椿原坂(天神坂)
椿原坂は、天神町の椿原天満宮の横から金沢美術大学付近に登る坂である。登ったところは、現在は新しく出来た道のトンネルの上になっている。椿原坂の名前はこの椿原天満宮から来ている。天満宮、ということから、天神坂とも呼ばれている。
椿原坂は、急な崖を斜めに登る。斜めになっているとはいえ、急坂ではある。道幅は、車が1台通れる程度である。途中、一部幅が広くなったところがあり、そこですれ違いができる。しかし、急坂でのすれ違いであり、また坂の両端は狭く、更に歩行者や自転車もいるので、車では非常に通りにくい道であった。しかし、この付近では車で上り下りできる唯一の坂であったため、交通量は少なくなかった。
対向車とのタイミングを見ながら、歩行者や自転車の様子を見ながらの通り抜けであり、気の抜けない坂であった。現在、この坂のすぐ近くに4車線の道路が新しくできたため、車の多くはそちらに回っているのだが、それでも通る車はまだまだいる。坂を降りたところは住宅街で、幹線道路から少し入ることになる。崖に近くに住む人にとっては、便利な道なのかもしれない。
坂の下り始めは新しく出来た道路で開けたこともあり、非常に見晴らしがよい。対岸の卯辰山などもよく見える。坂を折り始めると、中ほどで椿原天満宮の隣を通る。天満宮にお参りするには、坂の下の鳥居から入るのが正しいのだろうが、坂の途中からも入ることが出来る。坂の上から降りてきた場合、つい近道したくなるが、天満宮、やはり下から登った方がよい。階段や狛犬など、とても良いのだから。
さて、この坂の下、椿原天満宮は、かっては一向一揆の砦であった。
今の富山県、福光方向から現金沢城付近にあった尾山へ攻める敵への備えであったといわれている。崖の下で、ちょっと意外ではあるが、椿原天満宮から石川門を見ることができる。ここで敵を見張り、のろしなどで知らせたという。坂はこの頃からあったのだろうか? 藩政時代の地図にはそれらしい坂が載っている。この位置の重要性から考えればそれも十分考えられる。
椿原坂の降り口。 新しい道の工事のため、道は広くなった。新道は、この下をトンネルで抜ける。 |
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坂の中腹。 左は椿原天満宮となる。 |
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坂の低い部分は椿原天満宮の隣を通る。 坂はこの先で大きき右に回り、崖の下に出る。 |
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椿原神社と椿原神社の境内から見た金沢城
椿原坂横の新道
椿原坂は、狭いながらもそれなりに交通量はあった。それは、この付近に車で抜けられる道がなかったことによる。兼六園付近まで迂回すれば道は広くては知りやすいが、行き先によっては往復で2Km近い遠回りとなってしまう。だから、狭いながらも抜ける車がいたわけである。
現在、椿原坂の隣に新しい坂道ができている。この道には名前はないが、降りるところは以前の椿原坂と重なる。だから、新椿原坂と呼びたくなる。
新椿原坂(仮名)は、椿原坂が崖を斜めに降りるのに対し、一直線に降りる。しかし、それではあまりにも急になるため、上の部分はトンネルに、そして下の部分は橋になっている。だから、上から降りるとまずトンネルに入り、出口でいきなり橋になる。道路を走っていたのでは橋であることはわかりにくいが、いきなり空中に飛び出すようで面白い。普通に言う坂道の雰囲気ではないが、現代風の坂と考えてよいだろう。もっとも、このお陰で道路に不自然なことはあまりなく、非常に走りやすい。
新椿原坂(仮名)の交通量、椿原坂のときとは比べ物にならない。
これだけの車が以前は迂回していたのか、新たな需要ができたのか・・・。
いずれにしても、道路としては有効なわけである。