『陰陽五行学説入門』
朱宗元・趙青樹 著
中村璋八・中村敞子 訳
(たにぐち書店)
(1)陰陽の基本概念
1.陰陽概念の形成
太陽が昇ると、山には太陽に向かいあっている一面と背を向けている一面とがあり、太陽に向かっている面 は明るく暖かく、背を向けている面は薄暗く、しかも湿って冷たい。これは、その山の特徴ではなく、山でありさえすれば、みなこれらの現象は存 在する。遥か昔の人々はこれらの現象に気づき、太陽に向いている面の斜面を“山の陽”、“陽坡”と称し、太陽に背を向けている面を“山の陰” “陰坡”と称した。これがつまり、最も早い時期の陰陽に対する使われ方であった。『山海経』南山経はいっている。「また東に三百七十里。扨陽 の山と曰い、その陽には赤金が多く、その陰には白金が多い」と。その意味はさらに東に向かって三百七十里を行くと、一つの山があって扨陽山と 呼び、その陽の斜面では多く銅を産し、その陰の斜面は多く錫を産する、と言うことである。また、『呂氏春秋』重巳篇にいう。「室大なれば陰多 く、台高ければ陽多し」と。部屋が大きければ、陽のささない場所も多く、土地が高ければ、陽光のあたる所も多い。ここで述べている“陰陽” は、すべて太陽の照射について言っている。太陽に向いて日ざしを浴びることのできる所を“陽”、太陽に背を向けて日ざしの届かない所を“陰” と称した。“陰陽”の最初の意味は、太陽の向背についてのみ述べたと思われる。“陰陽”の意味は具体的かつ明確であり、哲学上の抽象概念では なかった。
山があれば“山の陽”、“山の陰”の区別が存在する。山がないならば、山の陽と山の陰もない。“山の陽” “山の陰”は山があるので存在し、山がなければ消失してしまう。だから、昔の人はそれらを、はっきりと相反する二つのものであると見なした。 ただし、山には山の属性もまた存在する。
人々の生活や労働が拡大するにつれ、知識の蓄積も増加し、次第に事物の内部に確然とした二種の相反する 属性が存在しており、これは普遍性のあるものであると認識するに到った。例えば、字宙は天と地より構成されている。天はあっさりとして上にあ り、形がない。地は重く濁って下にあり、形がある。一日は昼と夜で構成されており、昼は太陽が昇り、人々に明るさと暖かさをもたらす。夜は太 陽は沈み、月が昇り、人々に陰暗と寒冷をもたらす。一日はまさに太陽と月に代表されるところの二つの明確な異なる属性によって構成される。一 年の四季の変化は、寒暑の交替に現われる。ちょうど、寒暑の交替によって万物に生命力と活力が生じ、万物の生・長・化・収・蔵の変化を引き起 こす。天気も晴雨の変化があり、大地に草木の繁茂を促がす。人に男女の違いがあり、禽獣に雌椎の区別がある。ちょうど、このような性別上の差 異が人類や禽獣に性格、生活習慣などの違いをもたらし、そして種族の繁栄を約束し、人類社会や動物世界に繁栄や発展をもたらした。そのほか、 例えば山に高低があり、水に清濁があり、物には軽重がある。また位置には上下、左右、前後、内外の別があり、方向には東西、南北、運動には動 静、昇降、遅速、進退がある。さらに時間には早い、遅い、物体には大小があり、戦争には攻守、勝敗があり、そして生命現象には老幼、生死など がある。この二つの截然とした相反する属性、あるいは現象は、一体の中に共存していて分離することのできない相対独立の整体を構成しており、 普遍的な現象であることを物語っている。世の中の森羅万象は、まさにこれによって生じ、発表し、かつ世界の存在と延長を維持してきた。これら は相互に関連しているが、相互対立である二種の属性を、昔の人は“陰陽”で表示した。このように、“陰陽”は元来の陽光の向背に対して示され た具体的概念から、もはや具体的内容を具えることのない抽象概念へと転換し、しかも哲学の範疇となった。
“陰陽”は、自然界あるいは社会の中での事物や現象に対する栢互連関であり、相互に対立した二種類の属 性を概括したものである。『霊枢』陰陽系日月に、「陰陽は、名ありて形なし」とある。つまり、“陰陽”は名称と含意はあるが、具体的形や指し 示すところのない抽象的な概念であるという。
“陰陽”は、一つの抽象概念として、『内経』が完成する以前に早くも存在し、さらに医学上の問題を説明 するのに用いられた。例えば、『左伝』に、医和は“六気”が病を招く原因として記載している。医和は「六気は陰、陽、風、雨、晦、明なり」と し、医和は“陰陽”で“寒熱”を示し、病になる因素とした。ただし、“陰陽”を一つの抽象的哲学概念として、医学理論の中に広汎かつ全面的に 応用され、中医学理論体系中の重要な柱となったのは、『内経』以来のことである。
『内経』は、先人に引き続き“陰陽”に対する理解の基礎のもとに、それを医学理論に組み入れ、医学の中 の理論問題の解釈や認識に用いられた。『素問』陰陽応象大論に、「陰陽は、天地の道なり。万物の綱紀、変化の父母、生殺の本姶、神明の府な り。病を冶めるには、必ずその本を求む」と説いている。“陰陽”は、自然界の最も根本的規律であり、万物すべて“陰陽”を用いて分類を行い、 これで要点を掴み、概括を行うことができる。世界の万物が変化をおこすのは、陰陽により生ずるものである。一つの生命の誕生と消滅は、“陰 陽”によって引き起こされるのであって、生命現象の表われというものの、その根源は“陰陽”の中に存在している。それ故に疾病も“陰陽”に よっておこされ、冶病にあっても必ず“陰陽”の根本にあるところを求めなければならない。『内経』は、先人が“陰陽”を世界の運動変化の根本 法則とする観点を引き継ぎ、“陰陽”も医学の中の根本規律であるという考えにまで発展させた。
『素問』宝命全形論にいう。「人生まれて形あり、陰陽を離れず」と説き、様々な現象を表わす人の生命 は、すべて“陰陽”のこの根本原因から離れることはできない、とした。『霊枢』病伝に、「陰陽を明らかにするは、惑の解けるが如く、酔の醒め るが如し」と説いた。ただ、“陰陽”の道理を明らかにしさえすれば、解けない問題にであっても、たちまち解決できるのと同じように、また酔い つぶれた人が、すぐに酒酔いがさめ、頭をはっきりさせることができるのと同じである。『内経』は、陰陽学説を方法論とし、よく人の思考を広 げ、知恵を聡明にさせるもので、それは問題を解決するのに有効な方法である。
『内経』は、陰陽学説を医学の各方面にまで運用した。すなわち、人体に対する解剖、生理、病因、発病、 病機(発病のきっかけ)及び臨床医学の診断、弁証、治療や予防等の各方面を包括している。すべて陰陽学説の理論や法則を運用して分析や認識を 進め、これにより陰陽学説を中医学理論体系の指導思想や方法論とし、しかも特殊な地位を占めるという結果をもたらした。
2.陰陽の整体性
“陰陽”は自然界や社会の中での事物、現象に対する相互連関、相互対立する二種の属性の概括であり、 “陰陽”の間に、すでに存在している対立性、または統一性を説明する。二つの相互対立の属性の間に、もしも統一性がないならば、“陰陽”の関 係は存在しない。それ故“陰陽”の双方は、ただ相対独立の整体の中にのみ存在することができる。二つの事物、あるいは現象の間に具体的な連繋 がおこり、相対独立の整体を構成した時にはじめて、“陰陽”の関係を構成することができる。
理論の分析を進める時に、たとえば男と女は、すなわち一対の“陰陽”の関係である。男性と女性は人であっ て、共に人類社会を構成する。これが、つまり彼らの間の統一性である。しかも男性と女性は性別上の違いにより、性情、心理や習慣上で異なり、 社会の中での役割が同じではない。これが彼らの間の対立性である。まさにこのような原因により、男性と女性は、一対の“陰陽”の関係を構成し ている。しかし、いかなる男性と女性でも、すべて“陰陽”の関係にあるというのではない。もしも、ある男性と別の女性が生死を共にせず、また 何の繋がりも持ったことがないならば、“陰陽”の関係は成立しない。具体的な生活の中において、男女間は“陰陽”の関係を構成できるばかりで なく、しかも男性の間、女性の間もすべて“陰陽”の関係を構成することができる。ただ、両人の間に何がしかの繋がりがおこりさえすればであ る。例えば、共に一つの仕事を完成させるとか、あるいは何がしかの問題について二人が異なる意見をもつ、あるいは二人が同一項目の競争に参加 するなど、二人を一緒に結びつけさえすれば、相対独立の整体を構成し、“陰陽”の関係が成立する。このような繋がりが一たび中断し、この相対 独立の整体がもはや存在しなくなった時には、すでに構成されていた“陰陽”関係もこれにつれて消滅する。さらに、普通の情況下で物体の硬度や 運動の速度は、二つの異なる範疇の概念であり、二者は相互に関連がない。したがって、“陰陽”の関係は成り立たない。ただし、二者は共に物体 の温度と関係があり、物体が高速運動を行う時、必然的に温度変化を引きおこす。温度の改変はまた、物体の硬度変化を引き起こす。このため、研 究物体が高速運動をする時の硬度変化は、温度によって二者を結びつけるので、その速度や硬度も一対の“陰陽”関係を構成する。
それ故に、事物、あるいは現象の間に“陰陽”の関係が存在しているかどうかは、それらの間に対立-統一の 関係が存在しているかどうか、具体的繋がりが発生したかどうか、相対独立の整体を構成することができるかどうか、によって決定される。“陰 陽”の関係は、ただ具体的繋がりをおこした事物、あるいは現象の間に存在するだけであり、相対独立の整体の中にだけ存在する。具体的繋がりが おこらず、相対独立の整体の中の事物や現象が存在しないということは、“陰陽”の関係も存在しないということである。これがつまり“陰陽”の 整体性である。
3.陰陽の相対性と属性の規定性
① 陰陽の相対性
一に“陰陽”そのものをいう。すなわち一種の相対的概念である。“陰陽”の意味は、最初は陽光の向背に ついて言ったものであり、これがつまり相対の概念である。高山は、一面は太陽に向き、別の一面は太陽に背を向けている。もし太陽に向かってい る一面がないならば、太陽に背を向けている一面も存在しない、ということである。この両面が一山の中に共存していて、これは離すことはできな いものであり、比較の中に存在しているのである。“陰陽”はさらに温度の高低、冷熱、運動の遅速、動静、物体の軽重、反応の敏捷や遅鈍等を表 わすのに用いられる。これらはすべて相対的概念であり、すべて比較の中に存在しているものである。例えば、われわれがテレビで女子バレーボー ルの試合を見ている時、選手達の身長は多く1.8m以上あるが、しかし、われわれには高いという印象を与えない。それは選手達が皆背が高いか らである。もしも背のあまり高くない担当者が彼女達の傍に近よったならば、この選手達の背の高さにはじめて気付く。この時、相互の対比がある ために彼女達の背の高さが際立つのである。
「人が黄山に到ると山に登れない」というのは、一説には黄山の風景が美しく比べる物のないことをいった のであり、もう一つは、黄山の高さは雲霧の中に聳えている、黄山の頂きに登り、雲霧の中に立つとまるで仙境に臨むがごとく、たしかに優れた景 観である、ということである。もしも、われわれが黄山の海抜高度をちょっと考えたならば黄山中の最高の蓮花峰も、ただ1873mの高さがある だけで青海高原と比べて1000mあまりも低くチベット高原と比べてまだその半分の高さにも達しない。さらに高原上の高山の高さを比べようも ない。高原上の窪地でさえも黄山と比べようとすると数100mあるいは1000mも高い。黄山は海抜の低い所の真ん中に地を破って出現したの で、周囲にはそれと比べるものはない、それで特別に高く見えるのである。高原の中の窪地は、まわりを山に取り囲まれているので、さらにその低 い窪地がはっきり現われる。しかし、実際には黄山と比べて高いのである。それ故に、高低、上下、冷熱、遅速、肥満・痩身などは、ただ対比の中 でのみ示される。高いは低いと比べ、上は下と比ベ、冷たいは熱いと比ベ、遅いは速いと比ベ、肥るは痩せると比べる。比較がなければ、これらの 概念は成立しにくい。対比の条件が変化をおこすと、人に与える印象もそれに従って変わる。それ故、“陰陽”を用いて表わす双方は、それらはた だ相互比較の中に存在する一種の相対的概念であって、絶対的概念ではない。
“陰陽”の相対性の、第二の意昧は、“陰陽”は抽象的概念であり、しかも具体的事物、あるいは現象をさ すのではない。具体的問題を討論している時に、“陰陽”の示す具体的内容は、討論している問題につれて定まってくるものである。例えば、われ われが討論している問題が物体の位置であれば、“陰陽”の示すところの内容は、上下、高低、前後、左右及び内外をさすであろう。討論している 問題が物体の具体的環境の中の運動であるならば、“陰陽”は、つまり遅速、出入、昇降あるいは動静を表示するであろう。もしも討論している問 題が疾病の発生についてならば、“陰陽”は正邪、気血(*1)、営衛(*2)等を示すであろう。それ故に“陰陽”の表わす具体的内容は討論し ている問題の内容によって決定されてくるものである。“陰陽”そのものは、いかなる固定不変の内容、あるいは具体的事物や現象を示すものでは ない。
注
*1 気血
血気ともいい、血と気の併称で精神と共に生命の根源と見なされ、経絡と呼ばれる路にそって体内を不断に 循環すると考えられていた。『霊枢』営衛生会篇に「血と気は異名にして同類」とあるが、体内において血と気は陰陽の関係にあり機能を異にして いるともいう。気が血の先導となり、血は気に寄りそい、相い輔けて運行する。営衛をさすことがある。心は血を司どり、肺は気を司どる。血は営 となり、気は衛となり相互に上下して随行することから営衛ともいわれ、経絡の中を通行して全身をめぐる。
*2 営(栄)衛
営とは水穀から得られた純粋精微な気で中焦より出て五臓を調和し、栄養分を身体各部に運び、六府を洗い 清めるはたらきをする。その循行は脈(経絡)の中を脈に従って上下に行き、五臓を貫き六府を絡って1日に50回体内を周流して已むことがな い。陰である衛とは水穀から得て上焦よりでる剽悍な気が衛で、その動きは素早く滑らかで、外物を防ぎ、肌肉を温め、皮膚を緻密にする、脈中を 流れずに経絡に沿って皮膚の内側や肉と肉の割れ目を走り、営気と同じく1日に50回体内をめぐってやすむことがない。その他に、東洋医学の概 念では、気は働きのあって形のないもの、血は血液その外の体液を表わし実体あるものとされ、経脈の気血の多少をいう場合、働きの相として、気 は交感神経性、血は副交感神経性をさすのではないかともいわれ、気は陽、血は陰として相対概念となっている。
呼吸の気
── 大気 ── 宗気 ──┐ ┐
│ ┌─ 経気 │
……(先天の気)………… ├─┼─ 脈気 │── 真気
│ └─ 蔵気 │
水穀の気 ── 営気 ── 気・血 ─┘ ┘
衛気 営・衛
(後天の気)
図・気の分類 (図説東洋医学(用語編)より)
中医書の中で常に“陰陽”を用いて一定の内容を表わすが、異なったところでは、“陰陽”の意味は違った ものになる。『素問』金匱真言論に、「それ人の陰陽を言えば外は陽であり、内は陰である。人身の陰陽を言えば背は陽であり、腹は陰である。人 身の臓腑中の陰陽で言えば、臓は陰であり、脈脈は陽である」と説いている。この三段の言葉の中で、“陰陽”の意味はそれぞれ異なっている。第 一段は、整体の内外から述べたもので、言っているのは体の表を陽とし、体の内を陰としている。第二段は、人体の体の表について述べているもの で、背面を陽とし、腹面を陰とする。第三段では、内臓から述べている。臓と腑の特性に基づいて、五臓を陰とし、六腑を陽とする。この三段の説 明というのは、討論問題の範囲が変化をおこし、それ故に“陰陽”の意味もこれにつれて改変する。『素問』陰陽応象大論に「はげしい怒りは陰を 傷け、はげしい喜びは陽を傷ける」と説いている。ここの陰は“陰臓”をさす、すなわち肝臓である。陽は“陽臓”で、すなわち心臓である。前に 述べた“陰陽”の含意とはまた違う。『素問』調経論に「それ邪の生ずる所は、或は陰に生じ、或は陽に生ずる。その陽に生ずる者はこれを風雨寒 暑に得て、その陰に生ずる者は、これを飲食居処に得る。陰陽は喜怒である」と説いている。この段の言葉の中に三対ある“陰陽”の含意もまた異 なり、前の二対の“陰陽”は発病の部位について述べている。「陰に生ず」は病が内からおこるの意で、これは臓腑をさしている。「陽に生ず」は 病が外からおこることをいい、すなわち皮膚をさしている。最後の“陰陽”は病になる素因を述ベ、その指すところは男女の房室の疲労をさす。中 医書中の“陰陽”に対する用い方は大変広く、全体の文や段落ごとの文字の意昧にもとづいて判断しなければならない。
“陰陽”の相対性は、さらにある具体的事物、あるいは現象の“陰陽”の属性に対する判断を示す。例え ば、われわれが温度の範囲を0~10℃の間に制限するとしたならば、0℃は“陰”、10℃は“陽”に属す。温度範囲が10~100℃に変われ ば、すなわち10℃が“陰”、100℃が“陽”となる。10℃は“陰”にも属し、“陽”にも属する。これは討論している問題の前提条件で決め られる。前提条件が変わると、具体的な事物や現象の“陰陽”の属性もこれにつれて変化する。これが、すなわち、具体的な事物の“陰陽”属性は 固定されたものではなく、相対的であろといい、対比の基準につれて変化をおこす。それ故に、『素問』金匱臓真言論の中に、五臓を“陰”に帰 し、六腑を“陽”に帰す、しかも五臓の中で、またその所在する位置にもとづいて、心臓、肺臓を“陽”とし、脾臓、肝臓、腎臓を“陰”に帰す る。心臓、肺臓の中で、また心臓を“陽中の陽”とし、肺臓を“陽中の陰”とする。脾臓、肝臓、腎臓の真中の肝臓を“陰中の陽”とし、腎臓を “陰中の陰”とする。脾臓を“陰中の至陰(陰の極)”とする。これらは皆対比の関係にもとづいて、五臓の“陰陽”属性を説明している。
② 陰陽属性の規定性
“陰陽”は、相対的概念であり、それは具体的事物や現象をさすのではなく、討論する問題によって、その さすところが決まってくる。ただし、“陰陽”の属性には規定性があり、討論している問題の範囲が確定されて後に、この問題の中に包含されてい る双方は、どれが“陰”に属し、どれが“陽”に属するかが決まり、替えることはできない。例えば、物体の温度を研究している時に、温度の高い のが“陽”、低いのが“陰”となり、温度が上昇しているのが“陽”、下降しているのが“陰”となる。物体の運動状態を研究している時に、主に 運動するのが“陽”、動かされる運動が“陰、運動状態にあるのが“陽”となり、静止状態にあるのが“陰”となる。運動の速いのが“陽”、運動 の遅いのが“陰”、上昇運動をするのが“陽”、下降運動をするのが“陰”、加速運動にあるのが“陽”、減速運動にあるのが“陰”に属する。運 動エネルギーを研究している時に、機能が亢進するのを“陽”、機能が衰退するのを“陰”とする、興奮状態にあるのが“陽”、抑制伏態にあるの が“陰”となる。機能が逐次強まってくるのが“陽”、機能が次第に減退するのが“陰”である。動物の性別を研究している時に、雄の性は “陽”、雌の性は“陰”であり、比較的凶暴な雌の性の動物は“陰中の陽”、比較的温和な雄の性は“陽中の陰”とする。これらの問題で“陰陽” の双方は、互換できない。
“陰陽”の属性は規定性を具えている。それというのも“陰陽”の最初の含意は、具体的現象をさしたから である。すなわち、陽光の向背に対するものである。後に“陰陽”は、抽象化されたけれども“陰陽”の意昧は、その原姶の含意より完全に離脱し ていない。陽光は、自然界に光明、温暖、生気や繁栄をもたらし、陽光がなければ、黒暗、寒冷、死亡、そして万物の枯衰を意味する。したがっ て、およそ光り輝いているもの、温暖なもの、上昇しているもの、躍動しているもの、生き生きしているもの、主になって動いているもの、外向性 のもの、機能性のあるもの、進むもの、無形のもの、清らかなもの、生長しているもの、増加しているもの、競争性に富んでいるもの、これらすべ て“陽”の特性に属している。これと反対に、およそ黒暗、寒冷、下降、沈静、動かされるもの、内向性のもの、物質性のもの、衰退、有形、混濁 しているもの、枯れしぼんだもの、減少してゆくもの、妥協性のあるもの、これらすべて“陰”の特性に属している、と概括した。“陰陽”の特性 は、すべてその原姶的含意から引き出され拡大されたものである。具体事物や現象の属性について分析を行う時には、“陰陽”の属性と具体的事物 や現象の属性に基づいて類比をし、そこから判断をし、“陰陽”の二種の中に帰属させる。例えば、液体の透明度を研究している時、澄んで透明、 清らかで薄い液体は無形に近く、人に明るく輝く感覚を与える。それ故に“陽”に属し、混濁して、粘った液体は有形に近く、人に陰暗な感じを与 える。それで“陰”に属する。性別を研究している時に、人であれ、動物であれ、雌の性格は内向性に傾き、もの静か、暖かく、妥協しやすい、そ れで“陰”に属している。雄の性格は外向性に富み、動くのを好み、荒あらしく、短気で闘争を好みがちである。故に“陽”に属している。
“陰陽”の属性は規定性を具えているので、討論する問題が決められてから、問題の双方は、“陰”に属す るか、“陽”に属するか、“陰陽”の特性にもとづいて判断をして、みだりに、配分することはできない。
③ 矛盾と陰陽の関係
“矛盾”も対立・統一の概念であり、相対的概念でもある。しかも、もっぱらある具体的事物や現象をさす のではなく、その具体的含意も討論するところの問題にもとづいて定めなくてはならない。このようなことは、“矛盾”と“陰陽”は同じである。 ただし、“矛盾”の属性には規定性はなく“矛盾”の双方は互換できる。上下で例にとれば、上を“矛”とし、下を“盾”とすることができるし、 また下を“矛”として、上を“盾”とすることもでき、討論している問題には影響がない。しかし“陰陽”の中で上はただ“陽”とし、下はただ “陰”とするだけで、二者は互換できない。この一点で“矛盾”と“陰陽”は異なる。“陰陽”の相対性は条件があって、不徹底のものである。し かし、“矛盾”の相対性は無条件であり、徹底しているものである。このため、これを用いる時に、“陰陽”の応用は条件があり、制限がある。し かし“矛盾”の応用は無条件で、制限はない。このようなわけで、“矛盾”を用いて、“陰陽”に替えることはできず、二者の概念には区別があ る。
4.陰陽の可分性
“陰陽”は分けることができる。すなわち、“陰陽”の中をさらに“陰陽”にわけ、ずっと分け続けても依 然としてその中に“陰陽”の双方が含まれている。『素問』陰陽離合論にいう、「陰陽は、これを数えて十とすることができ、これを推して百とす ることができ、これを数えて千とすることができ、これを推して万とすることができ、数えきることができない。しかしその要点は一である」と。 つまり“陰陽”を無尽に分けてゆくと千にも万にも至るまで分けられる。しかし、その最も根本的方法はただ一つ、すなわち“陰陽”の方法がある だけである。
“陰陽”は分けることができるものであり、最小の程度にまで到っても、依然として“陰陽”の両部分を含 んでいる。例えば、磁石に例をとると、NとSの両極を含んでいる磁石は「一分為二」(一が分かれて二となる)方法によって分けて最小の程度に まで達しても、まだ磁性を帯びており、そこには必ずNとSの両極が含まれている。
物体は分けることができる性質を具えている。分けられたどの一部分も、依然として相対的完全性を有して いる。これは物体構造の段階性を説明している。例えば、断層撮影した写真の中のどの一点も、大きく引き伸しても、一枚の完全な写真である。ま た、人体の構造を例とすると、五臓を中心とした五つの生理系統が結びついて構成されている。どの生理系統もまた相対独立の整体であり、臓、 腑、体、竅等で構成されている。しかもこれらの臓、腑、体、竅はまた、すべてそれ自体の相対独立性を有している。それぞれの臓腑はまた、それ 自体の気血、津液、陰陽等をもっている物質である。人体は、すなわちこのような異なる機構によって構成されており、それぞれの生理系統は相互 に配合され、相互に強調し、厳密で有機的整体を造り上げ、人の生命機能を維持している。