第二節 神様の精誠
(一) 創造の精誠
この宇宙は、どれほど神秘的な世界ですか。神様がおもちゃや遊び道具としてつくったのではなく、愛する人のために精誠を尽くしてつくられたとすれば、この世界がどれほど美しいだろうかというのです。「この宇宙は、お父様が私のためにつくった」、このような感謝の心をもって丘を散策し、草木を見つめ、あるいは花を見つめ、鳥を見つめ、鳥の鳴き声を聞いて鑑賞し、水が流れ、風が吹く、このようなすべてのものを見るとき、それがどれほど広大で素晴らしいかというのです。今、あの門前にただ立っている一本の木を見ても、この世界の名作、あるいは画家が描いたどの絵とも比較できません。比較できますか。いくら絵を見つめても、そこに花が咲きますか。花が咲き、香りがあるのかというのです。ありません。
そして、この木からは種ができます。その種を植えれば、その木よりもっと良い木がいくらでも出てくるのです。これを見るとき、たった一つの自然でも、永遠を約束しています。「私は、永遠に人類と共に生き残っていかなければならない」、そのような約束のもとで、たゆまず私たちの人生のために、被造世界のために努力し続け、生きて活動していることを見るとき、これは驚くべき事実です。それで、皆さんは、一株の草を握って一日中話をし、神様がどのようにつくったのか、つくるとき、神様はどのようなことを考えたのかを考えてみなければなりません。(八七―三一九、一九七六・六・二七)
神様は、人間より、もっと精誠を尽くしていらっしゃるのです。神様は、個人のために精誠を尽くし、息子、娘のために精誠を尽くし、そしてその息子、娘たちが求めていく家庭のために精誠を尽くし、その家庭が求めていく氏族のために精誠を尽くしていらっしゃいます。
家庭を取り戻してあげれば、その子孫が幸せにならなければならないでしょう? ですから、その子孫のために精誠を尽くしていらっしゃるのです。そして、彼らが一つの家門を成せば、その家門のために精誠を尽くされ、彼らが合わさって一つの民族になれば、その民族のために精誠を尽くされます。それゆえに、今日、人類は滅びなかったというのです。(四二―二二六、一九七一・三・一四)
人間がいくら精誠を尽くしたとしても、神様の精誠には及びません。私がいくらうまくやったとしても、誇りたいことがあったとしても、今まで神様が世界のサタンに対して闘い、勝利の土台を用意した、ということを知らなければならないのです。ですから、私たちが精誠を尽くさなければ、そのような神様の心の根本を受け継ぐことができません。
神様は、復帰途上にいる息子、娘をして、解放された自由な安息の場で暮らすようにするために、一つの家庭を立てるだけでなく、一つの氏族を立て、氏族だけでなく、一つの民族を立て、民族だけでなく、一つの主権国家を立てるために今まで苦労してこられたということを、皆さんは知らなければなりません。(四二―二二六、一九七一・三・一四)
(二) 復帰の精誠
堕落してサタンの僕の僕になった人間を、天の僕の僕に救援するためには、サタンとサタン国家の中で精誠を尽くしたいかなる主権者や民よりも、神様御自身の精誠が不足であれば、一人も救い出すことはできないというのです。なぜかというと、サタンが讒訴するからです。
ですから、サタン世界の人間たちをそのままにしておいては、天地万物を創造された神様の僕として立てることはできません。それで、神様は、この地にいる人間たちを救援しようとすれば、サタンが精誠を尽くした以上の精誠を尽くさなければならないのです。そして、サタン世界の主権国家のために忠誠を尽くす民がいれば、その人が忠誠を尽くす基準以上の位置に立たなければ、サタン世界にいる人間たちを救援することができないというのです。神様は、このように歴史を通して人間たちを僕の僕から僕に、養子に、息子の位置を経て新郎新婦、父母の位置まで復帰しなければならないのです。(一七―二三一、一九六七・一・二九)
天のお父様が、失ってしまった子女を取り戻すために、どのくらい精誠を尽くしたでしょうか。命を懸けて精誠を尽くしたのです。ですから、お父様の前には面目がなく、顔を挙げることができず、いかなる反発も、反問もできません。
それでは、堕落した人間が精誠を尽くしたのか、神様が精誠を尽くしたのかと言えば、堕落した人間が精誠を尽くしたのではありません。神様が精誠を尽くしてこられたのです。ですから、神様が必要であり、神様が有り難いのであり、神様に従っていこうとするのであり、神様が貴いというのです。私が精誠を尽くしたので私が貴いと思うかもしれませんが、神様が私よりもっと精誠を尽くしたので、神様がもっと貴いというのです。(四二―二二六、一九七一・三・一四)
神様は永存される方です。神様が涙を流されるのは、死の道を一掃するためであり、苦痛の道を一掃するためであり、悲しみの道を一掃するためです。神様が悲しみと苦痛と死の道を一掃するために先に涙を流し、血と汗を流してこられたことを知って、今日の私たちは、代わりにみ旨を成し遂げなければなりません。神様が死の場に出ていってはいけないのです。
今まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てたのです。このようにしたのは、神様に愛がないからではありません。そのような場を解消するために、神様もそれ以上の痛みを感じなければなりませんでした。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心はどれほど苦痛であり、愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情はどれほど痛むでしょうか。自分が死ぬより、もっと心を痛めるというのです。このような痛む心情をもって、人類の歴史が始まって以来、苦痛を受けてこられた神様なのです。
私たちは、一代を中心として一度苦痛を受けて倒れれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、今まで神様は、大勢の先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けてこられたのです。(一四―二四四、一九六五・一・一)