道教と仙学 第2章

 

 

7、明・清の道教の衰退と世俗化

 

 

 明・清の時代(1368~1911年)の500年あまりの時期は、中国の封建社会が没落していった時期である。この時代の封建政権 は、政治的には非常に専制的な形を取り、意識形態に関しては仏教と道教を融合した儒家道学(理学や心学を含む)を尊重し、外交に関しては 鎖国の政策を取った。鎖国・愚民の政策をとる強権政治の下では、国内に新しい階級が起こることもなく、国外から異文化を導入することも難 しかった。だから、この閉鎖的な社会体制には停滞と腐敗の趨勢が現れた。明代の市民社会はにぎやかで、ある程度の商品経済の発達やいわゆ る資本主義の芽生えが見られたが、階級による搾取や圧迫はかなり酷で、人民は屈辱や困苦の中であがくばかりだった。清帝国の建国は中国の 歴史的な進展を遅れさせた。統治者は儒家の思想によって専制政権を強化し、民族間の対立や階級の矛盾を調整しなければならなかった。この 時期は、保守的な動きによって社会の文化を損なった時期である。かくして、明・清の時代には道教や仏教は急速に衰退し、教団も発展せず腐 敗した。

 

 (1) 明朝の宗教政策および道教の世俗化などの趨勢

 明の太祖朱元璋は、白蓮教・摩尼教(明教)などの民間宗教組織の農民による反乱からやがて政権の座についた人である。彼はその利害を よく知っていたので、宗教活動に対して厳しく制限する政策を取った。朱元璋は絶対君主専制の政治体制を強化し、中国を彼以外は奴隷である という社会に変えてしまった。彼は程朱理学を尊重し、八股文によって科挙を実施して官吏を登用し、文化教育のさまざまな方面から知識人や 労働人民に対する専制政治を強化した。洪武元年(1368年)に第42代天師の張正常が参内すると、朱元璋はその天師という呼び方を正一 嗣教真人と改めさせた。洪武十五年(1382年)には、首都に道録司を置いて天下の道士を管理させ、府には道紀司を置き、州には道正司を 置き、県には道会司を置いてその管理を分担させた。彼は僧侶・道士の組織が造反することを恐れ、僧侶・道士を非常に警戒した。40歳以下 の人の出家を禁止して政府が度牒を発給するようにし、州や県の寺や観の数量を制限し、勝手に建てることを許さなかった。また、各府・州・ 県に宮観を一か所だけにして僧侶や道士を集中管理し、そのほかの場所に住む僧侶や道士を重罪として処罰した。洪武二十七年(1394年) にまた詔を下し、「大観の道士ごとにグループを編成し、それぞれのグループの年長者がそれを取りまとめ、ほかの僧侶や道士が逃げたり、官 吏と付き合うことを許さなかった」。「1~2人なら崇山の深い谷でも自由に禅を修行したり全真を学んでもかまわなかったが、3~4人では 許されなかった」。前代までの仏教や道教に対する抑圧や宗教活動の抑制は明代ほど厳格ではなかった。また、朱元璋はより優れた宗教性を持 つ仏教の禅宗や道教の全真派を抑圧することに特に注意したので、和尚や道士は民間で祈禳祭煉の法事ばかり行った。洪武七年には朱元璋は道 士に《大明玄教立成斎醮儀》を編集させた。彼はその序文を書き、「私が仏教と道教を見るところでは、それぞれ二つの徒がある。僧には禅が あり教があり、道には正一があり全真がある。禅と全真は自分のためだけに身を修め性を養うだけである。教と正一はそれを超越していて、特 に孝子慈親を設け、人々の倫理に有益で、風俗に厚く、その功績は大きい」と述べている。朱明の王朝が儒教を奨励し仏教と道教を抑圧する政 策を取ったことは仏教と道教の衰退を加速した。また、正一道を奨励し全真道を抑圧しようとしたことで、道教は次第に民間化・世俗化して いった。

 朱元璋は農民の出身であり、民間から身を起こし、たく鉢僧だったこともあった。軍隊を起こす時には道術の劉伯温を任用し、劉伯温の師 の黄楚望・鉄冠道人張中・周顛仙、および劉渊然・冷謙・張三丰などの有名な道士とも付き合いがあった。朱元璋は自分が皇帝を名乗るために 道教を利用して奇談を作った。自身も民間道教を信仰し、皇帝となってからも祈祷斎醮の術を行った。朱元璋以後の明代の皇帝たちも、常に醮 を 建てたり斎を設け、扶乩によって神仙を降ろし、方書丹薬および卜筮・房中などの術を好んだ。かくして、正一道は日に日に盛んになり、明朝 の道教の代表格になった。道教が民間化・世俗化したために、民間の道士は医・卜・星・相などの方技や祈禳・斎醮・符水の術を行いながら社 会の各所で活動するようになった。請仙の術が流行し、朝廷内の臣下や有名な儒学者も鸞仙を信じた。《道蔵》の丹方道書の多くが明代に扶乩 によって書かれたものであるが、これも注目すべき現象である。朱元璋は倹約に努めていたが、その子孫は皇帝になると贅沢三昧に振る舞っ た。下の者が上の者にならうという中国の官界のルールの通り、明代の社会はどんどん腐敗していった。このような社会的な腐敗は道教にも波 及したが、一時期の正一道は特にひどかった。例えば第46代天師の張元吉は凶悪な犯罪者で、「良家の子女を奪い、人の財物を無理に取り立 て、家に牢獄を置き、40人余りを殺した」。民間の正一道の道士は、「甚だしく酒を飲み肉を食べ、のらくらして生活はあれすさみ、ほとん ど禁忌を顧みることはなかった。また愚かな者がいて道人であるとでたらめを言い、人心を惑わせ、男女を雑居させて、風俗を損なった」。明 代以降、道教の道派はあまり分化しなくなり、特色もあまりなかったので正一・全真の二つの派の下に取りまとめられた。道教の教義や科儀は 古いものを継承するだけで新しい発展はなく、教団は腐敗し威信は次第に低くなった。内容の浅い長生不死説や召神劾鬼・祈禳禁咒などの雑術 が教団に持ち込まれ、民間の俗神の信仰が道教に溶け込んだ。道士たちは皇帝や市民の現世利益を満足させるために宗教活動を展開した。こう した状況は、明代の道教が世俗化し衰退していく傾向をはっきりと示している。

 明の世宗朱厚煾が道教を信奉したありさまは、明代では典型的なものである。彼は正一道の道士の邵元節や陶仲文を非常にひいきにした。 邵元節は符法祷治によってひいきにされ任用された。彼は真人の号を賜り、全国の道教を統率し、栄誉を浴した。嘉靖十八年(1539年)、 邵元節は死ぬ前に陶仲文を推挙し、陶仲文は符水治妖によって世宗からひいきにされるようになった。明の世宗の朝廷では、宮中で斎醮が行わ れない日はなく、后妃や宮廷の女官たちは羽衣黄冠で法を読み咒を念じた。陶仲文は帝のために天子の世継ぎを祈願したり荘敬太子の病気を直 すことで功績を立てたので、さらに特別の寵愛を受け、比べるもののないほど官位は高くなった。陶仲文は大学士厳崇と徒党を組み、その権勢 は大変なものとなった。彼は少保・少傳・少師の官職を独占し、明代開国に特に功労のあった親族や家臣も及ばないほどだった。明の成祖の 時、神仙道士の張三丰を捜し出す命令が何度もだされた。また武当山に宮観を営造するのに数百万計を費やし、太和山という名を賜り、真武大 帝を祭祀した。これは元・明の時代には張三丰が「活神仙」であると広く認識され、彼が武当山で修行を積んだからである。明の成祖朱棣は宮 観を建てて本物の神仙と会おうとした。また、真武大帝(玄武、北方の主である)を自分の守護神とし、自分が「真武の生まれ変わり」である とほのめかして世を欺き人々を惑わせた。彼はそれによって自分が北京から兵を起こして皇帝の位を奪ったことに対する不安な気持ちと社会の 物議を消し去ろうとした。明の世宗三十一年(1552年)に、武当山の真武殿が竣工し、陶仲文は命を受けて武当山で大規模な醮を行った。 その醮は夜間の灯火が昼間のように明るかったと言われている。

 明代の皇帝・大臣・豪商・豪族は大変ぜいたくな生活を送り、淫らに婦女を弄び、退廃的な者が非常に多かった。明の憲宗朱見深は万貴妃 を寵愛し、房中術を習い、大臣・道士・僧侶たちが競って房中の秘方を献上すると、よく信任した。明の武宗朱厚照は特に荒れすさみ、宦官の 劉瑾に俳優や音楽・女色を集めさせ、宮中での遊戯には度がなかった。彼は西方の異民族の僧に房中術を習い、のちには淫薬を服用し、一日に 十数人の婦女と遊んだ。明の世宗は道教を信奉し、道教の方術を性交の技法の助けとして用いた。当時の社会的に淫らな気風は、房中術の研究 や発展を促進しただけでなく、道教の外丹術や内丹術にも影響を及ぼした。明代の道教の金丹術は主に紅鉛や秋石を作ることへ変わった。紅鉛 は少女の最初の月経を清水にさらし、丹砂・没薬[ミルラ]・童便などを加えて錬成したものである。秋石は童便から精製した男性ホルモンの 結晶体である。そのほかにも道教の内丹術が房中術と結び付き、陰から採って陽を補い、少女を外鼎として丹を結ぶという閨丹という方法も作 り出され、泥水丹法とも呼ばれた。性行為の楽しみを増すことができ、寿命を延ばすこともできるとなれば、世の人々がその方法を用いないわ けがない。だから、明代の裕福なちょっとした有力者は、道教で処方する薬によって陽を助けて淫らな行為を行った。皇帝の場合はなおさらで ある。明の世宗は紅鉛を好んだだけでなく、秋石も用い、陶仲文や朝廷内の大臣・道士はたびたびこれを献上した。嘉靖三十一年(1552 年)の冬には、8歳から14歳の三百人の処女を首都に集め、三十四年(1555年)の秋にも10歳以下の百六十人の処女を首都に集めた。 前者は皇帝が閨丹を実習するための外鼎として用い、後者は薬を煉り紅鉛を作るために用いた。当時の人は竜涎香[アンバーグリス]もよく献 上した。香を嗅いで心を動せば、エクスタシーを助長できると考えられた。明の時代に《金瓶梅》・《肉蒲団》などの小説が世に出たことは、 もっともなことである。

 明代の社会には厖大な市民階級が形成され、商品経済も発達した。豪商や官僚地主は百万の資金を集め、妻妾奴僕は群れをなし、派手な生 活を送った。皇帝が官僚地主の典型だった。このような社会現実は人々の価値観を変化させ、人々は現実の利益を追い求めることに励んだ。こ れは宗教文化の観念にも反映した。経典・書籍・教義・理論を研究し、真面目に苦行に励むような気風は一変した。儒生は八股文によって科挙 に合格し官位や禄にありつくことに熱中し、僧侶は簡単な三界輪廻・因果応報などの善行を勧める説教によって布施を乞い、道士は占卜推命・ 療病禳災・黄白丹薬などの方技術数によって生計を立てるだけだった。人々が利益に群がった明代の社会的な気風と商品経済の価値観によっ て、伝統文化の構造はねじ曲がり、人々は高尚な情操を失い、極端に享楽や肉体的な刺激を追求するようになった。道教の世俗化はこうした時 代の特色を反映したものである。世情小説《金瓶梅詞話》の中に描かれている官僚豪商の西門慶の家庭生活や道士・尼僧・和尚の活動は、明代 の市民階級の様子や宗教観を反映している。その小説の中に道士たちが占卜・推命・看相・斎醮などの方術によって生計を立てた様子が生き生 きと描かれている。当時の市民階級では道教・仏教・民間宗教を区別せずに信仰し、道教と仏教は互いに溶け合い、民間の世俗生活の中に深く 入った。また、注意しなければならないことは、明代以降、仏教や道教のほかに、儒教・仏教・道教を融合した民間宗教が現れたことである。 朱元璋は民間宗教を足掛かりにして帝位を得たが、天下を取った後は白蓮教・明教などを厳しく取り締まったので、それらの民間宗教は秘密宗 教の形を取るようになった。民間宗教は伝播していくにつれて逆に仏教や道教にも影響を与えるようになり、関聖帝君・城隍神・五通神・呂 祖・王霊官・薩真君・真武帝などの多くの神々が道教に溶け込んだ。道士たちは主に民間の信仰に基づいて経文を読み、符を描いて術を施し た。彼らは世俗社会の宗教職業者となり、廟を建て祭祀を行った。

 明代の道教の大きな趨勢の一つは、《太上感応篇》・《文昌帝君陰隲文》・《呂祖功過格》などの善を勧める道教書籍が流行したことであ る。これらの善を勧める書籍には扶乩によって神仙から授かったと言われるものも少なくなかった。その内容は善を行い徳を積むという従来か らの道教の倫理観念であるが、これに儒家の封建の道徳および仏教の因果応報の説を加え、通俗の形で民間に流行した。その影響は正統な儒 家・道学をはるかに超え、儒学者や文士はそれらを広めることに力を尽くし、銭塘の汪静虚が洪武年間に刊行した《太上感応篇》は一万冊に達 し、明の儒学者の高攀竜・李贄などは《太上感応篇》に序文を書いている。大臣の王 ・申時行は《陰隲文》を奉じていた。清朝になると、こ の趨勢はさらに顕著になった。《関帝覚世真経》・《文帝孝経》とともに《陰隲文》・《功過格》なども《道蔵輯要》に収められた。清の咸豊 年間に文昌帝君から授かったと言われる《玉定金科》が、清代の儒臣に重んじられ、李鴻章はこれを《道蔵》に入れるよう皇帝に奏上した。清 の儒学者の恵棟・兪越なども《太上感応篇》に序文を書いた。恵棟は母の病気がもとで《太上感応篇》の注釈を書き、広く印刷発行した。これ は滅びかけていた明・清の封建政権が、道教書籍を利用して人民を愚弄し封建の倫理や教条を神聖化しようとした風潮である。

 明代の道教が社会に影響を与えたもう一つの趨勢は、文学作品の中に道教を扱った物や神魔思想が流行したことである。これは明代以降、 道教の観念が人々の世俗生活に溶け込んでしまったことを反映している。明はじめの神魔小説《平妖伝》は、道教の法術を広く知らしめた作品 である。そのなかに描写されている雷法の修練過程や神を請い将を召喚する話はリアルで、当時の道士が社会に伝えていた法術の実情を映し出 している。そのほか《西遊記》・《三宝太監西洋記》・《呂純陽飛剣記》・《韓湘子伝》なども、多くが道教の話である。明代の著名な内丹学 家の陸西星が著した《封神演義》は、道教に一つの神仙の系譜を作り上げ、三教合一の思想を提唱して道教の神仙思想に直接影響を与えた。 《西遊記》は内丹思想がメインテーマであり、道教の修練の意が含まれている。魯迅は《中国小説史略》の中で、道教の神魔小説が「明代の小 説の二つの大きな潮流の一つ」であると言っている。清代の小説もこの趨勢を踏襲し、《紅楼夢》にも少なからず道教思想が含まれている。

 明代以降、道教思想や内丹の修練の技法は知識人によって伝えられた。明の儒学者には内丹を研究修練して道教書籍を注釈した者が多かっ た。焦竑・呂坤・王文禄は《陰符経》を注釈し、王文禄は《参同契》を注釈し、林兆恩は《清静経》を注釈し、王清一は《化書新声》を著し た。王陽明の祖先は元代の道士の趙縁督と付き合いがあり、王陽明は家庭の影響を受けて幼い頃から神仙養生の学を好み、16歳の新婚の夕方 にも鉄柱宮に道士を訪ねた。その後、王陽明は内丹術には懐疑的だったが、長期にわたって静坐・導引の術を行って自身の潜在能力を引き出 し、「予知」を行うようになった。彼は有名な道士の蔡蓬頭に丁寧に道について尋ねたこともあった。清代にもちゃんとした儒学者が道教を好 むという風潮があり、王夫之は《愚鼓詞》を書き、清の儒学者の劉元は内丹を習っていた。清の儒学者は主に道教の内丹学を好んだ。

 明代の道教で歴史的に重要なことは、《正統道蔵》と《万暦続道蔵》が刊行されたことである。正続《道蔵》は512函で、合わせて 5485巻あり、現代まで伝わっている。永楽年間に、明の成祖は第43代天師の張宇初に《道蔵》を編纂校正することを命じたが、のちに成 祖が世を去ると、仁宗・宣宗はその事業を捨て置いて取り合わなかったので、中途で終わってしまった。明の英宗の正統九年(1444年)に なって道士の邵以正が命令を受けてそれを増補修訂し、《正統道蔵》が完成した。明の神宗の万暦三十五年(1607年)にも第50代天師の 張国祥が命令を受けて《道蔵》の続編を刊行し、天下の宮観に公布した。これらは、道教文化の保存する大事業の一つとなった。その後、今日 に至るまでの三百八十年余りの間に世に出た道教書籍は非常に多く、また明代の《道蔵》の分類配列も一貫性を欠いているので、国内外の学者 はこれらを新たに整理し直す必要がある。

 

 神魔小 説 《平妖伝》は、道教の法術を広く知らしめた作品であり、そのなかに描写される雷法の修練過程や神を請い将を召喚する話 は、当時の法術の実情を反映しているようである。たとえば、登場人物の一人聖姑姑は法を練る場面で符の書き方について次 のような説明をしている。

 「符を書くことは最も難事です。気をもって形を摂り、形をもって気を摂らなければ な らぬものです。この符は何のようをなすかということによってその観想をしなければなりません。もし雲を起こそうとす れば一点の陰気が先ず丹田から起こり漸次に満身はみな雲気の充塞するを覚え、七竅身体の穴の中から噴き出して乾坤に 瀰漫すると想わねばならず、もし雷を起こそうとすれば一点の陽気が先ず丹田から起こり漸次に満身はみな雷火の運旋す るを覚え、七竅身体の穴の中から打ち出して天地を震動すると想わねばなりません。想ったその時、急にこの気を落墨し て一筆に書くので、神をもって神に合し気をもって気に合するというのです。全く我が神気をもって天地に貫通させねば ならぬので、これでこそ符は霊験があるのです。最初はこの気を摂ることに骨が折れるけれども次第に練習を積んで熟達 すれば眼を閉じるとすぐに神気が集まるもので、符は書かれなくとも霊はあるのです。これが通天徹地の妙決です。もし 符の形にのみ拘泥して書けば、自己の神気は先ず散乱し、どうして神鬼を感動させることができましょう。俗に言うよう に符を書いて効なく却って鬼に笑われ、符を写して霊ならず却って神に驚かされるというものです。私が今先ず書いてそ なた達に見せます。どのように始め、どのように結構し、どのようにして神を凝らし気を運ぶか、そなた達はよく見てい て悟るがよい。しかる後に筆を下すがよい。一法通ずれば万法通じ、一法通じなければ万法すべて通じないのです。よく よく細かく気をつけていて自ら肝要あるところを誤らぬようにしなければなりません」

 また将を召喚する方法についても次のような説明をしている。

 「内将があってこそ外将を召すことができます。鄧・辛・張・陶・苟・畢・馬・趙・ 温・関、これらが外の十将で、眼・耳・鼻・舌・意・心・肝・脾・肺・腎、これが内の十将です。まず自分の十将を修練 して統一が乱れず、神を存し気を定めるなら、厳かに外将は前に列ぶのです。しかる後、外将を呼べばたちどころに応 え、使えばたちどころに服するのです。初めのうちは、あるいは先ず半身を現し、後に全身を現すが、もしその容貌が凶 悪に見えても恐れてはいけない。もしかおかたちが醜く見えても笑ってはいけない。宜しく父母の如くに敬い、朋友の如 くに親しみ、奴隷の如くに使わなければならない。もしそうでなかったなら必ず神の怒りにあう。またおよそ将を召そう と思えばまずあらかじめ行うこと問うことを定めておかねばならない。もし召しても用事がないのであったらその将は信 用しなくなり、あとになって召してももう来なくなる」

 

 (2) 清代の社会背景および道教の概況

 満清の貴族は、もともとチベット仏教を信仰していた。彼らは山海関以南に入ると、基本的には明代と同じように道教を制限・管理・保護 する政策を取った。道教の衰退と世俗化という流れも依然として続いた。清代には階級制度による軋轢のほかにも、激しい民族問題があったの で、知識階級の思想に対する抑制は非常に厳しく、たびたび言論弾圧事件が起こった。清政府は儒家の理学をバックアップして統治を維持しよ うとしたが、政治的には専制だったので、儒教・仏教・道教はどれも清のはじめには衰退した。宋代の理学や明代の心学といった新しい儒家は 王陽明以降は衰え、仏教の禅宗もほとんどが口先だけの禅に流れ、実際に禅の修行に励もうとする僧は少なかった。《清朝野史大観》の康熙皇 帝の詩には、「復興できないほどに衰退してしまい、二氏は今では哀れなものである。時代遅れになってしまったものを邪魔物として取り除く 必要もなく、絵や詩の題材として残っている」と述べられている。これはつまり、釈迦や老子の教えが復興できないほどに衰退してしまったの で、むかしのように仏教や道教を弾圧するは必要なく、宮観や寺院は風景や詩や絵画の彩りとなって残っていると言っているのである。清代の 政治形勢があまりに厳しかったので儒教・仏教・道教のありようは変化し、古いものを見直そうという動きが現れた。儒教は心性を空論する理 学や心学から転じて漢学を真似るようになり、古書の字句を解釈・考証し、古書を整理することに努めた。清代の樸学[漢学]は、もともと民 族の気概から起こり、科挙に及第するために八股文を勉強をすることだけに満足しない知識階級が提唱したものだったが、ついにはその時代の 学風となっていった。仏教の禅宗でも、口先だけの禅から座禅を行い苦しい修行に励むようになった。全真道は、王重陽が教えを創始した時と 同じように国家が失われた政治情勢に直面し、満清に服従する屈辱を受け入れられない明の遺民が憤慨して次々に教団に入り、再び勢力を盛り 返した。かくして、明代には正一道が崇められ、全真道や仏教の禅宗は抑圧される傾向にあったが、清代には正一道が衰退し、仏教の禅宗の臨 済宗と全真道の龍門派が盛んになり、「臨済・龍門が天下を半ばする」と言われた。

 清代の最も大きな社会問題は、民間の秘密宗教と秘密会党が起こったことである。いわゆる民間宗教の源流は漢・魏以来の民間道教であ る。仏教が盛んに伝わるようになると、民間道教と仏教は混ざり合った。それは老君転生・弥勒仏降生・李弘伝教をアピールし、予言を行い、 農民による反乱を起こし、たびたび朝廷から「妖賊」と呼ばれて鎮圧された。明代以降、白蓮教・羅祖教・混元教などが流行し、「真空家郷、 無生父母」という八字真言を伝え、低層の民衆がこれに帰属していった。その勢力は正当な仏教や道教を超え、「末運では法は弱く魔が強い」 と言われるような状態になった。秘密会党は、古代の乱世に現れた民衆の秘密結社がその源流であり、歴史的には、隋末の言焦郡の「黒社」や 「白社」、宋代の耀州の李甲が徒党を集めて作った「没命社」、章丘の民衆が集まって組織した「霸王社」、揚州の民間の「亡命社」などが あった。さて明・清の王朝では中国の伝統的な「家天下」という政治体制が極限まで発展し、知識階級の思想に対する抑制は極めて厳しく、労 苦の民衆に対する愚民政策や鎮圧も非常に徹底していたので、新しく起こった民間宗教や結社は秘密組織の形態を取らざるをえなかった。特に 清朝では、知識階級に対してたびたび言論弾圧事件を起こし、家宅捜査して差し押さえたり、一族皆殺しにしたりしていた。清朝は民間宗教の 信徒に対しても何はばかることなく包囲討伐・虐殺・凌遅[体をばらばらにして殺す酷刑]・流刑を行い、その極まらないところはなかった。 しかし結局、野蛮な統治は野蛮な反抗を招き、八卦教・黄天教・紅陽教・羅教・三一教・大乗教・青蓮教・黄崖教などは禁じれば禁じるほど盛 んになり、封建政権とは別の勢力を形勢した。特に清朝の中葉以降は、土地がどんどん併合され、人口は爆発的に増加した。流民は日増しに増 え、盗賊が横行し、大農業封建帝国の土台はバランスを失った。さまざまな仕事に従事しながら苦しい生活を送る人々は、結社を組織しようと 考えるようになった。中国第一歴史档案館の記録によると、清代における民間の秘密宗教の数は215種にも達し、天地会・哥老会(のちに紅 幇となった)・青幇(羅教を信仰していた長江大運河の水夫から起こった)などの秘密会党も全国的に流行した。こうした秘密宗教や会党は全 国に広く分布し、ごたごたと連なって地下秘密王国ともいえるものを構成した。これは野蛮な鎮圧や愚民政策を行う専制政権の身から出たさび とも言える。秘密宗教や会党は中国人民と対立する専制主義政権が残した社会病であり、この種の政治制度の晴雨計でもある。それは国家が安 定し繁栄している時代は隠れ、乱世になると現れ、封建専制制度に常に付き添っているのである。明・清以降には正当な道教は衰退したが、そ れは民間宗教が信徒を奪い、その地盤を占拠したこととも関係がある。清はじめにはたびたび白蓮・焚香・混元・竜元・紅陽・園通などの「邪 教」を禁じる詔が下されたが、道教に対しては依然として保護を加えた。ただし、巫師や道士が「神を飛ばして鬼を駆逐し邪を追い払う」こと や「人々を集めて香を焚く」こと、「集会して経を念ずる」ことなどは厳しく禁止された。清の皇帝が道士を宮廷に入れて斎醮を行うこともな かったので、正一道の道士は宗教活動を展開しにくくなり、正一道はさらに衰退した。

 清の皇帝が山海関以南に入る以前に、范文程が彼らに国を治める道家の方法を教えていた。康熙帝は満州族の王公や大臣に《老子》の書を 発布し、外には儒家の技法を示し、内に黄老を用い、比較的道教を優遇した。彼は第54代天師の張継宗などを招いて面会し、また龍門律宗の 道士王常月に領地を与えたこともあった。雍正帝は禅宗の大宗師という立場から、三教一体の説を唱え、また張紫陽の《悟真篇》に序文を書 き、その信奉のしようは大変なものだった。彼は正一道士の婁近垣にも領地を与え、銀を賜って竜虎山の宮観を修理させた。乾隆帝は儒教を信 奉し、仏教や道教を低く評価した。彼は乾隆四年(1739年)には正一真人が度を伝えることを禁止し、以後朝廷に入ることも許さなかっ た。乾隆十七年(1752年)にはそれを二品から五品に降格した。しかし、乾隆帝は全真道に対しては比較的に優遇していたようで、乾隆三 十年(1765年)には北京の白雲観を修理させ、晩年には白雲観へ行幸して詩や書や碑などに署名もした。全真道の龍門律宗の第7代律師の 王常月は清はじめに伝戒を公開し、順治帝がそれを支持したので、清代の全真道の龍門派は勢力を盛り返し、龍門派から優れた道士が出た。清 末になると、教団の勢いは次第に衰え、わずかに神仏を祭ることによって生計を謀った。白雲観の第20代住持の高仁山同は慈禧太后にひいき にされ、宮廷内に出入りして権力を翻弄した。しかし、教理の発展は見られなかった。

 清の康熙帝の時に、彭定求が283種の道教書籍を収めた《道蔵輯要》を編纂した。これは多くの丹経と後出の道教書籍を含んでいた。清 末に成都の二仙庵もそれを増補して刊行した。これらは、道教の歴史上で重要な事跡である。

 

 (3) 明・清の道教の道派

 元代以降、儒教・道教・仏教は一つであるという説が次第に盛んになり、道教内部にもさまざまな道派を融合しようという動きが見られる ようになった。明・清の時代になると、道派が分化することは少なくなり、諸々の道派は次第に正一・全真の二大宗派の下に集まるようになっ た。正一道は符籙の道派の代表となり、全真道は内丹煉養の道派の集合体となった。

 1、明・清の時代の正一道の発展状況

 明・清の時期の符籙道派は社会的にはすべて正一道と呼ばれたが、その内部の伝承系統を見てみると、やはり正乙・霊宝・上清・浄明と いった伝承の違いがあった。明代の正一道は朱明王朝のバックアップがあったので比較的に羽振りがよかったが、教団内部は腐敗したので民衆 の信仰を失った。明代の正一道で比較的著名な者は、第43代天師の張宇初である。その著作に《道門十規》・《度人経通義》・《竜虎山志》 などがある。張宇初の道教思想は当時流行していた三教一家説に適応したもので、全真教の長所を吸収して正一道を改造した。彼は《道門十 規》の中で、「近世では禅宗を性の正当派とし、道を命の正当派とし、全真道を性命双修であるとし、正一は科教だけを習う。道を学ぶことの 根本が何であるかを知っているとすれば、それが性命の二つの事でないはずはない。科教を設けることも、性命を学んでいるのにすぎないので ある」と言っている。そして、内丹学を斎醮や雷法の根本とし、先に内丹を煉り、自身の真陽によって亡者の魂の陰魄を変化させると、それを 救済することができると考え、雷法も自身の元神が中心になって行うものであると考えていた。同時に彼は道士がきちんと規律を守って修道し なければならないことを強調し、戒行を第一にして正一道の腐敗を抑制しようと試みた。張宇初以後の天師は、明の時代には今までどおりに大 真人に封じられ、天下の道教を司り、符籙派を指導する立場にあったが、著名な道士は出なかった。《明史》には、「張氏は正常以来、神異は ない。もっぱら符籙に頼って雨を祈り鬼を駆るが、効果は少ない。代々伝わっていき、久しく世事を経験し、ついに廃れないものはない云々」 と記載されている。

 正一道の浄明派の道士趙宜真やその高弟の劉渊然、さらにその弟子の邵以正なども道術で世に知られた。趙宜真は符籙祈禳をよく行い、全 真道北派の内丹や清微派の雷法にも精通し、当時の人々に称賛された。彼の著作には《原陽子法語》・《霊宝帰空訣》などがある。《原陽子法 語》は先に性を修練し後に命を修練する内丹学を伝えている。まず徹底的に性を煉るが、それには情を性に戻すことからはじめる。「忘」の字 がその秘訣である。元精が生じるのを促し、それを煉って丹を完成させ、虚空に帰る。最後には虚空を粉砕し、凡を脱して仙に入るのである。 《霊宝帰空訣》には人が死に臨んで解脱を求める方法が記述されている。陳兵は《中国道教史》(上海人民出版社1990年版)の中で、「そ の説とチベット密教の中陰法は似通っているので、その原形は元代に内地に伝えられたチベット仏教の密法なのかもしれない」と述べている。

 永楽年間に、正一道士の孫碧雲は武当山の住職を務め、武当山の一派を開いた。孫碧雲も明代の優れた道士であり、彼の開いた武当山の一 派は榔梅派とも呼ばれ、真武大帝を祭祀した。

 清代には正一道は衰退したが、雍正朝の道士の婁近垣は道術で際立っていた。婁近垣も三教の源が同じものであると考え、符籙を習い、禅 宗を学び、内丹を修めた。彼が整理・刊行した《黄符科儀》10巻は、清代の道士の行う符籙斎醮を記述した科儀書である。《諸真宗派総簿》 によると、清代には正一・茅山・浄明・霊宝・神霄・清微などの派が伝承され、正一・清微などの派には分派もあった。明・清以降、東南の沿 海地域には媽祖信仰が起こり、天后宮が建てられ、台湾にも伝わった。

 2、明・清の時代の全真道と内丹学

 明代は、全真道の系統の道士のほとんどが隠遁して内丹を修習し、内丹学の継承と発展を促した。明はじめの全真道の系統の道士では、武 当山の張三丰の名声人望が最も高かった。張三丰は、名を君宝といい、またの名を全一といい、号を張邋遢といった。彼は弟子たちと武当山に 住んでいたが、「この山はいつか必ず栄える」と予言した。彼はのちに天下を巡り歩き、明帝が何度も訪れたが会うことはできなかった。張三 丰の道教における功績は非常に大きく、奇談も伝わっている。彼は長寿を享受し、呂洞賓と同じような影響を道教に与え、後の武術家、内丹家 あるいは房中術や導引健身術を講じる術士たちはみんな張三丰を祖師と称した。新しく創始された内丹学の武当山三丰派は、陳摶の弟子の火龍 真人から伝えられたと言われ、清代の李西月は《張三丰先生全書》を編纂した。張三丰派の門人はその内丹を隠仙派と呼び、人知れず道を修め ることを尊ぶが、出家は尊ばない。その《無根樹》の中で道のありさまについて、「無根樹、花はまさに微か、樹は老いてまさに嫩枝[若い 枝]を新たに接す。梅に柳を寄せ、桑に梨を接し、真を修める様子を伝え与える」と述べられているように、男女栽接の術も行う。張三丰派の 丹法は、ほぼ清修と双修の中間であり、淫欲を糾弾し、丹功の修行時には淫念が生じないようにすることを主張し、南北二派の丹法を総合して いる。この派は陳摶の「蟄竜法」、つまり横になって行気を行う内丹の睡功も伝えている。


内丹の三丰派の開祖:張三丰
(《中国道教気功養生大全》より)

張三丰は陳摶・陳致虚の伝えた内丹法を継承し、三丰派を開いたが、陳摶から 火 龍真人を経て伝えられたという説は疑問視される。彼の伝えた内丹は基本的には内丹南宗の系統を継承したもの のようである。彼はまた太極拳の創始者とする説もあるが、歴史的には太極拳と武当山の直接的な関係はなく、 この説は後代に捏造されたものである。ただ彼が武芸に優れていたことは事実のようである。



陳摶の伝えた睡功
(《内外功図説輯要》より)

陳摶は睡功を極め、いったん眠れば百日以上目覚 め なかったといわれ、睡仙と呼ばれた。陳摶の「蟄竜法」が実際にどのようなものであったかははっきりしない が、参考までに陳摶が伝えたという睡功の一図を上に載せた。


 明代には邱処機の龍門派の龍門律宗が戒律を密かに伝え、趙道堅から順を追って張徳純・陳通微・周玄朴に伝わった。周玄朴が伝えたものは 張静定・沈静圓の二派に分かれた。張静定は趙真嵩に伝え、趙真嵩は王常月に伝えた。王常月(1522~1680年)は号を昆陽子といい、 山西路安の人である。龍門第7律師となり、清のはじめに伝初真・中極・天仙の「三壇大戒」を公開して宗派の内容を明かした。主に白雲観で 教えていたが、その弟子は千人あまりもいて、全国各地に及んだ。その弟子たちは彼の語録を《龍門心法》(また《碧宛壇経》ともいう)2巻 にまとめたが、それによると、おもに命は性の中にあり、性を理解することが修練の根本となっている。沈静圓の系統は衛真定を経て沈常敬 (1523~1653年)に伝わった。沈常敬は号を太和子といい、茅山の乾元観に住んでいた。孫守一(名を玉陽という)・黄守圓(名を赤 陽という)に伝え、門下に多くの徒弟が集まり、多くに分派した。その後、龍門派の弟子は各地で山を開いて戒を授け、龍門派の支派は非常に 多くなった。

 明の万暦の時期、揚州の興化県の陸西星(1520~1606年)は、字を長庚といい、号を潜虚といった。陸長庚は若い頃は儒家を勉強 していたが、9回試験を受けたが合格しなかったので道士になった。晩年には仏教の密教も修習し、三教を融合した。扶乩によって呂祖が陸長 庚の草堂に現れ、彼はそこで授かった丹訣を《参同契測疏》・《悟真篇注》・《金丹就正篇》・《七破論》・《玄膚論》などの十余りの丹経に 書き記し、《方壷外史叢編》としてまとめた。また彼は《南華副墨》や《楞厳経述旨》などの書も著した。陸氏の内丹は夫妻双修を主張し、内 丹学の東派となった。


内丹の東派の開祖:陸西星
(《中国道教気功養生大全》より)

生まれつき並外れた頭脳で、生員(科挙の一次試験に合格した人)となった が、 郷試(科挙の二次試験)に9回失敗し、世俗を離れて道士になった。呂洞賓より直接内丹を伝授されたされる。 彼の伝えた内丹は男女双修を中心とし、その男女双修の修練法は内丹の中でも最も優れたものであるといわれ る。



雲巣支派の道士:閔小艮
(《中国道教気功養生大全》より)

閔小艮は多くの道教書籍を編纂し、中黄直透の丹法を伝えた。

 沈常敬の系統の龍門律宗である金蓋山の雲巣支派の道士閔小艮(1758~1836年)は、法名を一得といい、高東籬 (1621~1768年)から戒を受け、また沈一炳(1708~1786年)の丹訣も得た。彼は《金蓋心灯》を書き、また内丹などの28 種の道教書籍を収めた《古書隠楼蔵書》を編纂した。閔小艮の丹法は任脈と督脈の修練を行わず、おもに元気を背骨の前、心臓の後ろに位置す る黄道に沿って真っすぐ上下に動かす。これは中黄直透と呼ばれ、のちの人はその丹法を元代の道士李道純と同じ中派に分類した。清末の道士 の黄元吉は《楽育堂語録》・《道徳経注釈》を書き、守中を煉丹方法とした。この丹法も中派に属す。

 ほかにも、雲南の鶏足山に、月支国の黄守中(もとの名を野怛婆闍といい、インドから中国へ来て、王常月から戒を授かった)という人が いて、号を鶏足道者といい、「龍門西竺心宗」を伝えた。この派で修習する咒には神通があり、閔小艮も斗法秘術を学んだ。その弟子には管太 清・王太原がいて、のちに王清楚・白馬李・雲大辮・李赤脚・章大享・郭陽暁・張蓬頭などに伝えた。

 伍守陽(1565~1644年)は江西の吉安の人で、号を冲虚子といった。彼は王常月の伝える戒を得、虎皮の張静虚真人から李虚庵・ 曹常化に伝えられた丹法を受け、《天仙正理直論》・《仙仏合宗語録》を著した。清代の僧の柳華陽は《金仙証論》・《慧命経》を書いて伍守 陽の内丹学を詳しく述べ、この丹法は世に伍柳派と呼ばれた。伍柳派の内丹は先に性を修め後に命を修める北派の清静丹法に属し、仏教の色彩 が比較的濃い。

 清の道光年間には、四川の楽山に李西月という人がいて、号を涵虚といった。彼は張三丰真人から丹法を受けたと称して《三丰全書》を編 纂し、また呂洞賓に会い丹訣を授かり、《呂祖年譜》を編纂した。李西月は陸西星の生まれ変わりであると自任し、《三車秘旨》・《道竅 談》・《後天串述》・《無根樹詞解》などを著し、西派丹法を創始した。この派の丹法は最初に清静によって基礎を築き、後に陰陽双修によっ て丹を修習し完成させる。この派は東派の双修丹功を踏襲して発展させている。

 全真道の門下の譚処端は南無派を伝えたが、それを伝える第20代宗師の劉名瑞(1839~1931年)は、号を盼蟾子といい、《盼蟾 子道書三種》を著し、南無派の内丹を詳しく論述した。

 明の嘉靖の時の勞山の道士孫玄清(1517~1569年)は、字を金山といい、龍門派の支派の金山派を創始し、その丹訣を人に伝え た。今の勞山の太清宮の匡常修道長は、金山派に属する。金山派の丹功は清静丹法で、光を集めて念を止めることからはじめる。

 龍門派の第11代道士の劉一明(1734~1821年)は、号を悟元子といい、甘粛で道を修め、《道書十二種》を著した。その丹法は 理学が融合し、性を煉ることからはじめ、順序を追って修行していく。内薬は性を理解することで、外薬は命を理解することであり、内薬は自 身の元性で、外薬は虚空の真一の炁(元命)であると説明している。また丹功を上・中・下の三つに分けている。

 また道教の居士の傳金銓が編集した《道書十七種》は、主に男女双修択鼎鋳剣の栽接丹法に力点を置いている。その《丹経示読》は、双修 の観点から丹経を理解する方法を説明している。そのほか、尹志平の弟子が書いたと言われる《性命圭旨》、扶乩によって書かれた《唱道真 言》があり、どれも重要な丹経である。

 清代の龍門派の支派は非常に多い。呂守璞の開いた蘇州冠山の支派、陶靖庵の開いた湖州金蓋山雲巣の支派、郭守貞が伝えた沈陽太清宮の 道団、徐守誠の伝えた江南西山万寿宮の道団、曾一貫が伝えた広東羅浮山冲虚古観の道団、斉守本が創始した金輝派、張宗𤩅の創始した霍山 派、そのほか多くの支派があった。

 

 

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