千万後代の人たちは、アダム一人の実です。実というものは、いくら多くても、その価値は同じです。
ですから、「祝福中心家庭誰々」とは何ですか。万国が競争しています。すべての祝福家庭がみな「中心家庭」だと言いますが、すべてが一等だとみなすことができますか。千人が中心ならば、競争しなければなりません。武道大会に出て競ったり、相撲を取ったり、力比べをして闘わなければなりません。闘って勝ってこそ一等になります。
ここには、四千家庭以上集まりました。しかし、一等は一つしかありません。マラソン大会で何百人が走ったとしても、一等は何百分の一です。ですから、一等、二等、三等! 普通は何等まで賞をあげますか。オリンピック大会でも、メダルを与えるのは何メダルまであげますか。金メダル、銀メダル、銅メダルです。三等、三段階まで該当します。すべてのものは三数です。三数が一つの峠です。すべてが三数になっています。
それを見ると、良心的な人たちや精誠を尽くす人たちは、競技をしたとしても、自分でも知らずに天地の度数に合わせるようになっています。中央を知らないだけです。この周辺の中に入っても、中央を知らないだけであって、ここでは度数に合わせるのです。
ですから、十二カ月がそうですし、今日の測定器を見ても、十進法、十二進法を使っています。十二進法を中心として見れば、その十二カ月自体が中心ではなく、十二カ月の中心がなければなりません。三六〇度を回っていくにおいて、中心がなければ三六〇度を見分けることはできません。ゼロ点がなければなりません。ゼロ点とは何でしょうか。固定した立場で、永遠に変わらない位置を備え得る定着基盤なくしては、三六〇度の方向はすべて混乱してしまいます。
中心が問題です、中心! 復帰も中心なくして完結できますか。祝福家庭の中心とは何ですか。誰が祝福をしてあげますか。父母がしてあげるのです。誰が結婚式をしてあげますか。自分の息子、娘に、血統を一つにして父母に似るようにする結婚式を、誰がしてあげますか。堕落していなければ、誰がしてあげたのでしょうか。父母がしてあげるのです。天使長に引っ張られていったので、今日の結婚式は、社会の有名な人、名のある人が主礼をします。横にはしごを掛けて上がっていこうと考えているのです。
昨年の十月十四日、聖人と先生の息子、娘、祝福を受けた家庭と一つになって、宗教界の統一式をしました。そのようにしながら語ったこととは何かというと、先生は「家庭の王だ」ということです。今まで家庭の王、天地を代表した中心の立場に立った家庭の王がいましたか。家庭の王になろうとすれば、すべてのものの中心にならなければなりません。父母の中の父母にならなければなりません。それから、長子の中の長子にならなければなりません。長子の王が先に家庭をもつのです。
結婚に逆婚(注:兄弟姉妹の中で年の若いほうが先に結婚すること)というのがあるではありませんか。結婚をひっくり返してすることはできません。順序どおりにしなければなりません。最近では、逆さまにして騒いでいます。またそれは、復帰という内容と相通じるところがあるので、このようにしても合い、あのようにしても合い、逆さまにしても通じるというのです。本来は、長子、次子と、生まれた順序どおりに結婚しなければなりません。韓国には「逆婚」という言葉があります。それはいけません。
その順序が逆さまになれば、ひっくり返ってしまいます。世の中は、すべてそのようになっています。これをどのようにして合わせますか。そのように混沌となっているので、最近は親族相姦関係が現れています。姦淫するという話です。おじいさんが孫娘と暮らし、おじいさんが嫁と暮らしています。親族相姦関係が生じたのです。そのような人々は、中心が分からずに回っているので、お互いにしがみついて暮らそうとしているのです。
このようなことをする大混乱時代、家庭的大混乱の時代です。一家、親族を問わず、自分の系列をつかむことができずに、一度なのか、ゼロ度なのか、三六〇度なのか、一八〇度なのか分からないので、互いに回りながらゼロ度でも、三六〇度でも、一八〇度でも合わせてみるのです。
それゆえに、民族を移動して、世界が乱交する事件まで起こります。今、そうでしょう。外交官という人たちが外国に出ていけば、その国にどのくらい旗を差してくるのか、どのくらい女性たちと相姦関係を結んでくるか分からないという乱交時代の様相となりました。
このようなことを誰が収拾しますか。神様もエデンの園でアダムとエバが堕落するのを干渉できず、サタンが結婚することも干渉できなかったので、終わりの日に干渉する方法がありますか。病の根源を取り除くことができなければ、その病のために死ななければなりません。滅びるというのです。結局、偽りの愛、偽りの生命、偽りの父母によって偽りの血統が生じたので、真の父母が来て、これをもう一度否定して蕩減復帰しなければなりません。
したがって、「死のうとする者は生きる」という言葉は、蕩減される時まで生き残ってこそ成立する言葉です。つまり、死亡世界で生きている者が死ぬような境地に立ったとしても、生き抜くことができる余力があってこそ生き残るということです。死ぬことを悲しみ、逃げ出したいと思う人には、永遠に復活圏はありません。ですから、聖書では「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」という話があるのです。
それでは、もし神様が死のうとすればどのようになるでしょうか。神様が生きようとすればどうですか。永遠に希望がないというのです。それは、そういうことです。人が死のうとしてこそ生きて天国に行くとすれば、神様も同じです。神様がもし死んだ立場、堕落圏内に巻き込まれているならば、それを抜け出すためには、神様も死のうとする立場に行ってこそ生きるのであって、生きようとすれば神様も? (死にます!)。
先生はどうですか。先生も同じです。先生も生きようとすれば死に、死のうとすればどうなるのですか。それゆえに、統一教会の文教主がメシヤとなり、真の父母になろうと考えたでしょうか、考えなかったでしょうか。そのように考えたのなら、毎日死ななければなりません。毎日、毎日、「死ぬ」と言って大騒ぎしなければなりません。死なない環境でも、死ぬようなことをしなければならないという話にもなるのです。
竹には節目があります。節目ができるときには、新しい節目が出てきます。育てば育つほど大きな節目が出てきますか、小さな節目が出てきますか。根元の節目が太いですか、てっぺんの節目が太いですか。節目がたくさんできればできるほど、細くなるのです。それが理想的です。太くなれば、冠をかぶって偉そうにふんぞり返ったようになってしまいます。この竹は、大きくなればなるほど先が細くなるので、その中に入っていこうとしても入っていく所がありません。
ですから、神様も同じであり、真の父母も同じなのですが、天の国に行こうという人はどうですか。気も狂わんばかりでしょう。神様も、生きようという人間の一生命、一生命を生かすためには、その反対に死の場にまで行かなければなりません。そのようにしなければ生かすことができません。崖から落ちた人をひもで縛って助けようとすれば、死ぬほどの力を注いで平地に引っ張り上げなければなりません。そのように生きるか死ぬかの基準を越えて初めて、人も生き、神様も生きるのです。
それゆえに、天国に行きたい人は、神様が何千万回も死の峠を経てこられたので、何千万回死の峠を行っても、その峠を越えなければならないのです。あとで神様も疲れてしまいます。私よりも年を取っているからです。一番年を取っているでしょう。おじいさんの中の大王のおじいさんとは誰ですか。神様です。ですから、ひもで縛って平地に引き上げるのにどれほど力を使ったでしょうか。ですから、私が引き上げられれば、神様は間違いなく疲れて倒れてしまうというのです。
そのようになればどうしますか。背負って病院に行かなければならないでしょうか、行ってはならないでしょうか。病院がなければ、仕方なく、どのようなことをしてでも助けようとしなければなりません。祈祷をするとか、死の峠を踏み越えていく道しかないという結論が出てきます。
メシヤ、あるいは救世主という人は、神様よりも苦労しなければなりません。神様を遊んで暮らすようにさせ、自分は死ぬほどの苦労をしようと思わなければなりません。