枯木橋



枯木橋は、橋場交差点の中にある。交差点の武蔵ヶ辻方向寄りで、横断歩道の内側に位置する。
この交差点の道路は4車線。交差点内ということで更に広い。これに対して橋の長さは数メートル。幅が長さよりはるかに長い橋となっている。道路から見ても橋らしい構造は全くなく、道路脇の建物を見てもわずかに切れる程度だから車で走っていたのでは橋があるようには思えないだろう。
とはいえ、歩道を歩いていれば欄干を目にすることができる。橋が架かるのは、東内惣構堀。自然の川ではなく、城を守る堀の名残である。橋から眺めると、水の流れはコンクリートで覆われた中央をわずかに流れるだけ。堀として機能していた頃、幅数メートルで水が豊富だったといわれる頃の面影はない。とはいえ、古い石垣に城の守りの堅さを感じる。
橋としてみた場合、欄干しか見るものはないのだが、欄干は由緒ありげな石作りである。欄干には、”明治甘五年四月架”と掘られている。今の橋でさえ、100年以上前、となる。もっとも、明治に4車線の幅の道路があったとは考えにくいから、拡張などを行っているのだろう。それでも、欄干が当時のものとすれば、いまなお彫などが非常にしっかりしている。良い石を使い、丁寧に仕上げたのだろう。
枯木橋のすぐ近くには、石川県道路元標が立っている。この付近、狭いけれどちょっとして広場になっていて、枯木橋などについての説明版もある。内容も詳しく、一読をお勧めする。ただ、説明版で惣構堀が見えにくくなってしまっているのは残念である。

江戸時代、このあたりには城内に入るための門があったといわれている。橋を渡る道路、これは大手門にも通じる道であり、城下町のメインルートとも言える道路である。守りの面で重要であったことだろう。
そう思って橋を見ると、道路が坂になり、武蔵ヶ辻方面が1段高くなっているのがわかる。数mに満たないような段差であるが、城下の守りという点では、堀と合わせて非常に有効であったことだろう。ここは、事実上の城内への入り口だったといわれている。この場所に道路元標があるのもそのためかと思う。

東内惣構堀は、ほとんどが暗渠となってしまっている。枯木橋付近も、一部は開渠となっているが多くは暗渠などとなっている。しかし、このあたりには古い石垣も残る。比較的最近になって手が加えられたものもあるが、城下の要所でもあり、以前から石垣などはあったものと思う。城下の守りを支えた場所として、一度訪ねてみるのも良い場所だろう。

さて、枯木橋の由来であるが、案内板には由来が3つ、書かれている。どれが本当か分からないが、いずれも橋の近くに枯れ木があったことから名を付けられたとしている。

町に埋もれたような感じもする橋ではあるが、欄干を横から見ると橋らしく見える。

正面に写っているのは、金沢文芸館(旧石川銀行橋場支店)。窓がアーチ状になっていたりして、風格ある建物である。
交差点側の欄干には”明治甘五年四月架”とある。
枯木橋を横から見ると、非常にしっかりした石組みになっている。。
枯木橋近くの道路元標とガス灯。
道路元標を武蔵ヶ辻方向から見る。

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