関ヶ原の合戦の折、東軍に参加した真田昌幸の長男信之は、徳川開幕後、松代十万石の領主の座に就いた。その信之、いつしか齢九十三を数え、隠居の身だったが、そこに思いもよらぬ難事が持ち上がる。
真田信之というと、弟幸村の陰に隠れて目立たない存在ですが、この男に焦点をあてたのは池波正太郎の手柄でしょう。元々豊臣の家臣ということで、信之は常に幕府から睨まれている。そんな状況の下で、幕府が強権を揮った時代を生き抜いたのだから大したものです。真田の賢兄賢弟の内、兄の活躍譚は、そうは書かれていないと思いますので、皆さんにはこの機会に是非ご一読を。
信之の息子にして藩主の信政が、息子右衛門佐の誕生を幕府に届け出る前に急死を遂げたのだ。万一これで右衛門佐の家督相続が許されないとなると、分家の信利が新たに松代の本家を相続することになる。信利の性情に不安を持つ信之としては何としてもこれを防ぎたい。
立ちはだかるは老中酒井忠清、幕閣の意をまとめ、御し易い信利を擁立せんとする。ここに信之と酒井忠清の死闘が始まらんとしていた。信濃の獅子と呼ばわれた男の、松代十万石の存亡を賭けた一世一代の大勝負!
随分前に買っておいたものを、暇つぶしにちょうどよい厚さなので手にとった。これが幸いだった。
予想を遥かに上回る面白さに、つい月例課題にしてしまった。中公文庫ということで、池波フェアの時も地味な存在になりがちだが、池波の時代小説が好きで、真田ファンだったら、是非とも読んで欲しい。
やはり第一に挙げられるのは題材の面白さだろう。幸村だったら活躍して当然、これまでも数多の小説で描かれてきている。実像はどうあれ、同時代を生きた中では大スターの一人といっていい。そこに兄貴の信之だが、関ヶ原の合戦を前に、父そして弟とは袂を分かっている。これを、真田家存続のためのオプションと見る歴史家は多いが、実際はどうだったのだろう? そのあたりのこともちょっとだけ書いてあって興味深い。
今回の戦いは、徹頭徹尾、頭脳戦である。老中酒井雅楽頭忠清との間の心理戦、スパイ戦はなかなか読み応えがある。この枚数なのがもったいないくらいである。他にもエピソードを書き加えて、酒井との間のライバル関係をもっと膨らますことができたなら、隆慶一郎の『影武者徳川家康』に匹敵する傑作になったのではないだろうか。−−といった美味しいネタを軽やかに書いてみせるのが、実は池波正太郎の味なんだ、ということは承知の上。
評者:めぐみ 評価:☆☆☆★
練達の池波氏の真田物とあって、安心して手を出せた。最近、安心して読んでいられる日本の作品が少ないような気がする。作者の文章力、構成力、ストーリーテラーとしての力を抜きにして考えても、初読時に、どこへ連れて行かれるのだろうかと、結末に一抹の不安感を抱かずに純粋に楽しめる作品は少ないと思うのは、既に時流に遅れているという事だろうか、ちょっと寂しい。
最近脇役にこだわる。自分ではどうしようもない立場に生まれた哀しみ。堀平五郎が、自分の立場をいやだと言って拒否できたのだろうか?
手慣れた分野での手慣れた作品、歴史的事実を前に、イメージの膨らませにくい人物を主人公として、どれだけの新味を描けるのか。
信濃の虎の跡継ぎとして、信濃の獅子と謳われてはいても、父親からの「お前の血は冷えておる」と言う声にこだわっているところが、まことに興味深い。
「真田太平記」の中でもこの事が言われていたはずだが、九十を過ぎてなお、そのように親に言われた事へのこだわりの、ふとよみがえる事が人間の業として切ない。
信行の中に、自分がごく当たり前の事としている感情行動が、なぜに、適切と評価されないのか、冷たいと言われてしまうのかという、清算されないままに残っていたわだかまりへの答えが、この、最後の酒井老中を相手の頭脳戦だったように感じられた。
これが親に冷たいといわれた人間の真骨頂だという思い、これだけ先を見通す目と計算があるからこそ、冷たいといわれたのだという、自分への納得かもしれない。
小松が小松であり、波瑠が波瑠であることの、心根の違いはどこからくるのか。運命に抗えない、非力な人間。誰もが蒼穹の昴の彼であるわけではない。
運命の分岐点でいかに選択するのか? 選択したという意識の無いままに、選択し終えている時、その要因は何だったのだろう。
考えはじめると、自分はどうかと、恐ろしい。