五行学説

   『陰陽五行学説入門』
     朱宗元・趙青樹 著
中村璋八・中村敞子 訳
       (たにぐち書店)

 

 五行学説は陰陽学説と同じように、中国古代の素朴な唯物論と弁証法思想を具えた哲学理論であり、それはかつて歴史上に重要な地位をしめて いた。

 

(1)五行概念の形成

 “五行”概念の形成は大変早く、少なくとも商・周の時代には生じていた。

 “五行”の概念は、古人が生活の中から形成したものである。古人は、木、火、土、金、水、この五種の物質を発見した。これは人々の生活に 欠くべからざるものである。そこで“五材”の概念が生じた。『左伝』に、「天は五材を生じ、民は並びにこれを用う。一を廃するも可ならず」と 言っている。自然界は我々に五種の材料を造った。人々はこれを用い、どれが欠けてもいけない。『尚書』にも、「水火は、百姓の飲食するところ なり。金木は、百姓の興作するところなり、土は、万物の資生するところなり。これ人の用となす」と言っている。水、火は、人々の飲食に必需な ものである。金、木は人々の労働、建築のよりどころであり、土は人々がこれによって生存できるものである。万物はみな土より生じ長じたもの で、これらはみな人々によって利用されてきたものである。“五材”の概念は、人々の生活の必要から考え出されたものであり、人々の生活に欠く べからざる基本的物質である。

 木、火、土、金、水は、人々の生活に必要なものであり、人々の日常の用具はこれらの物質によって作られたものである。例えぱ、生活で用い る素焼きのつぼは、土を用いて水を加えて製作した後、さらに火を用いて焼いてでき上がったものである。家屋は、木、土、水の三者で作られ、狩 や耕作に用いる工具は、木と金によって制作され、でき上がったものである。これらの事例にもとづいて、古人はさらに一歩進めて、自然界の万物 もこの五種の基本物質によって構成されていると推測した。まさに『国語』に、「故に先王は土と金、木、水、火とをもって雑えてもって百物を成 す」と言うことである。それ故に、以前の聖賢は、土と金、木、水、火をまぜて一緒にし、色々なものを制作した。このように、木、火、土、金、 水を自然界の万物を構成する“元素”とみなした。これはあきらかに、理に合わないことであるが、具体的な物質を一種の抽象的属性に変える方法 はむしろ少し合理的でもあるようだ。それ故に『尚書』洪範に、「水は潤下と曰ひ、火は炎上と曰ひ、木は曲直と曰ひ、金は従革と曰ひ、土は稼栢 と爰う」と言っている。水は滋潤と下に流れる特性を具え、火は温熱と上昇の待性を具え、木は曲直し生長する特性を具え、金はたやすく変化する 特性を具え、土は生じて成長し、取り入れをたすける特性を具えている。五種の具体的物質の中からそれらの特性を抽出し、木、火、土、金、水の 意味を作った。このように、“五行”は具体的物質から、ただ五種の属佳を示す抽象概念と変化した。

 この時期になって、哲学上の“五行”概念は第一歩が形成されたといえる。“五”は、木、火、土、金、水のこの五種の属性をさす。“行” は、この五種の属性間の運動変化の法則性である。“五行学説”は、世界中の事物や現象は、その内部にすべて木、火、土、金、水、この五種の属 性を含んでいて、この五種の属性間の相互関係(すなわち相互の連係方式と運動状態)は事物、あるいは現象の発生と発展を決定する。事物、ある いは現象の間の差異性は、つまり、この五種の属性間の運動状態によって規定されるものであると認めた。

 戦国時代末期になると、鄒衍の“推演五行”を経て、精気学説を、陰陽学説と五行学説を合わせて一体とし、陰陽五行学説を創立した。これで 五行学説の理論をさらに完全なものとしたのである。

 

(2)五行学説の基本内容

 五行学説の基本内容は、五行帰類法、五行生克制化と五行乗侮を包括した。

1.五行帰類法

 五行帰類法は、五行が代表する属性をもって根拠とし、自然界の事物、あるいは現象のある一属性をそれと類比し、それによって木、火、土、 金、水の五つの類の中に帰属させ、五つの大きな系統を形成した。
 五行が代表する属性は、木、火、土、金、水で、五種の具体物質の中から取り出し提示したものである。

木の特性

 木、あらゆる草木をその中に包括する。その成長の特徴は、枝や幹が曲直し、力をつくして上へ、外へとの広がり、これによってさらに多くの 日光を獲得し、生存のためによりよい条件を得ようとする。その枝は柔軟で、極めて弩曲しやすく、また復元しやすい。それは強力な生命力を具 え、ただ一定の条件がありさえすれば、たくましく生存しつづけることができる。古人は木の特性を、生成発展、柔和、曲直ののびやかな広がりな どに帰納させた。

火の特性

 火が燃焼する時の特徴は温熱、光明、炎の上に向くこと、そして空気の上昇、流動を引き起こすことである。古人は火の特徴を、炎上、陽熱、 たち上るなどに帰納させた。

土の特性

 土は万物を受ける。万物はみな土より生ずる。これは土中には万物生長の必要因素が含まれていることを物語っている。万物は土中に埋まり、 よく腐燗し、しかも消失させる。古人は土の特徴を、長養、生化、受納、変化などに帰納した。

金の特性

 人類が最も早く発見した金属は錫である。その後は銅である。金の色は白というのは、錫を根拠に言ったのである。金属の特徴は、一は、熱伝 導のよいこと、それ故に人に清涼な感覚を与える。二は、汚れにくいことである。たとえ汚染されても、少し洗えばすぐ取り除かれる。三は、金属 の比重は大で、人に重厚な感じを与える。四は、金属は堅牢で強靱さに富んでいる。五は、金属は火の煉磨を得て、任意の鋳形に変化することがで きる。古人は金の特性を清原、清潔、粛静、収斂等に帰納した。

水の特性

 水は液体であり、いつも下に向かって流れる。水はよく物を湿らせ、これをして潤沢にして乾燥させない。水の性はもともと寒で、それはよく 火を消す。たとえ炎熱の夏の日であっても、井戸の中の水は、また極めて冷たく骨を刺す。古人は水の特性を、寒湿、下行、滋潤等に帰納させた。

 五行学説は、世界は木、火、土、金、水、の五種の属性を具えた物質から構成されていると認めた。それ故に世界の万物、あるいは現象はすべ て“五行”の属性を根拠に分類することができる。例えば一年は春、夏、長夏、秋、冬の“五季”に分けることができ、気侯変化は風、暑、湿、 燥、寒の“五気”に分けられ、方位は東、南、中、西、北の“五方”に分けられ、色彩は青、紅(赤)、黄、白、黒の“五色”に分け、生物の生命 過程は、生、長、化、収、蔵の“五化”に分け、味覚は酸、苦、甘、辛、鹹(しおからい)の“五味”に分けることができる。一日は平旦、日中、 日西、合夜、夜半の“五時”に分けることができる。人体には肝、心、脾、肺、腎の“五臓”に、胆、小腸、胃、大腸、膀胱の五腑に、筋、脈、筋 肉、皮膚、骨を“五体”に分け、目、舌、口、鼻、耳を“五官”、魂、神、意、魄、志を“五神”、怒、喜、思、悲、恐を“五志”等もある。

 以上の五季、五気、五化、及び人体上の五臓、五官等、みな属性類比の方法を通じて、木、火、土、金、水の五類の中に分類する。例えば、木 は生じ発展する特性をもっており、しかも春季には草木が芽ばえ発育する。これは生長の周期の始まりで、活力に満ちている。故に春は木類に属 し、草木がのび、大地に青が戻る。青色は木類に属する。中国の東方は海に臨み、風雨が農事にとって順調であり、気候は温暖でしめりがあって、 植物の成長に適している。故に東方は木に属する。生は成長過程の始まりで、活力旺盛である。故に生は木に属する。果実が成熟しない前は、その 味は酸味が多い。故に酸は木に属する。平旦は一日の姶まりで、太陽は東方より昇る。これは陽気の昇り姶める時である。故に平旦は木に属する。 このような推理演繹を通じて、類比を行い、春、風、青、東方、生、酸、平旦等を木類に帰属させた。人体に結びつけると、肝臓の機能は悪いもの を薄めて排泄することを特徴とする。それは理にかなっている。故に木に属する。胆と肝は表裏をなす。胆は肝に附随する。肝は筋を司り、筋は肝 によって養われる。肝は目に表われる。肝の様子はよく眼の黒白によって見わけることができる。肝は魂を蔵し、肝は怒を司る。それ故に人体の中 で、肝、胆、筋、目、魂、怒等は木類に帰属する。

 自然界や人体に対して、五行の属性を用いて分類を行うことができるということは、その前提に、自然界は一つの整体であり、人体も一つの整 体である、ということがある。その上、上面に列挙した季節、方位、気候、生命過程、色彩、昼夜、味覚及び人体の臓、腑、形体、官竅(人体の 孔)、意識、感情等、それぞれすべて一つの相対独立の整体を構成することができる。五行帰類法は、ただ相対独立の整体に適用し、分析と帰類を 行うだけである。一個の整体を構成できない事物や現象は、この一方法を採用することはできない。

 

2.五行の生克制化

 五行学説は、一種の分類法であるばかりではない。さらに重要なのは、事物内部運動の一般的法則を解明する学説である。事物はいつも分ける ことができ、常にいくつかの部分によって構成されている。その構成部分の間は、常に一定の方式で繋りをもち、かつ、たえまなく運動をしてい る。五行学説は、“生克制化”の理論を用いて事物を維持する内部の各構成部分の間の平衡や協調を解明する。すなわち事物の整体性、統一性と安 定性を維持する具体的方式である。

 古人は事物間の各種の連係方式を“互利”と“互害”の両種の関係に概括した。五行学説の中で“互利”関係を“相生”と称し、“互害”関係 を“相克”と称した。“相生”は、事物間相互資助、相互養育、相互促進の関係を示している。すなわち、互生、互助、互根、互用関係である。 “相克”は、事物間の相互克制、相互制約、相互対立、相互閾争と相互コントロールの関係を表わしたものである。五行学説は“相生”と“相克” の関係を用いて五行間の連係方式を説明し、事物、あるいは現象内部の平衡と協調を維持するメカニズムを説明する。

 五行の“生克”には、正常なものと異常なものがある。五行学説は事物間の正常な“生克”を“生克”と称し、異常な“生克”を“乗悔”と称 した。

 ① 五行の生克

 五行の“生克”は、五行の“相生”と五行の“相克”をさす。それは五行間の正常な相互資生と相互克制の関係をさす。

 五行“相生”には一定の順序がある。すなわち、木、火、土、金、水の順序に従って、相互資生を繰り返す。木生火、火生土、士生金、金生 水、水生木(木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず)である。

 五行“相生”の順序は、古人の自然現象に対する観察にもとづいて得られたものである。例えば、木をこすり合わせて火を取ることができ、木 の枝は火がつきやすい、それ故に、木はよく火を生ずと。物は火に焚かれ、灰となる。灰はすなわち土である。故に火はよく土を生ずると理解され た。金属は鉱石の中から取りだされてきたものである。鉱石はまた、土の下から発掘して出てきたものである。これは地下に埋蔵されていたもの で、古人は土の変化によって成ったものであると理解された。それ故に土はよく金を生ずるとした。水気はぴかぴかした金属の表面に水の玉を凝結 しやすい。その上に山の多くの場所には常に霧が多い。山には必ず石があり、石には多く鉱石がある。山の洞穴はいつもしめって潤沢であり、水が したたり泉が湧く。古人はこれらの水気は金気が変化して生じたものであると理解した。故に金はよく水を生ずとした。草木は土の中より芽ぶき成 長するけれども、日照りの地では草木は芽ぶき成長することはできない。必ずや水の湿潤を得て後に初めて生じ長ずることができる。それ故に水は よく木を生ずと理解された。

 『難経』は、五行の“相生”関係を、“母子”関係と称した。“生”むところの私を“母”とし、私が“生”むところを“子”とした。故に “木”について言うならぱ、水は木を生じ、水は木の“母”となり、木は火を生じ、火は木の“子”となる。

 五行“相克”も、一定の順序で進行するものである。もし木、火、土、金、水の順序によるならば、すなわち(木、火、土、金、水の)一つお きに“克”となる。すなわち木は土に克ち、土は水に克つ。水は火に克ち、火は金に克つ、金は木に克つ、となる。

 五行“相克”の順序も、古代の人が自然現象に対する観察から帰納したものである。土がさらに充実したならば草木は、いつも成長することが できる。ひとたび草木が成長すれば、土質も変化して軟らかくなる。草木の根は細く柔らかいけれど、しかし、結実した土も再びこれを阻むことは できない。それ故に言う、木はよく土を柔らかくする、と。すなわち、木はよく土に克つである。土は水をよく阻む。土堤はよく水の流溢、泛濫を 防ぎ、かつ水坑は土で埋められて後、坑は平で水は干上がる。故に土はよく水に克つである。水はよく火を消す。それ故に水はよく火に克つであ る。火は金属を溶かすことができる。それ故に火はよく金に克つである。金属刀具はよく木を伐る、故に金はよく木に克つである。それ故に、『素 問』宝命全形論に、「木は金を得て伐たれ、火は水を得て滅び、土は木を得て達し、金は火を得て欠け、水は土を得て絶える」と言っている。

 『内経』は、五行“相克”関係を“承制”関係と称した。承は踏襲の意であり、制は制造して監督するの意である。承制、すなわち後者が前者 に対して踏襲し、しかも制造して監督するの意である。例えば『素問』六微旨大論に、「相火の下、水気これを承け、水位の下、土気これを承く」 と言っている。水は相火の下で、相火の気を踏襲もし、また相火に対して監督作用もする。土は水位の下にあって、水気を承襲すると同時に、また 水気を監制する作用もする。『内経』はまた、五行“相克”関係を“相勝”関係と称した。すなわち“相克”の後は当然に勝の意味をもつ。また我 によって“克”される者を“所勝”と称した。すなわち、我がよく勝つところである。我を克するものを“所不勝”と称する。すなわち、我は勝つ ことができない。木を例にすれば、金は木に克つ、故に木は金に勝つことはできない。金は木の“所不勝”となる。木は土に克つ、故に木はよく土 に勝つ。土は木の“所勝”となる。

 五行の相互関係の中で、どの一行も、みなその外の四行と連係をおこす。これらの連係は、ほかでもなく、“相生”と“相克”である。その “相生”の関係は二つあり、一つは“生我”(我を生ずる)であり、一つは“我生”(我が生ずる)である。“相克”の関係も二つあり、一つは “克我”(我を克する)、一つは“我克”(我が克する)となる。木を以て例とするならば、木と水、火の二行は“相生”の関係で、水は木を生 じ、木は火を生ずる。故に木についていうならば、水は木の“生我”となり、火は木の“我生”となる。木と金、火の二行は“相克”の関係であ り、金は木に克ち、木は土に克つ、故に木についていうならば、金は木の“克我”となり、土は木の“我克”となる。

 五行の中のどの“一行”もすべて“生”と“克”の方式を通じて、しかもその他の四“行”と連係をおこす。それはその他の“行”の制約を受 けるし、またその他の“行”に対して制約作用をおこす。このように五行の間で相互依存、また相互制約の関係を形成する。したがって、それらの 間の相互平衡と協調を維持し、五行をして一つの有機的整体とならしめる。そこで五行中のどの一“行”もすべてその他の四“行”を離脱し、しか も単独で存在することはできない。いかなる一“行”の変化でも、すべてその他の四“行”に対して影響をおこすし、またその他の四“行”もそれ に対する作用を受けるであろう。まさにこのために、五行は一つの相当に厳密で、しかもまた相当に安定した構造となった。

 ② 五行の乗侮

 五行の“乗侮”は、五行間の異常連係方式である。それは五行間の量の異常によっておこされる克制異常、あるいは克制過剰の現象である。

 “乗”はまた“相乗”と称される。これは乗襲の意である。すなわち虚に乗じて、しかもこれを踏襲する、これは克制過剰の表現である。 “侮”は、また“相侮”とも称する、“反侮”は、自分の強さをたのんで、相手の弱みをおかす、侮が勝たないところの現象である。“相侮”も一 種の克制異常である。主な表われは反向克制をなす。すなわち正常相克の方向と相反する。それで、“反克”とも称される。

 五行“乗侮”の発生する原因は二つあり、一つは、一つの“行”の過剰によって五行間の平衡が許容される波動範囲を超えて、異常に盛ん過ぎ る状態が現われる。その異常に盛ん過ぎる結果が必然的にそれが克制した一つの“行”に対して(すなわち所勝)過度の克制が行なわれること、す なわち“相乗”である。同時にまた克制に対する一つの“行”(すなわち所不勝)、“反克”に進むこと、すなわち“相侮”である。二つは、一つ の“行”が過度に衰弱することによって、五行間の平衡が許容されるところの波動範囲を超えて、異常の不足が現われる。その異常の不足は一つの “行”として、その克制するところの一つの“行”(所勝)は、克制を無力にして、反対にそれに対して“反克”を行う。すなわち“相侮”であ る。それを克制する一つの“行”(所不勝)は、すなわちその異常な不足のために、相対的克制の過剰を現わす。すなわち、“相乗”である。『素 問』五運行大論に、「気に余りあれば、則ち己の勝つところを制して、しかして勝たざるところを侮る。その及ばざれば、すなわち己の勝たざると ころを、侮りてこれに乗じ、己の勝つところ、軽んじてこれを侮る」と言っている。つまり、言っているのはこの意味である。

 五行“相乗”は、克制が正常の範囲を超過して克制の多すぎる現象であり、それは克制の方向上では少しも異常ではない。それ故に、五行“相 乗”の方向と五行“相克”の方向は一致するものであり、また木は土に乗じ、土は水に乗じ、水は火に乗じ、火は金に乗じ、金は木に乗ずる、とい うことである。

 “相乗”は、相克が多すぎることである。それ故に臨床上では、普通に“相乗”を“相克”と称し、“相乗”の呼び方を用いるのは比較的少な い。例えば、木乗土のように、臨床上、多く“木克土”と称する。“水乗火”は、すなわち“水気凌心”と称する。それというのも、臨床が関係に 及んだところの多数は病理現象であり、生理上の克制に及ぶのは大変少ないためである。病理上の“相克”は、つまり“相乗”である。ただ、生理 性の“相克”だけが、“相乗”ではない。

 五行“相侮”は、五行の盛衰が正常の許容範囲を超えることによって、ある種の異常な克制を引き起こすことがある。それは克制の強度の上で 異常なところがあるかもしれないが、しかし主なものは、克制の方向の上で反対に向かった克制が現われることである。すなわち五行の正常な克制 の方向と相反している。それ故にまた“反克”と称される。五行“相侮”の順序は、木侮金、金侮火、火侮水、水侮土、士侮木(木は金を侮り、金 は火を侮り、水は土を侮り、土は木を侮る)である。“相侮”の臨床上の呼び方は不統一で、例えば、“土侮木”は、すなわち“土壅木郁”(土は 壅さがれ、木はさかんになる)と称する。“木侮金”は、すなわち“木火刑金”と称する。その他、“心火下灼腎陰”心の火は下って腎の陰を灼 く)は、すなわち“火侮水”の現象である。“肺熱伝心”(肺の熱が心に伝わる)は、すなわち“金侮火”の病理表現である。

 ③ 五行の生克制化

 五行の間に“相生”と“相克”の二種の連係方式が存在しており、それは事物内部の平衡と協調関係を維持している。また、事物の安定性、統 一性と整体性を擁護し、事物の正常な運動変化を擁護する。すなわち、事物の正常な生命過程を擁護する。“制”は監制、制約、すなわちコント ロール作用をおこすことである。事物内部のそれぞれの構成部分の間の相互監制、制約は、それらの間の平衡と協調を維持する。したがって、また 事物の安定性、統一性と整体性を擁護している。“化”は、すなわち変化である。これは事物が内部統一、協調と平衡の伏態の下にあって、しかも 正常な運動変化をおこすことをさす。

 『素問』六微旨大論に、「亢なれば則ち害あり、承けて乃ち制す。制なれば則ち生化す。外は盛衰を列ぬ。害なれば則ち敗乱し、生化して大病 す」と言っている。もしも五行の中のそれにあたる一“行”が亢盛現象(たかぶり盛んになる現象)を現わしたならば、すぐさま五行間の関係の常 態を失うこと、すなわち害を引きおこす。もしも五行の間が相互に受け継ぎ、五行の間が正常な監制、あるいは制約(コントロール)作用があれ ば、五行間の関係も正常である。五行間に正常な相互監制、あるいは制約作用があれば、五行の間の平衡と協調が擁護され、事物は正常な生長変化 をおこすことができ、外面に盛んなこともあり衰えることもあると言う正常な生命過程が現われてくる。五行間の相互関係が正常を失えば、正常な 監制、あるいは制約作用を発揮することができず、事物内部の平衡と協調関係はすぐに破壊され、しかも紊乱(敗乱)が発生し、正常な生長変化運 動は維持できない。きびしい“生化”の乱れは、すぐに事物の生命及びその存在を脅かすであろう(大病になる)。これは『内経』が、五行間の “生克制化”は、事物の存在と正常な生命活動を擁護していると理解していたことを証明している。明の張景岳の著わした『類経図翼』に、「蓋し 造化の機は、生なかるべからず、また制なかるべからず。生なければ、則ち発育に由なく、制なければ、則ち亢りて害をなす」と言っている。世界 の中に万物が生じることと運動変化の微妙なところは、相互資生の作用がなくてはできないし、また相互監制、あるいは制約の作用がなくてもでき ないことである。もしも相互資生の作用がなければ、それでは事物が生じることと生長変化することもその来源がないではないか。

 もし相互監制、あるいは制約の作用がなければ、事物内部の各構成部分の間にすぐに片寄ってたかぶったり、片寄って衰えたりする現象が現わ れ、それらの間の平衡と協調関係はすぐに破壊され、事物の正常な生命過程、あるいは事物の存在は、すぐにも脅威を受けるであろう。それ故に、 張景岳も、五行の間の“生克制化”は、事物の存在及びその生命発生・発展過程を擁護する根本原因であると理解した。

 五行の“生克制化”の具体方式に関しては、『素問』至真要大論に、「勝至れば則ち復し、復已れば則ち勝つ、復せざれば則ち害す」と言って いる。事物間の相克制の力が極点(すなわち“勝至”)に達した時に、すぐにその反対の面に向かって転化する(すなわち“復”)、克制の衰滅が 出現する。克制の衰滅が極限(すなわち“復已”)に到った時に、また克制増強(すなわち“勝”)の方向に向かって転化する。もしも、これらの 盛衰交替の変化がなければ、すぐにも事物間の正常関係の破壊を導き、事物の存在は危険に及ぷ。『素問』天元紀大論に、「形に盛衰ありとは、五 行の治、各々太過と不及あるを謂うなり。故にその始めや、余り有りて往けば足らざるはこれに随い、足らずして往くけば余りあるこれに従う」と 言っている。事物には盛りあり、衰えるありの過程を表現するのは、これは五行間の協調節制の結果である。それにあたる“行”はすべて過剰と不 及の過程がある。それ故に、それが始まった時には、ゆとりのあるのにしたがって過ぎてゆき、それにしたがって、やってくるのは余りである。こ れは事物の存在の発生・発展の過程の中で、いつも盛衰の交替となって表現される。これは五行の調節作用の結果である。これはいかなる事物、あ るいは現象の存在や発生・発展の過程が、静止しているものではなく、また均衡しているのではなく、いつも不均衡の中で、運動の中で均衡を求 め、平衡と協調を求め、これによって生存と発生・発展を求めるということを説明している。これぱ一つの動態過程であり、動態過程の中で平衡と 協調を求めているのであり、それによってその安定性を擁護し、その存在を擁護する。

 五行の間の相互関係の中でも、例外とすることはできない。不均衡の中にあっても、また動態の過程の中で平衡と協調を求めりる。これで五行 の統一性、整体性と安定性を擁護する。五行の中の各“行”も自己の盛衰変化があり、各“行”の盛衰変化は、必然的にそれにあたる“行”の“相 生”と“相克”は、相応の変化を引き起こすであろう。五行の間の“相生”と“相克”作用の目的は、五行の間の平衡と協調を維持することであ る。したがって、正常な状況の下で、五行間の“相生”作用の強弱は、それに当たる“行”の盛衰と正比例をし、五行間の“相克”作用の強弱はそ れに当たる“行”の盛衰と反比例する。すなわち、ある“行”自身が増強される時、その“相生”作用もこれにしたがって増強する。その“相克” 作用は、すなわちこれにしたがって弱まる。これに反して、もしもそれに当たる“行”が弱まったのであれば、すなわちその“相生”作用もこれに つれて弱まる。しかも、その“相克”作用はなんと反対に増強する。五行自身の盛衰とその“相生”“相克”作用の間に存在しているこのような一 種の相応関係は、それ自身の存在を擁護するばかりでなく、さらに重要なのは、五行間の平衡と協調を擁護し、五行の統一性、整体性と安定性を擁 護し、整体存在を擁護するのに必要である。例えば、動物界の中で、防衛能力に欠ける草食動物は、一般に比較的強い繁殖能力を具えていて、多数 が群れをなして生活をしている。数十、及至は数百匹で、群を組織し、一緒に共同生活をしている、進攻能力を具えた猛獣は、普通は繁殖能力が比 較的低く、少数の群で生活をし、数はただ十数匹だけで一緒に暮らしている。草食動物はその比較的強い繁殖能力をもつことによって、数の優勢を 約束し、肉食動物の食物の需要(“相生作用”を満たし、また種族の繁栄をも約束する。肉食動物の繁殖能力は差があり、数の上では劣勢にあるけ れど、しかしその強い進攻能力と捕獲能力“相克作用”)をもっており、十分な食物を獲得でき、その種族の繁栄をも約束している。草食動物は、 数量上の優勢で(自身強盛)、肉食動物に対して食物供給(“相生”作用強)を約束する。しかし攻撃者に対する防衛能力(“相克”作用弱)に欠 ける。肉食動物は数の上で劣勢であり(自身衰弱)、それはその他の生物に対する支持能力の不足をきたしている(“相生”作用弱)。しかし、強 力な進攻及び防衛能力(“相克”作用強)がある。草食動物、肉食助物及びその他の生物は、それら自身の数量で、その他の生物の支持と自身の防 衛能力等の方面に対して差異があるが、その本身の生存、種族の繁栄と生態平衡の維持を助けられている。またこれは、自然界の繁栄の約束でもあ り、これらすべて自然の選択の結果である。

 五行“相克”作用の強弱と、これに当たる“行”の盛衰が正比例する時に、それは必然的に盛者はますます盛んとなり、衰者はますます衰え、 遂に五行間の平衡と協調関係の破壊を引きおこし、五行の統一性、整体性と安定性をして存在不能とし、一つの整体としての事物も再び存在し続け ることができないということになる。それ故に、五行“相克”作用の強弱が、それにあたる“行”の盛衰と正比例する時に、一種の破壊要素とな る。これは五行の“相克”の異常状態に屈する。

 五行がどのように“生克”を通じて、その平衡と協調を擁護するか説明するために、張景岳は五行“生克制化”の具体的方式を提出した。すな わち五行の“勝復”である。『類経図翼』に、「その勝復なる者より言えば、則ち凡そ勝つところ有れば、必ず敗れるところあり。敗れるところあ れば、必ず復するところあり。母の敗るるや、子は必ずこれを救う。水のはなはだ過ぐれば、火は傷を受く。火の子の土、出てて制す、火のはなは だ過ぐれば…・」と言う。五行の“勝復”についていえば、凡そ勝を得るものあれば、必ず失敗するものがある。失敗するものがあれば、必ず失敗 のために報復を行うものがある。“母”が敗けた後に、その“子”は当然救援に赴むこうとする。もしも“水”気が過剰ならば、“火”気は必ず傷 をこうむるであろう。“火”の“子”、“土”気もまたすぐでてきて、これによって“水”気を制止する。張氏の挙げたこの例の中では、“水”気 が盛になり過ぎ、正常の範囲を超えることにより、異常の克制が現われる(克制の力とそれに当たる“行”の盛衰が正比例)。“水”の“火”に対 する分を過ぎた克制は、“火”気の損傷を引きおこす。“火”気は傷を受ければ、“生子”(子を生む)することができない。“火”の“子”であ る“土”気も衰えを引きおこす。正常な状況のもとで、五行の“相克”の力の強弱は、それに当たる“行”の盛衰と反比例する。それ故に、“土” 気は“水”気の克制に対して増強する。“水”気をして正常に恢復させ、“水”の“火”に対する克制力は弱まる。“火”気は復原することがで き、“火”の“土”を生ずる作用が増強し、“土”気もまた復原する。“土”の“水”を克する力もこれにつれて弱まり、三者の間もまた正常な伏 態に恢復する。

上述の例の中で、“水”の“火”を克する克制は、異常な、すなわち病理性克制に属している。それ故に“水”の“火”を克する力は、“水”の 盛衰と正比例する。しかも“土”の“水”を克する克制は、正常な、すなわち生理性の克制に属している。故に、“土”の“水”を克する力は、 “土”の盛衰と反比例する。この二つの克制は同じではない。

 上の例の中で、張氏は、ただ“水”、“火”、“土”の三者の関係を提出しただけで、しかもまだ“金”と“木”の作用について提出していな いが、実は、“金”、“木”も、その中の調節作用に参与している。“水”気が盛んなれば、すなわち“水”の“木”を生ずる作用が増強する。 “木”の気が旺盛なら、“木”の“火”を生ずる作用も増強し、“水”の“火”に対する克制を防ぐのに助けとなり、“火”気の衰え過ぎを防止す る。“木”気が旺んであれば、“木”の“土”を克する作用は弱まり、“土”気の衰え過ぎるのを防止する。“火”は“水”に克され、そして衰え る。そうなれば、“火”の“金”を克する作用が強まる。“火”が衰えると“土”を生ずることができないし、“土”が衰えると“金”を生ずるこ とができない。これはすべて“金”気をして変化衰弱させ、“金”をして“水”を生じることをできなくさせ、これによって“水”気を弱めること になる。それ故に、上の例の中で、“水”“火”“士”の三者の間でおこる相応の“生克”の変化を除く外は、“木”と“金”も相応の“生克”の 変化をおこす。一切の変化の中心は、すべて“火”“土”の二気の衰えすぎるのを防止し、“水”気の過剰を制止させるためであり、これによって 五行間のすでに失われた平衡と協調関係を、迅速に改めて新しくし、たてなおすことができる。

 五行は“生克制化”を通じて、これによってその平衡と協調を擁護し、五行の統一性、整体性と安定性を擁護し、また事物の存在を擁護する。

 ④ 五行相生相克の弁証関係

 五行相生相克の弁証関係は、主な表現には二つの方面がある。一つは、五行の相生と相克と“量”の関係である。もう一つは五行の相生と相克 の“互用”の関係である。すなわち“生中有克”(生の中に克があり)、“克中有用”(克の中に用がある)である。

 五行の相生と相克と“量”との関係は、五行の相生と相克と五行の“量”(すなわち五行の盛衰)と関係があるという。主に五行中のそれぞれ の“行”の“量”の比例と関係がある。以上に述べたところの五行相生と相克の規律は、ふつう“常量”についてのみ言及すれば、すなわちそれぞ れの“行”の盛衰の変化であり、これは五行間の平衡と協調が許容される波動範囲の内に制限される。

 ただ、この種の条件にあれば、以上に紹介したところの五行相生と相克の規律が初めて成立する。もしも条件に変化がおこれば、五行間の盛衰 の変化が許容されるところの波動範囲を超過したことになり、特に五行間の盛衰の比例が許容されるところの波動範囲を超過すると、上述の五行相 生と相克の規律もまた成立できなくなる。

 “水生木”(水は木を生ずる)と言うようなものは、“水”と“木”の盛と衰の比例が互角であるということを言ったので、水源が充足し、草 木の成長も旺盛であることである。例えば、“水”と“木”の比例が不適当であれぱ、“水”が少なくなり、それによってすでにおこった旱(ひで り)を救うには足りない。“水”はあるとはいっても、草木もまた成長しにくい。“水”が過剰であれば、氾濫して害を成す。それは“木”を生じ させないばかりでなく、その上にさらに“木”を害することになる。すでに成長した草木は、水の害によって水没し、枯れてしまう。“木生火” (木は火を生ずる)も“木”と“火”の盛と衰の比例が互角であることについて述べている。例えば、小さな堆火(うずみ)の中に巨木を没する と、火は炎をあげないばかりでなく、反対に巨木によって消されてしまう。それ故に、“母”と“子”の“量”の関係は必ず互角でなければならな い。すなわち、“母”と“子”の双方の“量”は、ただ平衡が許容される波動範囲の内に制限されるだけで、上述の“相生”関係ができる。例え ば、双方の“量”の比例が拮抗できなければ、平衡の許容された波動範囲を超過する。すなわち、“母”の“子”を生ずる関係はすぐに破壊され る。すなわち、“壮母”は“弱子”を生ずることはできない。あるいは“弱母”は“壮子”を生ずることができない。

 五行“相克”の関係も、ただ常量の範囲内に制限することができるだけで、もし平衡の許容される波動範囲を超えたならば、上述の“相克”の 規律も成立不能となる。“土克水”(土は水を克す)は、二者の比例が互角の条件のもとにあるだけで、土堤(つつみ)は洪水の氾濫を防止するこ とができる。例えば、山津波の暴発や洪水の流下は、普通の土堤では防止できないばかりか、かえって山津波に押し流されてしまうであろう。しか も“水”の作用を制しえない。“水克火”(水は火を克す)は、バケツの水を用いてかっかと燃える火を消しにゆくと、この水は火を消すことがで きないばかりか、かえって火の勢いを助けることになる。これは、“相克”の過程の中で、克制と克制される双方の“量”の比例の上でも、また互 角が必要であることを説明している。双方の比例が互角でない場合、それらの克制関係も、これにつれて改変する。

 それ故に、五行の相生と相克の関係の中には、すべて“量”の関係が存在していると言っている。ただ“相生と相克”双方にあっては、“二” の比例が拮抗している時にだけ、五行の“相生と相克”は、はじめて一定の順序をもつ。五行間の“量”の比例が不適当な時、五行“相生と相克” の順序も、また再び存在しない。“五行無常勝”(五行は常勝なし)、“五行倒転相克”(五行は相克を倒転す)、その意味もまた、ここにある。

 五行“相生と相克”は、ただ“常量”の範囲にあるだけで、その順序は成立する。これは五行の間の盛衰の比例関係をいうのである。この種の 比例関係は、実際には五行の盛衰波動をいうのであり、ただ五行間の平衡と協調が許容されるところの波動範囲の内に制限されるだけで、これは正 常な波動に属し、この波動範囲をこえれば、すなわち異常現象に属し、必ず異常の克制を引き起こすであろう。これは五行の“乗侮”関係に属す る。

 五行の相生と相克の“互用”は、すなわち張景岳の言うところの“生中有克”、“克中有用”である。『類経図翼』に、「ただ人はその生の生 たるを知り、しかして生の中に克あるを知らず。克の克たるを知り、しかして克の中に用あるを知らず」と言っている。一般に人は、ただ五行の “相生”、つまり相互資生を知るだけで、しかも相互資生の中に含まれている相互克制を知らない。ただ、五行の“相克”、つまり相互克制を知っ ているだけで、しかも相互克制の目的は、克制される者が正常な作用を発揮することであるのを知らない。張景岳は“相生”の中に“相克”と“相 残”の作用が存在していて、しかも“相克”の目的は“克以致用”(克もって用を致す)、すなわち“相生”と“互用”の意味を含んでいるという ことを認識した。例えば、“木生火”は、“木”は“火”に焚かれて、しかも灰に変化する。“木”はもう再び存在しない。“火生土”は、物は “火”に焚かれて、そして灰となる。灰はすなわち“土”である。灰が積み重なって多くなると、“火”は灰に伏せられて炎上できない。“木”は “火”を旺んにさせ、“火”が旺んになれば、“木”はかえってその害を受ける。“火”は“土”をふやし、“土”が増えれば、かえって“火”を 伏せさせる。五行“相生”の結果は“子”が成長して、しかも“母”は“子”に害される。それ故に、五行の“相生”の中に“相克”、あるいは “相残”の意味が含まれていると言う。すなわち、“子”が“母”を克し、あるいは“子”が“母”を害するという現象が現われる。

 五行“相克”は、克される者の正常機能を発揮させるためである。“水克火”のように、“火”は“水”によって克され、しかも“水火既済” (水火はすでに済し)となる。“火”をして火勢を旺んにさせ過ぎず、しかもよく“火”の温煦機能を発揮させる。もしも“水”が“火”を制止し ないならば、“火”が旺んになれば、必ず燎原の勢となり、万物を焼き、かえって災となる。“土克水”、“水”は“土”によって克される。 “水”気をして制約を受けさせ、しかも過剰にさせなければ、すなわちよく“水”の滋潤を発揮し、火の機能を助ける。もしも“土”が“水”を制 止しないならば、“水”気は際限なく、流れ溢れて害をなし、氾濫して災となる。それ故に、五行“相克”の目的は、克制されるものに対してコン トロールを行うためであり、これによって正常な機能を発揮させると言う。すなわち、“克以致用”である。

 以上、五行の“相生”の実質は“転化”であることを説明した。すなわち、“母”によって転化して“子”となる。五行“相克”の実質は、克 制される者の正常な機能を発揮させるためである。すなわち、“相生”と“互用”の意味を含んでいる。“相生”と“相克”は、相反・相成の関係 である。これは弁証法的な関係である。