七稲地蔵、金沢にもあった米騒動

米騒動といえば1897年に富山県の魚津である。しかし、金沢にも藩制時代にも米騒動的な一揆が起こったという。
安政5年(1857年)、梅雨の前の時期から長雨となり、冷雨が3か月も続いて大凶作となって米価は跳ね上がり、食料が買えない人が大勢出たという。そして7月11,12日に卯辰山に集まった800人(資料によっては2000人)の民衆が城に向かって「お殿様、米が高いよう、これでは食えんよう」などと絶叫したという。卯辰山からお城まで声が届くとは思えないが、翌13日には藩は米蔵を開いて庶民に米が与えられたという。
しかし、約10日後に7人が一揆の首謀者として捕えられ、一人は牢死し、残る6人は処刑されたという。(資料によっては牢死は2名) この時代、藩としては首謀者をでっち上げてでも見せしめとしたかったとも言われている。この7人の冥福を祈るために安置されたのが七稲地蔵である。お地蔵様は稲を抱いている。
七稲地蔵が安置されているのは東茶屋街の奥、観音院に向かう途中の寿経寺の道路に面したところにある。元は観音院に向かい途中の坂にあったとも書かれている。
お地蔵様の前にあるガラスの戸から見るとお供えも多く、とてもきれいになっている。祭礼も行われているそうだ。一揆に大して藩がコメを放出したこと、これはすごいことと私は思った。

七稲地蔵
稲を抱いている。
お地蔵様の横にある石碑
一揆の首謀者とされる7人の
名前が刻まれている。

写真撮影 2014年7月

 金沢九十九景に戻る