「クラーク・ゲーブルさん(三八歳、ブラジル国軍特殊工作部隊所属)の気持ち                  〜戦士たちの霸者九十五年度版より愛をこめて」 「みんな、唐突だがちょっと聞いてくれ」  いきなりなにをいいだすのだあいつは。 「今度、俺は結婚することになったんだ」  は? なに? なんだって? 「もう一度だけいおう。おれは、今度の日曜日に、結婚することになったんだ」  な、なにぃ? あ、阿呆かあいつは。結婚だと?  俺たちが休憩時間中に談笑していると、奴は突然黒板の前にたって、宣言というか、発表というか、とにかくそんなことをやりだした。  いわなくてもわかるとは思うが、俺たちは半年後に卒業をひかえた高校生だ。 「で? 相手はだれなんだよ?」  俺と話をしていた級友が、からかい半分に声をかける。頭から信じてはいないようだ。ま、それが普通の反応だ。……一瞬でも信じそうになった自分が恥ずかしい。 「聞いて驚け、なんと……」  その名前を聞いたとき、俺は一瞬理解できなかった。  見合わせた級友たちの顔に、みるみる笑みが広がっていった。  それから教室に爆笑の渦が巻き起こった。 「く、あははは…、お、おまえ、よくそんなギャグが思いつくな。くくく……冗談もそこまで真顔でいわれると、わからなくなるよな」  みんなは笑っていたが、俺には笑えなかった。  冗談にも程がある。ここまでくると、もはや悪趣味とさえいえる。  奴がいったのは、『でぶごん』というセンスもひねりももない通称で呼ばれる、巨漢という言葉が──女に使うのは適切ではない言葉だが──しっくりとはまる女生徒だった。そんなあだ名を聞くだけでも、男子生徒にどんなふうに思われているか、簡単に想像がつくだろう。 「おい、おまえら、失礼だぞ。なんでそんなに笑うんだ。俺は真剣なんだぞ!」  奴は真顔でいった。  また、爆笑が起こった。今度は女子までもが大笑いしている。  笑いすぎて腹がよじれた奴までいる。そいつはひきつけをおこしかけていた。 「いいかげんにしろよ、おまえら……」  ぎろりと教室をにらみ回した奴の目はすわっていた。  他の者も、奴のただならぬ気配を察したらしい。いつの間にか、笑い声はまったくなくなっていた。隣の教室の話し声が聞こえるほどに。 「お、おまえ……、本気か?」 「ああ、本気だとも。本気と書いてマジだ」  俺は自分の耳を疑いつつも、口をポカンと開いて、阿呆面をさらしていた。 「お、おい、冗談なんだろ?」  俺のとなりの級友が、じっと奴と目をあわせてみつめていた。  ……と、奴の顔が徐々に歪んでいき、ついにはこらえきれずに吹き出してしまった。 「く、くくく、わははははは。……信じた? 信じた?」  は? 「なぁんだ、やっぱりな。そんなこったろーと思ったぜ。いくらなんでもそれはないよなぁ。それにしても、おまえうまいな。一瞬信じかけたぞ」  あれ? 「わははは、そうだろそうだろ。俺様の迫真の演技にびびりまくってたもんなぁ」  奴がこっちのほうに歩いて来た。教室は安堵のため息をつき、衝撃から立ち直って、それぞれの会話を再開し始めている。  俺の方を見ながら奴がいった。 「おまえ、マジで信じただろ?」 「え、あ、いや、その……、う、うるせいうるせい!」 「わははは、俺が『でぶごん』と結婚したら困るってか」 「なんだよそれ、どーいう意味かな? うん?」 「こーんな阿呆面してたからよ、ひょっとしてそーじゃないかって思っただけさ、わはは」 「おまえ、やることもいうことも悪趣味だな」  まわりの級友たちは俺たち二人のやり取りを、にやにやと笑ってみている。  そうこうしているうちにチャイムがなった。  皆が席に戻ろうとしているので、俺もそれにならう。  そこで奴が、俺にだけ聞こえるような声でささやいた。 「でもホントは好きなんだろ?」 「おう」 「へ?」  し、しまった〜! 「あくる日の、恥と理性、恋と恐怖の葛藤」  なんだよこれ〜!  僕は本屋で危うくそう叫びそうになった。  あまりにも恥ずかしいのだ。表紙のイラストが、だ。  お目々パッチリ、お星キラキラ、美少年と腕を組んで、とてつもなくうれしそうな少女の顔。いかにも「少女マンガです」というようなイラストだ。  断っておくが僕にはこんな趣味はない。マンガといえば少年マンガや青年マンガしか読まないのだ。  その僕がなぜ、そんなマンガを買わなければならないかというと、姉貴にたのまれたからだ。  僕が買う本を片手に、姉貴に渡された本のリストを見ながら探していた。そしたら、最後に探し当てたマンガがこれだった。  タイトルからして、イヤな予感はしてたんだ。  そのうえ、さらにやっかいな問題がある。  そんなに大きな本屋ではなかったし、いつものおやじさんだったら問題はなかった。  しかし、なぜかこの日に限って、知り合いの女の子が店番をしていたのだ。  彼女と僕は知り合ったばかりで、特に親しいというわけではない。だが僕も彼女も読書家だったおかげで、おもしろい本などの貸し借りをする程度の間柄にまでは、なんとかこぎつけることができた。  年齢は僕と同じぐらい、特に目をひくほどの美人ではないが、長い髪を結わえて肩から胸へたらし、そしてメガネがよく似合う、僕好みの女の子だ。  普段だったら、彼女が店番のときには喜んでいたのに。  よりによってこんな日に……  そうかといって、近くにある本屋は大型のチェーン店ばかりで、余計に恥ずかしい。  「姉貴にたのまれて…」というのも、いかにもすぎて、信じてもらえそうにない。  いつまでも少女マンガの前につったっているわけにもいかず、そんなことを考えながら、そのまま雑誌コーナーへ流れていった。  もっていた本は雑誌が積んであるところにおいておく。他に客もいないので、特に気にかけることもないだろう。ファミコン雑誌をぱらぱらめくりながらも、どうしようかと悩んでいた。  そんなふうにぐずぐずしていると、女子中学生らしきふたり連れが入ってきた。 「あ、これでてるやん。買わなあかん」 「え、これ買うてんの? おもしろい?」 「うん、まあまあ」 「ふーん」  そういって女子中学生がカウンターに置いた本は、僕が姉貴にたのまれた例の少女マンガだった。  そういえば、あのマンガはあと一冊しか残っていなかったはずだ。買うなら買うで、早くしないと売り切れてしまう。しかし心の中では抵抗が激しく、なかなかふんぎりがつかない。 「なんで買ってこなかったのよ! ちゃんとたのんだでしょう!」  唐突に頭の中で、姉貴の怒鳴り声が響いた。  売り切れを理由に買って帰らないことも考えたが、それだけはできない。  姉貴は、人を不愉快にさせる天才だ。姉貴を怒らせることは自殺行為に等しいのだ。  背すじに悪寒が走る。考えるだけでも恐ろしい。  僕は店内に他の客がいないことを確かめると、雑誌をおいて心をふるいたたせた。  そして例の少女マンガをとりあげると、僕がもっている本の束の一番下にいれた。心の中の抵抗の、ささやかなあらわれだ。  なにげないふうを装って、本をカウンターに置いた。 「いらっしゃい。どうしたの? ずいぶん悩んでたみたいだったけど」  彼女は僕にほほ笑みながらそういった。 「い、いや、なんでもないんだ」 「あ、この本買うの? 読み終わった貸してくれない?」  僕が買う本を手にとって彼女がいった。 「うん、別にいいけど。最近はこんなのも読むの?」  ちなみにこんなの呼ばわりされた本とは、ハードSFだ。 「そうなの。あなたに感化されちゃったのかもね」 「お、それは悪いことしたかな?」 「そんなことないわよ」  そういって微笑した彼女は、本の値段をレジにうちこんでいく。  悪くない雰囲気だ。これなら、例のマンガの件もさらりと流せそうだ。  ほほ笑んでいた彼女の顔が、一瞬ひきつったように見えた。  例のマンガだ。  そう思った僕は、本当のことをいった。 「あ、そ、それ、あ、姉貴にた、たのまれたんだ」  なんでどもるんだー! 「ほ、ほんとなんだよ」  だからどもるなっていってんだろー! 「ふーん」  うあああ! 「一五三〇円です」  僕はそれ以上は恥の上塗りになると思って、だまってお金を渡した。そして彼女の顔も見れずに、さしだされた本の包みを受け取った。  顔がひどくほてっている。たぶん、ゆでだこみたいに真っ赤になっているだろう。 「ありがとうございました」  彼女の冷ややかな声が、僕の胸につきささる。あるいは、僕がそう感じただけなのかもしれない。  僕はいたたまれなくなって、彼女の前から脱兎のごとく逃げ出した。  畜生! 一生恨んでやるぞ姉貴ぃ! 「きわめつけ」  俺の家には、間違い電話がよくかかってくる。  多い日には、三〇件近くもかかってきたことがあった。  大抵は、  プルルルル、プルルルル……  おっと、実際にかかってきたみたいだ。 「はい、高崎です」 「あ、大槻さんのお宅ですか?」 「いえ、ちがいます」 「……あ、すいません間違えました」  というオーソドックスタイプの間違い電話だ。オーソドックスとはいえ、これの多いこと多いこと。うちは大槻じゃねーっつーの。  ひょっとして大槻って家の電話番号は、俺ん家の電話番号とよく似てるのか?  しかし、小学校のときの同級生の電話番号は家と一字違いだったが、いまだにそこへかけたつもりの間違い電話は、そいつがこっちに引っ越ししてきてから十四、五年の間、一度もない。  ということは、どうもそれが理由ではないらしい。  謎だ。  で、次に多いのが、無言で切れるやつ。これがもう、むかつくむかつく。受話器を叩きつけたくなる。さすがに壊れるからやらないけど。かわりに電話に向かって悪態をついて、いきどおりを収めている。気が付いたら、最低限の礼儀も知らんのか! とかわめいていることがしょっちゅうだ。  あまりに多いので大学の友人たちに相談したら、対策法をいくつか教えてくれた。  そのうちのひとつは、電話番号を変えてしまうというもの。  ま、これはまともな対処法だ。ただ、金がかかるのが難点だな。貧乏の俺にはちょっときつい。  もうひとつのが、ちょっと強烈だ。ま、厳密に言うと対処法とは少し違うが。  どこかの本で読んだ、というやつなのだが、 「○○さんのお宅ですか?」 「はいそうですけど」 「××君はおられますか?」 「その人は死にました」  といってすぐに切ってしまうというもの。思わず笑ってしまった。  たしか、「いたずら百科」とか「いたずら読本」とかそんな名前だったような気がする。ぜんぜん違うかもしれない。  プルルルル、プルルルル……  おおっと、チャーンス。 「はい、高崎です」 「…………」 「もしもし?」  ……プッ、ツー、ツー、ツー…  ああ、もう、くそったれが! 最低限の礼儀も知らんのか!  いいかげん、受話器を取った瞬間に怒鳴りたくなってくる。  とはいっても、マンガみたいにタイミングよく知り合いや家族からかかってきた場合、さすがにまずいことになってしまう。  プルルルル、プルルルル……  ふーっ、またか。 「はい、高崎です」 「あ、中崎? あのな、明日の待ち合わせ時間だけどな……」 「あの……」 「おれ、ちょっと用事ができて……」 「あの!」 「え……、なに?」 「どちら様で?」 「は? なにいってんだよ、川野だよ!」 「えーと、うちは高崎なんだけど……」 「わかってるよ、ナカザキだろ?」 「いや、違うって、タカザキ……」 「わかってるって、しつこいなぁ。それで明日、一時間遅れるから」 「……」 「じゃあな」  ……プッ、ツー、ツー、ツー…  なんだったんだ今のは……  さすがに今みたいなのは初めてだ。  最期まで間違いだってことに気づいてねーでやんの。間違い電話もここまでくると、一種の爽快さがあるな。  プルルルル、プルルルル……  今度は誰だ? 「はい、高崎です」 「…………」 「もしもし?」 「……ハァ、ハァ……」 「……?」 「……ネェ、今、どんな色の、はいてるの?」 「……は?」 「……ハァ、ハァ…、だからさ、どんな色の、はいてるの?」 「……」  そのまま無言で、静かに受話器を戻す。  な、なんだ今のはー!  変態電話か!?  プルルルル、プルルルル……  ……まさか……  プルルルル、プルルルル……  リダイヤル機能装備?  プルルルル、プルルルル…… 「……はい、高崎です」 「……ネェ、今、どんな色の、はいてるの?」 「……あのさ、かけるところ、間違えてるんじゃないの? 俺、男だぜ?」 「……ハァ、ハァ……、だからさ、どんな色の、はいてるの?」  ぎゃあああ!  正真正銘の変態だあ!  もういい! ちょっとぐらい金がかかってもいいから、電話番号かえてやる! 「民話に関する考察」  雪山の天候は崩れやすいということをすっかり忘れていた。  視界のほとんどが横なぐりの吹雪でかき消されている。そのうえ日が落ちたらしく、山はすでに闇の中に没していた。  雅紀は不安で胸がしめつけられるような気分だった。  少しでも気を抜けば歯の根が合わなくなり、がちがちと鳴ってしまいそうになる。それを力づくでおさえつけ、むりやり気を奮い立たせようとする。  しかしそれも、吐き出す息すら凍りつかせようと吹きつけてくる容赦ない轟風の前には、むなしい努力にも思えてくる。  絶望に向かいかける気持ちを断ち切るように大きく息を吐き出すと、ゴーグルに張り付いた氷をストックの握りでこすり落とし、街に帰り着くことだけを考えて滑りだした。  吹雪はいっこうにやむ気配を見せず、視界はあいかわらず濃灰色に染まっている。  ……いったいどれだけの時間を滑っていたのだろうか。すでに感覚では一時間とも二時間とも思える。だが、こんな状況では一分が一時間に感じられるものだ。自分の感覚はあまりあてにならない。  いったん止まって、腕時計を確認した。  針は八時五六分を指していた。  いくら長く感じられるといっても、これはおかしい。最後に時計を見たのが八時前だったはずだ。ひかえめに見積もっても、一時間はたっているはずだ。  不思議に思ってよく見てみると、秒針が止まっていた。  突然、自分がたった一人でいるという現実が牙をむいて襲いかかってきたような錯覚を覚えた。  風と雪におおわれた山にたった一人……  全身に冷たい汗が吹き出し、ウェアの中に進入してきた風が容赦無く体温を奪っていく。  衿を立ててなんとか風の進入を止めようとするが、わずかな隙間からももぐりこんでくるため、それを閉め出す事は容易ではなかった。  一瞬、遠くの方に明かりが見えたような気がした。  目の錯覚かとも思ったが、どうもそうではなさそうだ。  吹雪にかき消されてほとんど見えないが、ごくまれに、光が風雪のわずかな隙間を通り抜けているらしい。  歓喜のさざ波が雅紀の胸の中にうちよせた。  広大な山の中にたった一人だったという孤独という状況からくる心細さと、そびえるようにそそりたつ巨大な山に対する恐怖に凍り付きそうになっていた胸が、やさしく暖められ、溶け出したように思えた。  気がついたときには明かりに向かって滑り出していた。斬りつけるような風雪もまったく気にならなかった。  滑っていくうちに明かりが近づいてきた。思ったより近くにあったようだった。  しかし近づくにつれ、雅紀の心の中に疑問符が飛び交い始めた。  建物が見えなかったのだ。いくら吹雪のむこう側にあったとしても、影ぐらいは見えてもよさそうなものだ。  明かりのそばに着いたとき、雅紀はそこに想外のものを認めた。  かまくらが雅紀のほうへ口を開けて鎮座していた。  確かに雪山にあってもおかしくはないものなのだが、雅紀の前にあるそれは異様な雰囲気を匂わせていた。周囲の状況に溶け合っていないというわけではない。たんに雅紀がそんなふうに感じていただけだ。  だからといってこれ以上進む気にもなれなかった。スキーの腕には多少なりとも自信はあるのだが、夜の雪山に関しては素人同然なのだ。そうでなくとも今までめくら滅法に走り回っていたのだ。たとえ、多少嫌な雰囲気だったとしても、これを見逃すのは愚か者の所業といえる。  入り口の前にしゃがみこんで中をのぞき込んでみた。  外に漏れ出す明かりとなっているのは、まんなかにすえられた七輪だった。  その奥に一人の女が座っていた。  その淡い橙の明かりに照らされた女の顔は、表情の一切が抜け落ちた蝋人形のように見えた。 「あの……、すいません。……入れてもらっても……いいですか……?」  女は反応しなかった。聞こえなかったのかと思ってもう一度口を開いたとき、女の目が雅紀の顔を認めた。  次の一瞬で、女の顔をあらゆる表情が走り抜けた。雅紀は目をしばたいてもう一度女の顔を見つめ直した。そこにはやさしい微笑が浮かんでいた。  やはり目の錯覚か、火の揺らぎが女の顔に影を落としたのだろう。吹雪の中を走り回ったせいで、疲れているのかもしれない。一瞬とはいえ、女の顔に不気味な狂人の笑みが見えるなどとは…… 「……ええ、どうぞ……、どうぞ」  女のかすれた返事が聞こえてきたときには、雅紀はすでにスキーとストックを入り口のわきに並べて立て掛けていた。  中に入ろうとしたとき、異様なほどの違和感を覚えた。雅紀はそれ以上入るのをためらい、半分入った状態でしゃがみこんだ。  女の顔が引きつった、ように見えた。 「……どう、したの? ……もっと、中へおいでよ……。そこじゃ、寒いでしょう……? 中へ入れば、風も冷気も入ってこないわ……」  女はスキー用のウェアを着ていた。手元にゴーグルと手袋がある。足にはしっかりスキー用の靴を履いている。  凍りつきかけていた頭が七輪の火に暖められ、溶けてなんとか動いた。  女の体がいつでも動き出せるよう、そして雅紀にそれと悟られないよう巧みに体をずらして体勢を整えたのを認めたとき、すべてに合点がいった。外には一組しか、スキーはないのだ。  恐ろしいことに、女のいった通り、中には風や冷気が入ってこれないらしい。中に入りきってない後頭部には痛いほど風雪が吹き付けてくるのに、耳から顔にかけては一切の風を感じなかった。  雅紀はにやりと顔を歪ませた。 「なるほどな。まさかこんなことが現実にあるとは思ってもみなかったよ。昔話の中だけかと思ってたよ」  女の顔が歪み、目には異様な光が宿った。 「いつからここにいるんだい?」  雅紀がいつでも外に出られるように体勢を整えていることを認めた女は、あきらめたのか体から力が抜けたようだった。 「……さあ、いつのころかしらね…。最後に覚えているのは、そうね……、ゲレンデに出る前に見たカレンダーは、たしか……、九一年の三月だったように思うわ……。最初の二十日ぐらいまでは数えてたんだけど……」  随分長い間声を出していなかったのだろう、女の声はかすれて聞き取りにくかった。 「今日は九六年の一月六日だよ。五年近くもここにいたのか……。食べ物は?」 「……さあ? なにも食べてないわ。ここにいるとおなかもすかないのよ……」 「……、……寂しかっただろう?」  雅紀は自分の口から出た言葉に、自分で驚いていた。  自分を陥れようとしていた女だ。憎みこそすれ思いやることなど、自分の心のことにもかかわらず、頭の中をかすめることさえなかったことだ。  女ですらそんな言葉をかけられるとは思っていなかったらしい。雅紀の顔を凝視していた視線をふっとはずすと、自嘲ともとれる陰鬱な笑みを浮かべた。 「そうね、最初はそうだったけど、次第になにも考えなくなっていったわ。頭の中は真っ白に、……真っ黒かな? とにかく、頭に入ってくるのは七輪の小さな火だけ……。寝てるのか起きてるのか自分でもわからなくなって……」 「出たいか? ここから」  自分の口からいっているとは思えないような言葉を聞きながら、冷静な部分で自分を客観的に評価してみる。どうやら、自分はこの女にひかれているらしい。  あらためて女を見てみる。今までは陰気な表情と明かりのせいでよく見えなかったが、まだ若く、二十前後のようだ。それに美人の部類に入る。笑わせるとけっこう男の目をひくタイプだ。  女はしばらく雅紀の顔をのぞき込むように見入っていたが、突然弾かれたように笑い声を上げた。 「……、わたしの体がほしいの?」 「端的にいうとそうなるかな」 「いいわよ、別に」  女は妖艶な笑みを浮かべながら、ウェアを脱ぎ出した。  雅紀はさえぎるように言葉を吐く。 「まあ、まてよ。そうじゃなくてさ、……いやまあ、ここで一晩一緒に過ごすことには変わりないんだけどさ、……賭けをしようってことさ」  脱ごうとした手を止めて、女は雅紀の顔を不思議そうな目で見る。 「賭けるものは、互いの体。君が勝ったら、賞品は外に出られる権利。俺が勝ったら、俺と付き合ってくれ」  女はぽかんとした表情で雅紀をみている。 「……まあ、いい。とりあえず、逃げないで一緒に一晩いてくれたら、それでいいか。今俺のいったことがわからなくても、あしたの朝になればわかると思うから」  そういうと雅紀は、かまくらの中に入って、女の横に腰を落ち着けると、なにをいっているのかわからないという顔をしている女を引き寄せた。  なにかにひびが入る音が聞こえた。  さらに続けて何度か同じ音が聞こえた。  雅紀はその音を聞いて徐々に覚醒してきたが、いまひとつ頭の中の霧は晴れない。右半身に暖かい重みを感じて右手でまさぐってみた。  女が吐息をついた。  いくぶんか安心して、もう一度寝ようと思ったとき、冷気が流れ込んでくるのを感じた。昨晩は一度も感じなかった冷気が。  鳥肌が立つ腕をさすりながら、小さな入り口から外をみてみると、青空が見えた。  頭の中の霧が一気に吹き飛んだ。 「…おい、おい! 起きろよ! 外に出られるぜ!」  女の体を揺さぶる。女は目を覚ましたが、頭のほうはいまだ寝ているようだ。  雅紀は急いでウェアをきると、寝ぼけ眼の女にもウェアを着せ、外にほうり出した。雅紀も外に出ようとしたとき、七輪が割れているのが目に入った。  外では女が放心した目できょろきょろとあたりを見回していた。いまだ半信半疑の様子だ。外に出た雅紀を見つけると、目に涙を浮かべて首根っこにかじりついてきた。 「おいおい、喜ぶのは街についてからにしてくれよ」  女をなんとかなだめすかし、スキーを履いて女を背負う。そんな不安定な状態でスピードを出す訳にもいかないので、ボーゲンでのろのろと下り始めた。 「ねえ、どうしてわかったの?」 「ああ、昔話だとさ、中にいるのは一人だけだろ? 入れ替わるときにしたって、せいぜい一〇分か十五分ぐらいだ。だからひょっとしたら、二人も閉じ込めておけるほど許容量は大きくないんじゃないかなと思ったのさ」  女は返事をするかわりに、ほおを押し付けてきた。どうやら寝てしまったらしい。  雅紀は女のほおの感触で納得がいった。みずみずしさが失われて、肉がそげてきている。頬骨がぶつかって、少しいたかった。  女の規則正しい寝息が聞こえてきた。  無理もない。切り離され独立した空間で五年間もの長い時間を過ごしたのだ。もとの時間流に戻されたとき、体に巨大な負荷がかかるのだ。  SFを好む雅紀は、自然とそんなふうに納得できた。それでいくぶんか安心できた。しかし焦る気持ちをおさえるのにも苦労した。あまり焦りすぎて事故をおこすのも危険だった。早く病院へ入れてやらなければという焦りと、これからの女との生活への甘い期待で、奇妙な気分だった。  昨日とはうってかわって、白い山は青空にはえ、下っていく二人を静かに、いつまでも見下ろしていた。 「悲惨な災難」  ようやく着いた。  僕と奈美の目の前にそびえる古びた洋館は、とても魅力的に見えた。  これは僕のひいおじいさんが所有していた館で、誰もほしがるものもいないまま、放置されていたものだ。  僕たちふたりは、ここでたったふたりだけの式を挙げようと考えている。ごく親しい友人だけを集めて小さなパーティーを開くことも考えたが、奈美がふたりだけのほうがロマンティックでいい、というものだからこういうことになった。友人たちには申し訳ないが、あとで手紙をだすことにした。  この洋館は山の中腹にあり、遠くから見ても近くから見てもとても見栄えがいい。  僕たちは車から降りると、さびかけた鉄の門を押し開け、敷地の中に踏み込んだ。  庭と言うには少々大きいほどの敷地には、無節操に多種多様な野花が咲き乱れていて、僕たちは少しの間見とれてしまった。  僕たちは花の名前の当てっこをしてはしゃぎながら、玄関にむかった。  玄関の扉は重厚な感じがする木製の両開きの扉で、両方に獅子の頭をあしらった凝った作りのノッカーがついていた。  僕はポケットから古ぼけた鍵を取り出して鍵を開けた。その音がまたイイカンジで、とても雰囲気をだしている。そのうえ扉のチョウツガイがさびていたらしく、館中に響くかと思えるほど大きな音をたてた。  奈美はイイカンジ、と喜んでいた。僕も一緒になって喜びたかったが、その音を聞くとなぜか背中に悪寒が走ってしまった。  そうだ。昔、ちょうどこんな感じの洋館を舞台にしたホラーゲームがあった。  そんなことを思い出すと、今までのはしゃぎたくなるような気持ちも、一気に失せてしまった。  なにかいやな予感がする。  それとも、雰囲気に呑まれて不安になっているだけだろうか?  奈美にせかされて、屋内に足を踏み入れた。  そこは大きなホールになっていて、正面に二階にあがる階段がついている。  古びた赤い絨毯が敷いてあって、ホテル業魔殿みたいだ。  執事が出てくれば完璧、といった感じがする。  とりあえず隣の部屋の扉を開けてみた奈美が僕を手招きしている。いってみると、その部屋は応接室みたいだった。  中央に木製の机が置かれ、それを取り囲むようにソファーが並べられてある。奥の壁には煉瓦造りの暖炉があり、左の壁には中世の剣が×字にかけてあって、その前には騎士の鎧が立ててあった。  奈美がこの鎧の前で式を挙げようと言いだした。僕はあいまいにうなずいた。  ところが奈美は僕の反応も無視して、その鎧を見ながらうっとりとしていた。式を挙げているところを想像して、悦に入っているみたいだ。  その様子からすると、なにも感じていないようだ。奈美が鈍感なのか、それとも僕がびびっているだけなのだろうか?  まあいい、奈美がなにも感じないのなら、僕の思い過ごしなのだろう。とっとと式を挙げてしまおう。  用意をして、といっても着替えるぐらいでそんなにすることはないのだが。  で、ふたりで鎧の前に立つ。  僕は奈美をみつめて、生涯を誓うのだが、これがまた背筋がかゆくなるようなことを言わなければならない。しかし、奈美は恥ずかしそうな、それでいてとてもうれしい表情で聞いている。まあ、ここは奈美のために我慢だ。  誓いの言葉が終わった。次は誓いの接吻だ。  僕は奈美を引き寄せ、その目をのぞき込む。奈美は涙を浮かべながらほほ笑んでいる。僕がほほ笑み返すと、奈美は目を閉じた。僕も目を閉じて顔を近づけていく……  ああ、僕はこの瞬間に……、ってあれ? 冷たい?  不思議に思って目を開けてみると、僕の顔と奈美の顔の間に剣があった。  ああ、もう邪魔だな、などと思いつつ払いのけた。再び目を閉じて、目を閉じたまま待っている奈美に顔を近づけていく。  さあ今度こそ、と思いきや、僕は脇腹に強い衝撃を受けて吹っ飛んだ。  な、なんだ?  さすがにこれには奈美も気づいたらしく、ポカンとした表情で僕と鎧を見比べている。  そうなのだ、鎧が僕に蹴りを食らわせたのだ。 「ああもう、畜生!」  僕と奈美はあぜんとして、鎧を見守る。 「なんで俺の前でいちゃつくんだよぉ!」 「……な、な、なんなんだ?」 「て、てめえ! ちょっと俺が、結婚に失敗したからって、見せつけなくてもいいじゃねえかよぉぅ!」 「そ、そんなこと言われたって……、こんなとこに人がいるなんて思わなかったし……」 「……ねえ、失敗って、何?」 「……俺はなぁ、俺はなぁ、結婚式の日に、レイプされちまったんだよぉぅ」 「はー、そりゃぁお気の毒に……、相手の人はさぞ嘆かれたことでしょう……しかし、それは事故だったのですから、許してあげたらよかったのに……」 「……え?」 「いや、だから……」 「そうじゃねー! ……俺が、されちまったんだよぉ!」 「え」 「それで相手が、そんなことじゃ、わたしのことも守れないじゃない、とかいって逃げちまってよぉ……」  鎧はがっくりとひざをついて、四つん這いに泣き崩れた。 「……う、あ、ああ、それはそれはお気の毒に……まあそんなに気を落とさないで、なにもその人だけが女の人じゃないんだし……」  鎧はばっと顔を挙げて、しげしげと僕の顔をみた。  ……なんか、いやな雰囲気…… 「……おまえ、いい奴だな……」 「……え、い、いや、そうでもないけど……」  鎧が兜の面当てを上げると、ごつい男の顔がでてきた。  その目は、今さっき、どこかで見た目だ。  そうだ。奈美の目と同じような輝き方をしている。……ただし、男の顔についているぶん、鳥肌がたつほど気持ち悪いが。 「……ちょ、ちょっと?」  鎧の男がすっくと立ち上がった。  僕はいやな予感がして、奈美の手を握った。……いつでも逃げ出せるように。 「……なあ、俺、あんたに……」 「いやああああ! それ以上は言うなあああ!」  僕はそう叫んで、奈美の手を引いて走りだした。 「ま、まってくれ!」 「いやじゃあ!」  鎧の男はさすがに動きがにぶくて、追いつかれる前に車を出すことができた。 「お、俺の気持ちをうけとってくれ!」  絶対にいやじゃああ!