道教と仙学 まえがき
まえがき
古代の中国の伝統文化は、儒教・道教・仏教が主流だった。その中の仏教はインドで生まれ、漢の時代に 中国へ伝わった。東晋以後、中国の文化は儒教・道教・仏教の三教が鼎立した。仏教は外来文化であり、中国に入ってきたばかりの時には 中国固有の神仙方術に従属し、その教理も老荘の道家哲学によって解釈した。それは実際には道家と道教によって中国に受け入れられた が、唐代になると完全に中国の伝統文化と一体となり中国的仏教になった。儒家文化は、漢代からずっと統治する側の位置にあって中国の 家長制の皇権政治を維持する精神的な柱だった。これは封建宗法専制社会という中国の特殊な国情によるものである。道家と道教文化は中 国の伝統文化の源泉であり中国の伝統的な哲学の要素の一つである。それは、ある意味では中国人の英知の結晶であるとも言える。中国に は数千年にわたって人々の心に大きな影響を与えた書が3つある。《易経》、《論語》、《道徳経》である。《易経》は夏・商・周の時代 の原始宗教が残したものであり、その中に古い巫史文化の形跡を見ることができる。《論語》は儒家の祖師孔丘の教えを伝えるものであ り、その中には周代の父権宗法社会の礼教の特徴が見られる。《道徳経》は周代の史官老聃が著した道家と道教の典籍であり、中国の最も 古い母系氏族社会の原始宗教の伝統を受け継いでいる。六朝の《劉子・九流》は次のように述べられている。「道は玄と化すことを本と し、儒は徳を教えることを宗とする。九流の中では、二化が最上である。その道は無為によって世を化し、儒は六芸によって俗を救う。無 為は清く虚ろであることが心であり、六芸は礼教によって教え導く」。「今、治世の賢は礼教を先とするべきであり、嘉遁の士は無為に努 めるべきである。そうすれば、操と業のどちらも成し遂げ、そして身と名の両方を全うするのである」。これは、中国の数千年にわたる封 建社会の中で、統治者が儒家によって権威を保ち、道家によって変革を実現したことを説明している。儒によって教化を行い、道によって 巧みに人を欺いたのである。そして、知識階級の人々は儒家の学業によって向上しようと努力し、道家の技術によって身を全うした。彼ら は儒によって官位を求め、道によって俗から脱した。いわゆる「内聖外王」の道は、内道外儒とほとんど同じことである。伝統文化のう ち、仏教の専門は世を離れることであり、儒家の専門は世を管理することであり、道家の専門は世を超越することである。中国の伝統文化 は、儒・道・釈の三家が互いに対立し互いに補足しあう文化である。
道家は哲学であり、道教は宗教であるが、両者には本質的なつながりがある。南朝の梁代の劉勰の《滅惑 論》は、
道家は法を立てれば、その品に三あり。上は老子をしるし、次は神仙を述べ、下は張陵をつぐ。 (《弘明集》卷八)
と述べている。
また、北周の道安の《二教論》も道教を評論し、
一は老子の無為、二は神仙の餌服、三は符籙の禁厭。(《広弘明集》卷八)
と述べている。
つまり、道教が形成された後、道士たちは道家哲学を宗教化・方術化して道教の体系の中に取り入れ、道 家哲学を道教の崇高な部分にしたのである。本来、哲学思想のない宗教が成立することは難しく、宗教化した道家哲学が道教の体系の理論 的な柱になったのである。長生成仙は道教の修練の根本的な目標であり、古い仙学は道教と密接に関係していた。中国道教協会の前会長の 陳攖寧氏は、仙学は儒教・道教・仏教の三教を越えた学問であると考え、仙学の内容を外丹学と内丹学(彼は内丹養生学を主要な仙学とし た)に分けた。実際、道教が成立すると、仙学は道教によって主に伝えられ、仙学は神仙道教の主要な内容になった。これらのことから も、中国の伝統文化における道教と仙学の位置がはっきりわかる。
古代の西方の社会の人々が成仙の思想を生み出すことは難しかった。しかし、中国の社会では、知識人が 人の生を看破し、数千年もの間この課題と取り組んだ。仙学は間違いなく道教文化の中で最も価値のある内容であり、大自然の本性と合致 した仙人の境界も人の生の価値が具体化したものである。唐代の大詩人李白は、このような仙人の境界を知り、詩を作った。
余に問う何の意か碧山に棲むと、笑って答えず心自ずから閑なり。
桃花の流水はよう然として去り、別に天地の人間に非ざる有り。
清代の内丹仙学の大家劉一明は身をもってこれを理解していた。
心は白雲に似て常に自在、形は野の鶴と同じく西東に任す。
出頭しすなわち人情の幻を悟り、開眼しすなわち世事の空を知る。
数は図書に達し妙理に参り、琴は気息を調え屯蒙を養う。
丹台の羽客は天生に就き、塵寰にありて大功を記すを疑う。
道教や仙学とは結局どのようなもので、道教の仙人の境界にはどのような優れた点があるのか。この書 は、道教の歴史と現状、内丹仙学の流派や具体的な修練方法について真剣に探究している。