京極藩家臣団
(多度津分限帳) (家老林求馬の時代) 元治二年(1865)書写
役職 | 俸禄 | 氏名 | 扶持 | 年代 |
表中小姓 | 拾九俵 | 眞部辰彦 | 四人 | |
小人小頭格手形方御雇 | | 眞鍋吉彌 | 三人 | |
小人小頭格手形方御雇 | 九俵 | 眞鍋定八 | 二人 | |
御用處物書 | 八俵 | 眞鍋新兵衛 | 三人 | |
「多度津町文化財保護協会会報特別号」(H19.3.31,多度津町文化財保護協会 発行)より
多度津京極藩分限帳 (裏判方資料)
役職 | 俸禄 | 氏名 | 扶持 | 年代 |
兵隊 | 拾九俵 | 真鍋辰彦 | 四人 | 慶応四年(1868) |
宿衛隊 | 九俵 | 真鍋定八 | 二人 | 慶応四年 |
兵隊 | 八俵 | 真鍋良蔵 | 三人 | 慶応四年 |
笠井権八郎跡目軍防付 | 八俵 | 笠井茂治郎 真鍋と改姓 | 弐人 | 明治元年辰(1868) 未六月 (1871) |
「多度津町文化財保護協会会報 特別号」より抜粋
次の「多度津藩書入分限帳」では真鍋定八は文化十年に病死したことになっているが、上表の定八は慶応4年〜明治2年まで宿衛隊に属している。「多度津藩書入分限帳」の後半を読むと、定八の孫光蔵は定悦と改名後、不祥事を起したものの祖父定八の名跡を継ぎ、その後定八と改名している。
(多度津藩書入分限帳) (個人履歴)
役職 | 俸禄 | 氏名 | 扶持 | 年代 |
御蔵附 | 四俵 | 弥平 後真鍋と改 | 壱人半 | 宝暦九年(1759) |
御用所附 | 四俵 | 倅定八へ跡目 | 弐人 | 明和六年(1769) |
郷手代 | 七俵 | 定八 | | 天明元年(1781) |
山奉行并郡普請方兼帯 | 八俵 | 定八 | | 寛政元年(1789) |
蔵奉行 | 九俵 | 定八 | 三人 | 文化二年(1805) |
| | (病死) | | 文化十年(1813) |
「多度津藩書入分限帳」
藩士全員の履歴があったのではないかと思われるが、真鍋についてはこれしかみつからなかった、残念。
「寛政四年 多度津藩日記」(H28.10, 三豊市山本町公民館講座 古文書同好会 発行)より
<素人なりに読み下すと次のような内容か?>
寛政四年(1792)閏二月十八日
なお以って其れ以来調子等の儀、彼これ骨折り取り計らわれに候に付き、
別段銀三枚下され候。これまた宜しく申し入れる旨仰せられ候、以上
右 御目録 二枚
別段銀 三枚
右の通り頂戴し有り難く候あいだ御請け申し出でられ候。
一、右懸かり合いの御役手へ左の通り下され候段、申し来たり候
の段申し来られ候、表御用方御勘定方御切り紙の写し
手紙を以って申し達し候、然れば財田八幡宮社地、数十年来に及び差し縺れ
居り候ところ、去る春御双方村方熟談の上、右境社地分等程よく相済み
一段の事思し召し、その砌出張これ有り候由に付き
金百疋づつ
銀三両づつ 真部定八
右頭書の通り下され候あいだ、右目録等用意これ有り
各々より勝田三郎右衛門伝い宜しく取り計らい申さるべく候、以上
同(十二月)廿五日 雨
一、御家中の面々御屋敷へ罷り出で、歳暮の御祝儀御帳に附けられ候。
<途中、省略>
一、御役手の面々この節御用多々に付き御用所にて御達し
金子百疋 真鍋林治
札金銀の内 百目 外に銀壱両 普請方 真鍋定八
鳥目三十疋 真鍋大八
右の通り御用所に於いて御用人中より仰せ渡され候。
<以下、省略>