江戸時代の直線道路、金石街道


金沢の道は旅行者にはわかりにくいと思う。狭くて曲がっているし、変則的な交差点も多い。だけど、城下町によくある道路であり、金沢に限ったことではないとは思う。金沢の場合、戦災がなく、道路の作り直しが行われなくて交通量の増加で小規模な手直しを繰り返したことでわかりにくくなってしまった、という一面もあると思う。
では郊外は? というと、車での走りやすさなども考慮して直線的に作られている。たとえば金沢駅西口から県庁に向かって真っ直ぐに伸びているし、その周囲もだいたい直交している。駅の西側は空き地が多かったこともあるだろう。計画的である。とはいえ、駅の東側に繋がる道路や旧街道の影響もあったりして、すっきりしているとは言い難いところが多数残っている。

さて、駅の付近から海に向かう道である。2本の直線的な道路があり、1本が前述の県庁に向かう道である。その先は金沢港まで真っ直ぐ伸びている。片側3車線、中央分離帯も広く、50m道路とも言われている。そしてもう一本は駅の南側から金石まで伸びる道である。県庁への道とはちょっと角度があって並行してはいない。これが金石街道と呼ばれる道である。

金石街道は、金沢の城下町から海辺の金石に向かうための道で、藩政時代につくられた。古くは宮腰往還(みやのこしおうかん)と呼ばれていたそうだ。現在の金石街道は片側3車線の広い道である。と書くと、旧街道近くに直線的に広く造られた新しい道、と思えてくる。実際、金沢付近にはそのように作られた新道が多数ある。しかし、金石街道に限っては藩政時代からまっすぐに作られたのだそうだ。その後、道路に沿って鉄道が作られて後に廃止されたり、道幅が拡げられたりして現在のようになっている。

藩政時代の道は多くの場合曲がっている。地形の都合もあると思うが、それ以外にも理由がある。曲がっていることによって見通しが効かず、適度な変化となって歩きやすい、という説である。遠くの目的が見えていると、歩いても歩いてもなかなか近づかないように感じてしまい、疲労感が増す。それよりも曲がり角があるとそれが中間目標となり、また道の変化が出来て疲れにくい、ということなのだそうだ。
では、金石街道はなぜ真っ直ぐに作られたのだろうか? 理由としては、港までの物資の運搬を目的としているからではないだろうか? 物を運ぶなら最短距離の直線がよい。それに、この地は平坦なので地形による迂回等は必要もない。前述の疲労感も、6Km程度しかないので関係はなかろう。仮説ではあるけれど、このような理由で真っ直ぐに作られたのではないだろうか?

道が真っすぐ道が伸びているのは壮観である。長田町小学校前の歩道橋から海方向を見ると先が霞んで見なくなるまで直線である。細かく言えば、車線で見ると多少の折れ曲がりもあるが、これは元の道を広げる際の都合だろう。江戸時代からあったこの道、一直線だと高速道路みたいに見えたのではないだろうか? 荷物運搬であれば荷車が何台も連なって見えただろう。これも今の高速道路のイメージと重なる。
この街道、水運も使われたために本来の荷運用としてはそれほど多くはなかった、とも言われている。それでも、今の道路に通じる先進的な道である。

縦長の写真にすると直線になっているのが強調されて
見える。
車で走ると車線は曲がっていて直線道路の感じはやや
薄れてしまう。
金石側からの写真である。
途中、一段低くなっているようで、先が見落とせない。
長田町小学校前の歩道橋からお城の方向を写す。
立体交差の鉄道があるので道路は見通せない。
鉄道を過ぎたところで左に折れ曲がっている。
金石街道の標識である。
最近、このデザインの表紙いが一部に作られている。
道路はその先まで伸びているが、直線なのはここ
まで。バスターミナルの、バスの出口になっている。
直線部分の最後付近にはバスターミナルがある。
ここは、もと北陸鉄道、金石線の駅の跡である。
鉄道はこの先まで伸びていた。


写真撮影: 2014年6月/7月


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