道教と仙学 第2章

 

4、南北朝の道教の改革と成熟

 

 

 東晋後期から南北朝にかけて、全国的に道教の改革が進んだ。新しい道派が次々に現れ、中国道教は著しく発展した。北朝の寇謙之は太上 老君の命に仮託して道教を整理し、新天師道を建てた。彼は漢朝の制度を模倣した早期の天師道の形態を改変して封建政権との関係を調整し、 天師道を教会式の宮観道教に移行させた。南朝の陸修静と陶弘景は、先の天師道の改革を受けて三洞経書をまとめ上げ、霊宝派と上清派を教会 式宮観道教へ成熟させた。

 

 (1) 寇謙之の天師道の改革

 寇謙之(365~448年)は関中馮翊の士族の家庭に生まれた。天師道の世家の子弟でもあり、早くから道を慕い、長生術を修行してい た。姚秦の時に仙人の成公興に付いて崇山に入って修練し、石室に隠れ住み、服食採薬をしていた。記録によると、7年後に成公興は尸解して 昇天したが、寇謙之はたゆまず修行を続けた。姚秦の弘始十七年(415年)、その真摯さに打たれた太上老君が山頂に現れ、寇謙之に天師の 位を授け《雲中音誦新科之戒》二十巻を賜った。太上老君は「私を広く知らしめ規律を新たにして、道教を整理し、三張偽法・租米銭税および 男女合気の術を除去せよ。大いなる道は清く虚ろであるのに、どうしてこのような事があるだろうか。礼を意に介すことを第一とし、そしてこ れに服食閉煉を加えよ」(《魏書・釈老志》)と彼に命じた。寇謙之が老君から授かった《雲中音誦新科之戒》は、現在の《道蔵》の《老君音 誦戒経》であるが、現存しているのは一巻だけである。寇謙之はこれによって大々的に天師道を改革した。天師道の道官の世襲制を廃し、「才 能のある者を選んで隠さず教える」という師弟制を採用した。教えを守っていくという世襲制の長所を留めながら、教主・道官の子孫が愚劣に なって「道の教えが曖昧になっていく」弊害を避けようとした。また、彼は北方で道官が依然として用いていた蜀土二十四治の号の旧例を廃止 し、道官や祭酒が任意に人から金銀財貨を取り、非現実的な規定が氾濫し、図書や仙方を偽造するといった混乱状態を改善した。彼は、天師道 を神仙道教に沿って発展させた。寇謙之が新しい教義の中で最も重視したことは道戒を奉じ守ることだった。彼は道教の戒律を増やし、天師道 の道戒と儒家の倫理規範を一つにしたが、これは朝廷が封建制度の秩序を維持していくための道具となった。そのほか、寇謙之は、無闇に房中 術を伝え教団の気風が淫猥になることを防止し、斎礼拝などの宗教活動を強化するために礼儀手順を詳細に規定した。これによって天師道の 宗教性は向上した。

 天師道の改革が順調に進みだした北魏の明元帝泰常八年(423年)に、老君の玄孫の牧土上師李譜文が寇謙之の真摯さに打たれて崇岳に 現れた。彼は寇謙之を仙人に名を列ねさせて《図録真経》六十余巻を授け、北方太平真君に彼を輔佐させた。寇謙之は《図録真経》(今はすで に散逸)の中で道教の神仙の系譜を新たに編纂し、諸神の壇位・衣冠・礼拝儀式にも格付けをした。これは実際には世俗の士族の階級制を神仙 の世界に投影し、道教の倫理に封建制度の倫理を持ち込んだものである。また、彼は「劫運」説などの仏教思想も取り入れ、予言を行い、道教 の国教化を推進した。彼は天師道の財源を変え、三張の「租米銭税」制度を廃し、士族や朝廷の援助によって道館を建てた。朝廷の命令によっ て館戸(つまり道館で労役に服する隷戸)に「道正」を設け、道教は政府によって管理されるようになった。道館は、北方では観とも呼ばれ、 大きいものは宮と呼ばれた。道士は最初は山洞のそばに家屋を建てたが、のちに都市にも道観を建て、南北朝の時代には「館舎が林や薮のあち こちにある」といった状態になった。これは後世に教会式の宮観道教に発展していった。

 寇謙之は天師道を国教にするために「帝王の師になる」ことを考え、《図録真経》を携えて下山し、新しく即位した魏の太武帝の拓跋焘に 身を寄せた。はじめのうちは太武帝は寇謙之を重視せず、朝廷や在野の士族たちもその言葉に対して半信半疑だった。儒学の世家の出身で官僚 だった崔浩が寇謙之と交わりを結ぶようになると、崔浩は皇帝に寇謙之を推薦した。《図録真経》を神聖化することは、中原の支配者になると いう拓跋焘の野心に迎合していたので、拓跋焘は寇天師を崇めるようになった。天師道の道場が首都の東南に建てられ、《図録真経》は広く 人々に知られるようになり、寇天師によって新しい道教が盛んになった。魏の太武帝は大夏に兵を進めようとしたが(423年)、北方を統一 する戦争に対して軍の指揮者はおじけづいてなかなか同意しなかった。しかし、寇謙之は太武帝に「必ず勝つ」と予言したので、魏の太武帝は 自信を持って鮮卑の騎兵を率いて次々と大夏・北燕・仇池などを滅ぼした。これによって北方は統一され、五胡十六国の争乱は終結した。戦争 中には崔浩と寇謙之は軍に随行して功を立てた。北魏の拓跋焘は鮮卑が黄帝の子孫であると称して積極的に漢文化を学び、世家大族の漢人を登 用し、天師道を発展させた。西暦440年、寇謙之は拓跋焘のために福を祈り、高潔なものを感じて「太平真君」の号を授け、年号を太平真君 元年と改めさせた。また、太武帝は天師道の儀式に従って道壇で道教の符籙を受けた。寇謙之以後の天師道は道士に対する受籙の儀式を非常に 重視し、「籙」は道士の証明書となった。弟子は受籙の前にまず道教の戒律や護符などを受け、それから正式な天師道徒になることができた。 これ以後、天師道は北魏で盛んになった。皇帝が即位する時に道教の符籙を受けることも定例となり、元始天尊や諸々の神像も奉じられるよう になった。かくして、天師道は北方の上層社会でその地位を強固なものにした。

 

 (2) 魏の太武帝の滅仏と北方天師道の衰退

 道教が盛んになると、仏教との対立が激しくなった。もともと仏教は中国では方仙道の神仙の学を借りて布教していた。魏・晋や南北朝の 時代には、北方の仏教は神仙道教に付き従い、南方の仏教は玄学に付き従っていた。仏図澄などは教えを伝える一方で、咒を唱えて鬼を駆るこ ともでき、法術占験を行って神僧と号していたので、実際には神仙道士と同じようなものだった。その後、仏教経典が大量に翻訳され、各地に 高僧が増えていくと、次第に仏教の本来のありようが人々に知られるようになった。北方に五胡が入り乱れると、仏教は少数民族にも伝えられ た。後趙の時には、石虎が仏図澄に心酔し、積極的に仏教を推奨したので、多くの漢人が出家し、寺院が国内のあちこちに建てられた。石虎な どの少数民族の国主が仏教を信奉したのは、仏教を借りて漢文化に対抗しようという心理があったからでもある。彼らは「朕はもともと漢人で はないし、仏は漢人の神ではない」と考えていたので、仏を崇めるようになったのも自然な成り行きだった。仏教が盛んになると、それは北方 で漢文化を代表する儒学の世家のねたみを買うこととなった。崔浩は儒学の士族の出身でったので、仏教のような優れた異文化を非常に憎悪し た。魏の太武帝拓跋焘ははじめは仏教を悪くは思っていなかった。しかし、のちに寇謙之と崔浩に影響されて誠実に道教を信奉するようにな り、また北方を統一する戦争では割拠政権を助ける僧侶と何度も敵対したので、次第に仏教を嫌悪するようになった。崔浩は機会をつかんで仏 教を滅ぼすよう太武帝をそそのかし、太武帝は太平真君七年(446年)に仏教を滅ぼせという命令を下した。魏の太武帝は中原の支配者とな るために、漢文化を崇め、鮮卑族が黄帝の正当な子孫であると考えるようになった。彼が、「朕は異民族ではなく、異民族の神を事としない」 と天下にアピールするために仏教を滅ぼそうとしたことも自然な成り行きだった。

 仏教を弾圧したことは仏教を信奉する鮮卑の貴族の反発を招き、拓跋氏の政権内部の対立が激しくなった。寇謙之は僧侶を虐殺することに は賛成しなかった。彼は死ぬ前に天師道がやがて政治闘争のあおりで衰退していくことを予測していた。寇謙之の死後、崔浩は鮮卑の貴族の反 発から死刑にされた。ほどなく、西暦452年には太武帝も殺された。後世の皇帝はみんな才知があり仏教を信奉したので、天師道は衰退して いった。特に北斉の文宣帝高洋の時には、天保六年(555年)に道教を廃止する命令が下され、寇謙之の天師道教団は断絶してしまった。

 

 (3) 陸修静が道教を広める

 陸修静(406~477年)は、字を元徳といい、呉興東遷(今の浙江省呉興)の人であり、江南の著名な士族の呉郡の陸氏の出身で、東 呉の丞相の陸凱の子孫である。神仙道教をあまり慕わなかったが、真面目に修行を積んでいた。名山仙洞を訪ね歩き、道書を捜し求め、元嘉の 終わり(453年)には宋の文帝に招かれ、評判になったが、のちに朝廷の動乱によって廬山へ去り、隠居して修行した。宋の明帝泰始三年 (467年)には再び皇帝の命令を受けて崇虚館で道書を整理し道教を広めた。陸修静は葛洪以来の道教学者であり、一生の間に多くの著述を 残し、道教の発展に非常に貢献した。

 1、三洞経書を総括し、道教典籍を整理した。

 晋宋の頃には、三皇派・霊宝派・上清派の経典が増加し、真作と偽作が入り混じり、その優劣も様々だった。道教の歴史を考察してみる と、仏教の影響によって道教が発展したということがよくある。東晋南北朝の道士たちが盛んに道教経典を著したのも、その当時、仏教経典が どんどん翻訳されていったことと関係がある(梁の武帝の時に翻訳された仏教経典はすでに5400巻に達していた)。道教経典は急激に増 え、早急にそれらを整理する必要があった。陸修静は崇虚館に留まっている間に朝廷の収蔵する楊羲・許謐による《上清経》を手に入れ、《三 皇経》・《霊宝経》の道書も収集した。彼は、最初にそれを三洞(洞真部・洞玄部・洞神部)に分類し、「三洞の弟子」と自称して《三洞経書 目録》を編纂した。陸修静は洞真上清経・洞玄霊宝経・洞神三皇経の源流を考察し、文章を添削して条理を選別しただけでなく、経典の伝授の 仕方も完成させ、それによって道教の宗教性を向上させた。梁のはじめに、孟智周法師が顕した《玉緯七部経書目》は陸修静の道書の分類方法 を継承し、三洞のほかに四輔(太玄部輔洞真・太平部輔洞玄・太清部輔洞神・正一部総輔三洞)を加え、道書を「三洞四輔十二類」に分類して いる。その分類方法は、現在でも用いられている。道書の整理と分類は道教の歴史の中では大事なことであり、道教の発展に大きく影響した。

 2、仏教の宗教形態を取り入れ、道教の戒規科儀を制定した。

 仏教は非常に整った宗教形態を持つ宗教であり、中国の民族宗教に対して一つの模範を示した。中国道教がその宗教性を向上させていくに は、仏教の宗教形態を取り入れ漢民族の文化に適合させなければならなかったが、この過程は南北朝の時代に完成した。陸修静は《霊宝経》の 中に仏教の三世輪廻・因果応報の説を取り入れ、徳を積み善を行うことや世の中の人々を救うことを強調した。《霊宝度人経》などの多くの道 書に因縁業報・輪廻五道・天堂[天国]地獄などが書かれ、多くの仏教用語が取り入れられた。そのほか、《老君説一百八十戒》および五戒・ 八戒・二十七戒などは仏教の戒律とも似通っている。経典によって元始天尊あるいは太上老君が説法しているが、戒律の内容は儒家の「三綱五 常」などの礼教規範と一致している。世の中の人々に善を勧めるという社会倫理思想がはっきり現れてきたことは中国の道教思想の大きな変化 であり、道教が次第に成熟していった印である。また、陸修静は道教に多くの斎儀式を制定し、道教の科儀を充実させた。陸修静は斎儀に よって道士の身・口・心の「三業」をコントロールすることを考えた。彼は、身で礼拝し、口で経を読み、心で神を思い、身・口・心をすべて 道に帰すことができれば、内外に侵略者が入り込むことはないと考えた。彼は天師道・上清・霊宝の諸派の斎法を総合した。霊宝斎の「有為」 を主旨とする金籙・黄籙・明真・三元・八節・自然などの斎法に、三皇斎・指教斎・塗炭斎法などの古い斎法と無為を主旨とする上清斎の坐 忘・心斎の二法を加え、「九斎十二法」と称した。かくして、斎儀は道士の伝経受戒や日常の修行、祭日の課業となり、彼らが社会の中で祈祷 したり済度する法事や布教するための宗教活動ともなった。道教の宗教活動が規範化したことは明らかに道教が成熟していった印である。

 3、経籙派道教を改革・融合し、道館制度を発展させた。

 陸修静の時代には、南朝の天師道の祭酒制度も北朝と同じように非常に混乱していた。陸修静は一度は《陸先生道門科略》を著し、三張の 旧法によって天師道を整理しようとしたが、あまり効果は上がらなかった。その後、彼は朝廷の崇虚館に身を置き、全国の道教の指導者の立場 になった。彼は南朝の孫恩の反乱が失敗に終わったことで民間天師道が衰退し、士族の神仙道教の天師道が発展した事実や、符籙道教に属する 天師道の特性を考え合わせ、彼自身の威信や著述によって上層の天師道と南方で盛んに伝えられた経籙派道教(三皇派・霊宝派・上清派)を一 つに融合させた。また、修行の順序を区分し、体系だった段階に従って修行する経籙派道教を生み出した。この陸修静の道教の改革は道教の歴 史の中で大事なことであるが、先人たちはこのことについてほとんど論述していない。陸修静の改革以降、天師道はその経籙から正一派(張道 陵の《正一盟威》という道書に由来する)の経籙派道教に区分され、その派内に正一弟子(あるいは盟威弟子)・正一道士・正一法師(もとの 天師道の祭酒)などの階級が設けられた。正一派は経籙派道教の中では最も低い位置に置かれた。道教に入門すると、最初に正一弟子となって 正一派の経籙を受け、それから順々に三皇弟子・霊宝弟子となり、最後に最も高度な上清派の経籙を授かった。陸修静の修行する斎儀は、正一 派の指教斎・塗炭斎に三皇斎・霊宝斎・上清斎を融合させ、階層的に区別している。三洞経籙を融合し体系だててクラス分けしたことは後世の 道教に大きな影響を与えた。この改革は唐代の道階や経籙の授受制度、あるいは明代に正一派が三山符籙(竜虎山正一派・茅山上清派・閤 山 霊宝派)を統一していく手本になった。そのほか、陸修静は南朝の士族の天師道が静室や道館を設けて宗教活動を行っていた現状を踏まえ、道 館制度を推し進めて宗教の組織形態を成熟させた。この道館は昔の天師道の道治とは違い、その経済的な財源は信徒から集める米ではなく、官 僚貴族の布施、朝廷からの勅賜や免役、直轄の田畑や建物などによった。道士は道階に従って道館内で宗教活動を行ったが、これは仏教の寺院 制度とほぼ同じものだった。このようにして、教会式の宮観道教が形成されていった。

 陸修静は崇虚館を主宰していた時、朝廷から非常に尊敬されていた。また泰始七年(471年)に明帝のために三元露斎を建てると、堂の 前に黄気が天に昇り、明帝の病気が癒えたので、大変な吉祥であると思われた。「先生は大いに法門を開き、奥深いものを取り扱い、朝廷も在 野も気を配り、道士も世俗も帰心する。道教は興こり、ここで盛んになった」と言われ、道教の盛況ぶりは大変なものだった。陸修静は元徽五 年(477年)に世を去った。おくりなは「簡寂先生」である。その有名な弟子には、孫游岳・李果之などがいた。南朝の優れた道士には、顧 歓・孟景翼・宋文明・褚伯玉・劉法先などがいて、みんな道教の発展に貢献した。その中で最も有名な者は孫游岳の弟子の陶弘景である。

 

 (4) 陶弘景の創立した茅山宗

 陶弘景(456~536年)は、字を通明といい、丹陽秣陵(今の江蘇省南京)の人で、士族詩書の家に生まれた。若いときから道術を好 み、孫游岳に師事した。官吏などの職務は得意ではなかったので句曲山(今の江蘇省茅山)に隠れ住み、自ら華陽隠居と号し、弟子を率いて華 陽館を建てた。王朝が斉から梁に交代した時、陶弘景は弟子を派遣して蕭衍を助け、図讖を推薦して国号を選定した。絶えず梁の武帝蕭衍と文 章をやり取りしていたので、当時の人々は彼を「山中宰相」と呼んだ。朝廷の王侯公卿といった名士の中でも徐勉・江淹・沈約・蕭子雲といっ た多くの人が陶弘景の門下に入り、一時期非常に名声を博した。陶弘景は多才多芸で、天文・歴算・医薬・金丹・経学・地理・博物・文学芸術 に精通し、80種余りを著述した。その中で現存している《真誥》・《登真隠訣》・《真霊位業図》・《養生延命録》・《本草集注》・《補闕 肘後百一方》・《華陽陶隠居集》などは、どれも道教史や科学技術史にとって重要な著作である。陶弘景は茅山に45年間隠居し、門弟も多 かったが、81歳で世を去った。おくりなは貞白先生である。

 陶弘景が道教の歴史において最も大きく貢献をしたことは、上清の経籙を伝承し茅山宗を創立したことである。彼が著した《真誥》は、顧 歓の《真跡経》をもとに楊羲・許謐の伝える上清の秘訣を整理したものである。これは上清派の歴史・方術・教義を記述した重要な著作であ る。《登真隠訣》は《上清経》の符籙・存思・内視・導引・服気といったさまざまな昇仙の法を記述している。茅山は、漢代には三茅真君(茅 盈・茅固・茅衷)が仙道を修行したことで有名になり、六朝時代には神仙道教の聖地になった。陶弘景は弟子を率い、七年の年月をかけて堤防 を修理し田畑を開墾して茅山を切り開き、道館を建設して上清派の道教教団を設立した。これによって茅山宗は上清派の中心になり、南北朝か ら隋・唐に至るまで、茅山派からは有力な人が出て、道教史に大きな影響を与えた。茅山上清派は基本的には知識人によって組織された道教教 団で、個人の文化修養や経典の研修を重視した。その道士の多くは詩を作ったり書道に励み、文才があった。茅山上清派は経籙派道教の中で最 も優れたものに属し、有名な道士が比較的多く出た。

 陶弘景は博学多才で、詩詞文章・棋琴書画・養生医薬・金丹冶煉・卜筮占候などで精通していないものは一つもなかった。彼の《養生延命 録》は道教養生学の養神・煉形・行気・房中術など多くの方法を総括している。医薬学では薬物の品種(玉石・草木・虫獣・果・菜・米・実な ど)による分類方法を考え出し、道教医薬学の体系を充実させた。特に、彼は葛洪の後を継いで金丹派道教も発展させ、硝石(KNO3)の炎 による鑑別方法を提案している。

 陶弘景は《真霊位業図》を著して道教の神仙の体系も整理し、元始天尊を頂点とする神仙の階級序列を確立した。道教の最高神(元始天 尊)の確定と神仙の系譜の階級による序列は、道教が封建の階級制度を擁護する必然性を反映したもので、道教の神学が成熟した印である。南 朝の道教は、陸修静や陶弘景の改革によって内容的にも形式的にも成熟し、教会式の宮観道教へ変化した。


茅山宗を開いた陶弘景(左の人物)

彼は葛洪の著した《神仙伝》を読んで神仙の道を志したといわれる。

(坂出祥伸編《道教の大事典》より)



三茅真君(茅盈・茅固・茅衷)

漢代に茅山で仙道を修行し、神仙に成ったといわれる。のち、晋代に彼らを含 む 神仙たちが霊媒師の楊羲に降ったことから茅山派が始まったといわれる。

(坂出祥伸編《道教の大事典》より)

 

 

 (5) 南北朝時代の仏教と道教の争い

 南北朝時代は、中国の伝統文化の中に儒教・道教・仏教の三教が鼎立するという文化構造が次第に確定した時代である。この構造が形成さ れる過程で、内外の文化が激しく対立した。南北朝時代には仏教経典が大量に中国語に翻訳され、寺院は日増しに経済力を増し、僧侶は国内の どこにでもいた。その勢力は道教を超え、神仙方術や玄学といった外套を脱ぎ捨て、独立した正統な文化地位を奪取した。三教の争いは、最初 は儒教と仏教の間で展開した。たとえば劉宋の元嘉九年(432年)には、天文家・数学家が《報応問》によって仏教の因果応報説を批判する と、仏教徒は《答何衡陽書》を著して弁解した。この種の争いは鬼神の有無や応報の虚実からだんだんと死後の霊魂の有無つまり精神と肉体の 関係へとエスカレートしていき、梁代には範糸真が《神滅論》を著して争うまでになった。仏教がはじめて中国に入った時、布教の必要性か ら、老聃は関を出て西へ去り「その終わるところ知るなし」という司馬遷の《史記・老子伝》の記述をもとに、老子は西方で「インドに入り ブッダになった」という説が作られた。そのために仏教は中国文化と同じものであると認められたのである。後には《老子化胡経》(西晋の道 士王浮の作であると伝えられている)が世に出た。その説によるとブッダが西方でインド人の仏となった老子や関尹子の弟子であると見なして いる。南北朝以降、仏教徒は《老子化胡経》の真偽を巡ってに度々議論を繰り返して道教を攻撃し、2つの宗教の優劣を論争した。道教徒も儒 教と連合し、「夷夏の辯[中国と異国の言い争い]」や沙門は王者を敬うべきか否かなどの問題を出して仏教を排斥した。仏教は極力中国の国 家権力に従属し、「忠孝」の倫理観念を受け入れ、次第に中国化していった。


ゴータマ・シッダールタ(釈迦)
彼の創始した仏教は中国の道教にも非常に大きな影響を与えた。
(《釈迦の本》より)


 南朝の宋斉の頃には有名な道士の顧歓が《夷夏論》を著し、道教を聖教であるとして褒め讃えたが仏教を戎法としてけなしたので、仏教徒か ら集中的に非難を受けた。その後も南斉の士族張融の名を借りて《三破論》を著した道士があり、仏教には礼教の倫理に合わないところがある ので「国に入って国を破り、家に入って家を破り、身に入って身を破る」と述べた。また、「老子化胡説」を根拠にして、老子は「胡人が粗野 なので、その悪の種を断とうと考え、男に妻を娶らせず、女は夫に嫁がせず、一国に法を伏し、自然に滅びるようにした」と述べて仏教を侮辱 した。仏教徒も《老子大権菩薩経》・《清浄法行経》など少なからず経典を偽造して道教と儒教を陥れようとし、「ブッダが3人の弟子を中国 に派遣して教化したという説」を作り出した。その説によると、「摩訶迦叶、彼は老子と称した」と言い、儒童菩薩はすなわち孔丘、光浄菩薩 は顔淵である。三教のののしり合いの言葉はどんどん劣悪になったが、三教を調和させようという考えも次第に起こってきた。梁の武帝蕭衍は 天子の位を譲り受けた心理的なプレッシャーを取り除くために仏教によって罪業を除こうとしたので、仏教は南朝で盛んになり、三教を融和し ようという動きも盛んになった。天台宗の三祖慧思禅師が著したといわれる《誓願文》には、「諸々の賢聖に私を補佐してくださいと願い、好 芝草や神丹を得た」、「外丹の力を借りて内丹を修め、衆生を安らかにしようと思いまず自分が安らかになる」と述べてある。これは仏教に道 教が引用された例である。陶弘景は「かって夢で仏がその菩提を記して授け、名を勝力菩薩と為し」、「五大戒を誓い授かった」し、浄土宗の 始祖の曇鸞は道術を授かった。これらは仏教と道教の両方を修行していた例である。

 北朝の仏教と道教の争いは、南朝の文章による言い争いとは違ってそこに皇帝の利害関係もからみ、仏教あるいは道教の弾圧という形に なった。前に述べた魏の太武帝の仏教の弾圧のほかにも、北周の武帝宇文邕が仏教と道教の両方を弾圧した。北周の武帝は国をよく治めること に尽力した名君であり、道教・儒教を信奉したが仏教は好まなかった。当時、仏教の経済力は大きく膨らみ、僧侶や寺の小作人はどこにでもい て、寺廟は州都のあちこちにあり、国家の財政にも影響を及ぼしていた。そこで、北周の武帝は何度も三教に論争させて三教の優劣を定めさ せ、仏教を廃止するための世論を作った。甄鸞は《笑道論》によって道教をけなし、道安は《二教論》を書いて仏教を崇めて道教を抑えた。道 士も《道笑論》を書いてこれに対抗した。何年かの論争を経て、建徳三年(574年)に武帝はやむをえず仏教と道教の両方を廃止する命令を 出した。沙門・道士は還俗させ、「三宝福財は臣下に分け与え、寺観塔廟は王公に賜った」。ほどなくして、皇帝の命令によって通道観が建て られ、道士・僧侶を選抜して観に入らせ、《老子》・《荘子》・《周易》を研究させた。通道観に入った道士・僧侶は通道観学士と呼ばれた。 また、通道観の道士の助力によって、《無上秘要》という道書が書かれた。これは道教史の中では重要なもので、総合的な道教の類書である。


道教の伝説的な開祖:老子
(《神仙伝》より)

漢代の司馬遷の著した《史記》では、関を出て西へ去り「その終わるところ知 る なし」とある。《老子道徳経》を著したこと以外にはっきりした経歴はわからないが、後世には多くの伝説で粉 飾された。



老子の弟子といわれる関尹子
(《列仙伝》より)

道教でも重視される《老子道徳経》は、彼の申し出に応じて老子が著したもの で ある。老子同様、実像については全く不明であるが、《列仙伝》などによれば、老子に従って西方へ去ったとい われる。

 

 (6) 楼観道の起こり

 古楼観台は、今の陜西省西安市の南にある終南山の山麓の北にあり、周の時代には関尹子の邸宅だったと伝えられている。《漢書・芸文 志》によると、関尹は「名を喜といい、関所の官吏だったが、老子が関を過ぎると、喜は官吏をやめてこれに従った」と注釈してある。後世の 仙伝では彼を関令尹喜と呼んでいる。関隴の士族天水の尹氏は関尹子をうらやみ、道教を信奉したその子弟のほとんどが楼観に住み、尹喜の子 孫であると称した。魏・晋の神仙道教の道士梁堪は楼観に住んで修行し、鄭法師と仙人の尹軌(山西省太原の人、武当山の神仙道士)から神仙 方術を伝授され、晋の元帝大光元年(318年)に仙去した。その弟子の王嘉は、字を子年といい、陜西安陽の人だった。彼は著名な道士であ り、苻堅と姚萇に非常に礼遇され、《拾遺記》や《牽三歌讖》を著した。王嘉は孫徹に伝え、孫徹は馬倹に伝え、楼観道団を形成した。北魏の 太武帝の時、楼観道は次第に盛んになった。その中の優れた道士には尹通、その甥の尹法興、弟子の牛文侯、王道義などがいた。彼らは楼観に 住み、道教経典を購入し、不動産を増やし、広く功徳を施し教団を拡大した。魏の孝文帝の時、王道義弟子の陳宝熾は、常に《上清大洞真経》 を読み、未兆先知の術(予知能力)を持っていた。その弟子の李順興・侯楷および侯楷の弟子の厳達も優れた術を持ち、一時期名を馳せた。北 周の武帝の宇文邕が仏教と道教を廃止した時、特に厳達・王延・蘇道標・程法明・周化生・王真微・史道楽・于長文・張法成・伏道崇の十人を 招き、通道観に入らせ修道させた。世間では彼らのことを「田谷十老」と呼んだ。隋・唐の時代には、楼観道はさらに勢いが盛んになった。

 楼観道の道士は太上老君を尊び、尹喜を慕い、《道徳経》・《老子西昇経》などを研究した。それは、神仙道教と北方新天師道が結び付い たものだった。その後、南方の陸修静や陶弘景の経籙派の道法が華山の陸景・焦曠・韋節などの道士によって楼観に伝わり、楼観の道士の王延 も華山で修行をしたので、南北朝時代後期の楼観派の道法は南北の道教が融合していた。楼観の道士は《老子》・《荘子》・《列子》・《周 易》を研究していただけでなく、上清経法も修めていた。楼観道は隋・唐にも盛んに伝えられ、宋代まで伝承されていた。

 

 

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