「桜の杜」  淡く柔らかな小片が、暖かい風の中で舞う。  命の続く限り、風を自身の色に染め上げる。  たとえ誰かがどんな思いを込めようとも、自分自身のために咲く。  世界が大きなうねりに呑まれようと、ただ静かに咲いている。  幾千の年を越えて、咲き続ける―― ――Atention please……  発着時刻を知らせる掲示板が、目的のパネルが出るまでかたかたと音を立てて回っている。  雑然とした人混みの中、紫紺に染めた長物入れをかかえた青年が憮然とつぶやく。 「……ったくよぉ、なんでゆーちゃんばっかりなんだよ? ここにこんなイイ男がいるってのによ」 「まぁまぁ、アニキは別格ってことで納得しとかなしゃーないんちゃいますのん?」  目元に大きな傷を付けた青年が、なだめるように人なつこい笑みを浮かべている。 「……ほー、余裕の発言じゃねーか劉! てんめェ、まさかこのオレに黙って女作ってんじゃねーだろうなっ?」 「あ、アホなコトいわんといてください!」 「ほんとかぁ〜?」  劉と呼ばれた青年はあわてて否定するものの、からみ始めた青年はさらに疑り深いまなざしで劉をじろじろとながめ回す。 「ホンマですて! ……こっちくるとき、ちゃんと別れてきたし……」 「な・ん・だ・とぉ〜?」 「い゛っ!?」 「てんめェ〜……」 「い、いやそのっ! そ、そう! 京一のアニキにはいてはれへんのですか!?」  思わぬ逆襲に、京一は一瞬とまどいの表情を浮かべる。それを見逃さなかった劉は、ここぞとばかりに追い打ちをかける。 「おっ!? やっぱりいてるんやないですか! さっすが京一のアニキ! 隅には置けまへんなぁ?」 「ま、まぁな……」 「で? どんな子なんです?」 「い、いや、実は年上なんだけどよ……って、てめェ! そんなこと聞き出してどうしようってんだよ!」 「なははは。でも、ちゃんといてるんやったら、ひがむことなんかあらへんのんちゃいます?」 「……そういう問題じゃねーだろ。ここにいるだけで、三人だぜ三人!」 「ホンマ、たいしたお人やで……」  二人はため息混じりに、人混みの方へ視線を向ける。  その先には、三人の女の子に囲まれて静かに微笑みを浮かべる青年がいた。 「一日も早いお帰りをお待ち申し上げております」  つやのある長い黒髪を後ろで結わえた少女に、、青年は静かな微笑みをたたえたまま黙ってうなずいた。  少女はそんな仕草へ、わずかに寂しそうな笑みを返した。それから、隣に立つ少女をうながす。  すこし茶色がかかった髪を、同じように後ろで結わえている。顔立ちが似ているところを見ると、どうやら二人は姉妹らしい。どこかおもしろくなさそうにしていたその少女は、すこし顔を赤らめながら指先でこりこりとほおをかいた。 「ま、まぁ、オレのことなんてどーだっていいんだけどさ。ヒナのやつが寂しがるから、さっさと帰ってきてやってくれよ」  青年は先ほどと同じように黙ってうなずく。それと同時に、長い黒髪の少女が不満の声を上げた。 「まぁ、姉さま。わたしをダシにするのはおずるいですよ」 「うっせーな……」  姉と呼ばれた少女の少し赤かった顔が、さらに紅く染まる。  青年は、そんな様子をおかしそうに見つめている。それがしゃくにさわったのか、少女は不意に青年の方へ拳を突き出した。  一直線にあごへ伸びた拳は、しかし届くことなく青年の手に阻まれる。 「姉さまっ!」  青年の目にわずかな驚きの色を認めて、少女は満足そうに、にっと笑った。 「へへっ。ま、そいつがセンベツ代わりってことで、さ」  二本指で敬礼めいた挨拶をよこす少女に、青年は苦笑を返した。その笑みを受けて、茶髪の少女はもうひとりの少女に青年を譲る。 「こんな時って、なにを言えばいいのか……」  困ったような表情で、青年を見上げる。亜麻色の髪を肩口から胸元に垂らしてリボンで結んでいた。  少女の言葉に、青年は黙ったまま小さくかぶりをふる。寂しげな笑みを返す少女に、青年は片手を差し出した。  握手のつもりで差し出された青年の手を、少女は両手で包み込んだ。持ち上げて、自分のほおに当てる。少女はそのあたたかさを確かめるように、目を閉じた。 「お願い……無事に帰ってきて……」 「ああ」  この場で初めて発せられた青年の声は、ゆったりと自信に満ちていた。 ――一〇時三五分発、北京空港行きANA七四四便の搭乗手続きを開始します。搭乗予定のお客様は…… 「ご武運を……」  黒髪の少女の言葉にうなずくと、青年は少女たちに背を向けて歩き出した。  残された三人の少女は、祈るようにその後ろ姿を見送っていた。 「そういえば、美里ねーさんは来てはりませんでしたね」  機内の座席に腰を落ち着けながら、劉は思い出したように声をかける。  次々と乗り込んでくる乗客が、荷物を頭上のトランクボックスに押し込んだり座席とチケットの番号を照らし合わせたりしている。客席の正面に据え付けられた大きなモニターでは、注意事項をビデオで流していた。 「あ、ああ……そうだな」 「まぁでも、宿星で結びついとるお二人やし、いまさら見送りなんていらんってトコですか」  京一の戸惑った相づちにも気づかない様子で、劉は屈託のない笑顔を見せる。  青年は、返事の代わりに曖昧な笑みを浮かべた。 「あ、なんやアニキ、図星かいな」  劉の返事に苦笑を返すと、青年は窓の外に目を向けた。劉と京一の二人から見えない青年の顔には、笑みの代わりにどこか寂しげな表情があった。 「なぁ、ゆーちゃん……」  京一がトーンを落として声をかけてくる。振り返ると、いつになく真剣な表情でこちらを見ていた。 「どうか……」  したのか、と言う前に、京一がずいと顔を近づける。 「まさかとは思うがな」  真剣なまなざしに、青年は思わず身構える。劉もなにごとかと固唾を飲んで見ている。 「もう、やっちまった……のか?」  京一の鼻の穴がぷくりとふくらんだ。  青年は最初、なにを言われたのかわからなかった。ぽかんと口を開けて京一の顔をまじまじと見つめる。  言葉の意味を先に飲み込んだのは、劉だった。 「きょ、京一のアニキ、ちょっとロコツすぎとちゃいますか……」 「るせー! で、どうなんだよゆーちゃん!」  京一は額がぶつからんばかりに詰め寄る。それでようやく、京一の言葉の意味がわかった。それと同時に笑いがこみ上げてくる。 「なに笑ってんだよ! ……ま、まさかホントにやっちまって、それでオレたちを見下してるんじゃ……」 「ちょ、ちょっと待ってください! オレたちって、わいも含まれとんですか?」 「……んだと? てめェは違うっていうのか?」 「い、いや、違わんことはないけど、決めつけられるってのもちょっと……」 「ごちゃごちゃうるせェんだよてめェは!」  どこにいても変わらないな、と青年は密かに思う。それから、苦笑を交えたため息で、その場を一段落させた。 「美里とはそんなんじゃないよ」 「へ……」  青年の答えがそんなに意外だったのか、劉が間の抜けた声を出す。 「ちょ、ちょっと待ってくださいよアニキ!」  血相を変える劉に、青年はとまどいを隠さない。 「美里ねーさんとはなんでもないって、どういうことなんです? ふたりは宿星に導かれとんやないんですか?」 「おいおい劉。他人の惚れたはれたに口は出すもんじゃないぜ」 「せ、せやけど……」  京一にいさめられて、劉がくちびるをかむ。青年は、そんな劉に微笑みを向けた。力強そうに見えるその笑みに、京一はどこかしらさみしげな色が混じっているのを見いだした。  青年は、ため息のような口調でぽつりとつぶやく。 「ちょっと、ひねくれてるのかな……」 「……は?」 「宿星とか運命とか、そんなふうに言われると反発したくなるんだよ」  劉は、青年の言葉にあっけにとられている。対照的に、京一は大きくうなずいて同意を示す。 「あぁ、なんかわかるぜ、それ。てめェのことくらい、てめェで決めるってんだってな」 「ああ」 「ほ、ほな、この間まで一緒に戦ってたんは……」 「きっちり全て、オレの意志だよ。宿星とか、関係ない」  青年の言葉を聞いて、劉はどう言うべきかわからなかった。  だが、青年には劉が何を考えて何を言いたいのか、なんとなくわかるような気がした。かといって劉の言いたいことを、言葉にすることは難しい。理屈ではなく、肌で感じ取ったのだ。  だから、あらかじめ用意しておいた言葉を投げかけた。 「オレは黄龍だけど、黄龍じゃないんだ」 「……はぁ?」 「アイデンティティだな」 「ああ……」 「なにを言うてんのか、さっぱりわからへんのですけど……」 「つまり、今この座席に座っているのは、黄龍なのかゆーちゃんなのかってことさ」 「せやから、アニキでっしゃろ?」 「ああ。オレはオレだよ。オレ自身そう思っているし、京一や劉もそう思ってくれているだろ?」 「当たり前のこと言うなよ」 「そら、せやなかったら一緒にいてませんけど……」 「だけど、あいつはそうじゃないんだ。オレを見る目はあいつの目じゃなく、あいつの目が見ているのはオレじゃないんだ」 「ちょ、ちょっと待ってください。なんや禅問答みたいで、わけわからんのですけど……」  情けない顔をした劉から顔を背けて、青年は話の終わりを一方的に告げる。  接ぎ穂を拒絶された劉は、助け船を求めて京一に視線を向ける。しかし京一は、黙って肩をすくめただけだった。しかたなく、劉はシートに体を埋める。その顔には、すねた子供を思わせるような表情があった。  そんな劉の様子が、窓に映って見える。  青年はそれをながめて、誰にも聞こえないため息をついた。 ――私は、あなたのことが好き……  目の前に立つ少女は、確かにそう言った。まっすぐにこちらの目を見て、そう言った。  離れた場所からざわめきが聞こえてくる。卒業して学校から解放されたためか、浮き足だった雰囲気だ。  グランドのはずれの桜が立ち並ぶ小さな林で、青年と少女はお互いを見つめて立っていた。  どう答えるべきか、瞬間、迷う。だが、そうして逡巡しているのもわずかな時間だった。青年の顔に悲しげな色が浮かぶ。 「すまない……」 「え……」  少女は、渡された言葉の意味が理解できていないようだった。手元の言葉と青年の表情を、幾度となく見比べる。  青年は、そんな少女から目をそらした。見ていられなくなったのだ。  言葉を飲み込んだのか、青年の仕草から読みとったのか、少女はようやく理解できたらしかった。 「そんな……」  少女の悲痛な声に、青年はあるはずのない痛みすら感じてしまう。 「……」  何か言ってくれると期待しているのか、少女はすがるように青年を見つめる。  何かを言った方がいいのかと息を吸い込むが、はき出されるのは言葉ではなく、ため息にもにた吐息のみ。結局、青年は言葉を探すのをやめてしまった。ただ、黙って時間が過ぎるのを待つ。  校舎や校門から聞こえていたざわめきが、いつしか遠くなっていた。  不意に、少女の目に涙が浮かぶ。 「……ごめんなさい……」  口元に手を当て、少女は走り去っていった。  足音が聞こえなくなっても、青年は身じろぎもせずその場に立ちつくしていた。  最後に少女が謝ったのは、いったい何に対してだったのだろうかと、ぼんやり考えていた。 「あーあ、もったいねェなァ」  唐突に、頭上から声がふってくる。  見上げると、京一が枝の上に座っていた。 「京一……」 「よっと……」  軽い身のこなしで降り立つ。目の前に立った京一は、どこかからかうような笑みを浮かべている。 「ずっと見ていたのか?」 「まぁな。けど、言っておくがおまえらの方が後から来たんだからな」  とがめるつもりで聞いたんじゃない、と言う代わりに肩をすくめて見せた。京一もわかっているのか、特に気にするそぶりもない。 「よぉ、せっかく告ってくれたってのに、なんだって断ったりしたんだ?」 「いや……」  言うべきかどうか、迷う。言ったところでどうにかなる問題ではないし、わかってもらえるかどうかも難しい。 「ま、言いたくなきゃ別にいいけどな。単なる好奇心だし」  風にあおられて、小さな花片がひらひらと舞い落ちる。 「……あいつが見ているのが、オレなのかそうじゃないのか、わからないんだ……」  ため息をつくように、言葉を吐き出す。 「いや……結論が出ていないのはオレの方だ。あいつは多分、自分の中で結論を出したんだ。そうでなけりゃ、わざわざ言いに来ることもないか……」  京一は半ば予想していたのか、戸惑う素振りも見せない。 「おまえが気にしてんのって、禍王須のことか?」  図星を指されて、青年は戸惑った。京一に目を向けると、真剣なまなざしがまっすぐこちらを見ていた。  青年は、小さくため息をつく。 「かなわないな、京一には……」  青年は苦笑して、視線を足元に落とした。  京一は、黙ったまま青年の答えを待っている。 「あいつは……オレなんだよ」  ぽつりと答える。 「理屈ではわかっているんだ。オレとあいつは違う。だけど、オレが黄龍である限り、やっぱりあいつはオレなんだよ。だから……」 「何言ってんのかわかんねェよ」  がりがりと頭をかきながら、京一が話に割ってはいる。 「つまり、おめェが言いたいことってのは、あれだろ? アイテム満タン、じゃねぇ……」 「アイデンティティのことか?」 「そう、それだ」 「まぁ……」 「ならよ、オレと中国に行かねェか?」 「……は?」  よほど間の抜けた顔をしてしまったに違いない。京一はこちらを見て、ため息をつきたくなるような顔をした。 「ほら、アレだ、自分探しの旅ってやつ。そのアイデンなんとかってのは、考えたって納得できるものじゃねぇだろ。肌で感じるもんじゃねェのか?」 「そうかもしれないな……」 「だからよ、オレと一緒に行こうぜ」 「しかし、なんで中国なんだ?」 「おめェのルーツってやつを探しに行くんじゃねェかよ。親父さんとおふくろさん、中国のなんとかってところで、いろいろあったんだろ?」 「あ、ああ……」 「それによ、劉のやつに案内させれば迷うこたぁねェし、ヤツに通訳もさせれば一石二鳥じゃねェか」 「オレたちはそれでもいいかもしれないが、京一はどうして中国なんだ?」 「へへっ、オレの剣の師匠が中国で修行したって言っててよ。オレもいつか行こうって思ってたんだよ。まぁ、物事にはついでってものがあるしな」  トントン拍子に進む話に、なんとなく置いて行かれた気になる。  しかし、あらためて考えてみると、悪くない話だ。……いや、それどころか今の自分にとってはこれ以上ない話かもしれない。 「それに、背中を任せられる仲間がいるってのも、心強いしな」 ――自分探しの旅か……  誰にも聞こえない声で小さくつぶやいて、青年はクスリと笑った。死語になりつつあるこのフレーズが、これほど自分にしっくりくる日が来ようとは、夢にも思わなかったのだ。 「なんか言ったか?」 「いや、なにも」  京一の不思議そうな声に、青年は軽い声で答えた。 「わかったよ」 「そうか! よし、それじゃさっさと準備しようぜ。善は急げってな!」  機嫌良く青年の肩をたたいて、京一は軽い足取りで歩き出した。 「さ、早く行こうぜ!」 「ああ……」  苦笑の混じった返事をしてから、青年は頭上を見上げた。  抜けるような青空を背景に、桜の花が数え切れないほど咲きこぼれていた。  急激に高まるエンジン音に、青年は現実に引き戻された。  窓の外に見えるエンジンからは、高温に熱せられた気体がすさまじい勢いで吹き出している。その向こうが、ゆがんで見えた。  たがが外れて機体が飛び出す。体がシートに押しつけられ、窓の外の景色が勢いよく後ろに流れ出した。  一瞬、時間が止まったように感じた。  空港の建物の上、フェンスに囲われた屋上に、人影が見える。 「美里……」  思わず、その名が漏れる。  隣に座っていた京一がぴくりと反応する。しかし、結局何も言ってこなかった。  その景色も後ろに流れ、小さな窓では、目で追うこともできなくなった。  やがて、浮遊感と共に不快な振動が消える。  かかる加速度のままに、体をシートに戻す。  窓の外の水平線が、斜めになって見えた。  轟音を残して、鋼の機体が飛翔する。  見る間に空高く昇っていき、巨大だったその機体も今ではもう小指の先ほどにも見えない。  陽光を受けて鈍く輝く機体は白い雲に飲まれ見えなくなり、遠雷に似た音を残していく。そしてそれもやがては聞こえなくなるだろう。  少女は、飛行機の去っていった方向を、いつまでも見送っていた。