第三節 み言と精誠
先生の一生は、今日の統一教会の原理のみ言を中心として、その原理を探し出すために、無限に精誠を投入し、投資する生活でした。また、知っているその原理を、地上世界で実践するために、無限の苦痛を受けました。その背後には、皆さんが想像もできない苦痛の受難の道が隠されているのです。(二一〇―三〇六、一九九〇・一二・二七)
原理のみ言を中心として精誠を尽くす人たちは、『原理講論』を毎日のように読んで、読んで、読むのです。朝に読んで、昼に読んで、夜に読みながらも嫌にならないというのが精誠です。同じことを、一千回、一万回繰り返すのです。繰り返すときに、四十年前に尽くした最初の精誠がだんだんとさめていってはいけません。(二三四―二八五、一九九二・八・二七)
訓読会の総時間がどのくらいかということを計算し、それが多い民族であるほど優秀な民族であり、それを条件として優劣を定める時がすぐに来ることを知らなければなりません。その時間が長ければ長いほど、訓読会の時間に精誠を尽くしたということなので、理解した基準が高くなるのであり、そのような人々の人脈が、天一国、神の祖国を守っていく主人公にならざるを得ないというのです。(二〇〇四・一・一)
訓読会を一番一生懸命にやる人は、お父様です。自分が話したことはすべて知っているのに、どうして訓読会が必要なのでしょうか。それは息子、娘に贈り物をしようと考えているからです。「私がこの期間に、より良いものを与えなければならない」と考えているので、疲れを感じません。その妙味が分かりますか。
自分の愛する息子、娘たちを涙で教育し、「千里の道も遠くないと思って来てみると、今まで、これ以上に価値のある時間はなかった」と言って感動する息子、娘の顔を見て、また、彼らが父母の顔を見て喜ぼうとすれば、誰よりも精誠を尽くさなければならないのです。ですから、一生懸命にやらざるを得ないという結論は、妥当な結論です。(二〇〇四・一・二八)
どうして私に訓読会が必要ですか。すべて知っているのです。しかし、皆さんを教育するためには、いくら学者になったとしても繰り返さなければならないのです。伝統を残すために繰り返さなければなりません。
皆さんも同じです。皆さんの一族に対して繰り返して伝授しなければならないのです。そこにおいて、どれくらい精誠を尽くしたかにより、皆さんの子孫が正しい種となり、歴史時代に必要な人になるかならないかが決定されることを知らなければなりません。(三〇二―二九三、一九九九・六・二六)