道教と仙学 第5章
第5章 道教の現状
清代以降、道教は変化することなく存続していった。1911年に清王朝が滅び中華民国が成立すると、江西都督府は竜虎山の張天師の封 建特権を取り消し、「天師」の名称は世俗的な習慣となった。1919年の「五四運動」の時には、青年学生の中に科学と民主の思潮が起こ り、封建宗法思想の浸透していた道教もそのあおりを受け、その教義・教理の基盤だった封建倫理は揺れ動いた。1928年、国民党は神祠の 存廃条例を発布し、いくつかの道教の観や庵を学校・機関・兵営などに改め、民間道教の俗神の祭祀も制限した。社会一般的に、占卜・推命・ 看相・符咒・駆邪および装神弄鬼などの内容の浅い方術が正当な道教であると誤解されていたので、道教は急激な社会変革の中で封建社会の迷 信的な体系として知識階級から遺棄された。この時期、道教界の人士は道教を復興させようと努力した。北京白雲観の全真道士は1912年に 「中央道教会」を結成し、上海の正一道士も「中華民国道教総会」を結成することを計画した。また、道書の編集・出版も進展した。1923 年には、康有為・梁啓超が発案し、徐世昌が資金援助することによって北京白雲観の所蔵する明版《道蔵》を写し取った。これが中国の大図書 館に保存されている上海涵芬楼影印線本《道蔵》である。その後も守一子が《道蔵精華》を編集し、中国の道教文化を広く人々に知らしめた。
中国の近代史はアヘン戦争から始まった。その後、太平天国の農民革命、戊戌変法維新運動の鎮圧、義和団運動、八国連合軍の侵略、辛亥 革命、北洋軍閥の統治と混戦、抗日戦争などの大きな歴史的事件が続き、世の中は混乱した。道教も中国の社会体系の構成要素の一つとして歴 史の作用を受けた。動乱の時代の中で社会の各階層の人士が道教に精神のより所を求めたほか、全国を震撼させた義和団運動、北方に広まった 「紅槍会」にも民間道教の影響が見られた。当時の中国は儒教・道教・回教・耶蘇教(キリスト教と天主教を含む)の5つの宗教が盛んに行わ れ、道教教団の勢力は相対的に弱かった。しかし、全国の十方叢林や著名な子孫廟はなお健在で、宮観に常住する職業道士は五万人を下らず、 各地に散在する道士はさらに多かった。中国の歴史的な変革の中で、道教界の人士も全国の人民と密接な関連を持った。例えば、武功に卓抜し ていた武当山の徐本善道長は、1931年に賀竜元帥の率いる労働者農民の紅軍を助けたが、のちにそのために1932年に均州地方の民間団 体の反動分子によって殺害された。1938年には茅山の恵心白道長らが陳毅・粟裕の率いる新四軍を支持し、祖国の危急を救うため抗日斗争 に参加した。動乱の時代には、難民たちが道教に逃げ込み、道士の文化水準は非常に低かった。しかし、彼らも社会の変革に絶えず足並みを揃 えて進んだ。道教の歴史上には、近代にも優れた道士や著名な学者がいた。道教界では、沈陽の岳崇貸や成都の易心瀅、また李理山・喬清心・ 蒋宗翰などが大きな影響力を持っていた。著名な道教学者としては陳攖寧・房理家・伍止渊などがいた。陳攖寧は1936年に上海に「中華道 教会」を設立し、「中華仙学院」を創設した。彼は《揚善半月刊》や《仙学月報》も出版し、近代道教を切り開いた。陳攖寧をはじめとする学 者たちは内丹仙学を発展させ、道教文化を広く知らしめた。また、道教文化の学術的研究も徐々に進展した。劉師培の著した《読道蔵記》、許 地山の著した《道教史》、傳勤家の著した《道教史概論》・《中国道教史》、劉鑒泉の著した《道教征略》などは、道教文化を研究した主要な 著作である。
1949年に中華人民共和国が成立すると、中国大陸の道教は新しい時代へ入った。1949年から1957年までが、大陸の道教の発展 の第一段階である。この時期、道士たちは農業・林業・観光業・医薬業・手工業・サービス業などの生産活動に従事した。1956年の夏、沈 陽の太清宮の方丈の岳崇岱は易心瀅・喬清心・汪月清・万昭虚・楊祥福・陳攖寧・孟明維などと連絡を取り、全国的な道教組織を設立する計画 を立てた。この計画は、政府の支持を得て、1957年の5月に、中国道教協会が成立し、会は北京白雲観に設けられた。道教協会の規約は、 「全国の道教徒を連係・団結し、道教の優れた伝統を継承・発揚する。人民政府の指導の下で、祖国を愛護し、国家の社会主義建設を積極的に 支持し、世界平和を守る運動に参加する。政府の一貫した宗教自由政策を助ける」と規定している。
1957年の夏、中国共産党は党の作風を整頓し右派を粛清する政治運動を全国的に展開した。この運動は道教界にも波及した。
十年間にわたる「文化大革命」は、中国大陸の道教の発展の第三段階である。
1976年から、中国大陸の道教の発展は第四段階に入った。
推定によると、現在、叢林や宮観に常住する全真道士は一万人近くおり、子孫廟に常住する全真道士は二千人近くいる。また、各地に散在 する民間の正一道士も一万人近くいる。今では道教の活動を回復した宮観は411カ所あり、農村の小さな子孫廟を加えると全国の道教の活動 場所は千カ所近くある。中国道教協会が活動を回復すると、《道協会刊》も復刊された。これは1987年に《中国道教》と改版され、国の内 外に向けて発行されている。また、中国道教協会は中国道教学院や道教文化研究所も設立し、台湾・香港・澳門の道教界とも連携を保ち、ヨー ロッパ・アメリカ・東南アジアの道教界および道教学者と友好的な交流を展開している。
中国の台湾・香港・澳門などの地域では、道教はずっと盛んに行われてきた。第63代天師の張恩溥は台湾で正一道を伝え、台湾の正一道 を盛んにした。全真道の道士は出家して道観に住み、妻を娶らず、戒律を守らなければならない。しかし、正一道の道士のほとんどは火居道士 であり、道院に住まず、妻を娶って子供をもうけることも許される。彼らは、普段は俗の服装を着ていて、宗教活動に参加する時だけ道装を着 る。台湾の道教には多くの道派があり、道士は「紅頭道士」と「烏頭道士」に分けられる。天師派、老君派、霊宝派、神霄派、閭山三女乃派な どは多くが紅頭道士である。茅山派の玉京道士、竜虎山正一派の玉府道士、武当山派の北極道士、清微派の天枢道士は烏頭道士である。台湾の 寺廟には道教に属するものが多く、4100カ所余りある。現在第64代天師の張源先が台湾で正一道を伝え、道教の斎醮などの法事を行う一 方、《中国道教嗣漢天師府組織規程》などの規則を制定し、道教を台湾の現代社会に適応させている。そのほか、台湾の道教界の人士も新たに 《台湾省道教会章程》を制定した。学者たちも多くの道書や《道蔵》の影印を出版し、新たに軒轅教という道派も創始され、道教の改革が試み られている。著名な道教学者の蕭天石氏は《道蔵精華》を編集し、多くの丹経や道書を出版し、国の内外に内丹仙学と道教文化を広く知らしめ た。
香港地区の道教は明代の頃から盛んになり、道教は仏教・儒教・天主教・キリスト教・イスラム教とともに香港の六大宗教に数えられる。 民国の初年には、清王朝の遺臣が香港に難を逃れて住み着いた。彼らは道教をよりどころとし、香港で道教を発展させた。香港の学者の黄兆漢 と鄭火韋明が著した《香港道教》(《世界宗教研究》1991年第1期)によると、香港には先天道・全真道・純陽派の三大道派がある。全真 道は龍門派が最も盛んである。純陽派は呂祖を信奉し、八仙を祭祀する。この派はさらに太乙門と蓬莱派に分かれている。先天道は観世音を祭 り、老子・孔子・釈迦牟尼などの三教の聖人を崇拝し、済公活仏や弥勒仏も祭祀する三教合一の宗教である。この先天道は民間宗教の特徴を備 えている。先天道の観音大士と一貫道の無老生母は似通ったところがあり、一貫道となにがしかの関係があることを物語っている。実際、台湾 や香港・澳門の地域では一貫道がずっと盛んに行われていた。それは三教合一どころか「五教帰一」(儒教・仏教・道教・耶蘇教・回教)を主 張し、信徒は非常に多い。香港には宮観・道堂が百以上も林立し、道士・女冠は千人以上に達し、信徒は十万人にものぼる。香港道教連合会が 香港の道教団体を取りまとめる名義上の機関である。各々道派の団体は学校を経営し、医療・教育・文化・社会福祉のサービスを市民に提供 し、道教の刊行物を出版している。それらの団体は香港の社会で比較的高い位置にあり大きな影響力を持っている。
道教の宮観は、唐代以後全国の名山や大都市にあまねく分布するようになった。それらは時代を重ねるうちに、栄えるものもあれば廃れる ものもあった。現在残っている宮観のほとんどは修復中であり、観光の景勝地となっている。そのうちの21カ所が、国家によって重要な宮観 に指定されている。以下に、道士の住む比較的有名な宮観を簡単に紹介する。
北京白雲観:もともとは唐代に建てられ天長観と呼ばれていたが、元代に長春真人邱処機がここに住んでいたので、長春宮と改名した。邱 長春が「羽化」した後、その遺骸を処順堂(丘祖殿という)に葬り、増築して白雲観となった。明の正統八年(1443年)に正式に白雲観と 称した。清代に再び修理して全真道の三大祖庭の一つとなり、全真第一の叢林と言われた。現在の白雲観は本来の一部分だけである。その中に は玉皇殿・老律堂(律師が戒を伝えた場所である)・四御殿・邱祖殿・三清閣・八仙殿・呂祖殿・元君殿(碧霞元君を祭祀する)・元辰殿(六 十甲子太歳と斗姆を祭祀する)などがある。白雲観は現在中国道教協会の所在地となっている。
沈陽太清宮:清の康熙二年(1663年)に建てられ、もとの名前を三教堂といった。東北地区の全真道最大の叢林である。
龍虎山天師府:江西省貴渓県の龍虎山は漢の天師府を継承した正一道の祖庭である。現在上清鎮天師府の保存は良好であるが、龍虎山上清 正一宮は荒廃している。
茅山道院:句容県の茅山は地肺山・句曲山とも呼ばれ、道教の第一福地、第八洞天で、道教の宮観も比較的多い。現在元符万寧宮・九霄万 福宮・崇禧万寿宮などの道観があり、多くは正一派の道士が居住している。
杭州抱朴道院:杭州の西湖の葛嶺に、葛仙殿・抱朴廬などがある。葛洪が丹を煉った場所であると伝えられている。
千山無量観:鞍山市千山にあり、老君殿・三官殿などの建築物がある。全真道の十方叢林である。
成都青羊宮:唐代にはじめて建てられ、現在混元殿・三清殿・八卦亭などがある。その傍らには二仙庵がある。
青城山天師洞:張陵が修道した場所と言い伝えられ、常道観ともいう。現在観内には三清殿・三皇殿・黄帝祠などがある。
青城山祖師殿は呂祖・張三丰などを祭っている。
泰山碧霞元君祠:天仙聖母碧霞元君のほかにも送生娘娘・眼光娘娘を祭祀し、香の火の絶えない聖地である。
嶗山太清宮:嶗山には太平宮・上清宮・白雲洞・明霞洞・斗姆宮などの道教の宮観があり、太清宮が首位になっている。現在嶗山太清宮は 全真道の重要な宮観である。
武当山紫霄宮:武当山は道教の聖地であり、宮観も多い。紫霄宮は規模が大きく、真武(玄武)大帝を祭祀している。
武当山太和宮:武当山天柱山に位置する。明代に建てられ、太岳太和宮とも呼ばれる。
武漢長春観:武漢市内にある重要な道観である。太上老君・呂祖・七真などの道教の仙真を祭っている。
玉隆万寿宮:江西省南昌西山にあり、妙済万寿南宮とも呼ばれる。許真君を祭る浄明道の祖庭である。
周至県楼観台:終南山の最も古い道教の宮観であり、老子・関尹の諸神を祭っている。道教の聖跡も多い。
嵩山中岳廟:河南省登封県の境内にあり、秦にはじめて建てられた。現在は中岳大殿や御書楼などがあり、道教の聖地となっている。
羅浮山冲虚古観:東晋の葛洪が丹を煉った場所である。現在、葛仙祠・黄大仙祠・呂祖殿・稚川丹竈などがある。
西安八仙宮:宋代にはじめて建てられた。鍾離権と呂洞賓が道を伝えた場所と言われ、八仙・薬王・斗姥の諸神を祭っている。
華山玉泉院:陜西省華陽県華山の張超谷にある。陳摶が道を修めた場所と言われ、希夷洞などがある。
華山鎮岳宮:華山の西峰にあり、西岳大帝を祭っている。
華山東道院:もともとの名称は九天宮という。九天玄女を祭っている。
上海白雲観:清代に建てられ、上海市道教協会の所在地である。多くは正一道士である。
蘇州玄妙観:現在、唐代の呉道子が描いた老君像や顔真卿の筆跡を刻んだ碑を所蔵している。三清の諸神を祭っている。
盧県重陽万寿宮:陜西省盧県祖庵鎮にある。全真道の祖の王重陽の「遺蛻」を埋葬した場所であり、全真三大祖庭の一つに数えられる。祖 庵碑林などがある。
山西芮城県永楽宮:山西省芮城県永楽鎮にある。呂洞賓の生誕地と言われ、全真三大祖庭の一つである。現在は芮城県北竜泉村に移されて いる。
そのほかの有名な道観としては、広州市越秀山三元宮、広東恵陽市玄妙観、湖南省衡山玄都観、四川省灌県二王廟、陜西省華陽県西岳廟・ 雲台観、河南省鹿邑県太清宮、湖北省均県武当山南岩宮・遇真宮・復真観、浙江省余杭県洞霄宮、杭州玉皇山福星観、杭州黄竜洞、南京市朝天 宮、北京市東岳廟、青城山の建福宮・圓明宮などがある。
現代、中国大陸で宮観に住む道士は、基本的には全真道か正一道のいずれかの道派に属している。国内の道教の宮観は大きく二つの種類に 分類できる。一つは子孫廟(小廟)であり、もう一つは十方叢林(十方常住ともいう)である。子孫廟は清代以来の私有財産に属する。十方道 衆は受け入れず、師父は廟内の「当家」で住持とも呼ばれ、徒弟を受け入れることができる。廟の財産は師父から徒弟へ相伝されるが、戒を伝 える権限はなく、鐘板を掛けることはできない。十方叢林は道教団体の公有財産である。道士はそこに投宿することができる。戒を伝えること ができるが、徒弟を受け入れることはできない。十方叢林は道士が共同で住み宗教活動を行う場所である。十方叢林も付近に小廟を設けること がよくある。各地を行脚する道士はまずその小廟で経典を学習し、それから叢林に投宿した。子孫廟の中には鐘板を掛け人々が逗留できるもの もあり、子孫叢林あるいは子孫常住と呼ばれる。国内の十方叢林には北京白雲観・沈陽太清宮・勞山太清宮・羅浮山冲虚観・周至県楼観台・上 海白雲観・武漢長春観・成都市青羊宮・常州市玄妙観などがある。子孫廟には千山無量観・青城山天師洞・武当山紫霄宮・天台山桐柏宮・河南 中岳廟・陜西龍門洞などがある。現在の廟の財産はすべて国有になってはいるが、やはり道観によって管理されている。教団の制度はほとんど 古くからの伝統を踏襲しているが、かなり融通を利かせている。十方叢林には叢林の教務を管理し道観の責任を負う「方丈」が設けてあり、徳 が高く人望が厚い道士がこれを担当する。方丈は戒を伝えることができ、戒を伝えている期間は律師ともいう。その下に道観の事実上の指導者 である監院があり、俗に当家といい、住持ともいう。これは教団の人々によって公選される。ほかに道観内の大小の事務を処理し、監院を補佐 する都管がある。監院の下には客堂・寮房・庫房・帳房・経堂・大厨房・十方堂・号房などの執事の部門が設けてある。その執事の人員には三 都(都管・都講・都厨)・五主(堂主・殿主・経主・化主・静主)・十八頭(庫頭・庄頭・堂頭・門頭・茶頭・火頭・水頭・飯頭など)の名称 がある。
十方叢林の道士は、毎日五更(午前3時~5時)に起床し、これを「開静」という。服装を整え、殿堂や庭に水をまいて掃除したあと、殿 内に集まり早壇功課経を読む。早壇の日課が終わると齋堂で朝食をとり、そのあと各自の執事や当番(殿の当番や参詣者の接待など)によって 仕事をする。夜も集まって晩壇功課経を読み、真夜中に目が覚めた時にはただ静かにして寝る。宮観では鐘をたたく音や鼓を鳴らす音、雲板を 打つ音が道士の日常生活の合図になっている。たとえば、北京白雲観の道士が早壇功課経や晩壇功課経を読む時には、鐘の音を合図にして一斉 に殿内に集まり、香を焚いて礼拝し、必ず声の調子をとって咒を唱え経を読む。《早壇功課経》には《太上老君説常清静経》・《無上玉皇心印 妙経》・《消災護命妙経》・《禳災度厄真経》や浄心・浄身・安土地・浄天地解穢・祝香などの呪文および金光神咒のほか、三清・弥羅・天 皇・皇主・后土・神霄・南五祖・北五祖・七真などの宝誥も含まれる。一般には《常清静経》・《心印妙経》を読み、玉帝・雷祖を拝し聖誕日 に当たる仙真を布告する。《晩壇功課経》には《救苦妙経》・《昇天得道真経》・《解冤抜罪妙経》および斗母・三官・救苦・玄天・文昌・呂 祖・薩祖などを拝する誥が含まれる。道教では「戊」の日には宗教活動を行わない。この日には、香を焚いたり経を読む法事は行わず、「戊不 朝真」として忌む。このほか、道教には非常に多くの宗教的な祭日があり、その日には壇を設けて慶賀する。たとえば、三清節(冬至は元始天 尊聖誕、夏至は霊宝天尊聖誕、2月15日は太上老君聖誕である)、三元節(正月15日の上元天官節・7月15日の中元地官節・10月15 日の下元水官節)、3月3日の王母聖誕蟠桃会、2月初六の東華帝君聖誕、10月初3日の三茅真君聖誕、12月22日の王重陽祖師聖誕およ び五臘節などがある。北京白雲観で盛大に祝われる祭日には、正月初七、初八の看順星(参詣者が元辰殿で各自の本命の神を参拝する)、正月 初九の玉皇聖誕、正月十九日の邱長春真人聖誕(燕九節)、二月十五日の太上老君(道徳天尊)聖誕、四月十四日の呂祖聖誕がある。こうした 道教の祭日には、道士たちは斎譙などの宗教活動を行う。そのほか、当地の民間風俗と融合し、人々が廟へ詣でる民俗的な祭日もある。
道教は中国の伝統文化に不可分の構成部分であるが、それは中国本土に限らず、朝鮮・日本・東南アジア諸国にも伝播している。
日本では、奈良・平安時代になって多くの道教文化が伝わった。日本の学者の福永光司らは日本での道教の伝播と日本文化への影響につい て緻密な研究を進め、日本への道教の伝播の証拠も示している。道教文化は日本文化に浸透し、日本文化と融和してきた。例えば、日本の庚申 信仰や泰山府君信仰には、道教の影響を見ることができる。
朝鮮では、さらに早くから中国の道教文化の影響を受け、その度合いも大きかった。唐代の頃には朝鮮でも道観が非常に栄え、道教が信奉 された。道教の経書・斎譙・宮観建築・金丹術などの修持方術はすべて伝わり、道教の諸神も信奉された。朝鮮の風流道は、ほとんど道教が変 化したものである。
隋・唐の時代には、道教はカンボジアなどの東南アジアの国家にも伝わった。道教の女神の天后媽祖も東南アジア各国の人々に信奉されて いる。
近代になると、道教文化は世界各国の学者に注目され、道教を研究した論文や学術的な専門書も少なからず発表されるようになった。フラ ンス・日本ではかなり以前から道教が研究されているし、アメリカ・イギリス・ドイツ・オーストラリア・オランダ・イタリア・ソ連などの国 には傑出した道教学者がいる。イタリアのペルージア(1968年)、日本の長野県蓼科(1972年)、スイスのチューリヒ(1979年) で相次いで国際道教研究会議が開かれ、道教文化を世界的に知らしめた。
道教と仙学の目次へ