文始派修真要旨

 

 

蕭天石著『道家養生学概要』(台湾・自由出版社)より

神坂風次郎 訳 

 

 

 文始派は関尹子を開祖とする。関尹子は名を喜といい、関令の職にあった。老子と同時代の人で、老子道徳経の五千 言は彼の申し入れに応えて老子が著したものである。劉向は、「喜の著はおよそ九篇で、名を関令子という」と述べている。漢書芸文志には関尹子 九篇が記載され、周の尹喜撰とされている。これが後世の文始真経と呼ばれるものである。その著作は老子道徳経の後を 受け、それに近似した道を論じている。荘子の天下篇には古代の道術として老子と関尹子を一緒に述べている。その大要は根本を貴んで神を重視 し、冷淡にして為すことなく、静かにして自らを保ち、ただ虚無に身を任せ、物に従い自然に任せることである。だから秦以前の純粋哲学あるいは 純粋道学の一派でもあり、老子と同様に神秘主義的な色彩はなく、その隙間をうかがえるものである。

 私は影印本で刊行した『文始真経』の例言の中で次のように述べた。

 

 道門の丹道派の中では、重陽派が最大であるが、文始派が最高である。高尚すぎると一般には歓迎されないという道理があるように、歴史上で 文始派を修めた者は極めて少ない。しかし盛んでないのもそれはそれでよいのである。数千年来関尹子の述べる道に最も精通していたのは、老子と 並び称される古代の博大な真人、荘子であろう。荘子の天下篇に言う。「根本こそ精妙で、物は粗雑で、物はいくら積み重ねても不足であると考 え、静かに落ち着いて、不思議で何もかも見通せる働きに身を寄せる。古代の道術にはこのようなものがあった。関尹子や老子はその伝承を聞いて これを喜んで実践し、『常』と『無』と『有』という概念をたて、『太一』という究極的なものの概念を中心にすえ、表面的にはやわらかく弱々し くへりくだり、実質的には空虚にして万物を損なわないようにした(『荘子・天下篇』)」。また関尹子の言を引いて言う。「自己に居ることがな ければ、物の現れは自ずとはっきりする。その動きは水のようであり、その静かさは鏡のようであり、その反応は音の響きのようである。亡くなっ たようにぼんやりし、澄み切ったように静寂である。これと同じくする者は和らぎ、これを得る者は失う。人の先に立ったことはなく、常に人に従 う(『荘子・天下篇』)」。これは老子の言葉とよく符合している。文始真経の全文を見てみると、その道は虚無を根本 とし、性を養うことを主旨としているのにほかならない。虚であれば姿はなく、無であればとらわれることがないので、極めて博大で高度である。 性を養うには神を貴び、形を養うには気を貴び、命を養うには精を貴ぶ。そして心を養うのであれば清静虚無以上のものはない。精と気を一つに し、心と性を一つにし、形と神を一つにすれば、自然と速やかに聖人の領域へ超越できるのである。ただ文始派の虚無大道の修練は、手を付けるの が最も難しい。自分自身の真陽の気を修めて天地の真陽の気とつなげ、天地の虚無の真機を盗んで自分の神気の真機を補うことがすべてである。見 たところ、それはまるで際限がなく脚の置き場もないようであるが、実際は修練をしていきさえすれば、自然と虚の中に実を有し、無の中に真を有 するようになるのである。秘訣の源泉は『老子道徳経』や『黄帝陰符経』であるがこれらを巧みに用いて変化させ、その趣旨を奪い、盗み、取り入 れ、消化することができる。すなわち古代の真人の言う、「もし無の中にある姿を認識すれば、君は伏羲を自ずと見るだろう」というのがこれであ る。

 

 これは文始派の道法を概括したものである。

 関尹子はこう考えていた。「まさに為すことはできず、到達することはできず、推測することはできず、分別することはできない。だから天と いい、命といい、神といい、玄といい、それらをまとめ合わせて道という(『関尹子・一宇篇』)」。「天ではない物は一つもない。命ではない物 は一つもない。神ではない物は一つもない。玄ではない物は一つもない。物はすべてそのようなのだから、人がそうでないことがあるだろうか。人 はみんな天であるということができる。人はみんな神であるということができる。人はみんな命を致し玄に通じることができる(『関尹子・一宇 篇』)」。説明にはまったく飾り気がない。誰もが聖人になれるという儒家の説や、誰もがブッダになれるという仏教の説と主旨は同じである。後 世の丹家も誰もが神仙になれると教えたのである。だからまたこうも考えていた。「わが道をよくするとは、一つの物の中に天を知り神を尽くし、 命を致し玄をつくることである(『関尹子・一宇篇』)」。呂祖は詩の中で、「一粒の粟の中に世界を蔵し、半升の鐺の内で山川を煮る」と述べて いるが、これらは実にその意味するところがよく一致している。

 関尹子は言う。「道について聞いた後、作為することや執着することがあるというのは、人を所以としていることである。作為することや執着 することがないというのは、天を所以としていることである。作為する者は必ず敗れ、執着する者は必ず失う。だから朝方に道について聞けば、夕 方に死んでもかまわない。(『関尹子・一宇篇』)」。これは後世の丹家が精・気・神に執着して修行を始め、作為することがあるのと同じように 言えるものではない。また言う。「一情がはっきりしないのが聖人であり、一情が善いのが賢人であり、一情が悪いのが小人である(『関尹子・一 宇篇』)」。「小人は悪に帰着することをはかり考える。君子は善に帰着することをはかり考える。聖人は得ることがないところに帰着することを はかり考える。ただ得るところがないので、道を為すのである(『関尹子・一宇篇』)」。得ることがないから大いに獲得し、成すことがないから 大成する。これは聖人だけが知っていることである。何も所有することがなく、何も作為することがなく、何も執着することがないということは、 虚の極みであり、無の極みでもある。このようにできると、「上には天を見ず、下には地を見ず、内には自分を見ず、外には他人を見ず(『関尹 子・二柱篇』)」、「自分は天地に通じ、天地は自分に通じ、自分と天地は、くっついているようで離れているようであり、混じることなく純粋に それぞれに帰着する(『関尹子・二柱篇』)」。荘子の言うところの「同於大通」というようなものを有するのである。だから関尹子はまた「識を 消し去ること」や「智を消し去ること」も主張し、「他人と自分をごたまぜにし、天地をいっしょにすること(『関尹子・二柱篇』)」を主張す る。これは天に通じ人がこれと一つになるという学問である。

 関尹子は言う。「精を全くするとは、是非を忘れ、損得を忘れることであり、こちらに関することであちらのことではない。神を抱くとは、明 暗の時機をうかがい、強弱の時機をうかがうことであり、あちらに関することでこちらのことではない(『関尹子・四符篇』)」。また言う。「多 くの水を一つの水に合わせるように、自分の精を天地万物の精と合し、多くの火を一つの火に合わせるように、自分の神を天地万物の神に合し、異 なる金を溶かして一つの金にするように、自分の魄を天地万物の魄と合し、異なる木を接ぎ木して一つの木にするように、自分の魂を天地万物の魂 と合する。そうすれば天地万物は、すべてわが精でありわが神でありわが魄でありわが魂である。何が死に、何が生まれるのか(『関尹子・四符 篇』)」。これは最上乗の一つの身で大いなる造化と合する丹法であり、その取りかかりは思・慮・情・識・知をなくして虚無に帰することであ る。だからまた言う。「ただ聖人は自分には自分がないことを知り、物には物がないことを知っている。すべては思慮がこれを計り考えることに よってある。それで万物がやって来ることに対して、自分はすべて性によってこれと向き合い、心によって向き合わない。性は、心が芽生える前の ものである。心がなければ意はないのである(『関尹子・四符篇』)」。このようにすれば、天地の多くのものをごたまぜにして一つにすることが できるのである。これはすべて性学・性宗の原則である。その接ぎ木の説は、後世の丹家の「栽接法」の源流でもある。

 関尹子は言う。「これが道である。精神を見ることができれば生を長らえる。精神を忘れることができれば生を超える(『関尹子・四符 篇』)」。この言葉は極めて精密で、その理は不変的なものである。それに続けてまた言う。「金が水を生じるように気を吸うことで精を養い、木 が火を生じるように風を吸うことで神を養う。だから外から借りたもので精神を延ばせる。漱水で精を養えば、精はだから窮せず、摩火で神を養え ば、神は窮しない。だから内から借りたもので精神を延ばせる。しかし精神を忘れて生を超えるというようなことをわたしは言ったのである(『関 尹子・四符篇』)」。仙学真詮はこれについて言う。「神仙の説では、養生は必ず用いなければならないものである。し かしその道には2種類ある。文始経は、『精神を見ることができれば生を長らえ、精神を忘れることができれば生を超える』と述べている。精神を 忘れるというのは、虚が極まり静が篤くなると、精が自然に気に変わり、気が自然に神に変わり、神が自然に虚無大道に戻っていくという学問であ る。精神を見るというのは、虚静を根本として火符を運用し、精を気に変え、気を神に変え、神を虚に戻すことであり、これは神で気を制御する技 術である。虚無大道を学ぶには、精や気をどうこうすることはない。道と親しくして真と合すると、神も形も玄妙になり、有ったり無かったり隠れ たり顕れたり、はかり知れない変化をし、寿命も無限になる。性を修めたら自然と命も修められるのである。上に挙がることで下を兼ねるのであ る。神によって気を制御するには、精や気を扱う。元の和を保って育み、休むことなく運行すると、非常に和やかな状態になり、いぶしたり溶融し ていくと、形も神と合し、長生不死になることができる。命を修めてそこに性が存するのである。下から上へ向かって行くのである。この二つは大 小は同じではないが、どちらも人に有益であり、養生に用いてもよいものであり、がんばっても成果のあがらない旁門の小術ではない」。これは文 始派の上乗修真の秘訣を率直に説明している。

 仙学真詮はまた言う。「さて三関に有為から無為に入るのは、漸法である。上の一関を修めることが下の二関を兼ねるのは、頓法である。頓法 ではただ実践するのは錬神還虚の修練だけで、すぐに虚が極まり静が篤くなった境地に入る。精は自然に気に変わり、気は自然に神に変わる。要点 を手にするだけであり、命は自分が養うのに任せる。錬神還虚という関は、最も簡易で、最も明快である。道に入る者は、これを詳細に考慮するの がよい」。ここではさらに一歩進めて取りかかりと仕上げを合わせて一つにした修練であることを指摘し、学ぶ者が実践の初歩を獲得できるように してある。これは慈悲の至りである。

 前に文始派は最も高度であると書いたが、これは私一人の意見ではない。仙学真詮は、ほかの丹法の上乗では失われたところもあると思われる が、この派の虚無大道は最も完備していて不純物がないと指摘している。それについて言う。「修真辨惑論上品丹法によると、中和集の最上一乗 と、指玄篇の白雪虚無黄芽圓覚之説は、どちらも虚無大道の妙を知っているようである。ただ見解は一貫せず、間に合わせのようである。上は性学 によじ登っても熟練することがなく、下は命宗を恋しく想って諸々の喩えでも切り捨てられなければ、二つとも失うことになる。虚無大道に、どう してわずかでも不純物を混入することができるのか?」。読者はここで取るところと捨てるところのあることを知るべきである。

 

 

  1. 関令 … 関所を守る役人のこと。
  2. 関尹子九篇 … この書が後世の文始真経と同一であるとするのは、あくまで名目上の話である。漢書芸文志に記載されている『関尹子九 篇』が現存する『関尹子』あるいは『文始真経』と同一であるかは不明である。現存する『関尹子』は関尹子に仮託された偽作である。
  3. 自己に居ることがなければ ~ 常に人に従う(『荘子・天下篇』) … 全く同じ文章が関尹子・三極篇に見える。
  4. 仙学真詮 … 著者不詳。三巻。もとは明の葆真子陽道生が伝えていた。明の嘉靖年間に元同子が葆真子から入手し、削除・潤色して世に 出した。巻上一巻では性学について詳しく述べ、巻下二巻では命学を論じている。台湾の自由出版社の『道蔵精華』第四集に収録されている。