「奥の細道」の謎

著者:上野洋三
出版社:二見書房
出版年:1997
ISBN:4-576-97097-6

 1996年秋、「奥の細道」の自筆本が発見されて話題になったが、その調査にあたった学者のひとりが、この本の著者である。自筆本との出会い、芭蕉の独特の書き癖を決め手として、「本物」の確信を得るまでの過程、そして自筆本に残る推敲の跡についての考察……と、これらも、その方面に関心のある向きには素晴らしく面白い内容だと思われるが、それよりも野次馬的な興味をひくのは、NHKの「スクープ番組」放送までの裏話。修正の貼り紙の下の文字をNHKのデジタル技術で読み取ろうという試みが、実はあまり有効でなかったこと、「スクープ」以前の段階で、岩波書店から複製本を出す企画が着々と進んでいたことなどなど。そういう興味ばかりで読んでは申しわけないのだが、思わずにやにやしてしまうのだった。


古楽とは何か 言語としての音楽

著者:ニコラウス・アーノンクール(樋口隆一・許光俊訳)
出版社:音楽之友社
出版年:1997
ISBN:4-276-20370-8

 −−われわれは、過去千年の音楽の全体像から、美的な要素を取り出し、享受しているのである。安直に、耳を楽しませる部分、すなわち<美しい>ものを取り出しているのであり、その際、そのことによって音楽の格を完全に引き下げているということに気づいていない。作品の全体像の中では単にささやかな一部を占めるに過ぎないかもしれないようなさまざまな美を追求することで、この音楽の本質的な内容を聴き過ごしているかもしれないなどということに、われわれはさっぱり興味がないのである。
 と、いきなり過激な主張でせまってくる本。普段、「音楽に国境はない」「音楽の真の美しさは時代や民族を超えて理解される」と言い聞かされて育ってきたこちらは、これだけで身構えてしまうが、よく読んでいくと著者の主張ももっともと思えてくる。

 文献その他の考証にもとづいた「正しい」演奏のほうが「美しい」演奏より大切だとは、著者は言っていない。最後のよりどころとなるのは、やはり美しさなのだろう。
 ただ、直接感覚に訴える美しさだけが音楽の美しさのすべてとする風潮に異議をとなえているのである。

 なるほど古い音楽がたまたま耳に快く響いたからといって、それを「時代を超えて理解した」と考えるのは、少し図々しいことかもしれない。それは、未知の文字で未知の言葉が印刷された文書の中から、色どりや字配りの気にいったものを選び出す行為とあまり変わらないかもしれないのだから。

 「音楽に国境はない」これはやはり真理だと思うが、謙虚であることを忘れてそればかりを言うのは、他人の文化を踏みにじることであるかもしれない、と反省。
 などと言いつつ、気分がハイになるからという理由で、バロックオペラをバックグラウンドに流したりしている。(←実は何もわかっていない)

 原書は1982年刊。当時とくらべればバロック音楽や古楽器をとりまく状況も大きく変わっているはずで、もう少し早くこの日本語版が出ていたらと思う。


古代日本のチーズ

(角川選書277)

著者:廣野卓
出版社:角川書店
出版年:1996
ISBN:4-04-70327-8

 「バター」は事実上一種類しかないが、「チーズ」には数千の種類があるという。そのチーズという食品のなりたちから説きおこし、中国・日本の古代の文献にあらわれる「酪」「酥」「蘓」「醍醐」などが、実際にはどんな食品だったのかを推理する。どの種類のチーズだったのか、あるいはクリームやヨーグルトだったのか。
 文献と実験データによって、古代日本の貴族が食べていたという「蘇(蘓)」は実はコンデンスミルクのようなものだったらしいこと、「醍醐」はチーズではなくバターオイルで、日本ではおそらく作られなかったことなどが示される。(バターオイルって何……? インド料理で使うギーとは違うのだろうか)
 現代の牛は、高度の品種改良の産物なので、古代の文献に書かれた製法の再現実験をする場合、牛乳の成分に注意しなければならないという。なるほど。
 読んでいるうちにチーズが食べたくなり、カッテージチーズを買いに走った。


七五調の謎をとく

著者:坂野信彦
出版社:大修館書店
出版年:1996
ISBN:4-469-22127-9

 ヨーロッパの詩の格律は音節数、脚韻、アクセントの位置などが細かく定められているが、七五調は単純で、和歌から歌謡曲に至るまで、結局はみんな同じ。などと思っていたのは大きな間違いだった。

 七五調は日本語のリズムに深くかかわるもので、詩や歌のほか、標語や宣伝文句などにも七五調が多い。(そういえば、今朝の新聞にも「小6にわいせつ ビデオ20本」という見出しが)
 また略語の作られ方にも関係があるらしい。(そういえば、「エノケン」「キムタク」式の人名の略し方は、1200年前の文書にもすでに見られるとか)

 七字句の構造(「3+4」型か「4+3」型かなど)、母音だけの音節と字余りの関係などを細かく調べていくと、同じ七五調でも都々逸と和歌では本来のリズムが違うことがわかるという。(現代では都々逸方式に統一されつつあるらしい)
 また現代に伝えられる和歌の律読法(百人一首を、ふしをつけて読み上げるやり方などもこの一種)もあわせて考えると、王朝時代と万葉時代の和歌の読み上げ方の違いを推論することもできる。
 つまり、このあたりが「謎をとく」なわけだが、どうもこのタイトル、ちょっと違うかなーという気がしないでもない。七五調にかくされた、普通の人が気がつかない面白い点について地道な研究をまとめた本であるのに、「謎」の文字を入れたことによって、何かアブナそうな印象を与えてしまうことはないだろうか。考えすぎかもしれないが。


ルーン文字

(大英博物館叢書 失われた文字を読む7)

著者:レイ・ページ(菅原邦城訳)
出版社:學藝書林
出版年:1996
ISBN:4-87517-017-3

 ラテン文字が導入される以前、北ヨーロッパなどで広く用いられていたルーン文字の概要をわかりやすく解説した本。この分野について日本語で一般向けに書いたものは少ないのでなかなか貴重な本ではないかと思う。

 しかし、目次を見て「えっ」と思ったのは、「北アメリカのルーン銘文」という章があったこと。『赤毛のエリクのサガ』に出てくる「ヴィーンランド」はアメリカのことを指す(つまり、コロンブス以前にバイキングがアメリカ大陸を発見していた)ということはほぼ認められているようだが、その実態については手がかりが少なく、いろいろな議論があるはずではなかったか。章をたてるほどの量のルーン文字碑文があるのなら、もっと話題になってもいいのでは?
 と、思ったら、「北アメリカのルーン銘文」はたくさんあるが、「いまだひとつも真正なルーンとしてスカンディナヴィアの学者に認められていない」とのこと。な〜んだ。

 とはいえ、その「怪しいルーン碑文」の話はなかなか興味深い。もっとも有名なのはミネソタ州で発見されたという「ケンジントン・ルーン」の石碑で、その銘文は次のように解読されている:

 八人のスウェーデン人と二十二人のノルウェー人、ヴィーンランドより西方へ探検遠征の最中(さなか)にあり。この石の北方一日の旅程にある二つの岩多き小島の傍らにて野営せり。我ら或る日漁に赴けり。我ら戻りて十人の男が血に染まりて死してあるを見出せり。AVM我らを悪より救い給え。我らは船の見張りに十人の男を海辺に配す、この島より十四日の旅。一三六二年。
 これはただ物ではない。どこかにもっとくわしい情報は、と探すと、 Kensington Runestone Home Page があった。ここには、掘り出された時の状況や真贋をめぐる論争など、多くの資料にもとづく情報が客観的にまとめられている。いろいろな点について現在も熱い議論が続いているらしい。(「死んだ」を'DED'と書いているのは英語じゃないのか? いやいや北欧語'DOD'の'O'は'E'と綴られることもあったのだ等々)

 この「ケンジントン・ルーン」、偽物だとしても、大変な力作であることは間違いない。しかし何といっても書いてある内容が面白すぎるのが難点である。