旧中橋陸橋




鉄道は、近距離の大量輸送や中長距離輸送に非常に重要である。金沢付近でも東京や名古屋、大阪向けに多くの列車が走っている。しかし、道路から見ると鉄道は邪魔である。横断には踏切であれば一旦停止が必要だし、踏切そのものも少ない。駅は非常に大きいために反対側に行くには迂回が必要になる。極端な言い方をすると街を分断している。このため、駅の裏側が発展が遅れることはよくある。
金沢は、鉄道が街の北西側に通った。ここより海側は地盤がいまひとつだったりして市街地化は遅れたけれど、バイパスや高速道路が海側にできたりして街が広がり、鉄道を渡る道路の交通量が増えてきた。ここで紹介する中橋陸橋は、元々金石に向かう主要道路であり、交通の円滑化のために早くから立体交差化された。

中橋陸橋は、金沢の市街地、武蔵が辻から金石方面に向かう、金石街道と呼ばれる道に作れた。港への陸運に重要な道路で、藩政時代に造られた。ここは駅にちかいため、鉄道もゆっくり走っていたから、開かずの踏切とも言われていたそうだ。このため、昭和34年には早くも立体交差化された。陸橋は車のみで、歩行者等は地下トンネルだったらしい。
さて、その後交通量がさらに増えてくると個別に道路を立体交差するより鉄道側を高架にした方が効率よくなる。金沢でも駅周辺が連続立体交差化が行われることになった。その結果、小さな道路なども立体交差化されて踏切が無くなり、自動車等の交通では一層良くなった。

ところでその際に邪魔になったのが中橋陸橋である。金沢駅周辺に立体交差はいくつもあるけれど、駅から遠いところはそのままになったり、鉄道の下を通っていたりしてそのままであった。しかし、中橋陸橋だけは連続立体交差の部分にあたってしまった。陸橋の高さは新しい鉄道とほぼ同じ。つまり、折角道路を上げたのに鉄道がそこを通ることになる。まさか陸橋上で踏切を作るわけにはいかない、ということで陸橋は廃止となり、道路は高架になった鉄道をの下に移ることとなった。簡単な工事ではない。その間、道路は通行止めになった。交通量の多い道路でその分他に迂回する必要があったが、無事工事は終わった。

現在の中橋陸橋跡は、とても自然な感じで鉄道の下を通っている。以前の北陸線に加えて北陸新幹線もできた。陸橋の名残は感じられないが、高架の脇に小さな公園があり、そこに中橋陸橋の石碑と共に陸橋の一部が残されている。残されたのは、橋の端に名前の板のある部分である。橋、欄干の一部が残される例はほかにもあるが、交通で大きな役割を果たしてくれた中橋陸橋の一部が現地に記録として残るのはうれしいことである。

中橋陸橋、欄干の親柱
コンクリート製で、橋の名称が書かれている。
現在の中橋陸橋跡。
交差点名は”中橋高架下”となっている。


写真撮影: 2014年7月

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