第五節 真の精誠を尽くすには
(一) 一片丹心
精誠を尽くしていることが成し遂げられるためには、心が統一されなければなりません。すなわち、一片丹心を備えなければならないということです。二つの心があってはいけないのです。始めから終わりまで、統一された心で精誠を尽くさなければなりません。精誠は、誰かに貸してあげて、また戻してもらえる物とは違います。ですから、始めも、過程も、終わりも、様々な形態に変化しては、精誠になり得ないというのです。ですから、一片丹心、統一された心を中心として精誠を尽くしていかなければなりません。(一七―二二七、一九六七・一・二九)
救援摂理の恵沢を受けるべき人間は、神様のためにどれほど精誠を尽くさなければならないのでしょうか。人間もやはり、神様に相対しようとするたびに、サタンがそばで讒訴するので、神様の前に立てる僕になるためには、何かの条件を立てなければ、立つことができないのです。
摂理歴史を見てもそうです。百二十年間、神様の命令に自分の生涯を差し出してその道を行ったノアの決心は、どれほど大きかったでしょうか。そこに二つの心があったとすれば、十年も行けなかったでしょう。しかし、自分の生涯を貫いて越えていき、自分の生涯が左右にひっくり返っても変わらない一片丹心があったために、そして順応する心と、神様の命令を軽んじずに愛する心、また忍耐して闘う心があったので、長い長い百二十年の苦難の道を耐えて越えていけたのです。そのことゆえに、神様の精誠にこたえ得る相対的な条件が成立したので、歴史は、そこから新しい出発ができたというのです。(一七―二三一、一九六七・一・二九)
精誠を尽くした、ということで終わってはいけません。絶えず努力しなければならないのです。しかし、努力だけではいけません。なぜかというと、相対世界のために生きるとき、予期できない不祥事や反対作用が起きることもあり、常に自分が願うとおりになるとは限らないからです。ですから、努力とともに、忍耐も必要だというのです。また、忍耐だけでも駄目です。内外、四方に容認できないことが現れるようになるときは、それを切ってしまう勇気も必要です。そのためには、(内的な)闘いが必要であり、必ず(内的な)闘争の過程を経なければなりません。
まず私が精誠を尽くさなければならず、精誠を備えた自分にならなければなりません。そのためには、一片丹心、すなわち統一された心をもたなければならず、相対をこれ以上ないほど愛する心をもたなければなりません。その愛の心と一片丹心の心があるとき、その人は、精誠を立てて目的とするところを成し遂げることができるのです。このように、目的を達成するためには、努力と忍耐と闘争が必要だというのです。この過程を経なければ、精誠のこもった心情の基準に立ち、精誠の価値を正しく自分の所有として備えることはできません。(一七―二二七〜二二九、一九六七・一・二九)
(二) 欲心をもたない
召命を受けてみ旨の道を行く人が考えなければならないのは、いつでも、精誠を尽くしながらみ旨の目的を求めていかなければならないということです。いつでも、それを求めるために努力しなければならないのです。先生自身も、復帰摂理の全体的な問題を中心として行く道は、平坦ではありませんでした。ここには、私自身も思いもよらない焦りや、いらだつ場が多いというのです。
それでは、それをどのようにして感知していくのでしょうか。自分の心や心情に欲心をもっては絶対に駄目です。「私がこのようなことをしてみよう。私は何々をしよう」と考えながら、ある計画を立て、三年なら三年の計画を立ててこのようにしようと考えたとき、それは不可能なときが多いのです。計画どおりにできたとしても、これは、人間的な観点から立てられた計画なので、摂理と相入れないときが多いというのです。
このような相入れないときを調整しようとすれば、その成された実状や、その環境の全体的な雰囲気などを通して、今、自分が進んでいる方向が、その運勢と対等な立場で進んでいるのか、相入れない立場で進んでいるのかということを比較しなければなりません。対等な立場で進んでいるときは歩調を合わせていき、相入れない立場にいるときは、合わせていくために必ず精誠を尽くさなければなりません。ほかの人が何と言おうとも、精誠を尽くさなければならないというのです。(四〇―七六、一九七一・一・二四)
神様が、「木に登るテストをする」と宣伝したとしましょう。すると、欲張りな人は、自分が一番大きな木に登ろうと互いに争い、最後まで争いが終わらないまま、実績なくテストが終わるようになるでしょう。これは、欲心ばかりが大きくて実績がないということです。機転の利く人は、まず自分にふさわしい木を探して登っていくでしょう。しかし、欲張りな人は、自分の分限を超える一番高い木に登っていこうとして落ちてしまうのです。まず順々に登っていき、一つ一つ基準を立てて完成しなければなりません。最初から、度を越して大きく出発するなというのです。
皆さんが着実に実績を立て、自分の本質に該当する忠誠の分だけ精誠を注ぎ、天が積んできた精誠の礼物の基準を備え、千古に残すことができる位置に立ったなら、皆さんの代にはその願いが成し遂げられなかったとしても、皆さんの後代には必ず成し遂げられるでしょう。このように、世界に対して残すことができる精誠の土台を備えていけば、自分と子孫の名声が世界に広がっていくようになるのです。(一七―二五〇、一九六七・一・二九)
(三) 摂理の時に合わせる
統一教会の教会員であれば、統一教会が行く道とともにあり、自分の命を懸けて忠誠を尽くしながら、一日一日、一時一時を、その時の拍子と度数に合わせるために、精誠を尽くさなければなりません。そうしてこそ、その人は、統一教会の運勢と共に発展するのです。
統一教会に従う人たちも、途中で疲れて倒れるかもしれませんが、その中でも、世界の運勢と共に関係を結び、その時に合わせるために精誠を尽くした人がいれば、ほかの人は一日で倒れてしまったとしても、その人だけは残るというのです。
ですから、精誠を尽くす皆さんには、「私がその時を知って、その時に間違いなく合わせた」と言うことができる時間を、皆さんの一生において、果たして何回くらいもったのかということが問題なのです。(四〇―一五〇、一九七一・一・三一)
自分が祝宴をする家に行くとしても、祝宴をするその時間に合わせて同参しなかったならば、「祝宴に参加した」とは言えません。しかし、その家の前を通り過ぎる旅人でも、その時にその家で祝宴をしているのを見たのなら、その祝宴に同参した価値をもつというのです。
同じように、摂理の途上においても、時があるのです。ですから、その時を知ろうというのです。その時を知って精誠を尽くそうというのです。精誠を尽くそうとすれば、時に合わせて精誠を尽くさなければなりません。むやみに精誠を尽くしてはいけないのです。精誠を尽くすときは、その時がどのような時なのかを知って、その時に合わせてあらゆる精誠を尽くし、その時間を通して神様と因縁を結ばなければなりません。(四〇―一五〇、一九七一・一・三一)
いつでも、その時に合わせるための生活をしなければなりません。夜寝るときも、心霊的なアンテナをそこに向かって合わせ、天の拍子に合わせられる公的な立場になり、自分の固執や主張を前に立てず、静かな平和の中で感じた感情を通して、心の動く方向に行こうとする努力を継続しなければなりません。
そうして経てきた、一日なら一日の生活を総評価し、ひと月ならひと月を総評価し、過去の時が上り坂なのか下り坂なのかということを、いつも鑑定する努力が必要なのです。もし上り坂であれば、来る時をどのように迎えるのかを考え、下り坂であれば、第一次の時は過ぎていったので、第二次の時をどのように迎えるのかに対して考えなければなりません。(四〇―一五七、一九七一・一・三一)
(四) 天と心情的な関係を結ぶ
精誠は、どのようなところで尽くさなければなりませんか。誰もいないところ、私だけが知っているところで精誠を尽くさなければなりません。自分の本心が天を慕うようになるときのその心は、誰もが知らなければならないものではありません。私だけが知らなければならないのです。私だけが知っているその心を中心として、私だけの土台を解決しようとするので、誰もが知っているところではできないのです。誰も知らないところ、秘密のところで精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くして備えたものは、人に誇ることはできないのです。(四二―二二〇、一九七一・三・一四)
精誠を尽くすときは、誰かに分かるように尽くすのではありません。人間の中にいらっしゃる天と私が関係を結び、善なるものと関係を結ばなければならないのです。「私」という存在は、個体的な存在です。ですから、絶対的な存在と因縁を結ぶためには、誰も同参できない秘密のところで精誠を尽くさなければなりません。
秘密のところで尽くされた精誠とともに感じる喜びは、素晴らしい喜びにならざるを得ません。天が喜ばれるその喜びを感じるのです。その喜びが満ちあふれて第三者に感化を与え、影響を及ぼすようになるとき、ここから天の命令を代行できる権限が始まることを、皆さんは知らなければなりません。(四二―二二〇、一九七一・三・一四)
(五) 犠牲の道を行く
皆さんがこれからすべき重大事は、サタンに侵犯されてはいけないということです。あるいは、選ばれた人が捨てられてもいけないということです。そのためには、その前に、罪悪の要素を除去するための蕩減を甘んじて受けようという立場で、すべての悪の要素を蕩減しなければなりません。
ですから、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすときは、食べて、寝て、着ることを思いどおりにしながらでは、それを捧げることができません。精誠とは、食べるだけ食べ、寝るだけ寝て、着るだけ着る、そのような立場では、きちんと捧げることができないのです。
ですから、ある重大事を前にすれば、必ず神様と自分が談判する闘いをしなければなりません。先に打たれなければならないというのです。神様が打たないのであれば、自分が率先してでも先に打たれるのです。打たれれば、どうなるでしょうか。神様の相対になるのです。これが神様のしてこられた復帰摂理の法則です。(一八―一四二、一九六七・六・四)
神様を愛するのに、どれだけの精誠を尽くして愛し、人間を愛するのに、どれだけ精誠を尽くして愛したかが問題なのです。これが霊界に行ってからの人格になります。栄光の基盤になるのです。教会員の中で長くいる人は、「私が先に教会に入ってきたのに……」と思うかもしれませんが、とんでもない話です。先生も、そのようなことは思いません。先生は、そのような生活を学んだことはありません。子女は平等に育てなければならないのです。
精誠を尽くす人は、眠るとき、暖かい所で眠りません。一番悪い所に行って眠るのです。精誠は、世の中の良いものと比例するのではなく、反比例するのです。世の中の人たちが良いという所は、精誠を尽くせないのであり、悪いという所であるほど、よく精誠を尽くせるのです。(四二―二二八、一九七一・三・一四)